「天安門」

- シャン・サ 山颯 Shan Sa -

<処女作>
 多くの小説家にとって処女作は、その作家がその後生涯書き続けることになるテーマを内包した重要な作品です。トルーマン・カポーティーの「草の竪琴」、ジョン・アーヴィングの「熊を放つ」、村上春樹の「風の歌を聴けなどなど。多くの作家は自らの青春時代を描きながら、作家としての成功を賭け、持てる力をすべてそこに注ぎ込んでいます。ある意味、処女作には作家のすべてが収められているともいえるでしょう。
 中国出身の作家 シャン・サ 山颯 Shan Sa にとっての処女作「天安門」もまた彼女の青春時代が収められていると同時に自らの目指すべき方向性を力強く宣言した作品でもあります。この作品は、1989年に起きた「天安門事件」から始まっていますが、タイトルの「天安門」にはフランス語の翻訳として「天の『平安』の門」という言葉がそえられています。それは「天安門」から「天の平安の門」を目指す主人公の長く厳しい魂の旅を描いた物語ですが、それは作者シャン・サ自身の魂の旅の始まりを宣言した書と読むこともできます。

<シャン・サ>
 この小説の作者シャン・サ 山颯は、1972年中国の首都北京に生まれています。詩人として早くから才能を発揮。10歳で処女詩集を発表。12歳で全中国詩大会でグランプリに輝いたというのですから、まさに天才です。
 しかし、彼女はけっして幸福で恵まれた少女時代を過ごしたわけではありません。彼女の祖父は日中戦争で活躍したレジスタンスの闘士でありながら戦後のイデオロギー闘争の犠牲となり、紅衛兵の拷問により命を落としました。さらに彼女の母も文化大革命の際、反革命思想の持ち主であると批判され、教師だった父も政府からの監視を受けながら教壇に立っていたといいます。そんな家庭の中で彼女は両親と対立したり、影響を受けたりしながら多感な少女時代を過ごしました。そして、彼女もまた親たちが体験した激動の時代を自ら体験することになります。彼女がまだ高校生だった1989年、あの有名な天安門事件が起き、危うく彼女はそこで命を落とすところでした。
 彼女は当時、民主化を求める学生たちの運動に参加していましたが、6月4日の悲劇的惨事の時、たまたま彼女はその場にいなかったため、その事件における被害者とはならずにすんだのでした。そして、多くの活動家や学生がこの時、犠牲になったことがその後明らかになると、彼女は彼らの意志を継ぐ決意を固め、中国を脱出。フランスに渡り、そこで再出発を図ります。

<天安門事件>
 1980年代の中国は少しずつ西欧諸国との溝を埋め、現在につながる経済発展の道筋を歩みだそうとしていました。
 1984年、中国はオリンピックに初めて参加。同年、イギリスとのホンコン返還に関する合意書に調印。
 1985年、アメリカ、日本と原子力協定に調印。この後、中国にはアメリカや日本の企業が次々に進出し始めます。
 こうした中国における自由主義諸国との関係改善は、1982年に中国共産党の総書記に就任した胡耀邦(コ・ヨウホウ)が中心になって進められていました。ところが、こうした中国の民主化運動に1987年突然ブレーキがかけられます。共産党内の保守派が、権力を取り戻すために胡耀邦を解任。彼を自宅軟禁状態にしてしまったのです。なぜ、中国は突然民主化の方向性を変えたのでしょうか?
 ちょうど同じ頃、同じ共産圏のリーダーだったソ連が1986年に起きたチェルノブイリ原発事故をきっかけに大きく民主化の方向に舵を切ろうとしていました。こうして世界的な社会主義体制の見直しが始まったことに、中国共産党の幹部は民主化を拒否することで対応。ソ連を中心とする東欧共産圏の民主化は、中国国内においては逆に急激な保守化を招いたのでした。
 この保守派の中心となった人物こそ、その後中国のトップとなるケ小平(トウ・ショウヘイ)でした。彼を中心とする保守派の締めつけに対して、高まりつつあった民主化運動の活動家たちは反発を示します。特に各地で自治権を求める運動を繰り広げていた漢民族以外の民族からの反発は強まり、チベットでは大きな暴動に発展、1989年にはラサに戒厳令がひかれる事態となります。そして、同じ1989年4月、民主化運動の象徴的存在だった胡耀邦がこの世を去ると、各地で彼の追悼集会が行なわれることになり、それが民主化を求める大規模なデモへと発展することになってゆきました。
 運動の拡大を恐れた中国政府は、その中心地となっていた首都北京での運動を阻止するため、戒厳令を発令。さらに全国各地から集められた軍隊が、1989年6月4日天安門でデモ隊への攻撃を行い、戦車のキャタピラによって運動を押しつぶしてしまいました。この時、戦車の前に立ちはだかった勇気ある男性の映像は、世界に衝撃を与え中国は世界中から批難されることになりました。しかし、現実は厳しく、その運動の中心となった人々の多くがその場で虐殺され、逃げ延びた人々も、その後次々と逮捕されるか、国外への亡命を余儀なくされました。そんな状況の中、シャン・サもまた亡命の道を選び、フランスへと渡ります。そこで彼女はフランス語を学び、その後パリ大学に入学し哲学を学びます。その後、彼女はたまたまフランスを代表する現代画家のバルテュスと知り合い、彼の住むスイスの山奥にある山小屋に招待され、そこでこの小説の執筆を始めることになりました。

