演劇の歴史を変えた美栄と情熱の男


- つかこうへい Kouhei Tsuka -
<つかこうへい>
 ついにこのサイトで、劇作家つかこうへいを取り上げます。これまで取り上げるには、参考になる情報がなかったのですが、彼の右腕的存在だった長谷川康夫さんの決定版的伝記本が出てやっと可能になりました。とはいえ、残念ながら演劇というジャンルほど、このサイトで紹介しずらいジャンルはありません。映画も、音楽も、絵画も、生で鑑賞するのは難しくても、そのコピーや複写映像を見ることは可能です。しかし、演劇は最近でこそDVDで録画映像を見ることが可能になったものの、1980年代以前となるとほとんどその映像記録は残っていません。(テレビで放送されたものぐらい)さらに、演劇を生で見たことのある方ならわかるでしょうが、映像で見る演劇では、生で見た感動の半分も伝わらないはずです。もちろん、つかさん自身2010年にこの世を去っているので、今後彼が演出する芝居を見ることもできません。
 そんなわけで、ここではあなたがつかさんの芝居を見たことがあるだろうという前提で書かざるを得ません。(見たことのない人にまで、再現できるほど僕の文章力は凄くないので・・・)僕自身も、当時の印象を頭の中で思い出しながら、なぜ「つか芝居」はあんなにも面白かったのか?考えながら書こうと思います。
 参考にさせてもらった「つかこうへい正伝1968~1982」の著者、長谷川康夫は、つか劇団の中では地味な存在でしたが、劇団の解散後は劇作家、脚本家として活躍。映画「亡国のイージス」では見事に日本アカデミー賞の優秀脚本賞を受賞しています。彼が師匠への熱い思いを込めたヴォリュームたっぷりの本から、つかこうへいの歴史を発表された作品と共に書き出してみようと思います。(もちろんあなたが「つかこうへい」のファンならば、この本を読むことをお薦めします!)
 2010年7月12日、まだ62歳という年齢でこの世を去った彼の生き様と芝居をご紹介させていただきます。

<70年代から80年代へ>
 当時、彼が在日朝鮮人であるということを僕はずっと知りませんでした。実際、彼の作品には人種問題を考えさせる作品はなく、彼自身もそれを明らかにする必要性を感じてはいなかったようです。もしかすると、彼が60年代のアングラ系作家だったら、その影響は作品にも表れていたかもしれません。しかし、彼はあくまでも70年代から80年代への橋渡しをする作家だった気がします。寺山修司よりは野田秀樹に近い存在だったのです。それが僕のような60年代生まれの人間にはぴたりとはまった気がします。
 だからこそ、彼の芝居における「革命」は、もう解説すべき過去の思想になっていました。それでも、彼らの活躍の場は、現在の若者の街「渋谷」ではなく、70年代の若者の街「新宿」だったことも忘れてはいけません。新宿の文化を象徴する存在だった紀伊国屋書店(紀伊国屋ホール)が生んだ最後の輝きが「つかこうへい」だったのかもしれません。もうひとつ、彼の芝居のチケットは、チケットぴあが登場する直前、まだ発売日の前日から寝袋を持って並んで購入するものでした。ある意味では、チケットを買うための、行列からすでに芝居は始まっていて、ぎゅうぎゅう詰めの座席で観客たちが一斉にお尻を浮かせて、席を作ることもまた芝居の一部だった時代でした。
 様々な面で、彼が活躍した時代は、一つの時代の終わりだったような気がします。

<金原峰雄>
 後のつかこうへい、金原峰雄が誕生したのは、1948年(昭和23年)4月24日、福岡県嘉穂郡嘉穂町牛隅筑豊の田舎町でした。彼の父親は朝鮮からの移民で、ホテルや鉄鋼などの仕事で成功。比較的裕福な家庭だったようです。
 彼は1968年に浪人した後、慶応大学の文学部に合格。入学後は、「三田詩人」という詩作のサークルに入り、詩を発表しますが、友人の薦めで出来たばかりの劇団「仮面舞台」に参加。演劇に活動の場を移します。といっても、彼はそれほど演劇に興味があったわけではなかったようです。彼は劇団に誘ってくれた友人の川田にこう訊いたそうです。

「小説には直木賞とか芥川賞、詩ならH氏賞とかあるけど、演劇には何か賞があるのか?」
 そんなことも知らずに、「面倒をみてやる」などと、演劇の現場にやってきたのかと川田は半分呆れながらも、「岸田戯曲賞とか・・・」と口にしたとたん、つかはすかさず、
「じゃあ俺、それを獲るから」
 と事もなげに答えた。まだこの時点では、戯曲など、一文字も書いたことがない男がである。


