「これはペンです This Is A Pen」

- 円城塔 Toh Enjoe -

<本との出会いの不思議>
 図書館でいつものように何かないかなあ?と、あてもなく棚を見ていると、偶然、この本が目にとまりました。本のタイトルも内容も何も知らなかったのですが、ちょっと気になる作家さんだったので、さっそく読んでみました。本との出合いについては、本屋でも図書館でも、何か奇跡的な出会いが待っている気がいつもしています。目的も無く棚を眺めていて、ふっと手に取った本が実は自分を選んでくれたのかもしれない。そんなことを思います。
 今回の出会いもちょっとした奇跡を感じさせるものでした。この本を見つける前、僕はノンフィクションのコーナーでたまたま見覚えのある本を手にとっていました。少年のアップの顔写真を表紙にした「眼を見なさい! アスペルガーと生きる」という本です。以前、BS「ブックレビュー」で紹介されていた時に見た覚えがある本でした。ここで紹介されている「アスペルガー症候群」とは、軽度の自閉症の一種で、対人交渉に困難をともなうものの、特殊な才能を持つ者も多いという症状です。その本の主人公は、その「アスペルガー症候群」の人物でした。彼は、そのために電子工学の分野で特殊な才能をもつことになりました。そして、その本の中には、彼の症状の重度の場合が「サヴァン症候群」と呼ばれるものであるとの説明が書かれていました。偶然なことに、この作品集二作品の一つ「良い夜を待っている」の主人公がまさにこの「サヴァン症候群」です。
 ダ・ヴィンチもアインシュタインもゴッホもイチローも、「天才」と呼ばれた人々のほとんどは、アスペルガー的要素を持っていた。と最近では、言われています。この小説の著者、円城塔もまた、アスペルガー的才能を持つ人で、彼の小説を理解できる人もまたアスペルガー的な人々ということになりそうです。

<不思議な世界>
 
この本に納められている2作「これはペンです」と「良い夜を待っている」は、一般的な小説のイメージからは明らかに逸脱しています。どちらにも、起承転結的なストーリーがなく、思弁小説的な作品になっています。それは、SF界の巨人スタニスワフ・レムの作品群、特に短編集に収められた思弁、哲学的なSF小説に近いと言えそうです。(この小説が面白いと思った方は、是非レムの作品もお読み下さい!)
 正直言って、この小説はレムの作品よりも難しいかもしれません。読者は、この小説をどう読んだらいいのか、わからなくなる可能性もあると思います。

 ここには一つのゲーム盤があり、互いにどんなゲームをするか知らない二人が向かい合っている。あるいは、相手が行うゲームのルールを自分の方では知っていると考えている。駒の動きは物質のルールに縛られており、共通している。共有されるものが物質だから。にもかかわらず、駒の動きから相手がどんなゲームをしているのか知る術はない。そんなゲームだ。
 わたしたちは、そんな盤上で向き合っている。

 そんな感じに、この小説のルールについても読者は自ら見出す必要があります。
 子供の頃、本を読むたびに感じた新鮮さは、そうしたルールの発見の喜びにあったのかもしれません。そして、それが読書の本来の楽しみだと思うのです。

「これはペンです This Is A Pen」
 さて、この小説をどう読めばいいのか?とりあえず、主人公である姪っ子による「叔父探し」の物語ということのようですが、「姪」とは誰なのでしょう。どうも女性のように思えないのは文章のせいでしょうか?著者があまりに男性的な文章を書いているせいかもしれません。
 それでも彼女には母親もいるようなので、実在の存在ではあるようです。しかし、叔父は本当に実在するのか?この本の最初にすでに、そうではないかもしれないと書かれています。性別などどうでもよいのでしょう。

 叔父は文字だ。文字通り。
 だからわたしは、叔父を記すための道具を探さなければならない。普通の道具を用いる限り、文字は叔父とはならないから。彼は文字のくせに人間なのだ。・・・


<ネット世界の論文制作>
 一時、大学の論文の多くがインターネットを用いて入手した論文や文章を寄せ集めて作られていて、そのオリジナリティーを判定することは困難だというのが話題になったことがありました。実は、このサイトもけっこうそうした利用のされ方が多いようで、引用の許可や質問などが寄せられることがあります。(英文科の論文で「黒人音楽」を研究している人が多いかもしれません)そんな現状も踏まえ、主人公はアメリカで学位の販売を事業として始めたわけです。そして、この事業の原点ともいえるアラン・ソーカルという科学者のいたずらについてもここでは書かれています。

