- トルーマン・カポーティー Truman Capote (後編) -

<小説以外のジャンルへ>
 1956年、彼はジョージ・ガーシュインのミュージカル「ポーギーとベス」の公演旅行に同行し、冷戦の只中にありベールに包まれていたソヴィエトを旅しました。この時の体験は雑誌「ニューヨーカー」に連載されて好評をはくし、その後ハードカバー本としても出版されます。
 1957年、気難しいだけでなく奇人変人として有名な天才俳優マーロン・ブランドへのインタビューを行い、それを同じく「ニューヨーカー」で発表。こうして発表されたルポもの、インタビューものがいずれも大好評だったこともあり、「ニューヨーカー」の編集部は彼に新たなルポルタージュものを書いてほしいと依頼してきました。
 そして、そこで提案されたいくつかのアイデアの中にカンザス州で起きたばかりのある殺人事件を取材し記事にするというものがありました。その時、彼はたいした理由もなく、どちらかというと楽そうだという理由から、この事件のルポを書くことを決めました。こうして、その後文学界に大きな衝撃を与えることになるノンフィクション・ノベル「冷血 」が誕生することにあります。しかし、その作品はまた彼のその後の人生をも大きく変えることになります。

<「冷血」>
 1959年11月アメリカ中西部カンザス州のホルカムという小さな田舎の村で一家四人が惨殺されるという事件が起きました。その殺害方法は全員をロープで縛り上げたうえショットガンで至近距離から撃ち殺すという残虐なものでした。当初犯人はわからなかったものの、近隣に住む住人の犯行である可能性が高いとされたため、田舎の小さな集落は一躍全国から注目を集めることになりました。
 この事件の記事を書くことになったトルーマンは、危険ともいえる状況にあったその村に自ら赴き現地での取材を開始しました。ただし、はっきり言って臆病者の部類に属する彼は幼馴染の作家仲間の女性作家ハーパー・リーに銃を持たせて同行させました。彼女はこの取材で大きな役割を果たすことになります。その後彼女は、この取材で得た経験を生かしながら南部のアラバマ州を舞台にした小説「アラバマ物語」を発表。人種差別の問題を扱ったこの作品は高い評価を受け、見事ピューリツァー賞を受賞することになります。実は「アラバマ物語」の執筆にはトルーマン・カポーティーが大きく関わっているという説もあります。そして、「冷血」の取材における彼女の貢献に対する彼の恩返しだったのではないかと言われています。(この小説は、その後グレゴリー・ペック主演で映画化され、映画史に残る名作となります)
 彼が取材を始めてしばらく後、警察は二人組の犯人を逮捕しました。さっそく彼は逮捕された犯人へのインタビューを警察に申し入れます。しかし、彼が同性愛者であることや、まだ事実関係が明らかになっていなかったこともあり、なかなか取材に対する許可はでませんでした。しかし、粘り強い交渉の末、ついに面会のチャンスが訪れ、二人の犯人と彼との運命的な出会いが実現しました。(ただし、面会の機会は実際にはそう多くはなく、彼のインタビューのほとんどは手紙によって行われたもののようです)
 それでも二人の犯人、ペリー・スミスとリチャード・ヒコックは、しだいに彼に対し心を許すようになります。それは社会からはじき出され行き場を失っていた二人にとって、トルーマンが唯一人の理解者に思えたからかもしれません。彼らにはトルーマンが自分たちの仲間に思えたのか?それとも誰よりも気前よく差し入れを持ってきてくれたからか?その両方なのかもしれません。
 しかし、このように考えていたのは二人の犯人だけではなく取材していた側のトルーマン自身もまた犯人たちに対し、思いがけない親近感を覚えていました。特に主犯格と思われていたペリーに対し、彼は背格好や性格そして生い立ちの類似性を強く感じており、それがいつしか同情へ、そして愛情へと変わってゆきました。彼にとってペリーは自分と同じように愛情に飢えた少年時代を過ごした同朋であり、どこかで道を選び間違えていれば自分も彼のようになっていたかもしれないと考えてもいたのです。
 こうして、犯人に対する異常とも思える深い理解のもと、彼はこの事件の真相へと迫るため、当初の予定をはるかに越えて取材を続けることになりました。

