アトムと共に星になった漫画作家

- 手塚治虫 Osamu Tazuka -

「鉄腕アトム」、「ブラック・ジャック」、「火の鳥」、「ジャングル大帝」、「リボンの騎士」・・・

<ジャパニメーションの元祖>
 手塚治虫は漫画家であると同時にアニメーターとして日本のアニメを育てた先駆者であり、海外にまで日本のアニメ文化を広めたジャパニメーション・ブームの火付け役でもありました。
 思えば、僕は手塚治虫の漫画を本ではほとんど読んでいません。彼の作品のほとんどをテレビのアニメ作品として見てきた気がします。特にどれが彼の作品かを気にしていたわけではなかったのですが、気が付くと多くの作品を見ていました。そして、その作品は実に幅が広いジャンルに渡っていて、一人の作家による作品とは思えないほどです。
 「天才は多作家である」という言い方が正しければ、手塚治虫ほど「天才」という言葉がぴたりとあてはまる作家はいない気がします。さらに彼は「多作」であると同時に「多彩」な作家でもありました。
「火の鳥」、「鉄腕アトム」、「ブラック・ジャック」、「ふしぎなメルモ」、「リボンの騎士」、「ジャングル大帝」、「どろろ」、「三つ目がとおる」、「アドルフに告ぐ」・・・どれもが手塚治虫の代表作であると同時にジャンルがみんな違い、それをアニメ作品化したこともまた彼の重要な仕事でした。
 日本のマンガ、アニメのレベルを一躍、世界のトップにまで引き上げた偉大な作家、手塚治虫に迫ります。

<虫と漫画大好き少年>
1928年11月3月、手塚治は大阪府豊能郡豊中町に手塚粲(ゆたか)、文子の長男として誕生。
1933年、5歳の時、兵庫県の小浜村(今の宝塚市)に引っ越す。
1935年、大阪府立池田師範附属小学校に入学。裕福な家庭に生まれたのですが、メガネに細い体つきの彼は格好のいじめの対象でした。まるで「のび太」少年のようでした。
<マンガによる救済>
 クラスの中で常にいじめられていた彼を救ったのが、マンガを描くことでした。彼が描くオリジナル・マンガを読んだクラスメイトたちはすぐに彼の作品のファンになったといいます。もちろん、娯楽が少ない時代だったせいでもあるでしょう。それまで彼をいじめていたいじめっ子「ジャイアン」までもが、彼の親友になってしまったといいます。

1939年、昆虫採集に熱中する少年だった彼は「オサムシ」という虫の存在を知り自らのペンネームを「治虫(オサムシ)」として漫画を描くようになります。(1950年ごろまでは「オサムシ」と読んでいた)
1941年、大阪府北野中学校に入学(現北野高校)

<医学からの影響>
1945年、医師を目指し大阪大学附属医学専門部に入学。
 当時、彼は漫画家になるつもりはなく、医者になって趣味として漫画が描ければいいというのが本音だったようです。しかし、ある時、母親に漫画家と医者、本当はどっちになりたいのか?と聞かれ、彼は漫画家と答えました。すると母親は彼に「それなら医者ではなく漫画家になりなさい」といい、それで彼は漫画家になる決意を固めたといいます。
 しかし、医師になるために学んだ日々は、彼に多くの作品のアイデアと哲学をもたらすことになりました。当時の医師としての体験と大阪大空襲で死の危機に立たされた体験が、彼の作品すべてに「生と死」についての深い思想性をもたらすことになりました。

<ディズニーからの影響>
 「医学」と共に彼の作品に大きな影響を与えた存在として、ディズニーのアニメがあります。父親が映画好きで家に映写機があり、それでディズニーの短編映画など様々なアニメ映画を繰り返し見ることができたことで、彼はアニメが好きになっただけでなくその原理にも深く精通。いつかは自分もディズニーのようにアニメ映画を作りたいと思うようになっていました。そこが、手塚治虫と他の漫画家たちとの大きな違いといえるかもしれません。
 手塚のディズニーへの憧れは、意外なほど深く、「鉄腕アトム」は「ミッキー・マウス」へのオマージュとしてデザインされていたといいます。そう言われると、アトムの「とがったヘアー・スタイル」は、ミッキーの「耳」と似ているし、来ている服(パンツ)もよく似ています。(実は、少年時代の手塚治の写真にアトムとそっくりの髪型のものがあるのですが・・・)

