- 高橋竹山 Chikuzan Takahashi -

<三味線ブームの先駆者>
 今は亡き新藤兼人監督の映画「竹山ひとり旅」(1977年)はいい映画でした。あまりにも過酷な人生とそこから生まれた力強い三味線の音色によって、津軽三味線という楽器の魅力にはまった人も多かったはずです。今でこそ津軽三味線は、吉田兄妹や上妻宏光など若手アーティストたちの活躍によってメジャーな楽器として知られていますが、そうなった原因は間違いなく「竹山ひとり旅」の主人公だった高橋竹山の世界的な活躍でしょう。彼によって、それまで津軽民謡の世界では唄の伴奏役でしかなかった三味線は一躍独奏楽器として主役の座につくことになりました。
 1998年にこの世を去った偉大な三味線奏者、高橋竹山の人生を振り返ります。

<門付け芸人の孤独な旅>
 高橋竹山は、本名を高橋定蔵といい、1910年(明治43年)6月18日に青森県東津軽郡中平内村で生まれています。家が貧しい農家だったこともあり、2歳のころにかかった麻疹をこじらせたときに治療が間に合わず、視力のほとんどを失ってしまいました。それでも10%程度は見えたこともあり、一人で歩くことが辛うじてできたことから、小湊尋常小学校に入学しますが、勉強についてゆけないだけでなく、いじめられたこともありすぐに辞めてしまいました。
1924年、14歳の時、彼は隣村に住む戸田重次郎という盲目の旅芸人(「ボサマ」と呼ばれていました)の弟子となり、三味線と唄を習い始めます。
1925年、師匠夫婦とともに青森、北海道、秋田へ門付けの旅に出ます。
 門付けというのは、飛び込みで家や街をまわって唄や芸をみせ、そのお礼にお金や食べ物をめぐんでもらうという仕事です。家から家、村から村へは、ほとんどを徒歩で移動する歩く路上ライブ芸人で、寝泊りも宿を使うのではなく、廃屋や軒下を借りるなど限りなく野宿に近いものだったようです。そのうえ、彼らが回るのは沖縄や九州などの南国ではなく1年の半分近くを雪に覆われる北国です。冬ももちろん旅をするのですから、一歩間違うと凍死の可能性もある危険な旅でもありました。
1926年、16歳になった彼は、師匠にもう教えることはないと言われ早くも独立することになりました。しかし、たった一人での門付けは厳しく、真冬になると彼は映画館の楽団に加えてもらったり、飴売りをするなどして必死に毎日を生き抜いたといいます。(映画はまだサイレントの時代だったので、映画館では楽団を必要としていました)
1934年(昭和9年)、青森県東奥日報社主催の第一回民謡大会が開催された彼は、そこで三味線を弾きました。ここから日本全国で「唄会」(今でいう「民謡大会」)は一大ブームとなります。彼はそうした「唄会」に呼ばれて伴奏者として参加することもありましたが、彼はその誘いを断り一人で門付けする方を選んだといいます。それは当時、彼のような三味線奏者の扱いが非常に低く、給料も安かったからだということです。もちろん、そうした扱いの低さには彼が「盲目の門付け」であるということへの差別意識もあったのでしょう。こうして彼は一人我が道を行くとともに、独学で新たに浪花節の三味線を身につけてゆきました。
1937年、彼は浪花節の三味線弾きとして旅周りの一座に雇われ北海道、東北、信州、関西まで広くまわりました。

「津軽のボサマ」といわれた門付け芸人たちが、門付けのなかで芸を磨き、今日の津軽三味線のもとをつくった」というのは嘘だ。門付けではその日その日食うのがやっとで、芸の勉強なんかできなかった。だが、広く歩いたことで世間のことや人の情け、ほんとの人間の価値というものはなにかというようなことだけは体で勉強させてもらった。

1938年、津軽を代表するもうひとつの文化ともいえるイタコ(医療にも関わる地域の祈祷師でありカウンセラー的存在)の仕事をしていた女性ナヨと結婚。彼の不安定な収入ではなく、彼女の収入が二人の生活を支えることになります。地域を支える存在としてイタコには当時それなりに仕事があったようです。
1939年、中国へ渡り、満州を浪花節の一座とともに慰問する興行に参加。
1941年、津軽民謡の大御所、成田雲竹の弟子たちの伴奏を担当しながら各地を興行でまわります。しかし、時代はいよいよ太平洋戦争に突き進み、エンターテイメントの仕事は成り立たなくなってゆきます。
1944年、彼は三味線で食べてゆくことをあきらめ、34歳で県立八戸盲唖学校に入学し、5年かけて鍼灸マッサージの資格をとります。しかし、マッサージ師の仕事が楽しいとは思えず、成田雲竹に呼ばれたため、再び三味線を持ち伴奏者として働き始めます。雲竹は彼の三味線を高く評価してくれたため、給料もよくしてくれました。さらに雲竹は、彼に「竹山」の名前を与えてくれました。こうして、三味線奏者「高橋竹山」が誕生し、彼は雲竹のバックで三味線をまかされることになりました。