<トルーマンの取材能力>
 彼がこの取材において、犯人だけでなく地元住民の信頼を得ていったのには、いくつかの理由がありました。ホモ・セクシュアルで、誰も見たことのないような度派手なファッションの有名作家の登場に初めは目が点になっていた村の人々も、彼の巧みな話術やサービス精神旺盛な性格にしだいに心を開いていったようです。(もちろん、彼の度派手なファッションも、しだいに街のファッションとして違和感のないものへと変わって行ったようです)
 もうひとつの理由は、彼のインタビューの仕方にありました。彼はインタビューを行う際、テープレコーダーどころかメモ帳すら用いなかったといいます。そのため、取材される人はそれが記録されているとは思わず、本音を明かしました。ところが彼は一時間にわたるインタビューを行い、その一語一句を正確に思い出すことができるという驚異的な記憶力の持ち主でした。こうして彼は膨大な量の情報を集め、自らの小説「冷血」をほぼ完成させました。それは膨大な情報によって構築されたドキュメンタリーの要素と彼がそこから構築した小説の要素の合体という意味で、ノンフィクション・ノベルと名づけられることになります。

<出版のための皮肉な条件>
 ところが、ほぼ完成していた作品を完全なものとして出版するためには、ひとつの皮肉な条件を必要としていました。それは二人の死刑が執行され、事件の話題が再びアメリカ中をにぎわすというものでした。それは、もちろん本が売れる条件を待ちたいという出版社側の都合によるものでした。こうして彼は自らの作品を世に出すためには二人の死を待たざるを得ないという苦しい立場に追い込まれてしまったのです。
 しかし、確実に時は過ぎ、ついに二人の死刑の日程が決まりました。二人の死刑執行の当日、彼は二人の犯人から立会人として出席してほしいという依頼を受け、死刑執行の場に立ち会うことになりました。(本当はマスコミなどの立会いは禁止されています)犯人の心を深く理解し、それ以上の人間関係を築いてしまった彼にとって、この時の心を引き裂かれるような気持ちはどれほどのものだったのでしょうか。
 二人の死刑は、こうして犯行から6年後の1965年、ついに執行されました。そして、この後さっそく「冷血」は出版に向けて準備が進み始めました。9月、10月と4回に分けて「冷血」はかつて彼がメッセンジャーとして働いていた雑誌「ニューヨーカー」に鳴り物入りで連載され、翌年にはハードカバー版が出版されました。出版社の思惑通り、この小説はノンフィクション・ノベルという新語を生み出し、分厚く重い内容にも関わらず大ベストセラーとなりました。

<黒と白の舞踏会>
 この時ついにトルーマン・カポーティーはアメリカ文学界の頂点に立ったと言えるのかもしれません。そしてこの年、彼はそんな自分の成功を自ら祝うかのようにニューヨーク社交界の歴史に残る本格的舞踏会を企画します。
 「黒と白の舞踏会」と名づけられたその企画は、出席者に白か黒の衣装と仮面を身につけてもらい本格的な舞踏会を行うというものでした。すでにニューヨークの社交界における有名人だった彼は芸能人、実業家、政治家などの中から選りすぐりの人々に招待状を送りました。
 マスコミもすぐにこの企画を大々的に取り上げるようになり、この企画は「世紀の舞踏会」としてアメリカ中の話題をさらい、当日の会場周辺はまるでアカデミー賞授賞式の会場のように野次馬が集まり大騒ぎとなったといいます。
 ただし、こうした騒ぎを誰もが素晴らしいと思っていたわけではありません。大金持ちの馬鹿騒ぎをなぜアメリカの文学界を代表する作家が演出するのか?彼の行動を批判する声も多かったのは当然のことでした。
 そのうえ彼はその後も社交界の花形アイドルもしくはピエロの役を務め続け、小説家であることをいつしか忘れてしまっていました。それは「冷血」の大成功がもたらした無気力のせいだったのか?「冷血」の二人の犯人が死刑になり、そこから彼が多くの富を得たことからくる心の痛みのせいだったのか?それはもちろんわかりませんが、彼はスコット・フィッツジェラルドの「華麗なるギャツビー」を脚本化したり、ローリングストーンズのツアーに同行して取材を行ったりしていますが、いずれも作品化されることはなく中断されてしまいます。やっと1975年に小説「叶えられた祈り」の一部「モハーベ砂漠」「ラ・コート・バスク、1965」がエスクァイア誌に発表されますが、翌年「まだ汚れている怪獣」「ケイト・マクロード」を発表するものの、この作品もついに完成をみずに終わることになります。