・・・アラン・ソーカルはごりごりの物理学の研究者で、もっともらしい物理学の専門用語をちりばめて現代思想っぽい飾りつけを施した意味のない論文をでっちあげ、思想系の専門誌へと投稿してみせた人物だ。これが見事に受理されてしまったおかげでひと悶着持ち上がってから二十年。科学の用語が適当な理解と自由すぎる連想のもとに思いつきで利用されることへの警鐘としてそんな悪戯に踏み切ったのだと言われている。

 この小説もまた、円城塔という作家による科学的な専門用語を用いた悪戯小説なのですが・・・。それでも後一歩で「芥川賞」をとれたのですから・・・惜しい。もちろん、この小説は読者を迷わせるでけでなく、楽しませてもくれます。ポール・ディラックのこの逸話などは、科学好きにはたまりません。

 ポール・ディラックは、機械のような男だったと言われている。ほとんど口を開くことなく、その名前は、沈黙んも単位とされた。一年間に一語を発することで一ディラック。彼が『罪と罰』を読んだ際の感想は、優れた小説であるが、一日の間に二度太陽が昇るという間違いがある、というもの。

 叔父さんは「文字」でできているわりには、商売上手です。ちゃんと商売の引き時、変え時も知っていて、そこがまた笑えます。

 事業を売却した叔父は、以前の自分を嘲笑うかのように自動生成論文判定プログラムの開発などに取り組んだ。ネット上の文章を切り貼りしただけのレポートや、それこそ自分の開発した手法で生成された文章を判定するプログラムを研究しだした。
 否定とその否定の否定。叔父の時間はそんな単純なやりかたで駆動されている。


 ここまではわりにわかりやすい研究ですが、ここから先がわからなくなってきます。そして、ここから先、叔父さんの存在自体が怪しげなものになりだします。

<電脳世界の住人>
 論文自動生成事業に続き、自動生成論文判定事業も売却した叔父が今何に取り組んでいるのかというと、物好きな小金持ちたちに注目されつつ、日々工作に励んでいるらしい。わたしへ向けた磁石で書かれた手紙のような、小さな細工を思いつくままに山積みしている。一貫するのは、工作は常に文字に関わる何かのもので、叔父は何かを書き出そうと、書き記そうと矢張りしている。手にぴったりとあう万年筆を探すように、ペンとは何かを試行している。何かを書きだすためのペンを作りだそうと試みている。

 どうやら叔父さんは「脳」を「文字」によって表現もしくは代替えしようと考えているようです。

・・・何かの器官を欠いた人間は、別の器官を鋭敏化させ失われた機能を補うという。
 それでは脳を欠いた人間は。
 その人生の残りの器官は、一体何を鋭敏化させ、脳の機能を補うと思う : 叔父」


 どうすれば「脳」を再現できるのか?そして、「脳」を再現することは、単に「脳」という臓器の仕事だけを肩代わりするだけではすまない。そうも考えているようです。
 しだいに、叔父さん自体が実体ではない文字通りの「文字」であることが明らかになります。そして、叔父さんが発表してきた論文が彼のファンたちによって、読み解かれていることの意味について彼女は気づくことになります。
 彼の謎だらけの論文を解く鍵は、叔父さん自身の存在なのだということに。

・・・叔父の論文の解読プロセスは以下の通りだ。
1.叔父がその論文で提出した手続きにより、叔父の論文を処理する。
2.叔父がその論文で提出している手続きの解説がそこに現れる。・・・
 そんな執拗な読解を行ったのは、叔父マニアとでも呼ばれるべき人々であり、そういう意味では、解読の鍵は叔父自身だ。叔父が書いたという知識がなければ、その文章は全く意味のなくものとして、読み流されることさえなく、ランダム生成されたジャンクとして放置だれ続けるかゴミ箱に直行することになっただろう。
 文章の読解は、その文章が誰が書いたかによらず行われる。
 その無邪気なスローガンを、わたしも一応、承知している。それと同時に、世には程度というものが存在していて、全ての文章の読解に常に全力を注ぐことなどできないのは明らかだ。
 その点、叔父が人質にとっているのは自分自身で、有用性を盾にとり、自分の存在を主張している。叔父の名前がこの世になければ、その文章は真実をその身に秘めたまま解読されることがなかったはずだ。
 そこまで考え、わたしははたと思い至る。
「叔父さん そういうことなの。」