<三味線奏者「高橋竹山」>
 1950年代に入り、いよいよ三味線奏者高橋竹山の活躍が始まります。
1963年、53歳にして初めて彼は三味線独奏のアルバムを録音。
1964年、労音が主催する民謡例会に成田雲竹とともに呼ばれた彼は、初めて熱心に耳を傾けてくれる聴衆と出会うことになりました。この出会いなしに三味線の巨人、高橋竹山は誕生しなかったかもしれません。彼は、ついに本物の聴き手と出会うことができたのです。

 自分の三味線(独奏)を、お客さんが聴いてくれているという気持ちをはっきり持ったのは、まあ、労音に出てからだ。その前は、うそでもどうでも、ただ時間すごせばいいんだから。まじめに聴いてくれる人いなかったんだからね。まじめにやったってなにもならないと思ってたから、・・・

 1970年代に入るといよいよ竹山の評価は高まります。ロック世代の若者たちが、津軽三味線のリズミカルでパワフルな演奏の魅力に気づいたことで、彼のコンサートには昔からの民謡ファンから新しいファンの若者たちまで幅広い層の観客がやって来るようになりました。そして彼はそうした観客たちのためにさらに自らの技術を磨くだけでなく、津軽三味線のためのオリジナル曲を作り、自らのレパートリーに加えてゆきます。こうして彼の才能は観衆の聴く力の向上とともにレベルアップしてゆくことになったわけです。

・・・音楽は耳の学問ですよ。そう言うと、耳でうたえるなどと竹山はおかしなことを言うという人もいますが、もちろん、耳でうたわれるわけでないし、口があるんだから。そうでない。耳でよく聴く、ということなんだ。

 これは音楽としては、本当に幸福なことでした。その点、彼は戦争中は三味線をあきらめるほどの苦労をしたものの、結果的には時代的に恵まれたともいえそうです。

<津軽三味線という楽器について>
 「津軽三味線」という楽器は存在しません。基本的には、太棹の普通の三味線を用いています。一説によると、力自慢の若者たちが音量をより大きくするために棹を競って太くしたともいわれています。それは村の祭りなどで唄の競演が行われることが多くなり、より大きな会場、より多くの観客を前にするようになったせいもあるようです。
 ただ、津軽民謡の曲の数は極端に少なく、「じょんがら節」、「よされ節」、「おはら節」(これらを「津軽三つもの」と呼ぶそうです)が基本で、その他には「あいや節」、「三下り」など数曲くらいしかなかったといいます。そのため、演奏者たちは、それらの曲を演奏する中で、音量や細かな技巧などを競い合ってきたのです。

<哲学する三味線奏者>
 彼の言葉にはまるで哲学者のような奥深さがあります。彼は苦労話をけっして自慢することがありません。その謙虚な姿勢には頭が下がります。

 苦労して歩いて貧乏してろくなものも喰わねえで歩いたからあの人は上手だ、などといわれるのはとんでもない。勉強なんてまっかなウソだよ。私はどうもそうだとは思えない。そうでなくて、むかしああして苦労して歩いたときは勉強もならねえし、いまなんぼ楽になったんだからもっと勉強していい三味線聴かせて、もっと楽にならねばいかんという、それがあたりまえですよ。

 しかし、彼の音楽へのこだわりは、健常者のそれを上回るものです。それは彼にとっての音楽は、音楽である以前に「音」もしくは「音像」として感じる存在として、我々が目で見る世界像と等しいからです。そのため、彼は「音楽」以前に三味線が出す「音」そのものに強いこだわりを持っていたといいます。

 音は生きものだ。三味線も生きものだ。三味線は、糸に撥(ばち)あてれば鳴るというもんでねえ。棹の木がコーン、コーンと鳴るようでなければほんとうの音とはいえない。

 津軽三味線の音楽は今やポップスの一ジャンルといえるほど、若い観客からも支持されるようになりました。それは激しいリズムによって繰り出されるパワフルな音がロック的でファンキーな音楽として聴こえるからでしょう。ただ、そうした津軽三味線の人気を、今は亡き竹山は喜んでいると思いますが、そこには不満もあるはずです。なぜなら、彼が考える津軽三味線の音楽とは、「津軽があらわれてくるような匂いがする音」を出さなければならないし、ロック的なアップテンポな曲ではなくゆったりとした曲でなければならなかったからです。