<1969年> 
「白と黒とだけの階段」 劇団仮面舞台
(作)ほったゆり子(演)つかこうへい(草月ホール)
 まだ戯曲を書く自信がなかった彼に代わり、この作品で台本を任されたのは、つかが当時恋をしていたらしい女性でした。なんと彼女、堀田百合子とは、当時の日本を代表する作家、堀田善衛の娘でした!彼女は、後に「つかこうへい」についてこう書いています。

「逆説的な言葉だったり、皮肉だったり、どこか傍若無人を装っていることも含めて、すべてに懸命だったように思う。そうやってある種、演じていくうちに、それが身につき、のちのつかこうへいが作り上げられていったのではないかしら」
堀田百合子

 彼はこの作品のパンフレットに「自分が何を表現したいのか」についてこう書いています。

 煙草屋で八十円出す。煙草屋のおばさんはハイライト一つだけ出す。そこには何もコミュニケーションは無い訳ですよ。そうぞうしい現代では、お天気の話なんか絶対にない訳です。それが僕は現代人の寂しさだと思う訳です。現代人にとって一番恐ろしいのは無視される事であり、無視された時点で、一万円を持って一日に二、三度ハイライト一ケづつ買いに行くような行動に出る。そして煙草屋のおばさんの如何なる意味でも僕を意識した眼で見る、その顔を見て僕ははじめて、『存在』が体じゅうに満ちてくる訳です。僕の演劇の一つのパターンはその奇妙な行動に出た時の寂しさを裏返しすることです。
「白と黒とだけの階段」パンフレットより(1969年)
<1970年>
 この年、彼は自らの手で(正確には口で)作品を生み出し始めます。
「明日からのレポート1 郵便屋さんちょっと」 劇団仮面舞台
(作)(演)つかこうへい
 この時期彼が目標にしていたのは、当時の大人気作家、別役実だったようです。

「この頃、別役実の『象』と『マッチ売りの少女』が出た。それまでもなんだかんだと言いながら、ベケットかイヨネスコなど読んでいたが、これでもうベケットもイヨネスコもないなと思った。別役実の持っている言葉に対する明確な方法論に脱帽し、この人に勝ちたいと思った」
自作年譜より

 当時、彼は早くも自分独自の演出方法を生み出しつつありました。
「稽古するうちに、つかさんの口からどんどん新しい台詞が出てくるわ、別の設定は生まれるわで、何か書いてきてるのかと覗いたら、それらしいものは何もなくて、なあんだ、今その場で思い付いて言ってんじゃないか・・・・って」
 つかはその後、ある時期から、自分の作品を最初に戯曲として文字に起こすことがまったくなくなり、稽古場で白紙の状態から、すべての台詞を口移しで与えるようになるのだが、斉藤の記憶からは、この頃すでに、そんなつかこうへいの代名詞とも言うべき、”口立て”での作劇が始まっていたことが伺える。

「郵便屋さんちょっと」

 彼の中には、別役実、唐十郎、寺山修司らの先輩らの影響と共に幼い頃に体験した旅回りの芝居や当時大ヒットしていた「緋牡丹博徒」シリーズなどの任侠映画、そして「男はつらいよ」(1969年に一作目が公開されています)シリーズの影響も多分にあったようです。
<1971年>
「戦争で死ねなかったお父さんのために」 劇団仮面舞台
(作)つかこうへい(演)中野幾夫
 この時、演出を担当した中野幾夫のやり方は、その後のつか演出に大きな影響を与えました。
<1972年>
「郵便屋さんちょっと・その1」 劇団暫
(作)(演)つかこうへい(出)平田満が初登場!
 1972年、つかの父親が病に倒れ、実家に帰省したのを機に、仮面舞台は解散します。
「私はこの連中から教えられ育てられたところが大きく、いまでもこの連中は力量的に最強のメンバーだと思っている。そして何にも増して、ある軽さの本質というものを教わったと思うのである。この時期が私にとって一番楽しかった、命燃やせた時期であり、この頃のことだけは終生忘れないであろうと思う。」
自作年譜より

 仮面舞台の解散後、彼は早稲田大学の向島三四郎、知念正文、武田徹が結成した劇団「暫(しばらく)」と共に芝居を作ることになります。そこに、ちょうど新入部員として入って来たのが、平田満と三浦洋一でした。二人は共に有数の進学校を出た秀才であり、個性の違う役者の入部はつかを刺激することになります。
「オラァ、学歴にはコダワルからよ。ああ、バカとは芝居なんかやってられねえ!」

