- ティム・ハーディン Tim Hardin -

<60年代フォークにおける悲劇の一匹狼>
 ティム・ハーディン、彼の名は以前から気になっていました。60年代のシンガー・ソングライターの歴史が語られるとき、異色の一匹狼として何度もその名が登場していたからです。それに、ロッド・スチュアートによってカバーされた「Reason To Believe」のような名曲もありました。(それにエルヴィス・コステロも"It'll Never Happen Again"をカバーしています)そのわりに、彼の声を生で聞くことはほとんどなく、僕にとって幻の存在でした。
 それは、彼の曲のオリジナル盤がほとんどヒットしていなかったことや、その音楽スタイルがかなり渋いものだったせいなのかもしれません。もちろん、それは渋くとも噛めば噛むほど味が出る音楽でもあったのですが、その味もしだいに苦みをおびるようになり、1980年に彼は39歳という若さでこの世を去ってしまいました。その死は、どうやらほとんど自殺に近いものだったようです。

<フォークの聖地へ>
 ティム・ハーディンは、1941年11月23日オレゴン州のユージーンという街で生まれました。父親はジャズ・ミュージシャン、母親はクラシックのミュージシャンでしたが、これが後に彼独自の音楽性の基礎になったようです。海軍での兵役についていた彼は、除隊と同時に故郷を離れ東海岸へと移住し、ニューヨークのグリニッチ・ビレッジやボストンでフォーク・シンガーとしての活動を開始します。

<ニューヨークが育てた人々>
 時は1960年代前半、学生たちを中心にフォークは一大ブームを迎え、街中のカフェで多くのフォーク・ミュージシャンたちがそれぞれの思いを歌に込めていました。その中には、ボブ・ディランやフィル・オクス、トム・パクストン、ジョーン・バエズらのシンガーたちがいましたが、60年も半ばになると、70年代のシンガー・ソングライター・ブームの主役となる大物たちも、この街にやって来始めます。(ジョニ・ミッチェル、レナード・コーエン、スティーブン・スティルス、ジャクソン・ブラウン、ローラ・ニーロママス&パパスのジョン・フィリップス、ジョン・セバスチャンリンダ・ロンシュタット・・・)ニューヨークの街は、そんな「大人向けのロック」を育てる揺りかごの役目を果たして行くことになるわけですが、その先駆けのひとりが、ティム・ハーディンであり、フレッド・ニールだったのです。
 こうしてニューヨークの街で歌い始めたティムは、後にラヴィン・スプーンフルのプロデューサーとしても大活躍することになるエリック・ジェイコブセンに認められ、彼の努力によって、ヴァーブ・レコードと契約。1966年にはファースト・アルバム「ティム・ハーディン1」を発売するチャンスを得ました。

<ソング・ライターとしての活躍>
 彼は1967年「ティム・ハーディン2」を発表します。そして、このアルバムの中の「If I Were A Carpenter」は、ボビー・ダーリンによってカバーされ大ヒットします。この後も、彼の曲は多くのアーティストたちによってカバーされることになり、ソングライターとして彼の名は有名になって行きました。

<エレクトリック・フォークの先駆者としての活躍>
 さらに彼の場合、そのライブのスタイルもまた多くのアーティストたちに影響を与えることになります。彼はアルバム・デビュー以前の1960年代前半からステージにおいてエレクトリック・ギターを使用しており、フォーク・ロックの先駆けとして同時期のフレッド・ニールと並ぶ存在だったと言われているのです。(「真夜中のカウボーイ」のテーマ曲「うわさの男」の作者、フレッド・ニールもまた伝説の男と呼ぶに相応しい人物でした)
 当時ブルースの世界では、B・B・キングらの活躍もあり1950年代からすでにエレクトリック・ギターは当たり前の存在になっていました。したがって、ブルースをレパートリーとしていた白人のフォーク系アーティストたちにとって、エレキ・ギターの使用はごく自然なことだったのです。
 こうして、フォークとブルースは自然に融合されて行くことになり、その後ポール・バターフィールド・ブルース・バンドを従えたボブ・ディランによって、一気にその流れが加速されることになるわけです。

<ジャズとフォーク・ロックとの出会い>
 もうひとつティム・ハーディンは、ロック史に大きな影響を与えることになる先駆的役割を果たしています。それは、ジャズの導入という当時まだ試みられていなかった挑戦です。彼のサード・アルバム「ティム・ハーディン3」は、マイク・マイニエリらのジャズ系ミュージシャンをバックに迎えて録音されたライブ・アルバムでした。(1968年ニューヨーク録音)その他にも、後に「クリスタル・サイレンス」で大ブレイクすることになるヴァイブ奏者のゲイリー・バートンやウェザー・リポートのリーダー格として、フュージョン・ブームをリードすることになるジョー・ザビヌル、パーカションの大御所ラルフ・マクドナルドらも、、彼のバックを務めていました。その点でも、彼はかなり時代の先を行っていたことになるでしょう。逆に早すぎたために、彼の新しさは一般受けしなかったのかもしれません。

<転落の始まり>
 ジャズ・ミュージシャンたちとの付き合いは、当時まだフォークやロックの世界ではそれほど一般的ではなかった麻薬との出会いを彼にもたらしてしまったようです。(特にヘロインなどの強い薬物は、ジャズの世界において常識化していたようですが、まだこの頃ロックの世界ではマリファナが主流でした)ヘロインやモルヒネなど、薬物中毒の泥沼にはまり込んでしまった彼から、愛妻のスーザン、息子のダミアンが離れていったのは当然の結果だったのかもしれません。
 しかし、自らの曲"The Lady Came From Boltimore"で妻スーザンへの愛について歌うほど、彼女を愛していた彼にとって、その別れはあまりに厳しい現実だったようです。こうして、哀しみの中、彼はアメリカを離れイギリスへと渡ります。

<故郷へ、そして天国へ>
 1972年から1978年までの6年間、彼はイギリスに移り住みます。それはまるで、かつて麻薬でボロボロになったジャズのミュージシャンたちが心の安らぎを求めて、ヨーロッパに長期滞在していたことを思い出させます。(映画「ラウンド・ミッドナイト」の主人公のように)
 1978年久しぶりに帰国した彼は、9年ぶりの新作を録音し始めます。しかし、この時別れた妻スーザンとの仲がいよいよ最悪の状態となり、母と子は完全に彼の前から姿を消してしまいます。こうして、薬物中毒によって失ってしまった時を取り戻すための必死の努力も、愛する者を失ってしまったことで、その意義をあっという間に失ってしまいました。
 1980年12月29日彼は、ほとんど自殺といってもよい悲劇的な死を遂げました。直接の死因は心臓麻痺ですが、麻薬によって彼の肉体はすでにボロボロの状態だったのです。その上、彼の死は、あのジョン・レノンの死から2週間とたっていない時期だったため、ほとんど話題になることもありませんでした。悲しいことに、彼は死のタイミングまで逸してしまったのです。

<締めのお言葉>
「われわれがその生きている日々に恋い求める一つのもの、われわれに溜息をつかせ、呻かせ、あらゆる吐き気を感じさせる一つのもの、それはある失われた記憶なのだ。われわれはおそらくそれを母の胎内で経験したのだろうし、またそれを再現できるのは死の中以外にはないだろう。・・・」

ジャック・ケルアック著「路上」より

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