(姪より)

 叔父さんは、こうして彼のファンや彼の分身である研究者たちによって、 書かれたり、解かれたり、更新されたり、発表されたりするすべての研究や論文やプログラムやサーバー内の情報の中に生きています。しかし、彼はあの「攻殻機動隊」に登場した「ゴースト」や「笑い男」よりも、もっとアナログ的な存在なのでしょう。
 ネット内の「情報」というよりも論文内の「文字」というところが、なんだか文学的で味があります。

「不滅」
 わたしは一言そう訊ねる。
 教授は出来の悪い生徒に対して嘆くようにゆっくり大きく首を振る。
「変転」


 叔父さんは、「不滅」の存在ではなく永遠に変化をし続ける存在として「文字」として生き続けるのです。
 でも、考えてみると、サリンジャーの「ライ麦畑でつかまえて」が村上春樹による新訳で「キャッチャー・イン・ザ・ライ」として再びブレイクしたように、優れた文学作品もまた「不滅(=不変)」ではなく「変転」しながら「永遠」の存在になるうると考えるべきでしょう。
「良い夜を待っている Have a good night」
<サヴァン症候群>
 サヴァン症候群と思われる超記憶力をもつ父親について書かれているのが、この作品です。
 目の前に広がる風景を忘れることなく記憶していたとしたら、今、自分が見ている同じ場所の風景に過去のその場所の風景が重なって見えてしまうかもしれません。そんな感覚は「普通」の人でもたまに感じることがあるかもしれません。

 父の症候群は、超記憶力に分類される。写真記憶の極端な一例に属す。基本的に一目見たものは忘れられない。昨日の食卓も、一年前も、十年前もみな同じ鮮やかさ伴い蘇り、自分が一体今現在どの風景の中にいるのか、混乱することが多々起こる。父の幻視力は常識を超えて強力であり、目の前にある風景に記憶の風景を上書きし、自分自身を騙してしまう。ほぼ父の人生とは、そんな虚実の集合体から、当座の現実を抽出することに費やされていた。

 風景を忘れられないのは、まあいいとして、嫌な思い出や病気や怪我の痛みまでもが忘れられないとしたら、それはけっこう大変なことではないでしょうか?
 しかし、それだけの膨大な記憶はどこにどうやってしまわれるのでしょう?これまた素朴な疑問を感じます。

 重要なのは、記憶術の伝統において、記憶を蓄える場所として採用されたのが都市であるという点だ。印象的な建築物を構築し、記憶をそこへ配置していく。熟達した記憶術師は、徐々に記憶の技を磨いて効率的な方策へ至る。記憶するべきものを与えられたら、それを書物に対応させて、街の中に配置するのだ。
 なるほど!なんだかキリコの絵のように人のいない不思議な街の風景が目に浮かんできました。それにあの映画「インセプション」もまた街を記憶の置き場所にしていました。しかし、そうした街並みのそこかしこに置かれた「記憶のかけら」は、どうやらバラバラに存在する「記号」に過ぎず、それだけでは「感情」や「価値」などを意味しないようです。そのため、それらの「記号」を組み合わせて創造的な作品として生み出すこともできないのです。

 外国語にせよ音楽にせよ、全く無意味な文字の並びでさえも、父は同様に平坦に記憶していた。どんな言葉も瞬間的に街の内部に取り込むが、一般化することはない。規則動詞を何百個と覚えてみても、はじめて目にする動詞を活用させることはできない。何かの曲を正確に諳んじることができても、転調して編曲することはできなかった。絶対音感を持つ者が、基準音のずれた同じ曲を異なるものと感じるように、柔軟性を大幅に欠いた。
 辞書だけがあり、文法がない。


 そのうえ、彼は「味覚の記憶」についても忘れることができないとのこと。それってどうなのでしょう?美味しい味の記憶をいつもとどめておけるのは、「究極のグルメ(美食家)」ということになるわけですが、どう考えても幸福そうには思えません。何を食べても、最高の味のものと比較することになるのですから・・・。

 目覚めている間の食事は、味気なく感じられたという。父の記憶の性質上、食べ物の味に驚くことができるのはきっかり一度きりに限られている。もう一度、その味に驚いた記憶を再訪することはでき、実際に感じることもできるのだが、同じで異なり、二度と姿は現さない。

