スポーツ記録映画の金字塔

「東京オリンピック TOKYO OLIMPIAD 1964」

- 市川崑 Kon Ichikawa -

<オリンピックの記録映画>
 近代オリンピックと映画はほぼ同時期に誕生しました。しかし、オリンピックの記録映画は、「映画の黄金時代」が生んだ作品であり、現在では完全に記録のためにしか撮影されておらず、一般公開もされていないといいます。記録映像としての映画の役割は、テレビに奪われてしまったといえます。(ちなみにオリンピックの記録映画は1912年のストックホルム・オリンピックから製作されています)
 オリンピックの記録映画として有名な作品としては、ドイツのレニ・リーフェンシュタールの「民族の祭典」、この「東京オリンピック」そして、この後に撮影されたオムニバス記録映画「時よ止まれ君は美しい」をあげる人が多いでしょう。実際、この3本の映画によって、スポーツの記録映像として映画ができる様々な角度からの手法はやりつくされた観がありますが、それだけこれらの作品の完成度が高かったともいえます。(あと冬季オリンピックでグルノーブル・オリンピックをクロード・ルルーシュ監督が撮影した「白い恋人たち」(1968年)という名作もありました)
 当然、この当時、オリンピックの記録映画への注目は非常に高いものがあり、東京オリンピックの開催が決まると、すぐに記録映画のための監督選びが話題となりました。(最近でいうと、オリンピックの開会式と閉会式の演出家選びに匹敵するといえます)
 オリンピックのために新幹線や選手村、国立競技場などのハードだけでなく、オンライン・システムやピクトグラムの導入などソフト面でも革新的なオリンピックを目指していたJOCは、記録映画も最高のものをと監督として黒澤明に白羽の矢を立てました。当時、海外で最も知られていた巨匠を選んだことで映画への期待は自ずと高まることになりましが、そこには落とし穴がありました。黒澤監督が出してきた映画の構想と予算は、JOCの予算をはるかに越えており、採算をとることが不可能だとわかったのです。もちろん、「天皇」とも呼ばれていた黒澤は予算の大幅削減依頼を受け入れず、このままでは自分の思い通りの映画にならないと感じ、自ら監督を辞退してしまいます。こうなると、次の監督選びは難しくなります。そこで名前が浮上してきたのが、黒澤ほどではないものの、日本国内では巨匠の仲間入りをすでに果たしていた市川崑でした。

<市川崑の美学>
「クロさんが断った経緯もあり、やらない方がいいと言ってきた人は何人もいました。しかし、私が監督を引き受けてもいいなと思ったのは、カメさんが作ったポスターを見たからです。あれを見て、ああ、オリンピックってのはこんなに美しく表現できるんだなと思いました。だから、記録映画も美しく撮ればいい。それが自分の役割だと感じたのです」
市川崑

 こうしてやる気満々で引き受けたものの、彼はすでに別の映画の撮影を行っていたため、すぐに撮影準備に入ることができませんでした。しかし、ドキュメンタリー映画、それもスポーツものの作品において、撮影準備は実際の撮影よりも重要な課程です。ましてオリンピックでは同時に多くの種目の試合が行われるため、必要とされるカメラマンの数は劇映画の撮影とは大違いです。結局彼が撮影準備に参加できるまで、ニュース映画専門の映画製作会社7社が合同で東京オリンピック映画協会を発足させ、撮影の準備を行うことになりました。
 映画「おとうと」では「銀残し」という新しい映像手法を生み出したことでも知られる市川監督は、画面の美しさへのこだわりでは黒澤以上の存在でした。当然、彼は「東京オリンピック」を単純にフィルムに記録するだけの映画するのではなく、一本のストーリーのある作品に仕上がるつもりで、脚本を準備するため詩人の谷川俊太郎にも協力を求めていました。

「脚本は難航しました。崑さんはシナリオを重視する人です。たとえば陸上の100メートルなんて普通のドキュメンタリーなら簡単なレジュメでおしまいでしょう。だって、選手が走ってみなければ展開は読めないし、誰が優勝するかもわからないのだから。でも、崑さんは、よ-い、スタートからフィニッシュまでちゃんと文章化されていないと演出プランが浮かばないのです。それも文章に書かれている事実を元に考えるのではなく、脚本の文体を読んで、文体の調子から自分をノセていく。だから、あの映画のシナリオはドキュメンタリーにしては独特なものでした。崑さんは、終始、この映画では人間を描くと言ってました。スポーツを描くよりも人間を表現すると強調していました」
谷川俊太郎

 市川と谷川のコンビは共通するところがありました。それは二人ともスポーツにあまり興味がなく、ほとんどオリンピックについても知識がなかったことです。もしかすると、スポーツオンチであることが逆に美しさに徹底的にこだわる映像を可能にしたとも考えられそうです。

