日本を変えた東京オリンピック

1964年

- 亀倉雄策、竹下亭、田中一彦、村上信夫 -

<日本を変え、世界を変えたオリンピック>
 敗戦によって打ちひしがれ経済的にもどん底にあった日本が、そこから立ち上がり、世界中に復興をアピールすることになった昭和史に残る一大イベント。それが「東京オリンピック」でした。もちろん、それはスポーツにおける日本の実力を世界にアピールする場となりましたが、それ以外にも日本は様々な分野で世界にアピールすることに成功する機会になりました。
 東京オリンピックは、アジアで初めての大会であり、初めてロゴマークが使用された大会であり、初めてコンピューターによりオンライン化された大会であり、初めて選手村で冷凍食品が大量に消費された大会でもありました。他にも、日本はこのオリンピックに合わせて、新幹線やモノレール、首都高速などの交通設備を作り上げ、国立競技場や選手村などの施設を建てることで東京の街全体をデザインし直し、世界標準の街へと変貌させました。(今では常識となったTOTOのユニットバスも、東京オリンピックにおける建設工事の遅れを緩和するためのアイデアとして生み出されたものでした)
 東京オリンピックとは、世界標準にデザインされた大会であると同時に、世界標準を大幅に進化させた大会でもあったのです。

<デザインされたオリンピック>
 「イベントあるところデザインありき」
 ポスター、チケット、CM、ロゴマークなど、イベントにこうしたデザインものは必須のアイテムです。しかし、東京オリンピック以前は、それは違いました。誰もが自前でデザインを考えたり、印刷屋さんが考えればそれで事足りていました。その意味で、東京オリンピックは国家レベルでイベント関連グッズをデザインした最初の大会であり、デザイナーが主役となって時代をリードする新たな味代の幕開けとなる大会だったといえます。
 1959年5月、オリンピックの東京開催が決まると、すぐに東京オリンピックの組織委員会(JOC)は東京開催に向けた準備を開始します。その中で、先ずはオリンピックに向けた様々なデザインを担当するスタッフを選任することになりました。
 1960年の初め、JOCはデザイン雑誌の編集長だった勝見勝を座長に据えて「デザイン懇話会」を発足させました。そのメンバーは組織委員会の関係者、デザインの専門家など10名。できたばかりの懇話会でさっそく決まったのは、東京大会には独自のシンボルマークを導入すること。シンボルマークを選ぶためのコンペを開催すること。他に、大会関係印刷物、入場券などデザインの課題を審議、研究することもデザイン懇話会が担当すること、などでした。そのメンバーの一人、亀倉雄策は、当時のことをこう語っています。

「・・・東京大会には優秀な人間が集まった。選手のことだけじゃない。デザイン、建築、映画・・・日本中から才能が集まってチームワークで仕事をした。それまでの日本人はチームワークが苦手でね。自分を殺して集団で何かをやるなんてことになった。それに、遅刻もしなくなった。東京オリンピック以前の日本人は江戸時代の八っつあん熊さんみたいなもので、時間にはルーズだし、会議には遅れてくるのが当たり前だった。日本人は時間を守るとか団体行動に向いているというのは嘘だ。どちらも東京オリンピック以降に確立したものだ。みんな、そのことを忘れている」
亀倉雄策(グラフィック・デザイナー)

グラフィック・デザイン
<デザイン懇話会の仕事>
 デザイン懇話会が担当することになった分野は以下のようになります。
(1)ポスター、入場券、メダル、聖火リレーのトーチ、選手・役員のユニフォームなど(統一したデザインが求められる分野)
(2)競技パンフレット、プログラム、車の通行証、荷物用の荷札、施設の標識、案内箱、掲示板など
(3)東京都、神奈川県(ヨット競技開催地)、長野県(馬術競技開催地)自治体が作る制作物をチェックする仕事
 彼らは、これらの仕事を行うために必要なデザイン・マニュアルとして「デザイン・ガイド・シート」を作成します。そして、これが日本初のデザイン・マニュアルとして、その後のイベントなどにおける基準となります。
 美術評論家の勝見勝は公平な立場で全体を統括する中で、具体的にデザイナーとして中心的役割を担ったのがグラフィック・デザイン界の大御所、亀倉雄策でした。