 この頃、つかはいち早く活躍し始めていた早稲田小劇場の稽古場に通い、鈴木忠夫の演出の研究に熱中していたといいます。その内容は、彼が取材を依頼されていた雑誌「新劇」(1972年10月号)に発表されていました。
「鈴木ほど役者に解答をあたえない演出家はいないだろうな。というより、自分が前の日、訂正したものを平気な顔して否定するんだからね。役者なんて災難だよ。・・・隣で見てて、昨日、今日初めてつかった役者みたいにさらけだして痛めつける。我儘で傲慢で女々しいほどな精神状態で役者と対座する・・おもしろいのは、見学に来たやつが新聞記者なんかだともうターザンみたいにがんばっちゃってね。どなるとかいう生易しいものじゃなく、君のいう「雄叫び」なんだね。
 冒頭の「鈴木」を「つか」に変えれば、稽古場での彼の姿として、そっくりそのまま通用するだろう。つまりつかはこの時期に、その演出スタイルにおいて、鈴木忠夫の影響を強く受けたということだ。

 しかし、彼は単純に早稲田小劇場のやり方をそのまま受け入れようとは思っていませんでした。彼は当時、こんなことを言っていたといいます。

「早稲小はすごいけど、役者たちはみんな芝居でメシ食えてないじゃないですか。僕にそういうの全部まかせてくれたら、確実に食ってけるようにしますけどね」
 1982年に彼が「つかこうへい事務所」を解散した際、彼はその理由として「役者たちが食えるようになったから」と言うことになります。ただし、彼は役者を育ててはいても、役者たちの演技がどんなに褒められていても、この台詞だけは言い続けていたようです。

「おめえらが、ウケてんじゃねえ、俺がウケてんだ!」

 自らのスタイルを少しずつ築きあげつつあった彼は、いよいよ彼らしい作品を作り上げます。
<1973年>
「郵便屋さんちょっと・完結篇」 劇団暫
(作)(演)つかこうへい(出)三浦洋一登場!、平田満、井上加奈子
 とはいえこの先、つかの作品の中に根を下す「けれん」は、鈴木らひと世代前とはかなり質の違うものだ。唐十郎の芝居にも、寺山修司の芝居にも、より大胆で演劇的な「けれん」はあった。いや僕には、彼らの芝居自体が「けれん」そのものだったように思える。しかしそれはどこか毒々しく、内に流れている情念のようなものが濃い。
 しかしつかの「けれん」はもっとお洒落で、軽やかである。実に安っぽい例えをするならば、どてらとジーパン、軍服とタキシードの違いとでも言おうか。そしてそれは確実に、70年というひとつの節目を越えての、若者たちの文化や風俗の変化と重なり、それによってつかこうへいは、それまでの演劇ファンとは違った層を劇場に惹きつけ、かつてないほどの「ブーム」を生むわけである。
 そしてそんな、いわゆる「つか芝居」と言われるものが確立されたのが、73年1月の「郵便屋さんちょっと・完結篇」からだったことだけは間違いない。


 1973年、こうしてつかは次々と作品を発表し始めます。
「初級革命講座」 劇団暫
(作)(演)つかこうへい(出)三浦洋一、平田満、井上加奈子
「郵便屋さんちょっと・改訂版」 劇団暫
(作)(演)つかこうへい
「初級革命講座飛龍伝」 劇団暫
(作)(演)つかこうへい
「戦争で死ねなかったお父さんのために」 劇団暫
(作)(演)つかこうへい
「やさしいゴドーの待ち方 - その傾向と対策」 劇団暫
(作)(演)つかこうへい
「熱海殺人事件」 文学座
(作)つかこうへい(演)藤原新平(出)角野卓造、金内喜久夫
<1974年> 
 1974年1月、彼は「熱海殺人事件」によって名言通り「岸田戯曲賞」を受賞しました。賞を獲れた際のカワイイその喜びようは、彼ならではです。受賞により、つかこうへいの知名度は一気に上がり、NHKのラジオ・ドラマ「くわえ煙草伝兵衛の幻想」の作・演出の依頼が来るなど、急激に仕事も増えだします。7月には、彼の戯曲「出発」が文学座で小林祐の演出で上演されています。

