- ザ・テンプテーションズ The Temptations -

<偉大なる40年>
 テンプテーションズのように、結成40周年を過ぎてなお、そのジャンルの最前線に立ち続けているアーティストは他にいないかもしれません。先ず第一に一口に40年と言っても、20歳から音楽活動を始めていたとしても60歳と言えば還暦です。例え歌唱力に衰えがなかったとしても、その歳で流行のラップやヒップ・ホップと渡り合えるでしょうか?そう考えると、彼らの長年に渡る活躍には、頭が下がるだけでなく、本当に驚かされます。
 もちろん彼らが40年間活躍を続けてこられたのには理由があります。ただ同じことを継続しているだけでは、ポピュラー音楽という流行りものの音楽の世界で生き残って行くことは、絶対に不可能なはずです。そして、彼らがとった生き延びるための戦略は、ずばり変化し続けることでした。もちろん、それは、彼らのソウル・コーラス・グループとしての本質を変えない範囲での可能な限りの変化でした。それは、もちろん音楽性の変化でもありましたが、メンバーの入れ替えであったり、プロデューサーの変更だったり、時には、レーベルを変えることだったりもしました。面白いのは、それらの変化の多くは、けっして自ら意図して行っていたことではない、ということです。それは、親代わりでもあったモータウンの社長、ベリー・ゴーディー・Jr.の戦略だったり、モータウン社内での下克上を狙ったノーマン・ホイットフィールドの計算だったり、メンバーそれぞれのかってな行動によるものがほとんどでした。
 しかし、こうして数多くの変化を繰り返してもなお、男性ソウル・コーラス・グループNo.1としての彼らの地位は、けっして揺らぐことはありませんでした。そこには、変わることのない「テンプテーションズ・サウンド」が、しっかりと受け継がれていたからです。彼らの大ヒットアルバムのタイトルにもあるとおり、常にテンプスは「To Be Continue」なのです。

<集合体としてのテンプス>
 もともとテンプスは、1950年代から活躍していた2つのドゥーワップ・グループのメンバーと1人のソロ・アーティストの集合体でした。その1つはプライムズというグループで、そこにはエディー・ケンドリックスとポール・ウィリアムスがいました。(後に5人がそろったとき、再びプライムズを名乗っています)そして、ザ・ディスタンツにはオーティス・ウィリアムズとメルヴィン・フランクリンがいました。彼らは、当時流行していたドゥーワップのコンテストにたびたび出場し、そこで対戦していました。そんな良きライバル同志が合流し、そこにすでにソロ・シンガーとしてデビューを果たしていたゴスペル出身のデヴィッド・ラフィンが加わり、新生プライムズが誕生したのです。(ちなみに、彼らはモータウンと1960年に契約していますが、この時彼らの紹介で一緒にモータウンと契約し、その妹グループとしてデビューしたのが、後のシュープリームスでした)
 彼らに共通していたのは、全員が南部の出身だったということぐらいで、それぞれの考え方や目標も違いました。そのため、グループ内には常に対立があったようです。逆に、それがグループのテンションを常に保つための支えになっていたのかもしれません。(もちろん、あのシュープリームスのメンバー同志が繰り広げた骨肉の争いに比べたら、それは子供の喧嘩みたいなものだったのかもしれませんが・・・)

<テンプスを売れ!>
 テンプスは、1962年モータウンから"Dream Come True"というヒットを出しましたが、その後2年近く泣かず飛ばずの状態が続きました。1964年、そんなテンプスを積極的に売り出すため、モータウンでは、恒例のコンテストが行われることになりました。それは、何組みかの作曲家チームがそれぞれ曲を準備し、社内でコンテストを行い、No.1チームの曲を録音させるというものでした。(モータウンがとった数々の画期的な方法の中でも、これは最高ランクに位置する方法だったのではないでしょうか)
 モータウンには、当時いくつもの優れた作曲チームがありました。社長自ら先頭に立つベリー・ゴーディーのチーム。副社長でもあり、ミラクルズのリード・ヴォーカルでもある天才作詞家スモーキー・ロビンソンを中心とするチーム。後にH−D−Hと称されモータウンの顔となるホランド兄弟とラモン・ドジャーのチーム。後にテンプスを担当し一躍有名になるノーマン・ホイットフィールドのチーム。他にも、マーヴィン・ゲイハーヴェイ・フークア、後に自らデビューしてヒットを飛ばす、アシュフォード&シンプソンなどなど、強力なチームがしのぎを削っていました。
 そして、この時テンプスの曲として、コンテストで勝利をおさめたのは、スモーキー・ロビンソンの素晴らしい歌詞が未だに有名な名曲"The Way You Do The Things You Do"でした。(この曲は全米チャート11位になりました)