<漫画家デビュー>
1946年、手塚治虫(18歳)のデビュー作「マアチャンの日記帳」(四コマ漫画)が「少国民新聞」(後の毎日小学生新聞)大阪版に連載されます。
1947年、酒井七馬原作の長編マンガ「新宝島」刊行され、40万部を突破するヒットとなりました。「怪盗黄金バット」もこの年発表。
1948年、この年、やっと手塚治虫は20歳となり、「ロスト・ワールド」を発表。
1949年、「メトロポリス」発表
1950年、「ジャングル大帝」を「漫画少年」に連載開始。島田啓三を中心に馬場のぼる、太田じろう、古沢日出夫らが東京児童漫画会を結成。そに手塚も参加する。
1951年、「鉄腕アトム」のもとになったマンガ「アトム大使」が「少年」に連載開始。アトムはここでは脇役でした。

「鉄腕アトム」
 「20世紀少年」の作者、浦澤直樹が「鉄腕アトム」の中の人気エピソード「地上最大のロボット」の回をリメイクし「PLUTO」というタイトルで発表しています。
 発表後、彼は数々の賞を獲得し、「PLUTO」は大ヒット作となりました。全8巻ですからかなり膨らませているはずです。
 <あらすじ>
 最強のロボットとして作られたプルートは、そのことを証明するために、世界各地のロボットに戦いを挑み、次々と倒してゆきます。そして、最後の相手にアトムが指名されます。しかし、アトムはプルートとの闘いを嫌がります。ロボットの存在意義、科学技術の未来への不信が描かれた手塚アニメらしいテーマを扱った傑作。
 「鉄腕アトム」の中でも、最もワクワクさせられたアクション満載の回でしたが、ラストの感動はそんなバトルアクションの面白さを吹き飛ばすインパクトがありました。僕も、今でもはっきり覚えているエピソードです。「鉄腕アトム」は、この回だけでなく最終回でのアトムの犠牲といい、基本的に悲劇の物語だったこともまた彼の作品が他の作家とは違う点といえます。

1952年、「鉄腕アトム」、「ぼくのそんごくう」連載開始。この年、手塚は大阪大学を卒業。(ここまではまだ学生漫画家だったわけです)さっそく東京に出て新宿区四谷に下宿。
1953年、豊島区椎名町の伝説の「トキワ荘」に住み始める。少年雑誌だけでは食べられず、「少女クラブ」に「リボンの騎士」連載開始。
1954年、「火の鳥(黎明編)」発表。トキワ荘を出て豊島区雑司が谷の並木ハウスに住み始める。
1956年、「火の鳥(エジプト編、ギリシャ編)」発表。
1957年、「火の鳥(ローマ編)」発表。
1958年、「びいこちゃん」、「漫画生物学」で第3回小学館漫画賞受賞。この年、手塚は30歳になっています。
1959年、「ジェットキング」、「魔人ガロン」、「ロマン」発表。岡田悦子と結婚。
1960年、「おれは猿飛だ!」、「エンゼルの丘」発表。
1961年、医学博士の学位を取得。(「ジュラシック・パーク」や「ER(緊急救命室)」などの作家マイケル・クライトンの先駆だったわけです)手塚プロダクション動画部設立。

<アニメーション作家デビュー>
 誰よりも早くテレビ・アニメ製作に乗り出した手塚は、毎週30分(実質は24分)のアニメを作るために大胆な手法を導入します。
 当時アニメーションは、その動きを自然に見せるため、1秒間に24枚のセル画を少しずつ変えて描き、それを連続して映し出すことで作られていました。ということは、24分のアニメを完成させるためには24×60×24=34560枚のセル画を描く必要があるわけです。しかし、ディズニーはより採算性と制作スピードを上げるために1秒間に12枚という半分の枚数で制作を行っていました。(これで必要な枚数は17280枚になります)
 しかし、それでもまだ毎週放映するためには時間も予算も足りなかったことから、手塚は1秒間に8枚にまでセル画を減らして対応しました。(これで11520枚になります)これだと、明らかに動きはぎこちなくなり、紙芝居のように見えてしまいます。そこでできるだけ映像が不自然にならないよう、様々なセル画を再利用したり、背景画を使いまわしたりすることで、できるだけ動画が不自然に見えないよう工夫を凝らしています。
 ところがこうした動きの単純化がその後の日本アニメに独特のテンポや雰囲気を生み出すことになりました。さらに製作費を抑えることが可能になったことで、より多くの作品ががアニメ化されることにもなりました。これはある意味アニメ界における「パンク・ムーブメント」だったともいえます。作品発表のチャンスが広げられたことで、より多くのアニメ・クリエーターが誕生することになったわけです。
 ただし、そこまで製作予算を下げたとしても、なおアニメ作品は採算性が厳しいのが現状でした。(現在のようにDVDや映像配信さらにはキャラクターグッズなどによって、繰り返し収益が上がることはなかったのです)そのため、作品へのこだわりが強いために良い作品を作るほど、手塚プロは赤字を抱え込むことになり、ついには巨額の赤字により危機を迎えることになります。