<小説「天安門」>
 この本が書かれたスイスの静かな山は、暴力と混沌の象徴「天安門」とは対称的な「天の平安の門」と呼ぶに相応しい土地だったのかもしれません。その風景はこの本の後半部分に生かされているのでしょう。もちろん、彼女の描く天安門事件の場面は当時者ならではのリアルな視点と緊張感にあふれています。(当日、彼女はその場にいなかったのですが・・・・・)さらに、そこから始まる主人公の逃避行と彼女の過去の物語もまた、あまり知られていない当時の中国の状況を映し出していて新鮮です。こうした当時の具体的な状況は、彼女のような当事者が危険を覚悟で明らかにしてくれなければ知られることがなかったことです。

 中国で、現地の中国人労働者にコンピューター関連の教育をしている大学時代の友人がいます。彼から時々、中国の現状についての愚痴や出来事などについてのメールが送られてきます。しかし、日本人の彼でも中国政府の批判を書く時は、あえて一部○○を用いたりしてきます。どこでチェックされ、その影響が及ぶかわからないといいます。彼にとって、中国人は個人的には信用できる人物が多いといいますが、それでも国家の一員となってしまえば、残念ながら信用できない。それが今の中国だといいます。
 インターネットの登場とCNNの活躍によって、以前より中国国内の情報は世界に知られるようになりました。しかし、中国によるグーグルへの攻撃で明らかなようにネット上での政府検閲は着実に進み、まして中国国内においては、情報の管理統制はそれ以上に進められています。元々、巨大な国中国においては人民の数千、数万の犠牲は常に許容範囲でした。その程度の反乱分子を国内から容易に消し去ることができる体制をもつ国を変えることは、そう簡単にはできなさそうです。

<詩人の小説>
 この小説は、「天安門事件」を題材としてはいても、単純に中国政府を批判する小説というわけではありません。彼女は「天安門」というスタート地点から「平和の門」へといたる道のりをはるかに望みながら、そこまでの長い道のりを、詩と中国古来の伝説に託すにとどめています。中国4000年の歴史に新たな歴史が少しずつでも着実に書き加えられることを祈っているのでしょう。そう簡単には故国の変革はできないと、彼女は覚悟したのかもしれません。
 中国という巨大な国の謎に満ちた歴史を外から見つめながら、彼女はその後も「碁を打つ女」(2001年)などの話題作を発表。小説家としての道を歩み続けています。なお、この小説は1997年にフランスの文学賞ゴンクール賞の最優秀新人賞を獲得しています。転んでもただでは起きない中国人のバイタリティーは、この線の細い美しい女性作家でも同じです。

<あらすじ>
 大学生のアヤメイは民主化運動の中心メンバーとして天安門広場でのデモに向かう途中、広場で軍隊による攻撃が行なわれていることを知ります。逃げ惑う人々の中、運動に共鳴するトラック運転手に助けられた彼女は彼の家に匿われ、その後当局の追跡を逃れるため、彼の母親の住む田舎の村へと向かいます。
 その間、彼女の実家には地方からやって来たばかりの兵士、趙ジャオ中尉による捜索が行なわれていました。軍と政府、共産党を疑うことなく兵士として鍛えられてきた彼は、初めて自分とはまったく異なる考えを持つ人々の存在を知り、彼女の日記に書かれている悲劇的な恋物語に心を動かされます。しかし、彼女が運動にのめりこんでいった理由を知っても、彼は兵士としての自分の使命を果たすべく、少しずつ彼女の足跡をたどり、ついに彼女の住む村までたどり着きます。しかし、その時、彼女はすでに村にはいませんでした。いったいどこへ行ってしまったのか?

「天安門」 1997年
シャン・サ 山颯 Shan Sa(著)
大野朗子(訳)
ポプラ社

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