<5人のリード・シンガーから1人の主役へ>
 デビューからずっと、テンプスは5人のリード・シンガーを持つグループとして売り出していました。バリトン担当のポール・ウィリアムス、バリトンとセカンド・テナー担当のオーティス・ウィリアムス、ベースのメルヴィン・フランクリン、リード・ヴォーカルとハイ・テナーがエディー・ケンドリックス、そしてもうひとりのリード・ヴォーカルとなるデヴィッド・ラフィン。彼らはそれぞれ主役をはれる実力派でした。しかし、そのオール・ラウンドさは逆に彼らの個性を打ち出すための妨げにもなっていたようです。そして、そのことを証明するかのように、デヴィッド・ラフィンがはっきりとしたメイン・ヴォーカルとして前面に立つようになってから、いよいよテンプスの快進撃が始まります。
"My Girl"(1965年全米1位)、"It's Growing"(道18位)、"Since I Lost My Baby"(1965年17位)と彼らは、次々にヒットを放ちます。このアイデアももとはと言えば、スモーキー・ロビンソンから出されたもので、他のメンバーたちはその能力をバック・コーラスに活かし、素晴らしいハーモニーを生み出して行くことになります。

<モータウンの流れを変えた男>
 こうして、しばらくテンプスは、スモーキー・ロビンソンのもとで美しいソウル・ナンバーの数々を世に送り出して行きました。しかし、モータウン社内では常に競争が行われており、スモーキーにとって代わる者が現れます。それがプロデューサーのノーマン・ホイットフィールドでした。彼はテンプスとほぼ同時期に入社し、長い間裏方の仕事をしながら、チャンスをうかがっていました。そんな彼がテンプスの主導権を握るきっかけとなったのは、1968年"I Wish It Would Rain 雨に願いを"(全米チャート4位)の大ヒットでした。時代の変化に敏感だった彼は、60年代モータウン黄金時代には出遅れてしまいましたが、きたるべき70年代に向けてモータウン・サウンドの新しい流れをつくるための中心的な存在となって行きます。そして、ミュージシャンとして、その主役的役割を引き受けたのがテンプスでした。

<サイケの時代への対応>
 1960年代も終わりにかかると、時代の空気はサイケ一色、フラワームーブメント時代の到来となります。当然、ソウルもその時代の流れを受けて少しずつ変わりつつありましたが、その中でヒットを飛ばし続けたのは残念ながらモータウンではなく、メンフィスを中心とするサザン・ソウルのレーベルでした。オーティス・レディングは、各地で行われた音楽フェスティバルで、その名を世界的なものとし、一躍サザン・ソウルの時代を築き上げてしまいます。さらに、フラワームーブメントの中心地、サンフランシスコでもスライ&ザ・ファミリー・ストーンが登場し、その後世界の音楽地図を変えてしまう「ファンク・ミュージック」を引っさげて、大活躍を始めます。モータウンはそんな時代の流れに取り残されつつありました。今やモータウンは、その2つの新しい流れを意識せずにヒットを飛ばすことは不可能な状況になっていました。
 そして、その時代の変化に対し、もっともうまく対処できたのが前述のノーマン・ホイットフィールドでした。実際、彼の出世作「雨に願いを」は、サザン・ソウルのナンバーを意識して作られたと言われています。そして、彼が次のターゲットに選んだのは、スライのファンク・ナンバーでした。彼は徹底的にスライのファンクを研究し、その成果をそれまでのモータウンにはなかった画期的なナンバーとして発表しました。それが、テンプスの代表曲であり、モータウンを代表する重要曲のひとつ「クラウド・ナイン Cloud Nine」(全米6位)でした。