「東京オリンピックを見た評論家は『なんとも新鮮な感覚のスポーツ映画』と感想を言いました。そりゃそうですよ。僕も含めてシナリオを描いた人間はみんなスポーツオンチなんだから。新鮮に決まってます」
谷川俊太郎

 とはいえ、それぞれの種目に関する知識なしでは撮影ができるわけはありません。そこで初めて、ニュース映画でスポーツを撮ってきたカメラマンたちの実力が発揮されることになります。

<撮影スタッフの苦悩>
 どんなに撮影準備に時間をかけたとしても、実際に競技を行うのは出場する選手たちです。そこでどんなドラマが展開されるかは、ふたを開けて見なければまったくわからないのです。カメラマンの一人亀田佐(毎日映画社)に市川崑はこう説明したといいます。

「・・・僕は市川さんにドキュメンタリーと劇映画の違いについて尋ねました。そうしたら、『劇映画は役者を演出する、ドキュメンタリーは場を演出する』とおっしゃった。続いて、ドラマはアクションを撮る、ドキュメンタリーはリアクションを撮る、と。ドキュメンタリーでは選手を動かすことはできません。ですから、選手が走る前の緊張感、走った後の安堵した表情を撮ることが、ドキュメンタリーにおける市川さん流の演出だと思いました」
亀田佐(たすく)

 実際、オリンピックが始まると監督の出番はほとんどなく、それぞれの競技に配置されたカメラマンたちが監督の撮影意図と脚本に合わせて、現場で自分の判断に基づいて撮影を行うしかありませんでした。総勢80名ものカメラマンたちの中には世界的なカメラマンとして有名な宮川一夫も含まれており、その割り振りを行う作業も大変だったようです。
 ただし、彼らには共通するある思いもありました。実は、当時すでにテレビに押されつつあった映画界では、映画よりも先に映画の前に放映されていたニュース映画の存在は過去のものになりつつありました。このままではニュース映画は消えてしまう、そんな危機感をもつカメラマンたちにとって、「東京オリンピック」は自分たちの能力と記録映画の魅力を世界にアピールする最高のチャンスだったのです。
 いよいよオリンピックが始まり、それぞれのカメラマンが配置につきました。当時、オリンピックの花形だった種目を担当することになっていたカメラマンにかかるプレッシャーはそうとうなものだったはずです。なかでも100m走はまさに一発勝負の10秒のドラマ。やり直しはききません。その撮影には当時登場したばかりだったハイスピード・カメラが使用されることになっていました。

 ふたりが恐れていたのは選手のフライングだった。ハイスピードキャメラはフィルムの回転数が速いから消費も早い。またフィルムの交換にも手間がかかる。一度、キャメラを回してしまうと、次のスタートまでに交換することは難しい、残りのフィルムで100メートルすべてを撮影することができない。
「フライングだけはするなよ」

 そう彼らは祈っていたといいます。

 マラソンにも大きな問題がありました。それは大会の競技の運営サイドがトラブルを恐れたため、マラソン撮影用のカメラは一台のみとし、選手の走る横を移動しないようにと指示してきたのです。もちろん逆走は禁止です。そのため、撮影用の移動カメラは一つだけで正面からトップ集団を撮りながらゴールまで、それもスタジアムの前まで移動することしかできなくなりました。そのため、この作品のマラソン競技の映像では、アベベの独走だけが延々と写し出されることになりました。(それでも、アベベの顔のアップを延々と流し続けても、それはまるで走る哲学者の修業を眺めているようで、十分に見ごたえがあったのですが・・・)
 そうでなくても、この日のマラソン・コースの周りは大変な混雑で、撮影は困難を極めていたでしょう。なんとこの日、コース周辺に集まったマラソンの観客は全体でなんと120万人に及んだといいます!あまりの人の多さにコースに近かった新宿駅は入り口が完全に塞がってしまい、マラソン競技が終わるまで駅を閉鎖するという事態になったほどです。

 ところが、この大会のマラソンではもうひとつ大きなクライマックスがありました。円谷とヒートリーの2位、3位争いです。しかし、撮影隊はアベベのみを撮らざるを得なかったため、ラジオで円谷が2位であることを知りあせります。なんとしても円谷の映像をおさめなければ・・・

「バックする練習なんてしていません。そういう事態になるとは思っていなかったし、だいたい、車を後ろに走らせてはいけないのです。でも、山口さんの声を聞いた時、私も田中さんも、そうだ、撮影に行かなきゃと思った。Uターンしなかったのはとっさに選手のことを考えたのでしょう。走っている選手は頭から車が突っ込んできたらスピードが落ちてしまう。それで山口さんはバックしろと怒鳴った」
亀田佐

