タイタニックと共に沈んだ楽団員たち

- ウォレス・ハートリー Wallace Hartley -
映画「タイタニック TITANIC」
<タイタニックと共に沈んだ楽団>
 ジェームズ・キャメロン監督の映画「タイタニック」には何か所も泣かせるシーンがありました。しかし、僕としては、ベッドで抱き合ったまま老夫婦が海に飲まれるシーンと船の楽団が甲板で最後まで演奏を続けるシーンが今でも忘れられません。特に後者は多くの人にその音楽と共に記憶されているはずです。
 キャメロン監督もあの場面にはかなりこだわっていたようで、バンドリーダー役の俳優(ジョナサン・エヴァンス=ジョーンズ)も実際の人物ウォレス・ハートリーによく似ています。さらにそこで楽団が演奏した曲についても調査がなされました。ただし、楽団が船が沈む直前、最後に演奏した曲は、実際の曲とは違うという説があります。しかし、あえてキャメロン監督は実際とは異なる曲を演奏させたようなのです。
 それはなぜだったのか?
 タイタニック号で最後に演奏された曲を決めたのは楽団リーダーのウォレス・ハートリーだったはず。事故の後、彼はタイタニック号沈没事故における最大の英雄として扱われることになり、様々な記事が書かれました。
 しかし、あの事故がなければたぶん歴史の名を残すことはなかったはずの一音楽家についての調査はなかなか困難だったようです。
 タイタニック号の楽団について詳細に調べたノンフィクション「タイタニック号の永遠の讃美歌」から、彼らが最後に演奏した曲についてまとめてみました。
 先ずは、彼の生い立ちからタイタニック号に乗ることになったいきさつまでを見てみましょう。

<ウォレス・ハートリー>
 1876年6月2日、ウォレス・ハートリー Wallace Hartley はイギリス中部の小さな町コーンに生まれました。
 父親のアルビオンは織物工場の工場長でしたが火事によって職場を失います。その後、保険会社に再就職し、代理店の支店長にまでなった真面目な努力家でした。そのため自分の息子にも同じように固い仕事について欲しかったようで、彼が音楽の道に進むことには当初反対でした。
 彼もそんな親の意見を聞き、一度は銀行に就職し、音楽は趣味になりました。しかし、音楽家になる夢をあきらめきれず、バイオリニストとしての仕事があれば参加するようになり、1901年ごろには音楽家としての活動を本格化していました。当初はムーディーマナーズ・オペラ・カンパニーのバイオリニストとして演奏するなど、陸上での仕事が中心でした。
 1909年に彼は正式にキュナード・ライン社という大手の旅客船運航会社の社員となり、船上での演奏を始めていました。
 19世紀の後半から豪華客船による旅は英国における重要産業の一つとなり、欧米間はそのドル箱路線となり、豪華さとスピードを競う船会社の戦場になっていました。タイタニック号の事故はその結果起きた必然的な事故だったとも言われます。
 1910年、彼は当時世界最速だった豪華客船モーリタニア号の楽団リーダーを任されるまでになっていました。
 このモーリタニア号の楽団のチェリストだったエルワンド・ムーディーは、親しくなったウォレスにこう質問したことがありました。
「万が一沈みかけている船に乗っていたら、どんな行動をとりますか?」
 ウォレスはこう答えたそうです。
「私は『主よ、わが助けよ』か『主よ御許に近づかん』を演奏するよ」


 モーリタニア号での仕事は順調でバンドのメンバーとの関係も上手くいっていました。収入もアップしたので生活も安定したことから、彼は婚約者のマリア・ロビンソンとの結婚をいよいよ考え始めました。そんな時に舞い込んだのが彼の運命を変えることになる依頼でした。

