<朝鮮戦争>
1950年6月に始まった朝鮮戦争は、2022年時点でもまだ終戦を迎えていません。あくまでも休戦状態が続いているだけなのです。それは、21世紀になった今もなお、朝鮮半島の状況が当時と変わっていないことから当然と言えば当然かもしれません。
現在の日本と北朝鮮との関係からも、状況が今のままでいいわけはありません。現在の状況はどうやって生まれたのか?改めて歴史を振り返ってみます。
先ずは、その中心となる人物についてから始めます。
<李承晩イ・スン・マン>
韓国の初代大統領となる人物、李承晩は、1875年3月26日全州チョンジュに生まれました。
1897年、大韓帝国皇帝高宗の退位を要求したことで反政府活動家として投獄されます。
1904年、特赦によって出獄後、アメリカに渡ります。
1911年、日本による併合後の朝鮮に帰国しますが、寺内正毅朝鮮総督暗殺事件への関与を疑われたため、アメリカに亡命。
1913年、ハワイを拠点にして朝鮮独立運動に参加。
1919年4月、上海で結成された中国国民党の下部組織「大韓民国臨時政府」の国務総理に就任。
同年9月11日、彼は臨時政府大統領に就任。
彼は国際連盟による朝鮮の委任統治を提案。しかし、共産党系左派、李東揮らの抵抗や独善的な政治手法へ批判が強まったことから、1952年には大統領の職を失い、再びアメリカに亡命せざるを得なくなります。
1945年10月、第二次大戦が終わり、在朝鮮アメリカ陸軍司令部軍政庁が統治する朝鮮に戻ります。アメリカの後ろ盾を得た彼は、左派と距離をおき反共統一を主張します。そして、地主・資本家、日本統治下時代の官僚らの支持を受け、南朝鮮単独選挙に見事勝利して、初代大統領に就任しました。
<金日成キム・イルソン>
北朝鮮の指導者となる金日成は、1912年4月15日、平壌に生まれています。
1940年末、抗日パルチザン部隊で戦った後、ソ連領内に逃亡。ハバロフスク近郊の野営地でソ連軍からの訓練・教育を受けました。
1945年9月19日、終戦後ウラジオストクからソ連軍の貨物船プガチョフに乗船し元山港に上陸。この時の彼は、実際はソ連軍第88特別旅団の一兵士に過ぎなかったのですが、後に彼はこの時自身が英雄的活躍をしたとし、「抗日パルチザンの英雄」として凱旋することになります。
10月14日、平壌で開催された「ソ連解放軍歓迎平壌市民大会」で初めて彼は朝鮮民衆の前に姿を見せました。そして、ソ連当局からの支援を背景に彼は北朝鮮人民委員会の委員長に就任。その後、選挙によって朝鮮民主主義人民共和国の首相に就任します。
1949年6月30日、彼は朝鮮労働党中央委員会委員長にも選出されました。これで彼の権力は絶対的になったと思えますが、実は当時はまだ労働党内にいくつかの派閥が存在し、まだ絶対的な権力を掌握したわけではなかったようです。
金日成が率いる満州派の他にも、甲山派、南朝鮮労働党、中国共産党系の延安派などがありました。しかし、彼はその後、次々のそれらの派閥との抗争に勝利し、現在に至る権力の独占を実現しました。
そして、彼は次なる目標として、連合軍により南北に分裂させられていた朝鮮の統一を目指します。彼はそのためにスターリンに協力を要請。しかし、スターリンは当時東欧の支配体制強化に忙しく、出兵は拒否し、援助はするから自分でやれと言うスタンスをとります。欧米との直接的な対決になることを恐れていたとも言えます。
<朝鮮戦争勃発>
1950年6月25日午前4時、朝鮮人民軍が突如、38度線を越えて韓国に侵攻します。国連安全保障理事会は北朝鮮に対し侵攻中止を求める決議を行い、韓国を支持。しかし、侵攻は止められず、韓国政府は27日に首都のソウルから脱出し、水原に移動します。
28日、朝鮮人民軍第3師団の戦車10台がソウル市内に入り、韓国軍は北朝鮮のそれ以上の侵攻を阻止するため漢江ハンガンの人道橋を爆破。この時、民間人800人が死亡しました。こうして韓国軍はソウルから撤退。北朝鮮軍が圧倒的に韓国軍を撃破し続けます。
7月1日、朝鮮人民軍は仁川インチョンも制圧。それに対し、アメリカは熊本に駐屯していた第24師団第21連隊第1大隊440名を先遣隊として派遣し、釡山に上陸。ここからアメリカ軍の参戦が始まります。
7月7日、韓国軍は師団の再編成に着手。首都師団、第1師団、第2師団を創設。鎮川チンチョン、忠川チュンジュ、堤川チュチョン、平海里ピョンヘリを結ぶ防衛線を構築します。この日、国連はアメリカが指揮をとる国連軍の編成を決定。総司令官にはマッカーサー元帥が任命されました。