「熱海殺人事件」 劇団新芸
(作)つかこうへい(演)中野幾夫
 この時の中野による演出は、「熱海殺人事件」の完成度を一気に高め、つかはそこから大きな影響を受けたと思われます。実は、つか演出の原点のひとつが中野幾夫によるこの頃の演出方法だったとも言われています。この時の公演には、もう一人重要な人物、加藤健一が出演していました。彼は、その後、つか事務所の看板役者として大山金太郎役を任され、最後までその役を演じ続けることになります。

 ある時期までつかの作品を語るときに、そのキーワードとして必ず使われたのが「建て前」と「本音」というものである。とことん「建て前」に徹することで、逆にその「本音」がさらけ出されるのがつかの芝居で、そこを「逆説の世界」などと評されたのだ。実はその「建て前」こそが「本音」だったり、それがさらにひっくり返って「本音」を装った「建て前」だったりするところが面白いのだが。
 そしてこのつか流の「本音」と「建て前」の”行って来い”が実にわかりやすく、あたかもテキストのように提示されているのが『出発』という芝居だと僕は思う。


<口立てによる演出>
 彼の演出における最大の特徴「口立て」による芝居の構築については、こんな具体的な説明があります。

 ”口立て”の稽古で、僕ら俳優たちは台詞の抑揚やテンポを徹底的に叩き込まれる。例えば「だからさあ、あいつとは付き合うなって言ったろ」という台詞をつかに与えられたとする。その出だしの「だからさあ」と口に出したとたん、「違う!『だからさあ』」と、つかがすぐやってみせる。こちらが反復して、「だからさあ」。するとまたすぐ、「そんな『さあ』じゃねえ!『だからさあ』だ!」
「だからさあ」「『だからさ』だよ!」これを延々と繰り返すのである。
 つまり、この「だからさあ」のニュアンスが伝えられなければ、「俺の芝居じゃねえ!」わけで、それが出来ないのは、「おまえが人間としてダメだからだ!」となってしまうのだ。

 つかの”口立て”とは、台詞をいったん、役者の肉体を通した「音」として確認しながら、戯曲を立ち上げていく作業である。その過程で異物が入り込めば、それは違うものになっていく。相応しい”音”を発してくれない役者では、戯曲は正しく完成されないのだ。
 さらに、役者との”口立て”作業では、つかの作った台詞を超えるものが生まれることも多い。たとえば「アタマから」を繰り返すうちに、さっき付けられたばかりの台詞がどうしても出てこないことがある。
 つかが要求する意味を理解していれば、役者は流れを止めまいと、自分自身の言葉で、なんとか別の台詞をひねり出す。そんなとき、より的確な表現が飛び出したりするのだ。
(逆に何度もその台詞が出てこない場合、つかはその台詞をカットしてしまうことも多かった)

「役者が持っている言葉以上の台詞は生まれてこない」
「どの役者よりも、俺が一番芝居上手いからよ」

つかこうへい

<音楽による演出>
 つか芝居における「音楽」の使い方は、それまでの演出家とは大きく違いました。そのことについても具体的な説明があります。
・・・劇中に流れる曲の何が一番重要かというと、何と言ってもイントロなのだ。ある台詞の途中に薄くBGMのように音楽が聞こえてくるというようなことはまずありえない。むしろ「音楽を引っ張り出すために台詞だある」と言ってもいい。そしてその引っ張り出された瞬間、つまりイントロが流れ始めたときに、どれだけ観客を惹き込むかが勝負なのだ。そのときのゾクリとする感覚。これこそがつかの芝居の真骨頂と言えるだろう。
(このページの最後に<つか芝居使用曲リスト>があります。参考にしてください!)

<つか芝居と「音」>
 つかの芝居で何より重要なのは「音」であり、「つか節」ともいえる台詞口調や劇中劇も含めて、芝居そのものがつかこうへいによる「語り芸」だというのは、第四章で述べた通りだ。つまりつかは、浪花節であったり、浄瑠璃であったり、落語であったり、講談であったりの「名調子」を、作品全体でやっていると思えばいい。
 それが証拠に、つかは決して暗転を使わず、その芝居の中に、「音」のない時間はない。客席の明かりが落ち始めてから再び明るくなるまで、観客の耳には必ず何かが聞こえている。


 彼は8月に劇団つかこうへい事務所を立ち上げ、本格的に自らの作品を自分が選んだ役者たちによって上演するようになります。そして、そのための場所(箱)として、当時、一大ブームを起こしていたメンズファッション・ブランドVANが作った多目的ホール「VAN99」とのコラボが始まります。つかにとって、それは実に幸運な出会いでした。