<運命のタイタニックへ>
 新たな世界最大の豪華客船としてそのデビューを飾ろうとしていたタイタニック号の楽団リーダーになってほしいという依頼が彼のもとに届きました。当初、その役目を任されるはずだったパーシー・エインリーという音楽家が妻の出産が近く、突然休暇をとることになったのが理由でした。出航まで2週間ほどしかない時点での依頼に彼は迷いますが、タイタニック号の処女航海に楽団リーダーとして参加できる名誉と高額の報酬に受けることを決意します。あまりに急な依頼だったため、彼は家族にも婚約者にも合わずに乗船する港へと向かうことになりました。まさか彼らと二度と会えなくなるとは思ってもいませんでした。

<船上楽団の仕事>
 タイタニック号が所属するホワイト・スターライン社には1850年代から船上で演奏する楽団がありました。
 ウォレスが乗船した当時、ホワイト・スターライン社の楽団員は、会社が作った楽譜集に掲載されている352曲をすべて演奏できなければなりませんでした。その中には、オペレッタ、序曲、ワルツ、マーチ、ケークウォーク、宗教音楽まで幅広い曲がありました。当時は、まだフォックス・トロットなどのポップなダンス音楽は演奏曲目にはなかったもののリクエストがあれば演奏する準備はされていました。
 ウォレスも当時大流行していた「ザ・バニー・ホップ」や「ザ・ターキー・トロット」などの楽譜を持ち込んでいました。
 ただし、メンバーは楽譜なしで演奏することを求められていて、曲にはすべて番号が付けられ、リーダーが示す番号ですぐにその曲を演奏することになっていました。
 しかし、ほとんどの場合、彼らの演奏はけっして主役とはならず、常に乗船客がくつろぐためのバックグラウンド音楽に過ぎないのも事実でした。

 楽団員たちは高い演奏能力を身につけていたが、彼らの立場はスターではなく、単なる雇われ身分のエンターテナーだった。この時代、旅客船の楽団員は、時にはダイニング・サロンやヤシの葉の後ろに隠れて、音は聞こえるが、姿は見えない状態で演奏するように指示されていた。それゆえに、「ヤシの木陰の音楽家」というフレーズが誕生した。

 ウォレスが船で働きだした頃までは、楽団員は船会社の社員として雇われており、船員と同等の待遇を与えられていました。ところが、そうした楽団を船会社に仲介する業者が登場し、業界を大きく変えます。その会社は船会社に楽団を紹介するだけでなく、賃金を下げさせ、さらにマージンを取り始めました。そのおかげで、楽団員たちは自前で船の乗船券を購入し、衣装も楽器も自前で用意することになりました。そのうえ、彼らは船が事故にあってもなんの補償も受けられなくなりました。このことはタイタニック号の事故の後、楽団員に補償金が払われないことで問題になります。どの時代にも労働者の上前をはねるブラックな企業があるのです。

<タイタニック号沈没>
 1912年4月14日午後11時40分北大西洋を航行中のタイタニック号が漂流中の巨大な氷山と衝突。この時、もし見張りの船員が氷山をもう少し遅く発見していたら、タイタニック号は沈没していなかったことが後に明らかになっています。それはタイタニック号が正面から氷山に衝突していたら、浸水が先端だけで済み、他のブロックは隔壁で守られていたはずだからです。実際のタイタニック号は、中途半端に梶を切ったため、側面に長く亀裂が生じ、多くのブロックに浸水が発生。それが沈没につながったのでした。
 こうして、浸水が複数ブロックに一気に進んだことでタイタニック号は翌日15日の午前2時20分に海中に没しました。その間、わずか2時間40分でした。したがって、ウォレスら楽団人たちが演奏を行った時間もそう長くはなかったでしょう。

<最後の演奏>
 午前0時5分、スミス船長は航海士長ヘンリー・ワイルドに救命ボートを降ろす指示を出しました。それから10分後、楽団は集合し、一等客室のラウンジで演奏を始めます。演奏するよう指示したのは、パーサーのヒュー・ウォルター・マッカロイで彼も船長からの指示を受けていたようです。こうしてウォレスを中心とする楽団は最後の演奏を始めることになりました。
 実は、楽団のメンバーはそれまでは5人と3人の二つに別れて異なる時間、異なる場所で演奏を行っていて、全員が同時に集まって演奏したことはありませんでした。ラウンジにもピアノは一台しかないので二人いるピアニストも一人しか演奏できませんでした。さらにこの後、楽団は浸水と船の傾きのため、演奏場所を甲板に移しますが、そこにはピアノがないため、ピアニストたちはやることがなくなります。しかし、二人のピアニストもまた楽団のメンバーと共に船に残り、運命を共にすることになります。