1962年、(株)虫プロダクションを設立し、初のアニメ作品「ある街角の物語」発表。
1963年、国産初の連続テレビアニメ「鉄腕アトム」フジテレビにて放映開始。「ビッグX」連載開始。
1964年、ニューヨーク世界博に行き、そこでウォルト・ディズニーと初対面。
1965年、「マグマ大使」(翌年から始まる実写ドラマの方が有名かもしれない)、「W3(ワンダースリー)」連載開始。
1966年、国産初のカラーアニメ「ジャングル大帝」放送開始。大人向けのマンガ雑誌「COM」創刊。
1967年、「ジャングル大帝」劇場版がヴェネチア国際映画祭で児童映画向け映画に与えられる「サンマルコ銀獅子賞」を受賞。手塚治虫への世界的な評価が高まる。
       「火の鳥(黎明編、未来編)」、「どろろ」発表。
1968年、40歳になった手塚はマンガ製作のために(株)手塚プロを設立。「火の鳥(ヤマト編)」発表。

「2001年宇宙の旅」
 あの映画史に残る名作「2001年宇宙の旅」の撮影前、監督のスタンリー・キューブリックは、映画の美術担当に手塚治虫を指名。彼に依頼が来ます。しかし、当時の手塚はもっとも忙しい時期で到底ハリウッドに行く暇はなく、その依頼を断りました。惜しかった!でももし、それを受けていたら、あれほどの傑作にはならなかったかもしれないのですが・・・。

1969年、「火の鳥(宇宙編、鳳凰編)」、「青いトリトン」発表。
1970年、「火の鳥」で講談社出版文化賞受賞。「火の鳥(復活編)」、「やけっぱちのマリア」発表。
1971年、「百物語」、「ふしぎなメルモ」発表。
1972年、「ブッダ」発表。
1973年、「ブラック・ジャック」発表。

<倒産の危機>
1974年、「三つ目がとおる」発表。巨額の借金を抱えて杉並区下井草に引っ越す。
 1970年代に入っても手塚治虫はアニメ製作に赤字覚悟で望み続けていました。そのためついに彼は膨大な負債を抱えて身動きがとれな状況におちいります。そのため、それまで彼のビジネス・パートナーだった企業までもが彼を見捨てることになり、ついに彼は自宅までも売却し、借家住まいとなります。いよいよ倒産の一歩手前で、アニメの製作もマンガを描くことも困難な状況になります。
 そんな彼に救いの手を差し伸べてくれたのは、かつて「鉄腕アトム」のキャラクター製品を発売したことで経営危機を免れた育児器具メーカーの社長でした。彼が手塚の負債を軽減するために、債権者に頭を下げて回ってくれたおかげで、彼は借金を返しながら作品を発表し続けることができることになりました。(思えば昔から、多くの優れたアーティストが経営には失敗しています。黒澤明三船敏郎F・F・コッポラ・・・)

1975年、「雨ふり小僧」(泣けるお話でした!)。「ブラック・ジャック」で日本漫画協会特別賞受賞
1976年、「火の鳥(望郷編)」、「ユニコ」、「MW(ムウ)」
1977年、「三つ目がとおる」、「ブラック・ジャック」で講談社漫画賞受賞。講談社より「手塚治虫漫画全集」全300巻刊行開始。
1978年、「火の鳥(乱世編)」発表。この年、手塚治虫は50歳。
1980年、長編アニメ映画「火の鳥2772」公開。「火の鳥(生命編)」発表。国際交流基金のマンガ大使として国連本部や全米各地でマンガ文化についての講演実施。
1983年、「アドルフに告ぐ」(神戸での戦中の生活体験をもとに反戦のメッセージをこめて描かれた後期の代表作)
1984年、「手塚治虫漫画全集」全300巻完結。実験アニメ「ジャンピング」でザグレブ国際アニメ映画祭グランプリ、ユネスコ賞受賞。
1986年、「アドルフに告ぐ」で講談社漫画賞受賞。「火の鳥(太陽編)」発表。
1987年、エッセイ集「観たり撮ったり映したり」でキネマ旬報読者賞受賞。
1988年、60歳となった彼は戦後漫画とアニメ界における創造的な業績により朝日賞受賞されます。
1989年2月9日、胃がんのため60歳で死去。平成元年、昭和の終わりとともにこの世を去ったことになります。

 彼は死の間際まで書きたいアイデアがまだまだあって、死にきれないと言っていました。それでも好きな仕事を死ぬまで休まず続けることができた彼は、幸福な作家だったといえます。戦争中、爆撃によって母親とともに死んでいても不思議でなかった彼にとって、「生きている」ことは、それだけでも感謝すべきことであり、そのことを忘れないために「命の重さ」について、「生命の神秘」について描くことが生涯の目的になりました。その意味では彼の作品たちは一見ジャンルはバラバラであっても、「生命」へのこだわりというテーマによって、すべて貫かれているともいえそうです。
 「生命をつなぐ」という生命の営みと、それを誤った方向へと向かわせる人類文明への批判。手塚治虫がもし今生きていたら、どんな作品を描くでしょうか。(原発問題、9・11、東日本大震災、IPS細胞・・・)

