失われゆく近代台湾史・悲劇の記憶


「台湾海峡 一九四九」

- 龍應台 Lung Ying-tai -
<台湾近代史>
 映画史に残る傑作映画「ク―リンチェ少年殺人事件」、「台北ストーリー」(いずれもエドワード・ヤン監督作品)を見て、台湾の近代史に興味を持っていたところで、素晴らしい本と出会いました。
 蒋介石率いる国民党軍が、中国本土から撤退し、台湾へと逃げ延びる道を選択した年である1949年にスポットを当て、その前後の中国本土、台湾、東南アジアの戦場などで苦難の道を歩んだ「普通の人々」の記憶を集めた異色の大衆史です。
 それは記録文学の形態を用いて事実や記憶を並べただけの文集ではなく、様々な記憶に合わせて様々な文章スタイルを用いた素晴らしい文学作品になっています。そこがこの作品の他の歴史書とは違う点です。そのことは、本文最初のこの文章で明らかです。

 彼らはかつて、あんなに意気盛んで若々しかった。しかし、国家や理想のため突き動かされたものも、貧困や境遇のため余儀なくされたものも、みな戦場に駆り出され、荒野に餓え、凍え、塹壕に死体を曝した。
 時代の車輪は、彼らの身体を踏みつけにしていった。
 戦火のあとに生き残ったものも、一生を台無しにされ、長い長い漂白の人生を送った。
 彼らの世代が、戦争という重荷と、数え切れないほどの心の傷に堪え抜いてきたから、
 そして、かつて自らが倒れ、血で汚した場所を、もう一度耕し、種を播いたから、
 私たち世代は平和の中、明るく無邪気に成長できたのだ。
 もしも誰か言うように、彼らが戦争の「敗北者」だとするなら、
 では時代に踏みつけにされ、汚され、傷つけられたすべての人がそうだ。
 彼らは「敗北」で教える -
 本当に追及すべき価値とは何なのか。
 私の目を見つめて、正直に答えてほしい -
 戦争に「勝利者」はいるの?
 「敗北者」の子供として生まれて、私は誇りに思う。



 本書は文学であって、歴史書ではない。私は信じている。文学だけが、花や果物、線香やろうそくと同じように、痛みに苦しむ魂に触れることができるのだ、と。この本が、そう時代に虐げられた命に捧げられることを、畏敬のと感謝とともに願っている。


<21世紀へ伝える記憶>
 そして、この本は19歳になり学校の授業で自分の親の生い立ちについて調べることになった息子のため始まった企画がもとになっています。だからこそ、どんな世代のどんな国の人が読んでもわかるように、心に響くように書かれているのです。それも著者が「母親」だということが、この作品にとっては重要なポイントになっているはずです。多くの兵士を戦場に送り出し、多くの学生たちを育てながら、自分たちもまた戦争の混乱によって家や故郷を失うと同時に、父親不在の家族を連れて生き延びるための闘いを強いられたのは「母親」でした。だからこそ、この作品が母親の目線から書かれていることは大きな意味を持っています。

 息子が本気だから、私も本気で応えるつもりだった。
 考え始める。歴史は今、2009年まで進んだ。目の前にいる1989年生まれの少年。関係は誰よりも近いけれど、私の身の上に起こったことなどまるでよそ事でしかなく、まして私よりさらに前の時代の、徐々に消えつつある記憶のトンネルのことなど、何一つ知らない。こんな、生命自体が始まったばかりの、無邪気な青春を過ごす子供に対して、どうやってひとつの時代を語るのか?あの記憶にはおびただしい痛みと矛盾があり、痛みと痛みはもつれ合い、矛盾と矛盾がぶつかり合う。前後関係をつなぐ筋道をどうやって見つけ出せばいいのか?いったいどこから手をつけたらいいのか?・・・
 私が語れることなんて、たったこれっぽっちしかない。どんなに頑張ったって大まかな山水画がいいところ。写真のようにすべてを伝えるなどできない。でもこの墨の濃淡や空白から、これまでずっと覆い隠されていたあの時代の鼓動というものを、少しでも感じとってくれるんじゃないかしら?