<最後の演奏した曲>
 楽団が最後の演奏会でどんな曲を演奏したのかについては生き残った人々により様々な証言が残されていますが、沈没を前に混乱した船内だったことから、正確かどうかは定かではありません。
 間違いなく演奏されていた曲としては、1911年に世界的大ヒットとなっていたアーヴィング・バーリンの代表曲「アレキサンダーズ・ラグタイムバンド」があります。バンドは混乱する船内で乗客を元気づけようと明るい前向きな曲を意識的に演奏していたようです。さらにこんな証言もあります。

「乗客を乗せて海面に降ろすため救命ボート6号のそばを通ると、楽団がいかした感じの音楽を演奏しているのが聞こえてきた。概して私はジャズ好きではないが、その夜はジャズが聞こえてうれしかった。ジャズは私たちみんなに勇気をくれた」
(ただし、当時まだ「ジャズ」はまだこうした場所では演奏されておらず、ここで演奏されていたのはそれを楽譜化した「ラグタイム」だったはずです)

 その他にも、証言が残る曲目にはエルガーの「希望と栄光の国」や英国のヒット曲「イン・ザ・シャドーズ」などがあったようです。しかし、その後、タイタニック号の伝説を生み出すことになる有名な証言が現れます。それはカナダ出身のA・A・ディック夫人が残したものです。

「私たちがはっきり覚えていることは、タイタニック号が沈む中、楽団の演奏する『主よ御許に近づかん』が聞こえてきたことです。私たちは、救命ボートから音の方向を向いてみました。デッキに楽団員の人たちが立ち、とても静かに最期の瞬間を待っている姿を見ることができました」

 この証言が楽団と「主よ御許に近づかん」の伝説を生み出すきっかけとなります。
 ただし、この証言にはその後、疑問符がつくことになりました。
 実は、ディック夫人が乗っていた救命ボートは船が沈んだ瞬間、すでにそこから4分の1マイル離れていて楽団員の姿どころか演奏していた曲を聴き取ることは不可能だったことが明らかになったからです。
 さらに言うと、「主よ御許に近づかん」には、楽譜が複数存在します。英国ではジョン・バッカス・ダイクス作曲の「ホーベリー」という曲のものが使用されていました。ところが、メソジスト派の教会では、アーサー・サリヴァン作曲の「プロパイアー・デュオ」が主に使用され、メソジストだったウォレスはこの曲を好んでいたそうです。(葬儀で演奏されたのもこの曲でした)ところが、アメリカではローウェル・メイスン作曲の「ベサニー」が使用されていたはずなので、アメリカ人もしくはカナダ人の乗客には違う曲に聞こえていたはずなのです。
 そう考えるとディック夫人よりも、楽団が演奏する姿を最後まで見ていて生き残った無線通信技師ハロルド・ブライドの証言の方が信頼性は高そうです。そして彼が最後に聞いたと証言した曲は、讃美歌ではなく「秋」というタイトルの曲でした。
 「秋」という曲は、アーチボルド・ジョイスが作曲した有名なワルツで正式名は「秋の夢 Songe d'Automme」で1911年に大ヒットしていました。実はその曲はアメリカでは讃美歌にも使用されていて「慈悲慈愛に溢れ給う我らが神よ」というタイトルの曲として知られていました。アメリカでは礼拝での退場曲にも使用されてもいたと言います。ということは、アメリカ人にとっては「秋」は讃美歌として認識されていたわけです。そう考えると、この曲が最期に演奏されていた可能性が高そうです。
 「タイタニック」の監督ジェームズ・キャメロンは映画の製作にあたり、最期の曲が何だったのかをもう一度検証しています。そこで最有力は「緑の夢」であることもわかったはずです。しかし、彼はあえて「主よ御許に近づかん」を選択し、アメリカ人が多く知る「ベサニー」のメロディーを使用しました。それは多くの事故の生存者たちにとって、忘れられない曲はいつの間にか、その曲になってしまっていたからです。真実よりも、記憶に残された真実の方を優先することもまた真実に近いと考えるべきなのかもしれません。

