「東京裁判」

- 小林正樹 Masaki Kobayashi -

<異色のドキュメンタリー超大作>
 全部で4時間37分におよぶこのドキュメンタリー超大作は、昭和21年(1946年)に東京市ヶ谷の旧陸軍参謀本部で行われた極東国際軍事裁判(東京裁判)の模様を収めた膨大な記録映像を編集して作られた作品です。
 この映画と同じ年に公開された同じ第二次世界大戦を題材にした映画「戦場のメリー・クリスマス」に比べると「東京裁判」はいかにも地味なドキュメンタリー映画です。しかし、この映画は見始めると時間を忘れさせるほどドラマチックで、なおかつ新鮮な驚きに満ちています。
 先ず第一にこの作品はドキュメンタリー映画といっても、「東京裁判」の現場をそのままフィルムに収めたもので再現フィルムではありません。当然、登場人物はみな本物であり、それぞれが究極のリアリズムともいえる演技を披露してくれているのです。梅毒に冒されて発狂してしまった大川周明が前の席に座る東条英樹の頭を引っぱたくシーンなどは、どんな演出家にも思い浮かばない演出です。
 この裁判に判事として参加した国際色豊で個性豊な判事たち、それぞれの立場と発言がいかに異なるものだったか。この点についても、興味深く見ることができます。当時、判事たちは、戦勝国であるオーストラリア、アメリカ、イギリス、ソ連、フランス、中国、オランダ、カナダ、ニュージーランド、フィリピン、インドからそれぞれ一人づつ派遣されていました。その中でも特に有名なインド人判事、ラダ・ビノード・パール判事は、日本は無罪であると最後まで主張し続けました。
「日本を裁くなら連合国も同等に裁かれるべきである」
 この考え方を堂々と主張した人が当時いたことに感動させられると同時にガンジーを生んだ国インドの奥深さに改めて感心してしまいました。もちろん、日本に戦争責任がないわけはないのですが、戦争を犯罪として片付けるのではなく、あらゆる要素を再検証して、すべての責任の所在を明らかにしなければ戦争をなくすことはできない。この実に当たり前のことが、見過ごされたことで、「東京裁判」はその後の世界の平和に貢献できなかっただけでなく、逆に朝鮮戦争、ベトナム戦争など、世界各地の紛争の原因ともなるのです。
 1952年に再来日したパール判事はこう語ったそうです。
「東京裁判の影響は原子爆弾の被害よりも甚大だ」
 残念ながら、世界の歴史はこの言葉が正しかったことを、その後証明することになります。

「東京裁判」(ドキュメンタリー映画) 1983年
(監)小林正樹
(脚本)小林正樹、小笠原清
(原案)稲垣俊
(音)武満徹
(ナレーション)佐藤慶
東宝東和

<東京裁判の判決>(2014年4月追記)
 裁判は1946年5月3日から1948年11月12日まで開廷されました。ここで裁かれた4級戦犯は28人。陸軍の軍人が15人。海軍は3人。外交官5人。文官2人。元首相(平沼騏一郎)、天皇側近(木戸幸一)民間右翼(大川周明)
 裁判中、証言台に立った被告たちは自分のことを弁護するよりも、自分の発言によって天皇陛下が罪を問われることがないようにお互いが口裏を合わせただけでなく、時には検察側とも口裏を合わせることもあったといいます。それはすでに天皇を日本の象徴として残す選択をしていたGHQが、天皇の責任をあくまでも追及しようとしていたイギリスやオーストラリアの代表に有罪を言い渡されることを恐れていたからです。
「・・・東京裁判は一種の茶番劇かなと思いもするのですが、いるのかいないのかわからないような犯罪的軍閥による戦争という『かたち』をつくるために、検事局も努力し、弁護団も努力し、被告も努力しながら、裁判を進めていったわけです。敵も味方も汗を流してのまったく大変な作業であったんですね。・・・」
 その結果は以下のようになっています。
 死刑判決は7名でした。東条、広田元首相、土肥原賢二(在満州特務機関長)、板垣(中国派参謀長、陸相)、木村(内大臣、文相)、松井(上海派遣軍司令官)、武藤(軍務局長、フィリピン方面参謀長)
 それぞれの植民地各地における責任者が一人づつ死刑囚に選ばれたとも考えられる人選です。(裁判中に、松岡、永野二名が死亡)
 この東京裁判は実はその後もまだ続くはずでした。そこで岸信介などの戦犯が裁かれる予定になっていました。ところが、戦後の世界情勢はその後大きく変わり始めます。特にソ連とアメリカの対立により、東西冷戦の構図が生まれつつあり、戦勝国が足並みをそろえて裁判を行うことが困難になってきたのです。そのため、「東京裁判」は尻切れ状態で終了することになります。そして、その影響により、この裁判の終了と同時に、日本におけるGHQの占領政策は大きく方向転換することになります。アメリカは、日本を反共の壁とするために、平和国家から軍事国家へ変身させようと考え始めるのです。