<「クラウド・ナイン」の衝撃>
 モータウンにとって、「クラウド・ナイン」はその曲としての新しさはもちろんですが、もうひとつ画期的な試みでもありました。それは、この曲はラジオで放送されることよりも、アルバムとして売れることを目指した曲だったのです。この曲の長い長いイントロは、ラジオでの収まりがつかないもので、それまでのシングル・ヒットの常識を覆すものだったのです。この後、このタイプの曲は12分に及ぶ超大作「パパ・ワズ・ア・ローリング・ストーン Papa Was A Rolling Stone」に発展し、後のリミックス・バージョンの原型とも言える存在となります。こうして、テンプスは再びシーンのトップに返り咲きました。
"I'm Gonna Make You Love Me" (1969年全米2位)
"I Can't Get Next To You" (1969年全米1位)
"Runaway Child,Running Wild" (1969年全米6位)
"Psychedelic Shack" (1970年全米7位)
"Ball Of Confusion(That's What The World Today)" (1970年全米3位)
"Just My Imagination Running Away With Me" (1971年全米1位、ストーンズが後にカバー)
 再びテンプスの黄金時代がやってきました。しかし、これは同時にモータウン最後の栄光の時だったと言って良いかもしれません。すでに時代は、ディスコ・サウンドの全盛期に移り変わろうとしていたのです。

<大きな変化の時>
 その上、テンプス自体が変わらざるを得ない状況が訪れようとしていました。それは、デヴィッド・ラフィン、エディー・ケンドリックスの相次ぐ脱退でした。もともとソロ・アーティスト指向だったデヴィッド・ラフィンはテンプスでの活躍をきっかけに、当然ソロ・デビューを目指すことになり、彼に続いてエディーもグループを去り、「ブギー・ダウン」「キープ・オン・トラッキン」などのディスコ・ヒットを飛ばして行きます。すると、グループに入る前からエディーの友人だったポール・ウィリアムスは、友人を失ったショックとテンプスを支えて行かなければならないというプレッシャーに押しつぶされてしまい、1973年8月13日自らの頭をピストルで撃ち抜き、この世を去ってしまいます。
 それでも、テンプスはそう簡単に消えはしませんでした。リード・ヴォーカルには、今までとは違うタイプの力強いヴォーカルが売りのデニス・エドワーズが招かれ、「クラウド・ナイン」以降テンプスを引っ張り始めていました。そして、この世を去ったポールの代わりには、ライブにおいてすでに彼の代役(なんと舞台の脇で吹き替えをやっていたという!)を務めていたリチャード・ストリートが抜擢されます。

<その後の活躍>
 その後も、テンプスは1980年代から1990年代にかけて、人気と実力を維持し続け、ディスコ・ブームにも、ファンク・ブームにも、ラップ・ブームにも飲み込まれることなく、ソウル・コーラス・グループのナンバー1としてのカンバンをかかげ続けました。
 メイン・ヴォーカリストとしては、デニス・エドワーズからルー・プライス(1977年から1980年)へ、そしてアリ・オリー・ウッドスン(「レディー・ソウル」の大ヒットで再びテンプスを頂点に導いた)へとバトンを渡していますが、実力者ぞろいの中から選び抜かれた強者たちだけに、それぞれが見事にテンプスの屋台骨を支え続けます。
 「継続は力なり」されど「変化なきところには、現状維持もない」そんなシュービジネスの世界における鉄則にどこまでも忠実だったからこそ、テンプスは世紀を越えてなお生き続けるグループになりえたのでしょう。

<締めのお言葉>
「無為とは何もしないで黙っていることではない。万事を自然のままにまかせ、その本性を満たすことである」 荘子
「苦しみは生の流れに抵抗し、固定した形態にしがみつこうとするときに起こる」
フリッチョフ・カプラ著「タオ自然学」より

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