 芝居以外のこういった試みも、つかが時代の寵児へのステップを歩み始めようとしていたこの時期、その「つかこうへい」の名によってVAN99ホールのステイタスを確立しようとする劇場側の思惑と、つかなりの上昇志向が重なって生まれたものだろう。しかし何よりも、つか個人にとっての経済的な意味は大きかった。

「飛龍伝 そしてカラス」 劇団つかこうへい事務所
(作)(演)つかこうへい(出)平田満、三浦洋一、岩門たか子
「巷談松ヶ浦ゴドー戒」 劇団つかこうへい事務所
(作)(演)つかこうへい(出)平田満、三浦洋一、岩門たか子、知念正文、長谷川康夫
<1975年>
「ストリッパー物語」 劇団つかこうへい事務所
(作)(演)つかこうへい(出)根岸とし江、三浦洋一、平田満、知念正文・・・(根岸とし江登場!)
「熱海殺人事件」、「出発」 劇団暫
(作)つかこうへい(演)向島三四郎(出)加藤健一、風間杜夫、角替和枝加藤健一、風間杜夫、角替和枝登場!
 この当時、すでに日活ロマンポルノに出演するなどして俳優として活躍し始めていた風間杜夫がつかこうへい作品に初登場。この後、彼はつかこうへい事務所の看板役者となります。

「稽古場の木製の扉がバーンと開いたかと思ったら、針金みたいにやせた男が逆光の中、シルエットで立ってて、『おう』とひと声発して、ポケットに手突っ込んだままズカズカ入って来た。そしたらもう稽古場の空気がピーンと張り詰めちゃって、そんな中でパイプ椅子をガッと引き寄せて、座るなりタバコ吸い始めて。こっちは舞台で芝居しながら、これがつかこうへいか・・・・。なんで皆こんなに緊張してるんだ・・・とも思った」
風間杜夫
<1976年>
 1976年、いよいよつかチームは、新宿西口の紀伊国屋ホールに進出します。この時もまた彼は運に恵まれていました。
 新宿紀伊国屋ホールとつかこうへいは切っても切れない関係でした。紀伊国屋ホールのプロデューサーだった金子和一郎(当時49歳)は、VAN99ホールで彼らの芝居を見て衝撃を受けました。是非、彼らを紀伊国屋ホールの舞台に迎えたい。そうは思ったのですが、ホールの予定は一年以上先まですでに決まっていて空きはありませんでした。ところが、スプリンクラー設置のための休日が工事の延期によって、営業可能になり、その空きを埋める必要が生じます。ならば、彼らをその空いた日に入れればいいじゃないか!
 こうして、つかこうへい事務所と紀伊国屋ホールの最強タッグが誕生。それにより、舞台美術には朝倉摂、照明には服部基、ポスターなどのデザインには和田誠が呼ばれ、それぞれもまた
そのチャンスを生かしてブレイクすることになります。
「つかさんの芝居が来るというのは、舞台事務室にとってもどこかお祭りだった。観客たちが芝居を待っているのと同じように、ホールのスタッフたちも、つかさんを迎えるのがうれしくて仕方がなかった。通路にギューギュー詰めに座ってもらう当日券のお客たちも、案内する僕らも同じような年齢で、一緒になってそのお祭りに参加しているような感じだった。詰められれば詰められるほど、お客もそれを喜ぶというような・・・だから文句を言う人間は一人もいない。そういう時代だった・・・もちろん芝居の面白さが皆を引き寄せているのだけど、観客の方にも自分が今、その場にいるという高揚感や達成感みたいなものがあったんだと思う。それは僕らの劇場スタッフもまるで同じだった」
安倍邦彦(紀伊国屋スタッフ)

「田舎から出てくるとな、みんな、まず何か東京にしかないものに触れなきゃならないと思うんだよ。で、雑誌なんかで見聞きしてて、胸高鳴らせて、俺の芝居を観に新宿までやって来て、紀伊国屋ホールに向かう。そして当日券に並んで、座布団渡されて通路に座る。まあびっくりするわな。でもこれで東京に出て来た実感ってのを得るわけだ。そこで俺たちは絶対に期待以上のものを観せてやる。そうすれば、俺たちの芝居は一生、連中の心に残るんだから」
つかこうへい

「熱海殺人事件」 劇団つかこうへい事務所
(作)(演)つかこうへい(出)平田満、三浦洋一、加藤健一、井上加奈子
「改訂版 ストリッパー物語」 劇団つかこうへい事務所
(作)(演)つかこうへい(出)根岸とし江、平田満、三浦洋一・・・)
「熱海殺人事件」 劇団つかこうへい事務所
(作)(演)つかこうへい(出)平田満、三浦洋一、加藤健一、井上加奈子
「初級革命講座飛龍伝」 シアター・グリーンにて
(作)(演)つかこうへい(出)西岡徳間、小林勝也、井上加奈子
「熱海殺人事件」 劇団つかこうへい事務所
(作)(演)つかこうへい(出)平田満、三浦洋一、加藤健一、井上加奈子

