
- テンジン・ノルゲイ Tenzing Norgay -
<世界最高峰に立った最初の男>
世界最高峰の山といえば、もちろんヒマラヤのエベレストです。そして、その山の頂に立った最初の人類として有名なのが、エドマンド・ヒラリー卿ですが、その時に撮られた有名な山頂での写真に彼は写っていません。その歴史的な写真の中でピッケルにつけられた国連旗、英国旗、ネパール国旗、インド国旗を振っているのは、ヒラリー卿とともに世界最高峰に立ったもう一人の人物、テンジン・ノルゲイです。当時、誰もが「シェルパのテンジン」として、その名を知っていましたが、そこで使われていた「シェルパ」という言葉は、登山チームにおけるガイド兼荷役のことです。ただし、元々のこの言葉の意味はそうではありませんでした。
<シェルパ族>
実は「シェルパ」とは、「シェルパ族」というチベット系の民族の名前のことです。それはヒマラヤ地方を中心にインド、中国、ネパールなどを行き来しながら交易によって生計をたててきた民族のことをさしていました。山々を行き来することが仕事だったシェルパ族は、国境という概念をもたず、国籍もパスポートももっていません。彼らは世界の屋根に住む世界最高峰の山の民なのです。
はるかな過去から3000m以上の高地で暮らしてきた彼らは、当然、平地に住む我々とは比べものにならない心配機能をもっています。もし彼らがオリンピックのマラソン競技での金メダル獲得を目指したら・・・とは以前よく言われていました。しかし、彼らの優れた能力は、そうした高い心肺機能だけではありません。重い荷物を担いで運ぶための腕力や脚力、そして、それをどんな気象条件や悪路でも運ぶことのできる忍耐力、持久力、さらにそのために必要な山道についての豊富な知識。それらを兼ね備えているのが、シェルパ族の人々なのです。したがって、ヒマラヤの山々に挑む西欧の登山チームが彼らを雇うようになったのは当然の成り行きでした。
しかし、なぜ荷役として雇われていたはずのシェルパが、世界初のエベレスト登頂に成功した二人に選ばれることになったのでしょうか?元々、初登頂に成功した登山隊はイギリスのチームだったので主役はイギリス人でなければならないはずでした。にもかかわらず、彼が山頂へのアタック・メンバーに選ばれた理由を探ってみたいと思います。(実は、もう一人の登頂者エドマンド・ヒラリーもイギリス人ではありませんでした)
<テンジン・ノルゲイ>
テンジン・ノルゲイ Tenzing Norgay の生年月日については、生年が1914年らしいということしかわかっていないようです。生まれたのは東チベットのカルタ地区にある修道院らしく、その後は田舎の小さな村モエイで育ちました。彼は14人兄弟姉妹の三男として生まれたのですが、そのうち8人は大人になる前にこの世を去っています。医療も食料も不足した土地だっただけに、それは珍しいことではありませんでした。そのうえ、彼の家は奴隷並みに領主のもとで働かせる貧しい農奴として厳しい生活を強いられていました。当然、彼は教育を受ける機会にも恵まれなかったため、生涯文盲のままでした。そんな状況の中で育った彼がそこから抜け出せたのは、彼の家族がそうした生活に耐えかねて、ネパールのクンブ地方に逃げ出したことがきっかけでした。
新しい土地で、彼らは土地を借り農業を始めますが、生活は苦しいままでした。そんな頃、彼は国境を越えたインド側の街、ダージリンでヒマラヤの山々に挑む登山隊が荷役やガイドなどの働き手を捜しており、それがいいお金になるという噂を耳にします。(なぜインドのダージリンだったのかというと、当時ネパールは鎖国状態にあり、外国人の入国を認めていなかったためです)
同じシェルパ族の仲間がそうした海外の遠征隊とともに冒険の旅に出ていることを聞き、彼もまたそうした旅に出たいと考えるようになります。そして、これまた同じ頃、彼は近所に住むシェルパ族の女性ダワ・フチと恋に落ちます。ところが、貧しいテンジンに長女を嫁にやることに反対だった彼女の父親は、二人の交際を止めさせようとします。そのため、二人は駆け落ちし、インドのダージリンへと向かったのでした。こうして、恋の逃避行から彼のエベレストへの道のりが始まることになったのです。
<ダージリンにて>
1933年、彼はダワ・フチとともにインドのダージリンで生活を始めます。そして、エベレスト登山の調査隊がシェルパを募集していることを知り、応募します。しかし、本格的な登山経験がなく、英語もしゃべれない彼が採用されることはありませんでした。
