「東京アンダーワールド Tokyo Underworld」
- ロバート・ホワイティング Robert Whiting -
<戦後東京の闇社会を追う>
1977年の名作「菊とバット」で日本の野球を通して日本文化を世界に紹介したロバート・ホワイティングが2000年に発表したもうひとつの傑作ノンフィクション大作が「東京アンダーワールド」です。外国人の目から見たからこそ描ける日本の闇社会。あと15年早ければもしかすると発表は困難だったかもしれません。そんな危険な内容です。関係者のほとんどがすでにこの世を去っているからこそ発表が可能になったといえるのかもしれません。
戦後の混乱期、ある意味究極の自由経済市場において、力を用いて秩序を守ると同時に巨額の利益を上げたのは、戦前からの大企業ではありませんでした。多くの企業は戦争で大きな打撃を受けており、生き残った大企業も占領軍によって解体されてしまったからです。さらに軍部や警察もその力を失っており、日本の秩序は混乱状態に陥っていました。そんな中、唯一元気だったのは、江戸時代から続く裏社会のヤクザ組織でした。
終戦と同時に彼らはヤミ市を仕切ることで市場の秩序を生み出しました。
彼らは、占領軍兵士たちの性欲を処理するための巨大な売春宿を準備し、国外に持ち出せない巨額のアメリカドルをため込んでゆきました。占領軍には、敗戦国の経済復興のために占領地で得た収入は国外に持ち出さないようにしようという規定がありました。そのため、占領軍はそうした資金も用いて、敗戦国を舞台に映画を作ったりしています。(有名なのは、イタリアで撮られた「ローマの休日」で、」日本でも同様の映画が撮影されています)
さらにアメリカはそうした持ち出しできない資金を反共産主義の政治活動(その多くは暴力による圧力)にもつぎ込みますが、その資金の多くは政治家を経由して右翼組織、そしてヤクザ組織へと流れてゆくことになりました。こうして日本政府は、民主主義社会の誕生とともに下部組織としてヤクザ組織を従えてゆくことになったのです。当然、そんなヤクザ組織の上に来る政治家たちがまっとうな人間なわけはありませんでした。
そうした戦後日本の闇社会に生きた人々を描いた「東京アンダーワールド」は、小説よりも面白い!でもここではそんな「東京アンダーワールド」の主人公であるピサ屋のおじさんの話は割愛させていただきます。(本当は、ピザ屋「ニコラス」の創設者を主人公に彼に関わる闇社会を描いたノンフィクションなのです)あくまでも戦後混乱期の歴史に集中してまとめてみました。
まずは、終戦直後のやみ市から始めます。
<やみ市という名の平等社会>
1945年8月18日、終戦から3日後、新聞にこんな広告が掲載されました。
「転換工場並びに企業家に急告!
平和産業への転換は勿論、其の出来上がり製品は当方自発の”適正価格”で大量引き受けに応ず、
希望者は見本及び工場原価見積書を持参至急来談あれ
淀橋区角筈 1-854 新宿マーケット関東尾津組」
これが日本初のやみ市の広告でした。尾津組は新宿だけでなく東京を代表するヤクザ組織となり、日本の権力機構とも結びついてゆくことになります。
(新宿が尾津組、浅草は芝田組、池袋は関口組、銀座は上田組、新橋は松田組など)
この時期の都市部は、職業や資格、家柄がすべて無効になっただけでなく人種による差別もまた一時的に無効になっていました。戦時中、日本に強制労働のために移住させられた150万人を越える朝鮮人のうち、北と南に分裂してしまった朝鮮の混乱を知り、日本に残った人が60万人。彼らにも混乱の中、チャンスがめぐってきます。腕と度胸に自信がある者たちは、日本人ヤクザに対抗する組織をつくり、もうひとつのヤクザ組織を築き上げてゆきました。
1946年警察調べによると、やみ市で商売をしていた人数は7万6千人でした。参考までに、やみ市での一般的な価格は、白米(1.4Kg)一升70円(公定価格は53銭)、さつま芋(一貫目)50円(公定価格は8銭)、砂糖(3.75Kg)一貫目1000円(公定価格3円70銭)、ビール一本20円(公定価格2円85銭)
全員が平等で、みな同じように道路にむしろを広げ、箱の上に商品を並べることからスタートするのだ。だれもがボロをまとい、よれよれのトタンを張り巡らしたバラックに寝泊まりし、ドラム缶の風呂につかった。
ジャーナリストの狩野健治氏はこう書いています。
「身分制の呪縛と差別の長い歴史をもつ日本において、これは画期的なできごとだった」
<新たな権力機構の構築>
一時的とはいえ、人種差別、身分差別が消えた中で、新しい日本の権力システムが再構築されることになりました。それは日本の大衆レベルから権力のトップまでが対象となりました。