<つか芝居の真髄>
熊田「自分のはマルマン・ライターでありますし・・・」
部長「熊田君、もう少し人間というものを、買いかぶってみたらどうかね。火をつけてくれたまえ(熊田が恐る恐る火をつけたタバコを一服吸ってすぐに投げ捨てる)タールが強い!」
熊田「ですから自分のはマルマンであると」
部長「心だよ。君の優しい心が、ガスを変えるんだ。(それでも熊田は、自信なげに火をつけてやり、カバンを持って足早に去ろうとする。部長は味わうように深く吸う)うん、いい火加減だ!」
 このたっぷり間を取った「うん!いいい火加減だ!」という部長の最後の決めゼリフで、プレスリーの「レット・イット・ビー・ミー」が高らかに入る。同時に照明が落ち、三人の男がスポットの中に浮かび上がると、その姿を消すように上から緞帳が降りてくる。その間、約10秒。緞帳がイントロいっぱいで落ち切ったその瞬間、歌が始まり、プレスリーの特徴ある艶っぽい声が客席いっぱいに響き渡るのだ。
 十分の一秒のずれも許されず、すべてのタイミンが計算しつくされ、ピッタリあった瞬間の震えるような心地よさ。それこそがつか芝居であり、客はもう一度これを味わいたいと、劇場に足を運ぶのである。そしてそのために、音響、照明、舞台装置、そして俳優たちは、容赦ない怒声を浴びながら、稽古を繰り返すのだ。


 つかの芝居の魅力が、何よりも台詞の妙だったことは、今でも文字として確認することができる。しかし若者たちを劇場に引き寄せたのがそれだけではなく、こうした”つか演出”であったことは、どうしても忘れられてしまう。その”演出”は台詞の言い回しや、会話のテンポ、息づかいなどにも、事細かに施されているわけだが、残念ながら今それを伝えることは出来ない。演劇とは、そんな一回性のものであるとわかってはいても、やはり歯がゆくてならない。
 「熱海殺人事件」は、つかの作品の中でも、そういった演劇として完成度が飛びぬけて高い芝居である。・・・
 公演が始まると、つかは毎日、客席上手の頭上にある音響ルームから芝居を観る。いや、その目が向けられているのは舞台上ではなく、常に客席である。その日、新しくなった台詞や演出への、観客たちの反応を確認するためだ。それによって翌日の芝居が変わるのである。


 こうして「熱海殺人事件」は、しっかりと書かれた戯曲から口立てや観客の反応を生かした変更によって少しづつ成長し、完成度がより高い作品へと仕上がって行った。
<1977年>
「戦争で死ねなかったお父さんのために」 劇団つかこうへい事務所
(作)(演)つかこうへい(出)風間杜夫、平田満、三浦洋一、加藤健一、宇都宮雅代、井上加奈子、根岸とし江・・・
「ヒモのはなし」 劇団つかこうへい事務所
(作)(演)つかこうへい(出)三浦洋一、宇都宮雅代
「女形おやま」 三浦洋一ひとり会
(作)(演)つかこうへい(出)三浦洋一、牟田悌三、泉じゅん
<1978年>
「ヒモのはなし」 劇団つかこうへい事務所
(作)(演)つかこうへい(出)田中邦衛、風間杜夫、加藤健一、平田満、根岸とし江、井上加奈子・・・(田中邦衛が志願の出演)
「改訂版・出発」 劇団つかこうへい事務所
(作)(演)つかこうへい(出)田中邦衛、風間杜夫、加藤健一、平田満、岩間たか子、、井上加奈子・・・
「熱海殺人事件」 劇団つかこうへい事務所
(作)(演)つかこうへい(出)平田満、三浦洋一、加藤健一、井上加奈子
「サロメ」 西武劇場
(作)(演)つかこうへい(出)水野さつ子、風間杜夫、町田義人、熊谷真美、角替和枝、加藤かず子、石丸謙二郎、加藤健二、田辺さつき・・・
「いい加減、こんな所でカッコつけるのやめて、さっさと新宿に帰りましょうよ!」
 渋谷の西武劇場で上演された異色のロック・オペラの中の台詞。つか芝居に渋谷と西武の文化は似合わなかった!(最初の結婚相手熊谷真実、石丸謙二郎登場!

