- 寺山修司 Shuji Terayama (後編) -

<才気爆発の頃>
 いよいよ寺山修司の活躍は多彩になってきます。劇団の立ち上げと同じ年、後に映画化もされるエッセイ集「書を捨てよ、町へ出よう」を発表。翌1968年には羽仁進監督の話題作「初恋・地獄篇」のシナリオを執筆。1969年には渋谷に天井桟敷館を完成させます。そこで彼の代表作のひとつ「時代はサーカスの象に乗って」を上演。この年にはドイツ演劇アカデミーの招待でドイツ公演も実現。エッセイ集「幸福論」を発表したかと思えば大ヒットとなったカルメン・マキのデビュー曲「時には母のない子のように」の作詞も行っています。
 1970年には、美輪明宏の出世作「毛皮のマリー」をニューヨークで上演。さらに芝居小屋を飛び出し、街の中で芝居を行うという画期的な実験劇「人力飛行機ソロモン」を上演。そうかと思うと、アニメ「あしたのジョー」の作詞を担当したことがきっかけとなり、今や伝説となった力石徹の葬儀を演出することにもなりました。
 さらもにこの年の出来事としては、母親の反対を押し切って結婚した妻、九条との離婚があります。しかし、二人の関係は離婚後も続くことになり、仕事のパートナーとして彼の死までともに歩むことになります。妻の道をあえて捨てた彼女の存在と活躍もまた、寺山修司複数説を支える原因のひとつだったのかもしれません。
 翌1971年には、彼の原作を元にした映画「書を捨てよ町へ出よう」を自ら監督。いよいよ彼は映画界にも、本格参戦することになります。1974年には実験映画「ローラ」「蝶服記」を製作、さらに彼の最高傑作とも言われる映画「田園に死す」を公開しました。この作品は、カンヌ映画祭にも出品され、映画監督「寺山修司」の名前を世界中に広めることにもなりました。
 映画に関しては、その後も清水健太郎、菅原文太主演の「ボクサー」(1977年)、「草迷宮」(1978年)、「上海異人娼館」(1981年)、「さらば箱舟」(1982年)などを監督し、東陽一監督の代表作サードの脚本を手がけるなど、国内外で高い評価を得る存在となってゆきました。
 もちろん、劇団「天井桟敷」の方も、映画以上に数多くの作品を発表。それだけでなく数多くの海外公演だけでなく、新しいスタイルの実験的な芝居にも挑戦しています。そんな中、1971年にはフランスで行われたナンシー演劇祭で「邪宗門」がグランプリを受賞。同作品はユーゴスラビアのベオグラードで行われた国際演劇祭でもグランプリを受賞し、彼の世界的な評価は高まる一方でした。
 1972年にはミュンヘン・オリンピック芸術祭に参加し「走れメロス」を上演。映画「ミュンヘン」の元にもなったアラブ・ゲリラによるテロ事件が起きたため、途中で演劇祭が中止になりましたが、彼はこれに抗議。なんとこのために準備した舞台装置を燃やすという荒っぽいパフォーマンスを展開しました。

<抗議と闘争の時代>
 1969年に設立されたライバル劇団「状況劇場」との乱闘事件を初めとして、天井桟敷の回りは議論、激論、つるし上げ、そして乱闘が頻繁に行われていました。しかし、それは彼らだけのことではなく、日本中がそうした「抗議と闘争の時代」だったといもえるでしょう。
 当時、小学生だった僕も、クラスの中で学級活動の進め方についてもめて、そのことでつるし上げをされたことがあります。それは今で言う「いじめ」ではありませんでしたが、当時の社会の縮小版ではありました。(もちろん、クラス担任が新任でバリバリの左翼系だったせいもあるのですが)
 当然、舞台上の俳優たちがしゃべる台詞に対しても、観客から激しいヤジが飛ぶことが多く、「ナンセンス!」というシンプルなヤジをきっかけにして、舞台と観客の間で議論が始まり、ついには舞台上での殴りあいに発展することもあったのです。
 もちろん、こうした事件の多発は芝居のテンションの高さにつながったのも確かで、寺山は逆に舞台を降り街頭でさらなる実験劇の展開を模索するようになります。その第一弾が前述の「人力飛行機ソロモン」でしたが、彼はさらに過激な実験劇に挑みます。それは、まったく何にも知らない一般家庭のドアをノックして、突然そこでパフォーマンスを始めようというものでした。例えば、ドアを開けると突然身体中に包帯を巻いたミイラ男が侵入してきたりするなんていう滅茶苦茶なパフォーマンスがありました。こうした平穏な日常を破壊する意味不明でアナーキーな実験劇「ノック」を、彼らは東京都内、杉並区の阿佐ヶ谷一帯で展開しました。もちろん、この企画は完全なアポなしであり、警察への届け出もありませんでした。そのため、始まるとすぐに警察への通報があり、劇はすぐに警察によって中止させられました。ちなみにこの劇の実行には、主催者でもある寺山自身が反対したため、実際に構成、演出を担当したのは幻一馬でした。寺山修司ぬきでも天井桟敷は十分すぎるほど過激な芝居を展開できる状況だったのです。この時の芝居の中止については、劇団内でもかなりもめたようですが、それだけ過激なメンツがいたからこそ、寺山修司複数説も生まれたということでしょう。