「いまの子供をめぐる状況のなかで、大きく欠けているものがあります。それは冒険です。冒険小説というのがわれわれの世代にはありました。いまでは、冒険映画とか、冒険マンガなどが若者の心をいやしています。冒険というのは何でしょう。それは言うまでもなく未知のものへの挑戦です。
 現在の教育やしつけのなかで、この冒険心の育成がもっとも欠けています。合理主義のなかで、子供時代から安全を第一主義とした文化が与えられ、危険は大人の手で刈り取られています。」


<参考>
「ぼくのマンガ人生」 1997年
(著)手塚治虫
岩波新書
(手塚治虫による1986年から1988年にかけての講演から)

<追記>
<手塚治虫の逆さまの発想力>
「手塚治虫が天才であることに異論のある人はいない。だが、彼が「どのように」天才であるかについてはさまざまな解釈があって必ずしも意見は一致しない。私は手塚の天才性はなによりもその「さかさまのストーリーテリング」にあると考えている。手塚は重大な問題については、ほとんどつねに「現象の図と地を入れ替えて考える」人だったからである。
 『鉄腕アトム』の全作を貫くテーマは「人間性とは何か?」という問いである。何が人間たらしめているのか?手塚は第二次世界大戦の直後にこの問いを自らに向けて、実に真摯にその問いに取り組んだ。凡庸な作家であれば、非人間的状況を経巡りながら、しだいに人間的成長を遂げてゆく若者を主人公に据えた物語を構想しただろう。しかし、手塚はなんと「人間ならざるもの」を主人公に据えたのである」

内田樹「街場の現代思想」より

<手塚治虫のアンチ・ヒューマニズムの魅力>
 ヒューマニズムの素晴らしさを歌い上げる手塚治虫の作品。それは実は彼の本質ではない。そう語るのは、同じように世界中からヒューマニズムの作家と思われているこちに反発し続ける宮崎駿です。

「ええ。はっきり思います!彼のやってたテレビ・アニメーションというのはね、彼は本来ヒューマニズムでないのに、そのヒューマニズムのフリをするでしょう。それが破綻をきたしてるんですよ、『ジャングル大帝』なんかでね」
・・・・・
- 僕は一度、手塚治虫にインタビューしたことがあるんです。で、ヒューマニズムについてちらっと話したら怒りだしちゃいましてね、手塚さんが。
「もう、やめてくれ!俺についてヒューマニズムと言うな、とにかく。俺はもう言っちゃい悪いけど、そこらへんにいるニヒリズムを持った奴よりもよほど深い絶望を抱えてやってるんだ」と。
「ええ、そうだと思います」
- 「ここではっきり断言するけど、金が儲かるからヒューマニズムのフリをしているんだ。経済的な要請がなければ俺は一切やめる」と、もういきなりシリアスな顔をして怒られましてねえ。
「それがね、つまりそのヒューマニズムでないものが、僕らをものごくす掻き立てたんですよ」


 思えば、テレビでの放送を可能にするためにアニメ番組の制作費を一本50万円に手塚治虫が抑え起こんだことは、その後、多くのアニメ制作現場を経済的に厳しい状況に追い込み続けることになり今に至っていることも事実でしょう。
宮崎駿「風の帰る場所」(インタビューは渋谷陽一)より

「どうして彼があんなにアニメーションにこだわるのかってときにね、やっぱり彼の漫画が日本の漫画から出発してるんじゃないことなんですね。ディズニーのアニメーションから出発してるところなんですよ。それで、とうとうあの人はやっぱり・・・あるところではものすごく優れてるのに、その自分の親父さんをどっかで殺し損ねてるんですよね」
宮崎駿「風の帰る場所」

「その人物が死ぬとね、安心してほめだす人たちがいるんです。美空ひばりの生前にはね、聴こうともしないでいた奴がね、死んだら、いやー、やっぱり大した奴だったな、なんて言うんだよね。頭にきますよ。生きてるときにそう発言しろって言ってやったんだけど、僕は今でも手塚さんと闘っているんだと思ってるから。死んだと思って、安心してほめたくないんですよ。あの人のニヒリズムに僕らは畏怖の気持ちで憧れ、影響されたんです。あの人の中に、その後のこの国の大衆文化の光と闇が凝縮されてあると思うんです。だから、死んだってちっとも安心なんかできない。彼への自分の言葉は、一番自分への鋭い刃にならなければならないはずなんです」
宮崎駿「風の帰る場所」

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