1935年、再びチャンスが巡ってきます。イギリスの有名な登山家エリック・シプトンがエベレストに登頂するための調査隊を編成していて、そのメンバー募集をすることがわかったのです。さっそく彼は受付会場に向かいますが、採用されるとは思えませんでした。なぜなら、当時シェルパとして雇われるためには、それまでの経験を記録した「遠征ブック」や証明書、以前の雇い主からの推薦状などが必要でした。そうした書類をいっさい持たない彼が持っていた武器は唯一つ、誰もがひきつけられたという素晴らしい「笑顔」でした。
隊長として面接も行なっていたエリック・シプトンはテンジンの真面目そうな性格と人の良さそうな笑顔を見て、未経験者にも関わらず雇うことに決めました。(その時、テンジンはなけなしのお金を使い新しい上着を購入していったそうです)彼の有名な伝記本「テンジン
- エベレスト登頂とシェルパ英雄伝」(ジェディ&タシ・テンジン著)の表紙にそんな彼の素晴らしい笑顔を見ることができます。確かに誰もが引き込まれそうな最高の笑顔です。
調査隊の遠征が始まると、彼はシプトンの期待どうり素晴らしい働きをみせ、彼自身標高6706mの高さにまで難なく荷物を上げ、その高い能力を発揮してみせました。こうして、彼はシェルパとしての第一歩を歩みだし、翌1936年には、ヒュー・ラトリッジとエリック・シプトンが率いるエベレスト登頂を目指す遠征隊に参加することができました。残念ながら、この隊はエベレストの登頂には失敗しますが、彼の実績は高く評価され、イギリス人たちからの信頼を勝ち得ることになりました。失敗した冒険だからこそ、彼はその忍耐力、信頼性、能力を証明することができたのかもしれません。
1938年にも彼はイギリスのエベレスト登山チームに参加しますが、悪天候のために途中で断念。その後しばらくは、第二次世界大戦の勃発によって、ヨーロッパはヒマラヤ登山どころではなくなってしまいます。シェルパの仕事も当然なくなったため、彼は登山のガイドやまったく別の仕事をして家族をやしないます。
1944年、やっと戦争に終わりが見えてきた年、彼の最愛の妻ダワ・フチが病気のためこの世を去ってしまいました。残された二人の女の子を育てる必要もあり、彼はアン・ラムというシェルパ族の女性と再婚します。(彼ぐらいイケメンなら嫁のなり手はいくらでもいたかもしれません)妻として子育てをしながら、テンジンの代わりに仕事もしてくれる新妻のおかげで、再び彼は山に出かけることができるようになります。
ところが、終戦後、今度はインドで独立に向けての運動が本格化。そのため、インドに住むイギリス人やその他の欧米人たちの多くが混乱を逃れるためインドを離れてしまいます。当然、ヒマラヤを訪れる登山客、観光客が激減することになりました。
<ヒマラヤへのチャレンジ>
1947年、再び彼にエベレストに挑むチャンスが訪れます。先ず初めは、カナダ人のアール・デルマンとたった二人での挑戦でした。これは初めから無謀な計画だったのですが、テンジンにとってはいい経験になりました。
次に彼が参加したのはヒマラヤのゲダルナス山に挑戦するスイスのチームで準備もメンバーも資金も十分な優秀なチームでした。しかし、当初、彼は山頂へのアタック・チームには選ばれず、ベース・キャンプで料理をするなどの役割を担当していました。それはそのチームには、すでにベテランの大物シェルパ、ワンディ・ノルブがいたためでした。ところが、山頂へのアタック準備を行なう際、滑落事故が起き、ワンディが大怪我を負い下山することになってしまいました。そのため、急遽テンジンがアタック・チームに入ることになり、見事登頂に成功します。彼にとっては、これがヒマラヤにおける初の高峰制覇となりました。そして、この登山での成功をきっかけに彼には次々と仕事がまわってくるようになります。
1948年、彼はイタリアの大学教授を案内しながら9ヶ月にわたるチベット旅行をしました。この旅は登山ではなく、チベットの芸術品などを収集、研究するための旅でしたが、彼はそのおかげで初めて自分たちの伝統文化について学ぶことができました。この時の体験と知識は彼の生き方にも影響を与えることになりました。
さらに同年の冬、彼はインド陸軍の野外サバイバル訓練を指導。この時、彼が知り合った英国陸軍少佐チャールズ・ワイリーとはその後、1953年のエベレスト登頂の際に再会することになります。もし、この時、彼がこの人物と親しくなっていなかったら、たぶん彼が英国の登山隊に誘われることもなく、たとえ誘われたとしても、断っていた可能性が高かったでしょう。彼の運命は、この時からすでにエベレストの頂上に向かって動き出していたといえそうです。
1950年、ネパールはついに長年続いていた鎖国をとき、世界の登山家たちの受け入れを許可します。こうして、いよいよテンジンの時代が始まります。