こうして、日本にはいつの間にか占領軍の指示のもとで働く、もうひとつの「下請け行政機関」が誕生することになります。それは占領軍に従う政治家とその政治家に従う右翼、そしてその配下のヤクザ組織から成り立っていました。当然、その組織を維持するため、占領軍からは「権力」だけでなく「物資」や「資金」も与えられることになります。
当時の政府は、終戦間際に植民地からかき集めてきた巨額の資産(M資産ともいわれます)に加え、戦後のやみ市で占領軍からの物資を横流しして得られた巨額の利益もため込んでいたといわれます。(そうした資産がどうなったのかは未だに不明のまま。だからこそ、映画「人類資産」のような作品も作られるわけです)
さらに彼らは、もうひとつ巨額の利益を上げるだけでなく、政治権力や企業家たちの弱みを握ったり、共闘関係を築くために絶好の場所も所有していました。
アメリカ軍の豊富な物資を暴力団のヤミ市に送り込むおもな流通経路となったのは、若い女性の集団だった。<特殊慰安施設協会(Recreeation and Amusement Association)のちに国際親善協会と改名>と呼ばれる日本政府公認の団体が、アメリカ兵の性の防波堤として急きょかき集めた、数千人の女性たちである。
東京の東、船橋にできたこの巨大な売春宿は、「インターナショナル・パレス」という俗称で呼ばれ、精力旺盛なGIたちを1日に数百人単位で処理したといいます。こうした商売はこの後は、日本人相手の風俗街や巨大キャバレーへと展開してゆくことになります。たぶん、こうした施設を政府からの依頼を受けて作れたのはヤクザ組織だけだったでしょう。そのうえ、彼らがそこから得られた利益は膨大なものでした。
こうした状況が続く中で占領軍もいよいよ右翼組織とその下部組織である[ヤクザ」の存在を黙認できなくなります。占領軍民生局の局長チャールズ・ケーディス大佐は、当時本国にこう報告していました。
「日本の真の支配者は、GHQが望むような”正式に選ばれた国民の代表”ではない。ヤクザの親分や、ならず者や、脅迫者である。彼らは、政治フィクサーや元軍国主義者、産業資本家、さらには、司法界の上層部や腐りきった警察首脳部とつるんでいる」
ついに占領軍は自らが育ててきたヤクザ組織の解体に踏み切ります。ヤクザの上層部を一斉検挙したのです。しかし、裁判所は彼らの処罰に消極的で政界もまた彼らを罰することができませんでした。なぜなら、彼らはそうした闇社会メンバーに弱みを握られていたからです。結局、彼らが有罪になることはなく、アメリカはその扱いに困ることになります。(後にアメリカは同じような過ちを繰り返します。自らが育てたテロ組織のトップであるウサマ・ビンラディンにもっと手痛い目にあわされることになるのです)
<スポーツ・エンターテイメントの世界>
闇社会の権力者たちは当初はまだ単なるヤクザのボスでしたが、時代の変化とともに少しずつ「カタギの企業家」もしくは「カタギの政治家」へと看板を改めてゆきます。いつの間にかヤクザと右翼と政治家と実業家の区別が消えてしまいます。そんな混沌とした状況を象徴するスポーツとして「プロレス」がありました。今では考えられないほどの人気スポーツだったプロレスの興行は闇社会の人々にとって、お金も名誉も得られる美味しい仕事だったのです。
プロレスの母体となったのは、日本プロレス協会(JPWA)。この組織は、社会の上層、下層を包合する、日本の戦後権力構造の縮図といってもいい。ここでは児玉が大統領だった。
JPWAのコミッショナーには、自民党の副総裁、大野伴睦・・・コミッショナーのなかには、ほかにも大物国会議員が数人、名を連ねている。将来の総理大臣、中曽根康弘もその一人。・・・
協会には、<三菱電機>のCEOも名を連ねていた。試合のテレビ放映権を買い取った、日本屈指の大金持ちである。放映した<日本テレビ>の社長も、映画を制作した<大映>の社長も、JPWAに属していた。広告部門には、警視庁公安部のOBが天下りした。
そんなヤクザと政治、そしてアメリカの関係を象徴する存在として力道山がいますが、彼はまた日本と朝鮮との関係をも象徴する存在でした。彼の愛弟子の一人であるアントニオ猪木が現在でも北朝鮮と日本との仲介役となっているのは、そうした歴史の積み重ねがあってのことでしょう。
プロレスという競技自体、実に混沌としていて、それなりの脚本があるとはいえ、そこにアドリブが時に登場するなど、スポーツとエンターテイメントが微妙に混ざり合った不思議な世界です。それがこうした政治家とヤクザと企業家とアスリートからなる不思議な人間関係によって構成されていたわけです。ある意味、プロレスは「東京アンダーワールド」をリングにあげたような存在だったのかもしれません。