<1979年>
「いつも心に太陽を」 平田満ひとり会
(作)(演)つかこうへい(出)平田満、風間杜夫、石丸謙二郎、長谷川康夫・・・
「熱海殺人事件」 劇団つかこうへい事務所
(作)(演)つかこうへい(出)平田満、三浦洋一、加藤健一、井上加奈子
「広島に原爆を落す日」 劇団つかこうへい事務所
(作)(演)つかこうへい(出)風間杜夫、平田満、かとうかずこ、加藤健一、長谷川康夫、石丸謙二郎・・・(かとうかずこが本格的に登場!)
『広島に原爆を落とす日』の大津による挿入歌の一節にもそのフレーズがあり、ギターに乗せた彼の歌声を聞いたときに「傷つくことだけ上手になって」の意味合いは同じでも、”責め”、”開き直る”つかと”自戒する”大津で、その表現がこれほどまでに違うのかと感心した記憶がある。だが、とことん悪ぶってみせるつかと、とことんひとに対してやさしくあり続けようとする大津が、誰よりも互いを必要としていたことは確かで、僕らにとっても、つかとの関係の中でそんな大津の存在は大きかった。
(つか芝居の音楽担当として、ギター一本で多くの曲を作った大津はその後、根岸とし江と結婚します)
「初級革命講座飛龍伝」 劇団つかこうへい事務所
(作)(演)つかこうへい(出)平田満、長谷川康夫、加藤健一、井上加奈子
<1980年>
「初級革命講座飛龍伝」 劇団つかこうへい事務所
(作)(演)つかこうへい(出)平田満、長谷川康夫、石丸謙二郎、井上加奈子
「弟よ!」 フジテレビ
(作)(演)つかこうへい
「いつも心に太陽を」 劇団つかこうへい事務所
(作)(演)つかこうへい(出)平田満、風間杜夫、長谷川康夫、石丸謙二郎、酒井敏也・・・(酒井敏也初登場!
「熱海殺人事件」 劇団つかこうへい事務所
(作)(演)つかこうへい(出)風間杜夫、平田満、加藤健一、井上加奈子
「蒲田行進曲」 劇団つかこうへい事務所
(作)(演)つかこうへい(出)根岸とし江、柄本明、風間杜夫、平田満、加藤健一、長谷川康夫、石丸謙二郎、生駒直子(二人目のつかの妻となる生駒直子登場!
「飛龍伝’80」 劇団つかこうへい事務所
(作)(演)つかこうへい(出)平田満、長谷川康夫、井上加奈子
<1981年> 
第15回紀伊国屋演劇賞受賞(1月)
 紀伊国屋での連続公演により、つかこうへいは紀伊国屋演劇賞を受賞します。つか事務所の芝居は、その内容の素晴らしさだけではなく、ファンへのサービスの面でも斬新な取り組みをいち早く行っていました。役者たちの似顔絵Tシャツなどのグッズ販売をいち早く行いました。さらには、公演の千秋楽では大抽選会を行い、新巻鮭などの景品を観客にプレゼント。こうしたファン・サービスにより、つか芝居はそれまでのファン層とは異なる若い女性層を取り込むことにいち早く成功しました。

「寝取られ宗介」 劇団つかこうへい事務所
(作)(演)つかこうへい(出)石丸謙二郎、岡本麗、酒井敏也(岡本麗登場!石丸、酒井が表舞台へ!

「ヒモのはなし」 劇団つかこうへい事務所
(作)(演)つかこうへい(出)根岸とし江、田中邦衛、加藤健一、酒井敏也、萩原流行、角替和枝・・・(萩原流行登場!
「熱海殺人事件」 劇団つかこうへい事務所
(作)(演)つかこうへい(出)風間杜夫、平田満、加藤健一、角替和枝
「銀ちゃんのこと」 劇団つかこうへい事務所
(作)(演)つかこうへい(出)根岸とし江、風間杜夫、柄本明、石丸謙二郎、平田満、長谷川康夫、萩原流行・・・
<1982年>
小説「蒲田行進曲」で第86回直木賞受賞(1月)
「寝取られ宗介」 劇団つかこうへい事務所
「熱海殺人事件」 劇団つかこうへい事務所
「新版・いつも心に太陽を」 劇団つかこうへい事務所
(作)(演)つかこうへい(出)平田満、長谷川康夫、石丸謙二郎、萩原流行、重松収・・・
「蒲田行進曲」 劇団つかこうへい事務所
(作)(演)つかこうへい(出)Aプロ(根岸とし江、平田満、加藤健一、長谷川康夫、石丸謙二郎、萩原流行、高野嗣郎、酒井敏也)
(作)(演)つかこうへい(出)Bプロ(根岸とし江、平田満、風間杜夫、長谷川康夫、石丸謙二郎、萩原流行、高野嗣郎、酒井敏也)