<亀倉雄策>
 亀倉雄策は、1915年4月6日新潟県吉田町の地主の家に生まれました。1920年の経済恐慌で破産した彼の家は東京の武蔵境に引っ越します。家族が父兄ともに絵画好きだったこともあり、彼もその影響を受け絵を描くことが好きな少年になりました。
 日大付属第二中学3年の時、美術雑誌でフランス人のグラフィック・デザイナー、アドルフ・ムーロン・カッサンドル作のポスター「ギャラリー・ラファイエット」と出会い衝撃を受けます。こうして、彼は大好きだった絵画、映画ではなくグラフィック・デザイナーという職業を目指す決意を固めます。ただし、当時はまだグラフィック・デザイナーという名前の職業は存在せず、図案屋と呼ばれる職人がいるだけでした。もちろん美術系のデザイナーもいましたが、彼らのほとんどは本業は画家で、食べるために仕方なく図案を描いていたのでした。

「『画家』のタブロー(油絵)は、紳士が玄関から訪問するようなものだが、ポスターは強盗が斧を持って窓から闖入するようなものだ。そのくらいでないと大衆は注意を払ってくれない」
カッサンドル

 1937年、22歳の時、彼は「日本工房」に入社します。そこは、ドイツ帰りの写真家兼アート・ディレクター名取洋之助が主催するデザイン会社でした。名取は日本人で初めて「LIFE」の表紙写真を撮ったカメラマンとしても知られる人物で、彼のもとに多くの才能あるデザイナーが集まっていました。彼はそこで海外向けの広報雑誌の編集デザインを任されます。そして、そこで彼は様々な人材をまとめることで優れた結果を出すやり方を学び、スポンサーとの交渉術を学ぶことになりました。しかし、時代は太平洋戦争に突入してしまいます。
 戦後、平和が訪れると、彼の周りにはアメリカなどの戦勝国から様々な商品がやって来ます。彼はそれらのパッケージやロゴのデザインの美しさや機能性に驚かされたといいます。
 1952年、日本専売公社が「ピース」のパッケージ・デザインを一新するにあたり、その仕事をフランス人デザイナー、レイモンド・ローウィ―に委託。彼は「コカコーラ」や「ラッキー・ストライク」の広告デザインで有名でしたが、その際のデザイン料が162万円だったことが大きな話題となりました。(その金額は、現在の金額なら1億円にはなるといわれます)このことは、日本人デザイナーにやる気を起こさせただけでなく、広告主である企業の側にも大きな影響を与えることになりました。パッケージ・デザインの変更により、新デザインの「ピース」がヒットしたことを知り、多くの企業がデザインにお金を出すことに積極的になり始めたのです。

<デザイナーの草分けとして>
 仕事以上に、亀倉が心を砕いていたのは業界の存在を世の中に知らせることだった。・・・それには、国家的行事とも言える大きなイベントで作品を発表するのがいちばんいい。

 グラフィック・アートという仕事を、多くの日本人に知らしめるには、オリンピックこそ最高の発表の場に違いない。そう考えていた彼が考え出したアイデアのひとつ。それがオリンピックのシンボルマークを作ることでした。

「僕の功績はシンボルマークをデザインしたことではない。作ろうと提案したことだ。それまでの大会ではシンボルマークなんて存在せず、五輪マークしか使われなかった。・・・」
亀倉雄策

 そして、もうひとつ彼の仕事として多くの人々の脳裏に焼き付いているものに、オリンピックのポスターがあります。特に有名なポスターは、短距離走のスタートの瞬間を横からとらえた写真ポスターでしょう。それまでもオリンピックのポスターはそれぞれの大会ごとに制作されてはいましたが、どれもイラストと文字だけのシンプルなものでした。それに対して、このオリンピックでは他にも聖火ランナーの走る姿をとらえたポスターがあり、その後のオリンピックのポスターに大きな影響を与えることになります。

「造形的にはもっとすぐれたポスターが今後、生まれるかもしれません。しかし、あのポスターには高度経済成長に向かう日本人の勢いが表現されている。あの頃、全国民が日本の未来を東京オリンピックに託していました。あのポスターは日本復興の狼煙であり、大きな花火であり、東京オリンピックの旗印でした。あれを見て、国民はみんな、よし、頑張って働くぞと思ったんです。そして、亀倉さんはそうした時代の空気を取り入れてデザインするのが上手だった。・・・」
永井一正(亀倉の後輩デザイナー)

<ピクトグラム誕生>
 もうひとつこのオリンピックが生み出したデザイン界の革命として、「ピクトグラム」の存在があります。今では、世界中に広がっている絵だけで様々な情報を伝える「ピクトグラム」は、このオリンピックの開催に向けて、海外からの観光客に向けてデザインされたものです。(トイレの男女マークや荷物預かり、エレベーターなど)
 オリンピックには英語圏以外の観光客も多いことから、言語だけではなく一目で理解できるマークを作ることが提案されました。そして、そのデザインを担当・実現させたのが、後に西武グループの企業デザインや無印良品のアートディレクターとして活躍することになるデザイナー、田中一光でした。

