- トルーマン・カポーティー Truman Capote (前編) -

<カポーティーの謎>
 当時としては珍しい公認のゲイであり、ど派手な成金趣味の洒落者であり、ダンス好きの目立ちたがり屋であり、酒癖の悪い小太りのおじさんであり、平気で友人を裏切る裏表のある嫌なやつ、そのくせ、愛情を求める淋しがり屋で、うっとうしいほどの世話好き。晩年の彼は周りからそう思われていました。それでもいい話もないわけではありませんでした。彼は巧みな話術により人をひきつける優れた能力を持っており、誰でもひきつける魅力を兼ね備えていたのです。そのおかげで、かつてはニューヨーク社交界の人気アイドルとして一世を風靡していたこともあります。ところが、彼はそんな上流社会のアイドルとしての地位をある日突然失ってしまいました。
 なぜ、そんなことになってしまったのでしょうか?
 また、彼の伝記映画「カポーティー」では、代表作「冷血」が生まれるまでのドラマチックな顛末が描かれていますが、カポーティーと殺人犯ペリー・スミスとの間には、本当に愛が生まれていたのでしょうか?彼の人生は謎に満ちていて、興味はつきません。
 しかし、最も興味深いのは、何よりも彼の生み出した小説の美しさ、簡潔さです。なぜ、あれほどの文章が生み出せたのか?そのことこそが最大の謎なのかもしれません。そこまで人の心を打つ文章が書ける人間が本当に最悪の人間だったのでしょうか?
 1950年代から1960年代にかけて、アメリカで最も有名な小説家であり、スキャンダラスなカルト・ヒーローだった人物、トルーマン・カポーティーに迫ってみたいと思います。

<南部での少年時代>
 1924年9月30日、トルーマン・カポーティーはアメリカ南部ルイジアナ州のニューオーリンズに生まれました。ただし、誕生した時の彼の名はトルーマン・ストレクファス・パーソンズといいました。(カポーティーは二人目の義理の父親の名です)彼の母親リリー・メイ・フォークは、背は低かったものの魅力的でセクシーな女性でした。ただ精神的に幼いまま大人になったせいか街に現れた怪しげな実業家アーチ・パーソンズという人物の魅力に惹かれてあっさりと結婚し、トルーマンを出産しました。しかし、彼女には母親として落ち着く気持ちはもともとなかったようで、常に家を開けっ放しの夫の後を追ってニューヨークへと旅立って行きました。彼女は上流階級の生活を求め、息子たちは置いてきぼりにしたのです。
 こうして、両親に捨てられた形でカポーティー少年はアラバマ州モンローヴィルに住む母方のいとこジェニー・フォークの家で生活することになりました。彼の家には、ジェニーとその姉コーリー、妹スックの女性三人が生活していて、そこに彼と兄の二人の男の子が加わるというちょっと不思議な家庭が出来上がりました。この環境が愛情に飢えた彼に大きな影響を与えることになります。

<「草の竪琴」の時代>
 その頃ののどかな南部での少年時代を、後に彼は小説として描いています。それが、彼にとって2作目となった中篇小説「草の竪琴 The Grass Harp」です。街の実業家としても活躍していたやり手の商売人ジェニーを中心とする彼の叔母さんたちは、かわいそうな境遇のカポーティー少年を、かなり甘やかして育てたようです。中でも、ちょっと変わり者と言われていた一番上の姉スックは、彼のことを息子のように愛しただけでなく、時に女の子の衣装を着せたりもしていたといいます。しかし、トルーマンはそんなスックに最もなついていたといわれています。このあたりの人間関係は、「草の竪琴」の中に描かれている主人公の環境にかなり近いようです。
 こうして、わずか3年ほどの期間でしたが、多感な少年期を過ごしたこの南部での生活は、彼に他人とははっきりと異なる人生観を与えることになったのです。
「僕たちは友達だった。ドリーとキャサリンと僕とは。十一歳から十六歳になるまでの間。目を見張るほどの素晴らしい出来事に恵まれたわけではないが、この年月は僕にとって心楽しい年月だった」
「草の竪琴」より

<ニューヨークへ>
 1932年、彼の母親のリリーがアーチ・パーソンズと離婚、その後すぐにジョゼフ・カポーティーと結婚。翌年、夫妻はマンハッタンの自宅に息子のトルーマンを呼び寄せました。こうして彼は正式に養子となり「トルーマン・ガルシア・カポーティー」と名のることになりました。こうして、南部すごした少年時代は終わり、彼にとってまったく新しい世界である大都会ニューヨークでの青年時代が始まることになります。
 彼の新しい父親はビジネスで成功を収め、妻のリリーとともに上流社会入りを目指す実業家のキューバ人でした。夫婦ともに遊び好きで、そのためにはお金を惜しまず、相変わらず息子の教育や将来については無頓着でした。
 こうして、それまで以上に放任された生活を送るようになった彼は、中学の頃にはすでに自ら作家になる決意を固めていたようです。そのため、学業はおろそかになり成績はどんどん落ちてゆきました。その後、高校に入学した彼はいよいよ本格的に小説家を目指すようになり文芸誌への投稿を始めています。小説家になるのであれば、大学に行く必要はないと考えた彼は、作家になるための道筋を別のところに見つけていました。こうして、彼は高校を卒業するとすぐ雑誌「ニューヨーカー」を発行する出版社に入社。そこでメッセンジャーとして働く道を選んだのでした。
 残念ながら、この就職は直接的には作家への道には結びつきませんでしたが、その間彼は次々に短編小説を書き、雑誌社への売り込みを続けました。そして、ついにその中の一遍である短編小説「ミリアム」が雑誌「マドモアゼル」に掲載され、見事に1946年度のオーヘンリー賞を受賞しました。
 こうして、いよいよ彼はニューヨークで活躍する作家たちの仲間入りを果たすことになります。