<「叶えられた祈り」>
 最後の作品「叶えられた祈り」において、作家としての仕事をしていなかった彼が久々に題材として選んだのは、自らの居場所であるニューヨーク上流社会の内幕ものでした。彼は当初、自分がその世界のアイドル的存在であるという自信からか、実名に近い形で内幕を暴露しても問題は起きないだろうと考えていたようです。ところが、自分たちの世界の醜聞、それも自分自身のことを書かれた人々は、彼の裏切り行為に激怒します。彼が友人であると信じていた人々のほとんどは、現実には彼が思っているほど彼を愛していたわけではなく、彼のことをゲイで悪趣味な酒癖の悪い目立ちたがり屋ぐらいにしか思っていなかったのでした。それだけに、彼の行為は多くの人々から批難を浴びることになったのです。
 こうして彼はあっという間に社交界からはじき出され、忘れ去られてしまいました。それだけではありません。昔のように孤独な生活に戻らなければならなくなった時、彼の身体は長い間の酒とバラの日々によって、酒と薬なしでは生きられない状態になっていたのです。彼は友を失い、作家としての目標を失うことで、生きる望みをも失いつつありました。こうして彼は自ら後戻りのきかない死への道を歩み出して行くことになりました。
 1984年8月自らの死が近いことを悟った彼は、ニューヨークからロスへの片道航空券を買い、数少ない友人の一人だったジョアン・カーソンのところへと旅立ちました。彼女はテレビの司会としてアメリカ一有名なジョニー・カーソンの元妻で、夫と同じようにテレビ・タレントとして活躍した後、心理学を専門とする医師として開業していました。そんな彼女のもとで、彼は静かなひとときを過ごし、文章を書き、プールで泳ぎ、、昔話しをした後、ゆっくりと天国へと旅立ってゆきました。
 彼はジョアンに、救急車を呼ばずに静かに逝かせてほしいと頼んだそうです。医師でもある彼女なら、彼の願いを聞き入れ安らかな眠りにつかせてくれるだろうと思ったのかもしれません。そして、もしかするとすでにあの世へと旅立った母の面影を彼女に求めていたのかもしれません。こうして、1984年8月25、トルーマン・カポーティーはジョアンに抱かれながらあの世へと旅立ってゆきました。
 親の愛を求め、裏切られ、彼自身も友人を裏切り、裏切られて傷だらけの人生を送った彼でしたが、最後の瞬間だけは幸福なひと時であったと願いたいものです。もしかすると、その瞬間、彼の耳にはかつて少年時代を過ごした懐かしい南部の草原に流れる「草の竪琴」の調べが聞こえていたのかもしれません。

「聞こえる?あれは草の竪琴よ。いつもお話を聞かせているの。丘に眠るすべての人たち、この世に生きるすべての人たちの物語をみんな知っているのよ。わたしたちが死んだら、やっぱり同じようにわたしたちのことを話してうれるのよ、あの草の竪琴は」
「草の竪琴」より

「そして彼は枕に頭を押し付け、両手で耳を覆い、こう思った。何でもないことだけを考えよう。風のことを考えよう、と」
「最後の扉を閉めろ」より

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