<様々な登場人物>
 様々な人々の人生がとりあげられる中、この作品では興味深い人々の生い立ちについても書かれていて、読者をあきさせません。

<ジャッキー・チェン>
 香港や台湾の住民のうち戦後移民世代の多くの名前には、移住前の中国の名前や移民(難民)に至ったいわくが込められているようです。あのジャッキー・チェンもその一人です。

 香港の映画スター、ジャッキー・チェンの本名はなんていうか知っているだろうか?「陳港生」(チンコウセイ)というのだが、この名前を見れば、彼の身の上話がどこから始まるか想像できるだろう。調べれば答えはすぐに出る。戦乱が続く1947年、彼の父、房道龍は安徽省和県沈巷鎮の家をあとにした。妻と子を残したままである。流れ流れて香港にたどり着いた彼は、姓名を変え、新しい家庭を持った。そこで生まれた男の子は「港生」と名づけられた。・・・・

<李登輝>
 そして、後に台湾の指導者となる李登輝も登場します。

 1946年春、23歳の台湾人、岩里政男は日本から帰国し、台北で台湾大学に通うことにしていた。米軍の貨物船「リバティ」に乗って、台湾に着いた彼は港で中国本土から国民党軍の兵士たちを見ます。ボロボロの軍服で地べたにすわりこんでいるくたびれきった兵士たちの姿に日本兵を見なれた船の客たちはあきれ、軽蔑の声がきこえてきました。
 このとき、ずっと一人でおとなしく本を読んでいた岩里が突然、話を割り、みなに向かって言った。
「われわれの国家のために」とこの若者は言った。
「国民党軍はあんなひどい装備で日本人に勝ったんだ。素晴らしいことだ。われわれは敬意を持って彼らを見るべきjyないか?」
 岩里政男はその後、名前を中国語名に戻した - 李登輝である。
・・・・

<歴史の掘り起こし>
 1949年を中心とした中国各地で起きていた様々な悲劇の掘り起こしは、これまでまったく行われていませんでした。中国政府にとって、毛沢東率いる共産軍の戦いは、すべてが美談でなければならなかったからです。共産軍が街を住民ごと絶滅に追いやるような作戦を実行していたとは、・・・そうした負の記憶は歴史上から消さなければならなかったのです。その中でも共産軍による長春包囲戦についての記述は衝撃的です。

 聞いてほしい。どうしてもわからないことがあるのだ。これほど大規模な戦争暴力でありながら、どうして長春包囲戦は南京大虐殺のように脚光を浴びないのか?どうして数多くの学術発表されたり、口述記録が広く残されたり、年に一回は報道キャンペーンがあったり、・・・フラッシュを浴びるなか市民が黙とうを捧げたり、記念の鐘が毎年鳴り響いたりしないのか?

 国民党軍と市民がたてこもった長春は80~120万の人口がありましたが、半年間にわたる包囲戦の後、1948年時点で生き残ったのは17万人でした。わずかに脱出した人がいたかもしれませんがほとんどは餓死したと思われます。ところが中国共産党はこの事件を「無血解放」と呼んでいるのです。
 1945年にはソビエト軍によって制圧され、その後、国民党軍、そして共産軍によって長春は死の街となりました。しかし、その記憶を語る人は誰もいないのです。

 少なくとも中国の歴史の教科書には腐敗した国民党政府によって、搾取され続けてきた農民を中心に立ち上がった人民たちによる正義の革命。毛沢東はそのヒーローとして描かれてきました。そして、そのイメージは海外の我々にも広がっていたといえます。しかし、天安門事件や文化大革命についての事実が明らかになるにつれ、そこには恐ろしい事実があったことがわかってきました。そして、日中戦争終結後の1945年から1949年にかけても、すでに共産軍による残虐な作戦が行われていました。