コンピューターとオンライン・システム
<オンライン化されたオリンピック>
 東京オリンピックにおいて最も革新的だったのは、日本IBMによるコンピューターにおける記録の管理はほぼすべて人力によるものでした。当然、そこにはミスも生まれ、何より時間と労働力が必要でした。そのため、完全な大会記録集が完成するのは大会が終了してから一か月というのがあたり前でした。もちろん国別のメダル数を毎日発表することなど不可能でした。そうした状況を一気に変えてみせたのが東京オリンピックにおける日本IBMのオンライン・システムの開発だったわけです。
 このオリンピックには93の国と地域、5152名の選手が出場。陸上、水泳、体操など20競技、163種目が実施されました。当然、大会が始まると、それらの選手たちの膨大な成績、情報を管理し、まとめる仕事が待っていました。そこで日本IBMが組織委員会に確約したのは、全種目の競技結果を速報するシステムを構築すること、および記録を集大成して東京大会のマスター・レコードブック(公式記録)を作ることです。それも、それまでは大会終了後、一か月たってやっと完成していたものを閉会式までに完成させることを目指すとしました。そして、どちらも宣伝のために無償で請け負っています。
 このシステムの開発は当初わずか3名からスタートしましたが、しだいに大掛かりな開発プロジェクトとなり、ピーク時には263名が参加する一大プロジェクトになりました。当時32歳だった日本IBMのシステム・エンジニア竹下亭が率いる開発チームは、リアルタイムで競技結果を集計できる初のオリンピックを目指して準備を始めます。
 当時、日本にはすでに優秀なシステム開発者は育っていましたが、このプロジェクトにはコンピューターの知識だけでは対応できない部分がありました。ソフト開発の基礎となる試合の結果情報を数値化するには、そのスポーツの判定基準や測定方法などのルールすべてを理解する必要なのです。

・・・IBMのチームは基礎から学ぶことにした。163種目のルールブックと競技解説者を手に入れ、競技の内容、勝ち負けはどのように決まるか、審判が成績を決めた後、その記録はどこへ伝わるのかを徹底的に調べた。そして、知識が頭に入ってからは競技の現場を見学に出かけた。あらゆる競技の県大会や国体を観戦し、実際の競技進行と審判団の構成を分析し、工程をチャートにしていったのである。

 こうして彼らはシステムの開発に挑みますが、ここで竹下はひとつのこだわりをスタッフに徹底させます。それはプログラムをできるだけわかりやすく単純なものにしろということです。なぜなら、そうすることで、ここで開発されたシステムはあらゆるオンライン管理システムの基本となりうると考えていたからです。

 東京大会で開発したシステムは時間はかかったけれど、あらゆる分野に応用できるものだった。入力されたデータを、記録し、配信すること。どんな仕事においても、内容をこの3つに分析できさえすれば、コンピューターの未来は明るくなると確信した。1964年当時、コンピューターといっても、何に使うのかわからない人が大多数で、「算盤よりも速く計算する機械」のことだと信じているのが国民の99%以上だった。竹下の功績とはコンピューターが計算だけでなく、速報、工程管理のような便利な機能を持っていることを実演して見せ、便利さを周囲に伝えたことなのだ。

 たいへんな労力をそそぎこんだシステムではありましたが、それが完成し、実際に大会で用いられるとその効果が予想以上のものであることがわかりました。

 もともと組織委員会が東京大会でコンピューターを導入したのは「日本は技術が進んでいる国だ」というイメージを世界の人々に訴えたかったからだ。ところが導入してみたら、イメージアップよりも、コスト節約のメリットの方が大きかった。人件費と時間を大いに節約できるとわかったのである。

 そして、この後、このシステムはその後のオリンピックに大きな影響を与えただけでなく、国内における様々な企業のオンライン・システムへと発展し、企業だけでなく社会全体に大きな影響を与えることになりました。

 竹下が手がけたオンラインの情報システムが成功したことで、このシステムは東京大会をスプリングボードとして急速に日本で普及していった。オンライン・システムの一般化が遅くなっていたら、高度経済成長も、もう少し時間がかかっただろうし、生活の変革も遅れたに違いない。・・・

 ただし、その変化が日本人に幸福をもたらしたかどうか?少なくともそれが日本経済を急激に成長させたことだけは確かです。

 システムが日本社会に根づいてから経済はますます成長した。日本人ビジネスマンの得意技は共同で何事かに挑戦することであり、一糸乱れぬチームプレーで工業製品を作り、海外マーケットへ輸出した。時間や納期を守らないような、規格に合わない人間はサラリーマン社会からはじき出された。