1951年、エベレストの初登頂を目指すイギリス隊がエリック・シプトンを隊長とする調査隊を派遣しまが、この時彼はすでにナンダ・デヴィの登頂を目指すフランス隊に同行していたため、参加することはできませんでした。同年、彼はスイス人登山家のジョルジュ・フレイと二人でカンチェンジュンガに近いカン(5780m)に挑戦。しかし、フレイがスリップして雪渓に落下して命を落としてしまいました。この事故は彼に大きな心の痛手として残ることになりました。しかし、この事故の後、彼の運命は再び上向き、1953年の5月29日の栄光の瞬間に向かって突き進んでゆくことになります。
<エベレストへの挑戦>
1952年、スイスのチームがエベレストの頂上を目指して準備を開始。テンジンは、そのチームに最強のシェルパ13名を率いて参加することになりました。ここで彼は生涯の友となるレイモンド・ランベールと知り合います。気が合った二人は、この登山遠征中、自然にコンビを組むようになりました。巨大なクレバスを渡ったり、途中で引き返そうとするシェルパたちを説得したり、強い風と寒さに耐えたりしながら、スイス隊はなんとか頂上まであと237mという当時の最高到達点8611mにまで達することができました。
この時、それまでの段階でメンバー全員が体力を使い果たしていたこともあり、頂上へのアタックには、テンジンとランベールの若いコンビが選ばれました。しかし、天候が急に悪化してきたこともあり、二人は登頂を断念。あとわずかのところから、引き返すことになりました。
あとわずかのところまで到達したスイス隊は、その年の秋、再び異なるメンバーによるエベレストへのチャレンジを試みます。当然、テンジンとランベールのコンビも参加することになりました。ところが、このエベレストへの挑戦は歴史上まれにみる悲劇のドラマを生むことになります。
<悲劇のエベレスト>
この登山は初めからついていませんでした。登山を始める前にすでに多くのメンバーが病に倒れてしまい、そのうちネパール人ポーターとシェルパが一人ずつ死亡してしまいました。さらに本番である登山が始まると、スタートが遅れたこともあり天候が予想以上に悪化。登山中に落氷がベテラン・シェルパのミンマ・ドルジェを直撃。氷の破片によって肺に致命傷を負った彼はそのまま息を引き取ってしまいました。他にも3人のシェルパが大怪我を負い、あっという間にこの登山は中止の危機に追い込まれてしまいました。しかし、前回の悔しさと命を落としたミンマ・ドルジェのためにもと、テンジンとランベールはメンバーを説得して頂上へのアタックを敢行することなりました。
しかし、度重なるトラブルのために季節は秋も遅くなりエベレストの気候は冬の厳しさを見せ始めていました。天候は日々悪化する一方で、二人は時間と戦いながら頂上を目指すものの8000mを越えた時点でそれ以上は登れなくなりました。
二度にわたるスイス隊とのエベレストへの挑戦は結局失敗に終わりましたが、苦労をともにした二人の友情はさらに強いものとなりました。テンジンはエベレストに立つなら、なんとしてもスイス隊それもランベールと一緒でなければならないと心に誓うことになりました。
スイス隊との登山を終え山を降りたテンジンは、あまりに疲労していたこともあり、マラリヤに冒され10日間高熱にうなされました。体重も7kg以上減ってしまい、妻のアンは当分登山には行かないようにと頼んだといいます。しかし、運命はすでに彼にエベレストへの最後の歩みを準備していました。病院から退院し、帰宅した彼の元に英国陸軍の少佐チャールズ・ワイリーからの手紙が届いていたのです。
<エベレストの山頂へ>
彼宛の手紙には、翌年の1953年春に向けて準備中のエベレスト登山隊に是非参加してほしいと書かれていました。かつてインド軍の指導をした時に親しくなった人物からの依頼だったこともあり、彼の心は動かされます。しかし、今度エベレストに登る時は、ランベールと共にと心に決めていた彼は、英国隊への参加を決断できませんでした。しかたなく、彼はランベールにこのことを打ち明けました。すると彼はテンジンにこう助言したといいます。
「君抜きに誰か他の登山家が『君の山』に一番乗りしたというニュースを君はダージリンでむざむざ座って聞いていられるかね?このチャンスをつかみたまえ。・・・・・」
妻や家族はまだ早すぎると反対しましたが、彼はもう英国隊とともに参加すると決断を下していました。
1953年の英国隊は世界初のエベレスト征服に向けて総力を結集していました。それまで調査登山などをすべて指揮していたエベレストのスペシャリストでもあるエリック・シプトンをあえてはずし、軍人として組織力、決断力に優れていたジョン・ハント陸軍大佐を起用したのも、その強い意思の表れでした。