「革命は、客をごちそうに招くことでもなければ、文章をねったり、絵をかいたり、刺繍をしたりすることでもない。・・・どの農村でも、短期間の恐怖現象をつくりださなければならない。そうしなければならない。そうしなければ、けっして、農村での反革命分子の活動を弾圧することはできない」
毛沢東選集第一巻

 しかし、国民党軍もまた中国各地で残虐な行為を行い、兵士を補充するための誘拐を繰り返していました。結局本土での戦闘で敗北した国民党軍は台湾へと逃げ延びますが、兵士たちの多くは国民党によって兵士にされた何も知らない若者ばかりでした。
 1949年に彼らがドッと台湾に流入。台湾社会は大混乱となるのは当然でした。

 台湾接収を任務とする国民党軍と、「王の軍隊」の到来を期待していた台湾の民衆。その「痛み」はまったく違う場所で疼いた。そして歴史の歩みはせっかちにも、両者を正面からぶつかり合わせた。まるで宇宙人とのファーストコンタクトのようにである。相互不理解は内出血の如く、あっという間に悪化して化膿した。それからわずか14ヶ月後、1947年2月28日、台湾全島で動乱が起こり、激しい衝突で多くの血が流れた。二・二八事件である。彭清靠は高雄市参議会(市議会)の議長として、「秩序」の維持を任務とする国民党軍と、民衆との間を取り持つことが自分の役目だと考えた。二つの文化の衝突 - もしこれを異なる二つの近代化プロセスの激しいぶつかり合いだと言うなら、間違ってない - が、いまここに、悲劇として幕が開く。

 子供の頃に誘拐されるようにして兵士となった若者たちは戦争の意味も祖国への愛も理解できませんでした。そんな彼らとの共生を余儀なくされた台湾でその後混乱が起きるのは当然の結果だったといえます。

「たぶん生涯一度も「歓迎」されたことがなかったのだろう。同行の中国人将校たちからは、挨拶もなければ感謝の言葉も開かれなかった。・・・彼らにとっては、台湾人は被征服民のうちだったのだ」
彭明敏

 この作品は400ページにおよぶ大作ですが、そのために集められた資料、行われたインタビューは膨大だったはず。つかわれなかった資料やインタビュー、探し出された証人たちのことを思っただけでも胸が熱くなります。

 なんという時空の巡り合わせだろう。2009年の香港にいる私は、山を越え海を渡り、雲を抜け道を駆け、本当に、1942年冬、南京老虎橋収容所からラバウルに送られ、日本軍による強制労働をさせられていた遊撃隊隊長を見つけ出したのだ。
(すると本人はこう言いました)
「戦友はみなラバウルで死んだのに、どうして自分だけが今日この日までおめおめと生きながらえてきたのか、その理由がわかりました。この電話を待つためだったのです」

 この作品の素晴らしさは、様々なスタイルを用い、様々な人々にスポットを当てながら、常に弱者の側、大衆の側に立つことで、偏りなくあたたかな眼差しを保っているところにあります。共産軍兵士、国民党兵士、疎開学生と教師たち、日本兵、アメリカ兵、オーストラリア兵、そしてすべての兵士たちの母と家族・・・・・
 1949年から60年が経ったからこそ、この視点は可能になったのかもしれませんが、もう少し遅ければ多くの証人たちはこの世を去っていたでしょう。そう考えても、この本の価値は高いし、意味があると思えます。
 どのエピソードも引き込まれるドラマですが、映画や小説では描ききれない膨大な数のドラマがそこにあったことに気づかされる圧倒されます。
 単なる「歴史」の記録としてだけでなく、様々な「人生」の記憶として読めるからこそ、この本は素晴らしいのです。


「台湾海峡 一九四九」(大江大海 1949) 2009年
(著)龍應台 Lung Ying-tai(リュウ・オウタイ)
(訳)天野健太郎
白水社

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