8月16日、日本の基地から発進したアメリカ空軍のB29爆撃機の編隊が倭館ウェヴァン北西部の朝鮮人民軍への絨毯爆撃を実施。その後も爆撃機による空爆を続けます。しかし、陸軍は大田テジョンでの戦闘で敗れ、ついに釡山とその周辺に追い詰められてしまいます。この時点で朝鮮半島は北朝鮮によりほとんど統一される直前まで来ていたのです。
<反転攻勢>
1950年9月15日、国連軍5万人を乗せた第10軍の艦船230隻による仁川上陸作戦が始まります。同時に釡山周辺でも反撃作戦が開始され、アメリカ、イギリス、韓国による大規模な反転攻勢により戦局は一変します。
9月19日、釜山まで進撃した国連軍はさらに倭館の制圧にも成功。敗走し始めた北朝鮮軍を国連軍は両面から挟み撃ちにし一気に38度線の向こうへと押し出し、さらに北へと進軍します。ここで韓国はもう少しで朝鮮半島を統一しかけていました。
敗色濃厚となった北朝鮮の金日成は、ソ連のスターリンに応援を求めますが、戦争の矢面に立つことを避けるため、彼は中国の指導者、毛沢東に援軍を送るよう圧力をかけます。スターリンは毛沢東に、「今もし朝鮮半島がアメリカの支配下となれば、次はアメリカが日本と共に中国の征服を企てるだろう」と脅したのです。毛沢東は、その言葉を信じ、中国軍に鴨緑江を渡って国連軍への攻撃を開始するよう指示します。
10月8日、中国は義勇軍の派遣を正式決定し、その準備を極秘裏に進めます。その間にも、国連軍は進攻を続け、20日にはアメリカ第1騎兵師団が平壌を制圧します。しかし、その1日前の19日、中国の義勇軍が突如、鴨緑江を渡り、北朝鮮への侵攻を開始していました。
11月1日、物量に勝る中国義勇軍の猛攻撃により、韓国軍第6師団が壊滅。
11月5日、この時点で中国義勇軍は攻撃を中止し、その後は朝鮮人民軍に攻撃を引き継がせます。それに対し、アメリカ軍は8日から空爆を開始し、2週間後には数十万人の市民が爆撃によって命を落とすことになりました。
11月26日、中国義勇軍による2回目の総攻撃が始まります。韓国軍第2師団は壊滅状態となり、参戦していたアメリカ軍は陸軍史上最大の屈辱的な敗走を余儀なくされました。国連軍はなんとか壊滅を免れて撤退します。こうして、これ以降は38度線を挟んでの一進一退の攻防が続くことになりました。
<停戦に向けて>
アメリカのトルーマン大統領はあまりの被害の大きさに停戦を模索し始めますが、マッカーサーは核兵器を使用してでも勝利するべきと主張。このままでは危険と判断したトルーマンは、1951年4月11日、第二次大戦の英雄マッカーサー将軍をすべての軍の地位から解任します。
この時点で金日成もまた核兵器による攻撃を恐れていて、休戦の模索を始めますが、こちらはスターリンが休戦を認めませんでした。
1953年にスターリンがこの世を去ったことで、かろうじて雪解けの気配が見えてきます。ここから休戦協定の交渉が始まり、7月27日に休戦協定が結ばれ、戦闘は中止されました。
ただし、前述のとおり、それはあくまでも休戦状態であって、戦争が終わったわけではないのです。
<日本と朝鮮戦争>
当時、アメリカは日本にも朝鮮戦争への参戦を求めたと言われます。しかし、戦後復興を優先すべきと考えた吉田首相がそれを拒否し続けたと言われます。その代わり、日本は戦車揚陸艦 Landing Ship Tank の操縦要員の派遣と機雷の掃海作業を担うことになり、海上保安庁にこの時、特別掃海隊が設立されました。
在日アメリカ軍は、1950年6月に在日兵站司令部 Japan Logistical Command を設立。そこで大量の物資を買い付け、日本国内で各種サービスや作業を発注し始めます。
1952年3月からは日本の企業に兵器、砲弾の生産命令が出され、車両の修理、航空機の定期点検・修理などを三菱重工、SUBARUなどが請負し、こうした契約額は1950年から1952年だけで3000億円の達したと言われます。ただし、こうした特需もアメリカの言い値によるもので、その材料や資源となる物資はアメリカから購入していたことから、輸入超過状態が続いていました。
また日本は終戦処理費として占領軍の経費を負担していたので、朝鮮戦争特需の売り上げ総額は占領総経費と相殺され、利益にはほとんどなっていなかったとも言えます。さらにその利益の分配に関しても、明らかに不平等が存在したことから1960年代に向けての反政府運動が盛り上がる大きな原因になったと言えます。様々な意味で、その影響は日本にも及ぶことになりました。
<参考>
「地図と写真で見る昭和史戦後篇1945-1989」 2022年
(著)半藤一利
平凡社
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