隊員の多くは、この変更に反対だったようですが、シェルパも隊のメンバーとして山頂アタックに参加させようと考えていた彼の実力主義のおかげで、テンジンが山頂に立つことになるのですから、運命はたはりテンジンに見方していたのでしょう。さらに彼を誘ってくれたチャールズ・ワイリーもまたネパール語を話すことのできるシェルパ族の良き理解者でした。
テンジンはこうしたメンバーと知り合い、英国隊の十分すぎる装備を見て、今回は必ず成功するだろうと確信したといいます。さらにもう一人、彼をエベレストの頂上へと導いてくれる人物がいました。それが彼と共に山頂に立つことになるニュージーランドからやってきた若者エドマンド・ヒラリーでした。
<ヒラリーと共に>
ニュージーランドの山で氷壁登山の腕を磨いたヒラリーは、その若さと技術を買われての参加で、けっして経験豊富な登山家ではありませんでした。それに対し、経験の豊富さでは誰にも負けないのがテンジンでしたが、二人はすぐにお互いを認め合い意気投合します。自然に二人はコンビを組むようになりました。しかし、当初ハント隊長はシェルパたちのリーダー役や氷壁での荷揚げに彼を集中させるため、頂上へのアタック・チームにテンジンを入れるつもりはありませんでした。最初に選ばれたのはイギリス人のチャールズ・エヴァンスとトム・ボーディロンの二人でした。成功すれば世界中の注目を集めることは明らかだったたけに、イギリス人から選ぶのは当然のことだったかもしれません。ところがその二人は山頂へのアタックに失敗してしまいます。そして、次に登る予定になっていたテンジンとヒラリーのチームがついに山頂へと向かいました。
頂上に到達することを至上命令とされていた英国隊にとって、誰が最初に頂上に立つのかはもう問題ではなくなっていたのかもしれません。最も成功の確率が高いチームとして彼らに賭ける、それがハントの作戦でした。こうして、身長192cmのニュージーランド人と身長177cmのシェルパという異色もコンビに栄光が輝くことになったのでした。
1953年5月29日、二人は無事エベレストの頂上に到達しました。この時、どちらが最初に頂上に足を乗せたのかは当時マスコミによって大きな話題となりましたが、二人はお互いに「同時」としか答えませんでした。そして、下界への下山。二人はそこで予想以上の歓迎に驚かされることになります。
<ピークを過ぎた人生>
ピークを降りた二人は本当の意味の人生のピークを迎えることになりました。世界中が彼らのことを話題にし、どこへいっても彼らは大歓迎を受けることになります。その実績から彼は、その後インド政府が作った登山学校の講師に就任します。しかし、そこを58歳で定年退職となった彼は仕事に困ってしまいます。体力的に山に登れなくなると、彼にとって人生は再び厳しいものにならざるをえませんでした。彼には当時3人目の妻と子供たちがいてまだ隠居できる身分ではなかったのです。なんとか知人からの世話で登山専門の観光会社で働くことになりましたが、それは彼の知名度を利用するもので彼は実際に山に同行するわけではありませんでした。そのために彼は山だけでなく家族とも離れ、街の中でデスクに向かう日々が続くことになります。こうした日々は当然彼の気力を失わせ、しだいに彼はうつ病にまでなってしまいます。植村直己もそうだったように、大自然の中で生きた人々にとって自然を離れた生活は到底耐えられるものではないのです。
1986年5月9日。彼は突然倒れ、あっさりとこの世を去ってしまいました。72歳という年齢は、シェルパとしては十分長生きをしたといえるのでしょう。しかし、栄光に包まれていた時代のことを考えると、その後の長い半生はけっして恵まれてはいなかったのかもしれません。山で死んだ登山家は決して不幸ではないと、多くの登山家が言っています。山への思いをもちながら、再びそこに行けなかった登山家たちの方が不幸といえば不幸だったのかもしれません。それにテンジンの場合、その後二度とランベールとエベレストに挑戦する機会は訪れませんでした。そのことが、彼のとっての大きな心残りだったようです。栄光の日々が長すぎて、その日々が終わった時、すでに彼には登山家としての活躍できる時間は残されていなかったのです。
<テンジンの意志を継いで>
2002年5月16日、テンジンの孫タシ・テンジンは、レイモン・ランベールの息子、イブ・ランベールとエベレストの山頂に立ちました。それは彼の祖父がエベレストの山頂に立ってから50年目のことでした。天国に最も近いところに立った二人の姿を見たテンジンはさぞや、喜んだことでしょう。
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