<観客参加の実験劇>
 1978年に上演された「観客席」もまた面白い実験劇でした。(僕はこの劇の再演「81年度版観客席」を見ることができました)劇場の照明が消され何も見えなくなった中で、次々とハプニングが起き、それが偶然起きたものか、観客席に紛れ込んだ俳優たちによる仕込なのか、まったくわからない状態が続きます。しだいに、本物の観客もその芝居に巻き込まれざるをえなくなってゆきます。突然、観客はスリリングな非日常への旅を余儀なくされるというわけです。
 素晴らしい観客がいて、その素晴らしい反応があって初めて良い芝居、コンサートが生まれるものです。それは映画や小説についても同じこと、優れた観客や読者があってこそ作品は意味をもつものです。しかし、そうした観客との直接的なやり取りといえば、やはり芝居が最高の手段かもしれません。「観客席」はそうした観客参加型パフォーマンスの究極の形でした。
 天井桟敷という劇団のメンバーは、そうした臨機応変な対応を必要とする芝居にそれぞれが対応できるよう常に鍛えられていたといいます。(ある意味、天井桟敷は劇団員それぞれが「寺山修司」のコピーだったと言えるかもしれません)例えば、彼はこんなレッスンを行っていました。次の三つの質問を役者たちにして、毎回違う回答をするように要求していたというのです

1.今すぐ、思い浮かばない単語を三つ挙げよ
2.今すぐ、思う出せない唄を三つ唄ってみよ
3.今すぐ、想像できない土地を三つ描写せよ
 彼らは役者としての能力の蓄積や習熟を求められず、「完成」を目指すことも求められませんでした。それこそが、「寺山劇場」に求められる才能だったのです。

<精神の革命家>
 彼は芝居の中で常に精神的な革命を繰り返す永遠の革命家でした。だからこそ、政治的な革命に対しては否定的で、安保反対のデモ行進に参加したいという劇団員を殴り倒し「俺の芝居の方が世の中を変える」と言ったこともあるそうです。
 さらに彼の芝居の中でこういう台詞もあります。
「デモに行く奴はみんな豚だ。豚は汗かいて体をこすりあうのが好きだからな。豚には自己主張もない。みんな同じ鳴き声しかないんだ」

<思わぬトラブル>
 1978年、後期の代表作のひとつ「奴婢訓」を東京、ベルギー、イギリス、西ドイツ、オランダなどで上演。翌年には「レミング - 世界の涯てまで連れてって」を上演。ヨーロッパにも渡り、公演を行いますが、この年の11月、長い間の不摂生のためか、肝硬変で入院することになってしまいました。元々、ネフローゼを抱えていた彼は、いよいよ自分の人生の残り時間を意識するようになりました。ところが1980年、生き急ぐ彼は、再び思わぬトラブルにみまわれます。
 街の雑踏と迷宮的な小路を愛する彼は、「路地」を歩くのが大好きで「路地の文化」にもっと光を当てたいと考えていました。そして、そんな思いが出版社に通じ、「世界中の路地を巡る旅」についてのエッセイを書くという企画が実現することになりました。(ちなみに彼のエッセイ「書を捨てよ町へ出よう」という言葉のもともとの意味は、「街そのものを書物のように読むべし」ということなのだそうです)
 そんな企画のためもあり、なおかつ市街劇の下見の意味もあり、彼は頻繁に自宅近辺の路地をうろつくようになりました。ただし、どうやら彼には他人の部屋を無断で覗く趣味もあったようです。といっても、彼の場合、性的な欲望を満たすためとか、痴漢行為を働くためではけっしてありませんでした。彼にとって、芝居の舞台が劇場に限られないように、街中のすべてが舞台でありそこに住む見ず知らずの人もまた一人の役者だったのかもしれません。当然彼に悪気はなく、反省もまたないわけです。
 そのため、いつしか彼は近所の警察にマークされる存在になっており、ついには近隣住民からの通報で逮捕されてしまいました。単なる覗き行為だったこと、それに香港で映画「上海異人娼館」の撮影中だったこともあり、彼はあっさりと罪を認めてしまいした。ところがそうなるとマスコミは、情け容赦なく彼の行為を叩き始めました。新聞には「寺山修司、デバガメ行為で逮捕」という見出しが登場。その後しばらくは彼に対するきついバッシングが続くようになりました。
 さらに追い討ちをかけるように、彼はまたもや肝硬変で入院。いよいよ彼は自らの命の限界を切実に意識するようになります。