世界の様々な人種が登場するプロレスの魅力はそこにあったのかもしれません。今思うと、それは僕にとって世界の入り口だった気がします。(当時、僕は友達の間から「プロレス博士」と呼ばれていました・・・)
<力道山の活躍と闇社会>
力道山のプロレス入りのきっかけは意外なものでした。
力道山は角界を去った後、当初は新田新作という建設業者のもとで働いていたが、新田は住吉会系のヤクザだった。
そんな中、ある日キャバレーで飲んでいてケンカにまきこまれ、初めて負けてしまいます。その相手は後に映画「007ゴールドフィンガー」に悪役オッド・ジョップとして出演する日系のプロレスラー、ハロルド坂田でした。ケンカの後で仲直りした坂田はリキをアメリカ人プロレスラーたちに紹介。こうして彼はプロレス界入りを決意します。
彼はプロレス界の英雄となりますが、様々なストレスにさらされる中でアルコールと薬物に頼ることで身体をボロボロにしてしまいます。彼の死はヤクザに刺されたためとされていますが、もし彼がアスリートとして健康な身体を保っていれば、刺された傷で彼が死ぬことはなかっただろうとも言われています。
村田に刺されたリキはステージに上がりバンドに「マック・ザ・ナイフ」を演奏させ
「この店には殺し屋がいまーす」と平然と言ってのけ自分の血だらけの腹をみせました。
(まるでドラマのような展開ですが、彼の死はこの後、入院してからの不摂生によるものだったともいわれています))
プロレス界と闇社会の関係と同じように、かつてはボクシング界もまた深く闇社会とつながっていました。たとえば、ボクシング界の歴史に燦然と輝く世界チャンピオン海老原博幸も、ヤクザの世界とのつながりによってボクシング界で活躍することができた一人です。
六本木の街をつくった男ともいわれるイタリア系アメリカ人ニコラ・ザペッティの店「ニコラス」に母親が息子を連れてきた。ニコラは彼を雇い「ニコラス」で働かせます。少年院から出たばかりの少年が気に入った彼はボクサーになりたいという彼の願いを知り、彼の運動能力をテスト。あまりのスピードに驚いた彼はすぐに知り合いのボクシングジム会長のところに少年を連れていきます。こうして彼は右翼のボクシングジム会長、野口のもとでボクシングを始めることになりました。
今でもボクシング界と闇社会とのつながりはなくなってはいないようです。ボクシング界を引退した後にヤクザとなったボクサーは多く、元世界チャンピオン渡辺二郎のようにヤクザと共に脅迫事件を起こすボクサーもいるぐらいです。(これは日本だけのことではありませんが・・・)
戦後、闇社会から始まった権力と裏社会との関係は、時代とともに深くそして広くその範囲を拡大させます。特に日本が高度経済成長により、海外進出の勢いを強めるようになると海外の政治家や企業と闇社会は接近し始めます。
その接近方法のひとつとして、政治家や企業家との民間レベルでの交流があります。なかでも最も有効なのは色仕掛けんみよる接待かもしれません。そして、その交流のための最高の舞台を提供したのはやはり闇社会の方々でした。
日本の高級クラブは外国人権力者の接待に用いられただけでなくスパイ行為の現場となり、様々なかけひきがそこでは行われていました。当時の日本は国防費よりも接待費にお金をつぎ込んでいたということです。
コパカバナでホステスをしていた通称「デヴィ」(本名は根本七保子)のケースだ。1966年の「週刊現代」によると、彼女は<東日貿易>の秘書に仕立てられて、スカルノに接近したという。(当時のインドネシア大統領)東日貿易は、児玉誉士夫が指揮をとる日本の商社で、インドネシアへのさらなる進出をめざしていた。彼女はみごとに使命を果たした。最終的には大統領の第三夫人におさまってスカルノの末っ子を産んだほどだ。偶然かどうかは知らないが、東日貿易はその後、スカルノが67年に失脚するまで、ジャカルタで荒稼ぎしている。
(もちろんこれはあの「デヴィ夫人」のことです)
こうした女性による接待が「ボトムアップ」(文字通り)による工作だとすれば、政治家を使ったトップダウンによる工作もまた行われていました。古くは「昭電疑獄」や「ロッキード事件」はその代表的な事件といえます。これらの事件については別のページで扱います。
20世紀日本の大事件
「東京アンダーワールド Tokyo Underworld」 2000年
(著)ロバート・ホワイティング Robert Whiting
(訳)松井みどり
角川書店