外食産業のシステム
<日本の食を進化させたオリンピック>
 このオリンピックをきっかけに大きく変化した分野に「外食産業」があります。オリンピックの選手村におけるレストランの仕事は、それまで日本にはなかった規模のものでした。その上、訪れる人々の国籍が様々なため、用意するメニューもまたそれまでにはない多種にならざるをえませんでした。その上、健康管理の面から衛生的な環境作りや料理人の意識改革も求められました。
 選手村のレストランで求められる料理人の数はおよそ300人。東京都内だけでそれだけの人数は集められず、全国のホテルやレストランから集められることになりました。その中心となったのは当時、帝国ホテルの料理長だった村上信夫でした。彼は前回大会開催地ローマを訪れ、選手村のレストランで潜入調査を行い様々な情報を得ていました。(ローマ大会のレストランは民営だったため、中を見せてくれず、彼は賄賂まで使ってキッチンを見せてもらったといいます)

 村上たち4人の料理長は人を集めるに際して各コックの履歴書を検討し、経験年数で彼らをA・B・Cの3つのランクに分けた。そうして、選手村の食堂(4つ)に振り分ける時には熟練者だけがひとつの選手村食堂に偏らないようにしたのである。
 地方から選抜されてやってきた料理人のなかには地元を出る際、繁華街をパレードしてきた者もいた。戦時中の出征兵士をほうふつさせる話がある。(実際、彼らの多くは太平洋戦争中、軍隊で料理をしていた経験がありました)
 こうして、日本中から集められた料理人たちは、それぞれ西洋料理部門やエスニック料理部門などに振り分けられ、レシピの開発から仕事を始めることになります。しかし、彼らが作る料理の分量は膨大なものになることが予想され、そこから生じる大きな問題が明らかになっていました。

 東京大会では毎食、1万人分の料理を出さなくてはならない。しかもカロリーは一般人の2倍、6000キロカロリーだから、一般人に直せば2万人分の量になる。・・・
 それほどの量を生鮮材料だけでまかなうとなれば、マーケット価格に影響を与え、肉も魚も野菜も値段が上がってしまう。そこで、村上はオリンピックが始まる半年以上も前から、肉、魚、野菜を少しずつ購入し、それを冷凍していった。そうすれば材料価格が高騰しないうちに、仕入れができるからだ。


 こうして、苦労の末に作り上げられた大規模レストランの運営ノウハウはその後、日本の食を変える重要な原動力となります。例えば、後に「すかいらーく」や「ロイヤルホスト」などのファミリー・レストランの下ごしらえを行う「セントラル・キッチン」のもとになったのが、選手村のレストラン用に下ごしらえを行っていた「サプライセンター」でした。
 さらにこの時の体験で共同作業で効率よく調理を行う方法を学んだ料理人たちは、様々なノウハウを各自の仕事場に持ち帰り、この後、日本中に誕生することにあるファミリー・レストランの運営やホテルや結婚式場の宴会料理に生かされることになります。

<日本における革新の象徴>
 様々な分野で日本そして世界を変えることになった東京オリンピックにおける革新は、偶然、その時に集中したわけではありません。そこには、それなりの理由があったようです。そのことについて、セゾン・グループのトップに立っていた堤清二はこう語っています。

「僕は敗戦後の日本経済の躍進の大きな要因のひとつに、経済外的な条件の変化がもたらしたものではあるが、指導者が一斉に若返ったことがあると思う。この『一斉に』というところが実は大切なのだ。というのは個々の企業が若返っても、社会のシステムが若返っていないと、若さが貫徹しないからである。例えば、本田宗一郎が独創的な方向を打ち出したとしても、それを理解し、金融マンの言語に翻案し、その翻案された独創性を評価する柔軟性を持った金融機関がなければならないのである。・・・」
堤清二「叙情と闘争」より

 戦後、巨大企業の多くの経営者は戦争責任を問われて公職を追放されました。さらに財閥の解体が行われたために企業経営者が不足。戦争で多くの経営者が命を失ったり、抑留されて帰国できなかったりもしていました。そんな人材不足があったからこそ、40~50代の若いリーダーが一気に誕生したわけです。

 日本は終戦の前後で大きく変わりました。しかし、日本人の心まではその時、変わったわけではなかったのかもしれません。実は、このオリンピックの前後こそ、日本人の心が最も大きく変化した時期だったのかもしれないのです。

「・・・つまり、よき時代のよき日本というものが仮にあったとするならば、それは古くて悪しきものとして退けられるようになった。その始まりが東京オリンピックだった。・・・」
黛敏郎(作曲家)

<参考>
「TOKYOオリンピック物語 Tokyo Olympic Story」
 2011年
(著)野地秩嘉
小学館

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