 一つの音楽という、その曲の魂を、もっと奥深い落ち着いた気分の曲を聴く耳をもってもらわれねえものかな。走って走って、剣道でもやるみたいな曲ばかりいいんじゃなく、ゆっくりしたものの方が面倒なんです。音楽やる人であればわかりますがね。速い曲というものはごまかしもできる。そうでなく、糸一本一本に心の一端を表現している曲がいちばん面倒なんだよ、ほんとは。・・・

1973年、彼の存在を広めてゆくことになる東京渋谷のライブ・スポット(小劇場)「ジャンジャン」での定期コンサートが始まります。
1974年、演奏生活50周年を記念して独奏会を青森で開催。日本民謡協会から名人位を与えられました。
1975年、第9回吉川英治文化賞を受賞。自らの半生をつづった「自伝・津軽三味線ひとり旅」を発表。この自伝をもとにした伝記映画「竹山ひとり旅」の製作がすぐに決まります。
1977年、映画「竹山ひとり旅」が完成。モスクワ映画祭に正式出品されることになり、その公開に合わせて彼にとって初めて海外公演をモスクワで行いました。この作品はモスクワで監督賞、ソ連美術家同盟賞を受賞しました。
1983年、彼にとって集大成ともいえる五枚組みアルバム「津軽三味線・高橋竹山のすべて」を発表。
1986年、初のアメリカ公演を行い、ニューヨーク、ワシントン、ボルチモア、アトランタ、サンフランシスコ、ロサンゼルス、ホノルルなどでコンサートを行いました。

「・・・歌舞伎での三味線に比べ骨太で異質な津軽三味線を、竹山氏は60余年にわたり弾き続けてきた。三歳で光を失って以来、どちらかといえば脇役であるこの楽器から、信じられないほどの多様な音色を弾き出すべく、努力し続けてきた。竹山氏の演奏する伝統的作品は、若き日の氏が彷徨したさいはての地のようにひとり荒涼として厳しい。対する竹山氏のオリジナル作品は、低音部を駆使した軽快なアルペジオ、微分音的な展開、複合的なリズム、と、まさにオーケストラに他ならない。・・・竹山氏の音の強さ、他方でそれをなだめる力量は、その芸術の成熟さと深さを、余すことなくわれわれに認識させる。氏の音楽は、まるで霊魂探知器でもあるかのように、聴衆の心の共鳴音をたぐり寄せてしまう。名匠と呼ばずして何であろう」
ロバート・パーマー(ニューヨーク・タイムズ記者)

1989年、79歳になった彼は前立腺肥大症の手術を受け半年間演奏活動を休止します。しかし、翌年には全国ツアーを行い、80歳にして完全復活を果たしました。
1992年、パリ市立劇場でコンサートを開催。
1994年、演奏活動70周年記念ライブのCD発売。
1995年、85歳になった彼は体調不良のため活動を中断。翌年に喉頭癌の診断を受け入院。しかし、放射線治療により回復し退院します。
1998年2月、88歳まで生きた彼はついにこの世を去りました。

 88年という生涯を三味線とともに歩んだ男は、盲目であることで差別され、門付けという仕事で差別を受けながらも、けっして自分を蔑むことはありませんでした。それどころか、彼はこう思ってきたといいます。
「おまえら、なにもなくなったら、オレのように一人で生きていけるか」

 たったひとりで津軽三味線という楽器を独奏楽器として世界に通じる存在にしてしまった功績は、アルゼンチンにおけるバンドネオン奏者、アストル・ピアソラを思い起こさせます。それまでは、歴史はあっても伝統といえるものがなかった楽器が、彼によってしっかりとした伝統文化としての基礎を持つことになったのです。そして、その基礎をバネにして、次々と次世代のアーティストたちが育つことになりました。
 彼のどっしりとした演奏スタイルは、パキスタンが生んだ偉大なヴォーカリスト、ヌスラット・ファテ・アリハーンを思い出させます。深いしわが刻まれた堀の深い顔は、ちょっと日本人離れしていてギリシャ彫刻のような陰影に富んでいます。彼が座についただけで漂うカリスマ的なオーラは、彼の音楽だけでなく、彼が長い間の演奏生活の中で積み上げてきた圧倒的な存在感によって生み出されたのでしょう。
 今は亡き新藤監督の映画「竹山ひとり旅」は、そんな彼の苦難の時代を見事に再現したドキュメンタリータッチの名作です。もちろん、彼の素晴しい演奏を聴くこともできるので、是非一度ご覧下さい。

映画「竹山ひとり旅」
(監)(脚)新藤兼人(音)林光(出)高橋竹山、林隆三、乙羽信子(モスクワ映画祭監督賞、ソ連美術家同盟賞

<参考>
「高橋竹山に聴く - 津軽から世界へ」
 2000年
(著)佐藤貞樹
集英社新書

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