<美しきスポーツ映画への評価>
 映画「東京オリンピック」は、しっかりとした事前準備とカメラマンたちの活躍により無事撮影を終え、その後4カ月かけて編集作業が行われ膨大なフィルムを170分(3時間弱)にまとめられ公式試写会が関係者を前に行われました。意外なことに、ここにきてこの映画最大のピンチが来ることになります。
 オリンピック担当大臣だった河野一郎が試写を見て、「俺にはちっともわからん」と発言。その発言を受けてかのように、文部省も批判的なメッセージを発したのです。

「文部省として、この映画は記録映画としては推薦できない。しかし、都道府県教育委員会に対しては、児童、生徒に安く集団鑑賞するよう通達した勧告は取り消さない」
愛知揆一文部大臣

 すぐにオリンピック後、記事のネタに困っていたマスコミ各社がこの話題を取り上げ、映画「東京オリンピック」は芸術か?記録映画か?と論争を展開し始めることになります。そして一時は、映画の修正が必要か、公開延期かというところまで発展することになりました。
 その危機を救ったのは、意外なことに女優、高峰秀子だったといいます。結局、市川・河野の会談が行われ、政府からの圧力は収まるのですが、その会談のお膳立てをしたのが、女優、高峰秀子でした。当時、40歳で映画界を代表する存在だった彼女は、河野大臣の批判に対してすぐに抗議の談話を新聞に発表。その後、一人で河野のもとを訪ねると、市川との対話を行うよう直談判。こうして、二人の会談が実現し、二人は意外にあっさりと和解することになったのでした。
 結局、河野発言は逆に映画の宣伝となり、映画は大ヒット。学校単位での観覧が多かったとはいえ、その動員記録は公開後6カ月で1960万人となり、史上最高を記録します。なんとこの記録は、2001年にあの「千と千尋の神隠し」に破られるまで日本映画界の最高記録として燦然と輝き続けることになります。

<おまけのエピソード>
(1) この映画の中で2か所だけやらせの撮り直しシーンがあるそうです。一つは体操競技におけるチャスラフスカの演技。もう一つはアベベが国立競技場にトップで現れるシーンでした。このシーンの撮影の際、スタッフはアベベにユニフォームを水で濡らして汗をかいているように見せて欲しいと依頼しましたが、風を引くのは嫌だからと拒否。そのため、この入場シーンだけアベベは汗をかいていないそうです。(オリンピック自体がこの時、10月に行われていたので、追加撮影は11月ぐらいに行われたのかもしれません)

(2) 映画の中に一か所だけ監督自らが撮影した映像があります。それは女子バレー決勝のシーンです。
「それでも記録映画では僕が望遠で押さえたカットをひとつだけ使っているんです。それは優勝した瞬間の大松監督を撮ったカットです。勝利の瞬間、選手たちはワッと立ち上がり、みんなで抱きついたりしていたけれど、誰ひとり監督のところへ行く選手はいなかった。大松監督はひとりで所在なさげにぼうぜんとしていた。一瞬の空白です。・・・」
市川崑

<気が付いこと>
(1)カメラが捉えているのは「顔」と「筋肉」です。走ったり投げた飛んだりする選手の表情のアップと肢の筋肉をアップで撮影してシーンの連続です。
  監督が撮りたかったのは、勝負の行方ではなく、その瞬間ごとの選手の心と身体の表情だったのです。
(2)棒高跳びは7時間越え。フリーライフル射撃は6時間越えの試合時間。当時のオリンピックはのどかでした。
  テレビ放映の都合など関係なしだったのです。
(3)黛敏郎の音楽は素晴らしい。音楽ジャンルの使い分けも楽しく、アメリカの黒人選手が活躍するシーンにはジャズが使われるなどセンスも良い。
(4)アベベはスタートラインではなんと一番後ろにいました。競技場を出る時で50位ぐらい。それが折り返し地点ではトップに立っていました。
  多くの選手がオリジナルドリンクを飲む中、アベベは普通のコップの水を一杯飲むだけでした。

「東京オリンピック」  1965年
(監)市川崑
(プロ)田中助太郎
(脚)谷川俊太郎、市川崑、和田夏十、白坂依志夫
(撮)林田重男、宮川一夫、中村謹司、田中正
(音)黛敏郎
(ナレーター)三國一朗
スタッフの総勢は265人、使用されたカメラは83台
製作費は2億7千万円(現在ならその10倍以上)
カンヌ映画祭国際批評家賞受賞

豪華な作家陣による東京オリンピック観戦記
蘇った東京オリンピックの記憶 

20世紀スポーツ史へ   20世紀邦画劇場へ   トップページへ