「東宝争議と黒澤明」

1946年〜1948年

<進駐軍と日本>
 太平洋戦争での日本の敗戦は日本という国は根本から変えることになりました。マッカーサーが来日し、アメリカ軍による統治が始まった当初、日本の公用語を英語にする指示が出され、もう少しでそれが実施されるところまでいったという記録もあります。もしそうなっていたら、今頃日本はどうなっていたか?幸いにして、そうした日本の極端なアメリカ化は当時の優れた政治家たちの活躍でかろうじて阻止されましたが、1945年を境に日本が大きく変わったことは間違いありません。それは映画の世界も例外ではありませんでした。
 特に終戦直後から1960年ごろまで、進駐軍の影響が大きかった時代の日本の映画界では様々な変化が起きました。それは、映画の内容だけでなく映画業界のシステム全体が大きく変化し、同時に映画の黄金時代ともいえる時期とも重なることになります。
 ここでは、敗戦後の日本映画界に大きな影響を及ぼした進駐軍の官僚デヴィッド・コンデという人物について紹介し、そこから映画界の急激な変化を追い、「東宝争議」という一大事件までをたどりたいと思います。

<デヴィッド・コンデ>
 日本にやってきた進駐軍の中にCIE(Civil Information and Education Section)という部署がありました。それは日本語に訳すと「民間情報教育局」といいその中におかれた映画・演劇課が日本の映画の監督をする部署となりました。そして、その初代班長に任命され来日したのが、デヴィッド・コンデという人物でした。彼は1906年にカナダで生まれたアメリカ人で、戦時中はフィリピンの心理作戦部局で日本関連の専門家として働いていました。ただし、彼の経歴については謎の部分も多く、ニューディール政策が行われていた時代に共産党に入党しており、そうした経歴からアメリカ国内での活動が厳しかったために日本にやってきたとも言われています。実際、当時アメリカから日本にやってきた官僚たちの中には、そうした左翼系の人物が多かったようです。それは戦時中、アメリカが左翼も右翼もなく一致してファシズムと戦ってきたためでもありましたが、戦後、ソ連の脅威が明らかになるにつれ、右派と左派の分裂は決定的なものとなり始めていました。
 そんな中で日本にやって来た彼が中心となって進めた仕事をざっとここで挙げておきます。
(1) 過去に製作された戦争映画、戦争宣伝のための映画をリストアップさせ、そのネガ、プリントを没収。アメリカの議会図書館に送った一部をのぞき焼却処分とした。
(2) 時代劇などの映画に「抜かず、切らず、殺さず」という規制をかけた。実質的に「時代劇」は製作できないようになった。もちろん、切腹やあだ討ちシーンは問題外。
(3) 軍閥、財閥の専横を暴露した映画や、その中を生き抜いてきた自由人の行動を賛美する映画、また労働組合意識を高める映画を極度に奨励した。
(4) 民主主義の象徴ともいえる?キス・シーンを入れるよう映画会社に指導を行った。そこから生まれたのが日本初の接吻映画「はたちの青春」(1946年)です。
(5) コンデは個人的に映画の製作・企画や脚本の細部にまで関わることもありました。特に大きな影響を与えたといわれている作品には以下のものがあります。
   「大曽根家の朝」(1946年木下恵介監督作品)、「民衆の敵」(1946年今井正監督作品)、「明日を創る人々」(1946年山本嘉次郎、黒沢明、関川秀雄監督作品)

「わが青春に悔いなし」(1946年黒澤明監督作品)
 キネマ旬報第二位のこの作品はコンデの指示により大幅に内容が変更されたといわれています。僕は最初にこの映画を見た時、1946年という敗戦直後に黒澤明がここまで左翼的な映画を撮ったことが不思議でした。ここまで日本人の観客の考え方が早く変わるものなのか?違和感を感じたものでしたが、やっとその謎が解けた気がします。アメリカ軍のそれも左翼思想の持ち主が指示したからこそ、そこまで左翼的な内容の作品を撮ることが可能だったのです。逆にいうと、コンデのような存在がいなければ、「わが青春に悔いなし」はまったく違った映画になったか、そもそも生まれてすらいなかったかもしれないのです。

(6) 各映画会社に組合を設立させた。映画会社の左傾化が進むと、その延長で軍批判だけでなく天皇制批判の作品を撮るよう指導するようになります。こうして製作された天皇批判のドキュメンタリー映画「日本の悲劇」(亀井文夫、吉見泰共同監督作品)は、大物政治家や財界人を戦争犯罪人として名指しで批判し、天皇の戦争責任も追及する内容でした。そのため、当時の首相、吉田茂はGHQに対し公開中止を要請します。結局この作品はCIEの上部組織だったCCD(Civil Centership Detachment)によって上映禁止措置がとられることになりました。しかし、その公開中止の本当の理由は、その作品が天皇批判であると同時に共産党のプロパガンダ映画でもあったためでした。そのため、責任者のコンデはアメリカ政府によって更迭処分となりました。
 1947年、ロイターの特派員として日本に残っていたコンデはマッカーサーを批判する記事を書いたことから、国外追放処分となりました。この頃、アメリカでは「赤狩り」が本格化しつつあり、その影響がアメリカから日本へと及び始めていたのです。
 そして、そうした歴史の流れの中で日本中の注目を浴びることになる「東宝争議」などの事件が起きることになります。