 電話帳も聖書もどんな書物も丸暗記できる。これも便利なことですが・・・やはり本についても、それは文字の集合体としての記憶しかなく、そこから「意味」を理解することが困難だとしたら・・・。これもまたつまらない話です。

 学業成績の芳しくない父だったが、書物は特に鬼門だった。何が書いてあるのかなぞることはできるわけだが、そこに現れる光景は父を当惑させた。ただ捲っていくだけで電話帳を丸暗記できる父だから、文字を覚え込むのは難しくない。だがそれだけだ。意味を考え読み進むうち目が回る。ほとんどショック療法にさえ近い様相を呈した。

 サヴァン症候群が幸福そうでないことはわかっていましたが、どうやら精神的に普通の状態で耐えることは困難かもしれません。(「ATARU]がまともでいられるのが信じられません)父はある時、夢や自らの思考の世界が現実と区別困難であり、街の風景として記憶している世界が無限ループのように自分を囲い込んでいることに気づきます。自分が現実に存在している世界をはっきりさせるためには、どこかに区切りをもうけ、その外に出なければならない。そう気づいたのです。

 父がタイプライターを導入したのはこの時期である。外部の記憶の必要性に父はようやく思い至った。夢の外へ出るためには、思考を外へ出さねばならない。自閉した表の中では全てが広がり続けるだけだ。父はやっとそう気がついた。あらゆる思考が風景として進行してしまうのならば、風景について思考はその外へ置くより他ない。外へ置くという行為によって、制限は生まれ、道理は生ずる。

 こうして、作り上げられた「脳内世界」は、父親の存在と不可欠なのかもしれませんが、それを彼とは別の場所に「移築」することはできるのでしょうか?
 例えば、コンピューターの中とか、文字の中とか、息子の記憶の中とか、人類全体の集合的記憶の中とか・・・。

 父という物理構成がなくなっても、思考はそれ自体で自律するかも知れないという教授の見解をわたしは支持できそうにない。それが進化の中で構築された、集合的無意識とでも呼ばれそうな誰の脳の中にも眠る堅固な街なのだとも思えない。
 わたしが一等気に入っている想像はこうだ。
 記憶の街が崩壊するのに気づいた父は、時間を街へ横倒しにする。無限を自在にするのなら、そんなことだって可能なはずだ。ここに現在の街があり、一町進んで一時間後の街がある。二町進めば二時間だ。
 遥かな先で本能という街に繋がる。


 では、人の死とは何なのでしょう?記憶の消滅が人の死なのでしょうか?このあたりになると、いよいよスタニスワフ・レムの思弁小説的になってきます。

 今わたしは、父の脳が活動を止めていく過程を想像している。
 夜が空から降りてくる。脳の機能は順次止まって、父の街は綻びはじめる。街は一体どんな順序で消えていくのか。脳の機能は局在しているそうだから、全ての街から言葉がまず吹き払われる。聴覚野が機能を止めて、音が消える。視覚野が機能を止めて、夜が降りる。


 父親は「睡眠」というものを理解できずにいました。それは、彼にとって「記憶」と「記憶」の間に存在する「切れ目」であり、何かの精神的な障害でしかなかったのでした。

・・・父にとっての睡眠とは、異なる街へ移動することだったから。そういうことではないのですと教授に告げられ、再び肩を落とした。父は三十代のはじめからその時に至るまでの二十年間、意識の断絶を伴う睡眠は自分に固有の現象なのだと考えていた。ただの機能不全であって、病気のようなものなのだろうと。

 こうした「記憶」についての無限に広がるかのような話を読んでいると、なんだか目眩がしてきませんか?
 最後に「父親」は、自分の頭の中に広がる記憶の街は、無限に広がる宇宙に匹敵する存在であることに気づきます。

 父は、瞬間ごとに完全に異なるはずの自分が、全く同じ自分でありうることに気がついた。今自分が浮かぶ宇宙には他の無数の、あったかも知れない宇宙、ありうる宇宙が重なっており、そのどれもが全く同じであることに思い至った。
 夜が宇宙を隔てることに気がついた。


「これはペンです This Is A Pen」 2011年
(著)円城塔 Toh Enjoe
新潮社

20世紀空想科学史へ    20世紀文学大全集へ   トップページへ