<ヤドーでのデビュー作執筆>
 ニューヨーク州の北部にヤドーと呼ばれる芸術家たちが創作を行うためのゲスト・ハウスがありました。ニューヨーク・セントラル鉄道やニューヨーク・タイムズを所有する実業家スペンサー・トラスクが55部屋もある別荘をもてあまし、その有効利用として考え出したアイデアがそのヤドーでした。
 そこには常に何人かの芸術家(小説家、詩人、画家、作曲家など)が滞在しており、そこで食事と部屋を準備してもらい創作に専念できる時間を与えられていました。
 1946年、トルーマンはそのヤドーに滞在し、そこで初の長編小説の執筆にとりかかりました。こうして生まれたのが、彼の名をいっきに全米中へと広めることになる作品「遠い声、遠い部屋 Other Voices,Other Rooms」です。
 1948年にこの小説が発表されると、同性愛作家による自らの伝記的作品という話題性と裏表紙に載せられた彼の美しいポートレート写真の効果もあって、評論家たちの評価は分かれたものの、一躍ベストセラー小説となりました。こうして弱冠24歳の新人作家はスキャンダラスな話題性と天才的な文章の才能を併せ持つ存在として文学界の話題をさらうことになりました。さらにこの年は、彼にとってもうひとつ重要な出来事がありました。それは後に彼にとって最も重要な恋人となる人物、ジャック・ダンフィーとの出会いです。

<ジャック・ダンフィーと草の竪琴>
 なんと妻も子供もいる既婚男性のジャックとトルーマンはお互いの友人の家で出会い、お互いに一目ぼれしてしまったということです。その後ジャックは妻と離婚することもなく、トルーマンと恋人同士の関係になり、ヨーロッパをいっしょに旅したりしています。ところが、そんな複雑な人間関係にありながら、トルーマンは置き去りにされていたはずのジャックの妻や子供たちとも仲良くしていたいいます。なんとも不思議な関係ですが、ジャックは後にトルーマンが多くの人に見捨てられ忘れられた存在になってからもなお、彼を愛し続けました。ジャックは愛情を求め続けたトルーマンの人生において、数少ない本当の恋人であり、同時に良き友、良き理解者だったのです。
 1950年、シチリア島にジャックとともに住みだしたトルーマンは、2作目の小説「草の竪琴」を執筆。1951年に出版されたこの小説は、彼自身の生い立ちに迫った自伝的な作品だったこともあり、再び大きな話題となります。さらに彼は自らその戯曲化に挑み、1952年にはミュージカルとしてブロードウェイで公演されています。その後も彼は映画「悪魔をやっつけろ」の脚本を書くなど、しだいに小説以外のジャンルにも挑戦してゆくようになります。

<家庭崩壊>
 しかし1953年、順風満帆と思われた彼の人生に暗い影がさしこみ始めます。彼の義理の父親ジョー・カポーティーが文書偽造と重窃盗罪で逮捕されてしまったのです。実は上流社会入りを目指して頻繁にパーティーを開催し、社交界の有名人たちとのつき合いにお金を湯水のように使っていた両親の経済状況は、それ以前から破綻していたのでした。しかし、二人はその現実を認めることができず、詐欺まがいの行為を繰り返すことで、それまでどうりの生活を続けていたのです。
 結局ジョーはそのまま有罪となり実刑が確定、服役することに決まりました。夫の逮捕により、夢見ていた生活が破綻したことで生きる目的を失ってしまった母親は、そのショックから立ち直ることができず、1954年1月4日睡眠薬を多量に服用して自殺してしまいました。
 ヨーロッパに出かけていたトルーマンは、母親を失ったショックと彼女のために何もしてやれなかったことへの後悔から、すっかり落ち込んでしまいました。しかし、こうして彼の家庭を崩壊に追い込んだともいえるニューヨークの上流社会に、彼は自ら近づき、そこでアイドル的な存在になってゆきます。さらには、その上流社会の醜い内幕を小説「叶えられた祈り」で暴露することになります。もしかすると、それは両親を奪った上流社会に対する用意周到な復讐劇だったのではないか?そう見る人もいます。どちらにしても、彼の人生の歯車はここから少しずつ狂い始めることになります。

<「ティファニーで朝食を」>
 1958年、彼は3作目となる小説「ティファニーで朝食を Breakfast at Tiffany's」を発表。この作品はその後オードリー・ヘップバーンの主演で映画化され大ヒットすることになります。猫のように気ままで自由奔放な女性である主人公のホリー・ゴライトリーには、やはり実在のモデルとなった人物がいたようです。しかし、上流社会の人々の中に紛れ込み、彼らを楽しませただけでなく大いに混乱させ、いつの間にか去ってゆく高級娼婦とは、実は彼自身のことであったとも考えられそうです。
 ちなみに、彼はこの作品が1961年に映画化された際、ホリー・ゴライトリーの役をオードリーではなく、マリリン・モンローににさせたかったとのことです。確かに原作に描かれているような主人公の性格はオードリーよりマリリンの方が適役だったように思えます。しかし、映画化にあたり原作がハリウッド向けの大人しいものに変更され、それにともない主人公の設定もまた変わってしまったので、マリリンよりもオードリーが適役になってしまったようです。

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