できあがったらしいね、階段が。パトカーと救急車が出揃ったようだね。
スタジオの前に香典が山積みにされてるよ。止めないね。止めやしないよ。
振り向いちゃダメだよ。真ん中に立つんだよ。大丈夫だよ。ぶっ叩かれて600円、けっ飛ばされて800円。そんなはした金じゃ、子供は私の腹の中から出て来れないもんね。あんたが階段落ちやって、こんなブ厚い札束を口にくわえて帰ってくるのを、あたし病院で待ってるからね。こんだけ腹の中でいたぶられた赤ちゃんだもん。誰かが死ぬ覚悟で稼いできた金でなきゃ、親父を名乗り上げてくれなきゃ、出て来れやしないよ、やりきれなくてネ・・・あたしは、あんたに押しつけられたんじゃないよ。あんたに惚れて一緒になったんだよ。

小夏(根岸)最後の台詞

映画「蒲田行進曲」公開(10月)
(監)深作欣二(脚)つかこうへい(出)松坂慶子、平田満、風間杜夫
小説「つか版・忠臣蔵」
テレビ・ドラマ「つか版・忠臣蔵」テレビ東京(12月31日)

<その後のつかこうへい>
 彼は、1982年に劇団つかこうへい事務所を解散します。そして、文筆活動に専念し始め、演劇の世界を離れます。しかし、1989年になり、演劇活動を再開。以降、他界する2010年まで様々な形で芝居を作り続けました。そして、「作家」としてのつかこうへいよりも、「劇作家」としてのつかこうへいの方が高い評価を得たままその生涯を終えることになります。
 残念なのは、劇団つかこうへい事務所のメンバーが彼の芝居に出演することがなかったことです。自分が捨てる形になった団員達にもう一度集まれ!とは言いにくかったのだしょうか?
「・・・思えば恥の多い人生でございました」
 つかさんは、逝く前にこう言い残したといいます。カッコをつけすぎ、やせ我慢をし続けた男の最後でした。

 最後に彼が残したのは戯曲だけではありません。彼が残した優れた役者たちによって、どれだけ多くの芝居、映画、テレビ・ドラマが生み出されたことか!そのことは、彼の指導を受けた役者たちの顔ぶれを見ただけでもわかるはずです。
<つかこうへいの指導を受けた役者たち>
 常連メンバーの風間杜夫、平田満、加藤健一、石丸謙二郎、酒井敏也、萩原流行、井上加奈子、根岸季衣(とし江)、かとうかずこ、柄本明、角替和枝、熊谷真実
 それ以外の顔ぶれはこうです。
塩見三省、沖雅也、大竹しのぶ、佐藤B作、岸田今日子、阿部寛、石原ひとみ、筧利夫、石田ひかり、富田靖子、牧瀬里穂、藤山直美、小西真奈美、内田有紀、広末涼子、黒木メイサ、山崎銀之丞、宇都宮雅代、柄本明、田中邦衛、岡本麗、徳重聡、東幹久、松坂慶子・・・

<つか芝居使用曲リスト>
タイトル  主な使用曲  アーティスト名 
「蒲田行進曲」  「冬の稲妻」  アリス 
「青い瞳のステラ」 柳ジョージ
「寝取られ宗助」 「スタンド・バイ・ミー」 ソニー&シェール 
「ヒモのはなし」  「アメイジング・グレイス」  グレン・キャンベル 
「広島に原爆を落とす日」  「いとしのエリー」  サザン・オールスターズ 
「いつも心に太陽を」  「ジョニーの子守唄」  アリス 
「熱海殺人事件」  「東京」  マイペース 
「巷談松ヶ浦ゴドー戒」  「春のからっ風」  泉谷しげる 
「ストリッパー物語」  「雨のパスポート」  欧陽菲菲 
「初級革命講座飛龍伝」  「青い影」  プロコルハルム 
「戦争で死ねなかったお父さんのために」 「マキシーのために」  かぐや姫 
「郵便屋さんちょっと」  「ヒア・カムズ・ザ・サン」  ザ・ビートルズ 


<参考>
「つかこうへい正伝 1968 - 1982」 2015年
(著)長谷川康夫
新潮社

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