<東宝争議の始まり>
 進駐軍の指導のもとで誕生した映画会社の組合は、職人気質の社員が多い松竹や大映に比べ社員も多く、インテリ層が多かった東宝で特に力をもっていました。1946年3月には第一次東宝争議が起き、この時は東宝従業員組合が勝利を収めますが、9月には第二次東宝争議が起き、労使交渉は決裂します。そのため、映画製作の現場だけでなく映画館でもストライキが行われることになり、当時完成して公開を控えていた黒澤作品「わが青春に悔いなし」は、なんと東宝ではなく日活の直営館で上映されています。ちなみに当時東宝の砧撮影所で働く1100人中650人は共産党員だったともいわれています。
 もちろん、当時、東宝の全員が共産党員だたわけではありませんでした。山本嘉次郎や黒澤明らは、共産主義者ではなく、あくまでも経営陣の営業第一主義に反発してストライキに参加していました。
 組合主導のそうした運動についてゆけない人々もいました。大河内伝次郎、長谷川一夫、藤田進、原節子、山田五十鈴、高峰秀子、入江たか子らは「十人の旗の会」を結成。他の組合脱退者らとともに1947年新東宝を設立します。
 スターの多くを失ってしまった東宝は、新人スターを発掘するために第一期東宝ニューフェース選考会を行います。そこであまりに態度が悪く落とされかけた男を山本嘉次郎が拾い上げます。それが三船敏郎でした。まったく演技経験がなく、野性味だけが取柄だった男を黒澤明はあえて主役に抜擢、スター中心ではなく監督中心の映画作りにより新東宝と勝負する道を選択します。

<東宝争議の深刻化>
 この頃、東宝の社内では経営陣内での権力闘争が行われていましたが、社内から共産党員を一掃するという点では方針が一致していました。しかし、営業的に映画館で上映する作品が作れないことは、経営側にとって大問題でした。そこで東宝の直営館では、アメリカの映画を輸入し、公開。それで当面の利益を確保する作戦に出ます。日本のアメリカ化を目論む進駐軍は、以前からアメリカ映画の上映を求めていたため、利害が一致したともえいえます。
 こうして、1948年3月31日に労働協約の期限が切れたのと同時に経営側は270人の解雇を組合に通告します。それに対して組合側はストライキで対抗しますが、すでに東宝の労働争議は社会的に大きな注目を浴びるものになっていました。そのため、国鉄の組合も協力体制をとり、東宝のフィルム移送を拒否するという共闘体制をとり、日本電気産業労働組合は東宝の劇場への電力供給を停止すると威嚇しました。しかし、経営側はまったく妥協の姿勢をみせず、さらに1200人の解雇計画を発表します。それに対し、いよいよ運動は過激化。東宝の従業員組合は撮影所の周囲にバリケードを建設し、本格的な立てこもりを始めます。8月になり経営側は撮影所の施設設備に関する財産保全の仮処分を申請。これが認められたことで、いよいよ警察による強制執行の準備が始まります。
 1948年8月19日木曜日。この日、いよいよ警察による強制執行が始まろうとしていましたが、そこには警察官2000人の他にアメリカ軍が参加していました。アメリカ側としては日本国内の左傾化をこれ以上放置すれば、共産主義化してしまいかねないという判断があったため、本気でこの運動の押さえ込みに動いたのです。こうして、アメリカ軍が投入したのは、ジープ6台、戦車7台、装甲車4台、ブルドーザー1台、飛行機2機それに第八軍騎兵一個中隊。軍艦以外はすべてやって来たと当時言われました。
 組合側はそれに対し、対抗することは不可能と判断し、撤退を発表します。こうして、東宝での立てこもりは終了し、その後組合幹部のうち伊藤武郎、亀井文夫、山本薩夫ら20名らが自発的に退社するのと引き換えに他の職員は東宝にとどまれることになりました。しかし、その後日本ではアメリカから飛び火した「赤狩り」が猛威を奮うことになり、多くの従業員が解雇されることになります。

<「東宝争議」と「七人の侍」>
 この「東宝争議」の立てこもり事件の真っ只中には、若かりし世界の黒澤もいました。闘争の終了後、彼はこの時の同志でもあった山本嘉次郎や成瀬巳喜男らと共に東宝を離れ、映画芸術協会を設立し、より自由な作品作りを目指します。
 バリケードの中の緊迫した闘いの日々は、戦争に行かなかった彼にとって唯一の戦闘体験として強烈な印象を残しました。そして、その印象が映像化されたのがあの名作「七人の侍」だったといわれています。

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