<最後の時>
 その後も体調はどんどん悪化してゆきましたが、彼は休もうとせず、次々に仕事をこなして行きました。
 1981年には映画「上海異人娼館」、1982年には映画「さらば箱舟」を完成させた後、パリで「奴婢訓」を上演。そして最後の演出となった「レミング - 壁抜け男」を終えると、ついに彼は病院のベッドに横になり、そこでできる仕事だけに専念するようになりました。
 そして、1983年5月4日、ついに彼は肝硬変に腹膜炎を併発。敗血症となり、この世を去りました。

<寺山修司について>
 彼の成し遂げた数々の実績については、いろいろな言葉があります。
「歌人」としての寺山修司については、こんな言葉があります。
「日本の近代化、明治以降の短歌の歴史の中で、メタファーであって、同時に物語であるという、<従来の近代短歌の概念では不可能であるとされていたこと>を修司は成し遂げた」
吉本隆明

彼の「性」に対するこだわりについては、
「・・・寺山修司は、<政治思想>というより<エロス>のアナキストでもあった。だから、当時はまだマイノリティであったゲイの美輪明宏を『毛皮のマリー』の主役にし、レズビアンを登場させて『星の王子さま』を上演した。東郷健のゲイ・リヴォリューションのレコードをつくり、まだ珍しい存在だったハード・コア映画の『上海異人娼館』を監督した・・・」
高取英
彼の「芝居」については、
「・・・詩と想像力で世界を変革すること、転変する世界のあらゆる場所を劇場化し、奇跡の<場>を甦らせること - これこそが、寺山氏が望み、そしてその暴力的な才能でもって到達し得た地平なのである。・・・」
ジル・サンディエ(フランスの演劇評論家)

彼の「前衛的な姿勢」については、
「演劇のあらゆる関係性に疑問を呈するという意味において、寺山修司ほどラディカルな演劇人は空前の存在だったといっていい。劇作家としての出発以来、一貫して前衛という名に値するのは、ほとんど寺山一人であろう。・・・」
大笹吉雄

<寺山修司の人生>
 彼の人生はもしかすると長大な一本の芝居だったのかもしれません。タイトルはもちろん「人間、寺山修司」。寺山修司という人物は現実には存在せず、一編の優れた脚本があり、その芝居を演ずる多くの役者たちによって生み出された長いドラマだったのかもしれません。残念ながら、彼が生きていたという証は、数多くの著作とビデオ、証言集に限られています。彼の血を受け継ぐものはなく、「天井桟敷」も受け継がれることはありませんでした。映画「田園に死す」の中に登場する映画批評家はこう言っていました。
「大体、過ぎ去ったことは全部、虚構だと思えばいいのだよ」

 最後に彼自身の言葉をひとつ。
「カーテン・コールで拍手をもらうことは、役者は楽しいかもしれないが、作品は終わったという予定調和で、俺はイヤだね。俺は、劇場で行われたことを、拍手で終わりにするのではなく、観客それぞれの現実生活に持ち帰ってもらいたいのだよ」
寺山修司
 
<僕からも最後に一言>
 寺山修司の有名な東北訛りは、生まれ育った津軽の訛りと南部地方の訛りが混ざったものだったそうです。僕は昔そんな彼の独特のしゃべりを真似るのに凝っていたことがありました。彼が言いそうな台詞を、彼独特の訛りで語る一人芝居(結構暗いかも!)。思えば、僕は寺山修司という人が大好きでした。この長大なサイトもまた「寺山巨大劇場」の影響の下で生まれつつあるのかもしれない。ふと、そんなことを思いました。
 いつかまた、彼のように人の意識をひっくり返すような芝居を書く人が現れてほしいものです。
 ただし、そんなに凄い芝居でなくても、芝居小屋で見る「芝居」はやっぱり面白いです!素人芸でも、その熱気は時に人の心を打ちます。テレビの「下北サンデーズ」にはがっかりでしたが、是非皆さんには劇場まで足を運んで芝居を見てほしいと思います。

20世紀邦画史へ   20世紀文学全集へ   20世紀異人伝へ   トップページへ