<小林正樹>
 小林正樹 Masaki Kobayashi は、1916年2月14日北海道の小樽市に生まれました。(僕の大先輩です!)1941年に早稲田大学の文学部を卒業した彼は松竹に入社。ところが時代は太平洋戦争の真っ只中となり、彼は映画の仕事に関わることができないまま、戦地である満州へと出征します。その後、宮古島の守備隊へと移動した後、米軍の捕虜となり沖縄の収容所で暮らした後、1946年の11月に無事復員することができました。
 松竹に戻った彼は、名匠、木下恵介監督のもとで,
「不死鳥」(1947年)から「日本の悲劇」(1953年)までの作品で助監督を勤め、一番弟子として認められる存在となります。1952年、彼は中編映画「息子の青春」で監督デビュー。1953年の「まごころ」も高く評価されます。同じ年、安部公房原作の「壁あつき部屋」を映画化。無実の罪で戦犯として投獄されてしまった男の苦悩を描いたその映画は反米的な内容として公開延期となり、3年間お蔵入りになった後やっと公開されることになりました。戦争によって、青春を奪われた彼は、終戦後もなお戦争によって悩まされたのでした。こうして、彼にとってのライフワークともいえる「戦争と人間」というテーマが生まれることになっていったのでしょう。
 1959年から1961年にかけて、彼は五味川純平の大河小説「人間の条件」(全6作でトータルすると9時間38分という超大作です)を映画化。満州に出征した主人公を中心に軍隊内での異常な扱いや戦場の悲惨さを描いたこの映画は、国外でも高く評価されました。

「人間の条件」(全6部作) 1959年〜1961年
(監)(脚)小林正樹
(原)五味川純平
(脚)松山善三、稲垣公一
(撮)宮島義勇
(音)木下忠司
(配給)松竹
(出)仲代達矢、山村聡、新珠三千代、淡島千景、小沢栄太郎、川津祐介、多々良純、内藤武敏
 小林監督のライフワークだったともいえる全6作からなる超大作。トータル上映時間は9時間38分。この作品は戦争の悲惨さと軍隊の過酷な実態を描いたリアルな戦場映画の傑作として海外でも高く評価され彼の名は世界中で知られるようになります。

「切腹」 1962年
(監)小林正樹
(原)滝口康彦
(脚)橋本忍
(撮)宮島義勇
(音)武満徹
(配給)松竹
(出)仲代達矢、岩下志麻、石浜朗、稲葉義男、三国連太郎、丹波哲郎、中谷一郎
 彼にとって初の時代劇作品となった「切腹」は、単なるチャンバラ映画ではなく武家社会における非人間性をその究極の形ともいえる「切腹」を中心に描いた作品で、カンヌ映画祭において見事、審査員特別賞を受賞します。
 1964年には小泉八雲の原作をもとにオムニバス映画「怪談」を製作。日本の伝統文化の原点を伝説や民間伝承をもとに描いたこの作品もまたカンヌ映画祭で審査員特別賞を受賞。いよいよ彼の名は世界の巨匠として世界に広まることになります。
 1965年、松竹を退社してフリーになった彼は1967年の「上意討ち 拝領書始末」で今度はヴェネチア国際映画祭で国際批評家連盟賞を受賞します。ただし、完璧主義で知られるその作風と映画界全体の衰退とともに彼は思うように映画が撮れなくなってゆきました。そんな状況の中、彼が長年の戦争に対する思いをこめて作り上げたのが、この超大作だったのです。
 彼はその後井上靖原作の「敦煌」の映画化を目指すものの、それを果たさないまま、1996年10月4日この世を去りました。

20世紀映画劇場へ   トップページへ