<英雄となった楽団員たち>
 事故当時、世界中の新聞や報道機関は、タイタニック号沈没事故の原因救命と共に、その大惨事におけるヒーローを探し求めていました。そこで彼らはウォレス・ハートリーと楽団たちについての様々な証言を得てその存在に注目します。
 
 4月20日、デイリー・ミラー紙は「楽団員、演奏をしながら海に沈む」という見出しを使い、ウォレス・ハートリーと7人の楽団員たちの名前を掲載しました。ここから楽団員たちの英雄的行為が世界中で英雄として扱われ、事件が生んだ最大の英雄へとなって行くことになりました。そして、彼らの追悼行事では常に前述の讃美歌「主よ御許に近づかん」が演奏されることになりました。
 ウォレスの遺体がカナダのハリファックスに着いた後、船で英国へと帰還し、故郷コーンで町の人口よりも多い3万人以上の群衆を集めて行われた葬儀でも「主よ御許に近づかん」が演奏されました。その葬儀では多くの観衆がその讃美歌を合唱しましたが、しだいにみな涙声となり、ついには声が聞こえなくなったと言われています。

<批判の声>
 あまりに彼らの存在が英雄視されたため、その風潮を批判する声も出てきました。「白鯨」や「ロード・ジム」で有名な海洋冒険作家ジョセフ・コンラッドはこう書いています。
「楽団員たちが演奏を続けても、溺死などせず救出されていれば、その方がよかったに決まっている。彼らは亡くなったのだ。彼らがどんな曲を演奏していたかなど、問題にすべきではない。彼らは本当に気の毒な人たちだ」
 彼らを英雄として持ち上げることよりも事故の責任を問う事こそ重要で、彼らに船会社が補償金を支払おうとしなかったことこそ問題にすべきだったとも言えます。

<記憶に残った最期の曲>
 タイタニック号にあの細野晴臣の祖父が乗船していて生き残った話は有名ですが、彼もまた救命ボートに乗る前にウォレスたちの演奏を聴いたのでしょうか?
 残念ながらそうした当事者たちの記憶は、彼らがこの世を去ることでどんどん失われて行きました。
 当然ですが、ウォレスは一度も自身の演奏を録音する機会がありませんでした。そのため、彼らの音楽の記憶は今や風前の灯です。
 その意味では、ジェームズ・キャメロンの映画によって残された彼らの演奏は、たとえ演奏された曲が違ったとしても、その価値は永遠のものになるはずです。
 改めて、ウォレス・ハートリーと7人の楽団員たちのご冥福をお祈りします。

「タイタニック号の永遠の讃美歌 楽団リーダー、ウォレス・ハートリーの真実」 2002年
A Hymn For Eternity : The Story of Wallace Hartley Titanic Bandmaster
(著)イヴォンヌ・キャロル Yvonne Carroll
(訳)小笠原真司
英宝社

映画「タイタニック」 TITANIC 1997年
(監)(製)(脚)(編)ジェームズ・キャメロン
(製)ジョン・ランド―(製総)レイ・サンキーニ(撮)ラッセル・カーペンター(美)(PD)ピーター・ラモント(衣)デボラ・L・スコット(編)コンラッド・バフ、リチャード・A・ハリス
(音)ジェームズ・ホーナー(主歌)セリーヌ・ディオン
(出)レオナルド・ディカプリオ、ケイト・ウィンスレット、ビリー・ゼイン、キャシー・ベイツ、ビル・パクストン、ローズ・カルバート、デヴィッド・ワーナー、フランシス・フィッシャー
ジョナサン・エヴァンス=ジョーンズ(ウォレス・ハートリー)

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