- U2 -

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<大好きなロック・バンド>
 1980年に僕が最も好きだったロック・バンドは、アメリカならトーキング・ヘッズで、イギリス(もちろん正確にはアイルランド)ならU2でした。トーキング・ヘッズは、その後解散してしまいましたが、U2は21世紀に入ってもなお現役バリバリで活躍を続けています。ロック界における彼らの存在感は、REMやストーンズに匹敵するようになったと言えるでしょう。
 でも、U2についてはひとつ昔から気になる点がありました。それはボノをはじめとするバンドのメンバーに対し、どうも親近感がわかないという点です。この点は、トーキング・ヘッズのメンバーが僕にとってすごく身近に感じられたことと対照的です。ボノのスター気取りについては、どうやら以前から批判があったそうですが、僕の記憶には、彼らについて非常に印象深いシーンが残っています。それはかつて彼らがテレビ朝日の報道番組「ニュース・ステーション」にゲスト出演した時のことです。
 ゲストとして司会の久米宏の横に座ったボノは、いきなり足を上げるとドッカとテーブルの上にのせ、ブーツの底をカメラに向けました。まあ、カメラに唾を吐いたり、放送禁止用語を連発することに比べればささやかな行為かもしれません。それはマスコミに対し「俺はあんたらの思い通りにはならないぜ!」という意思表示だったのかもしれません。その点では、30すぎてなお、そういう行動をとるぐらいでないと「ロック・ミュージシャン」とは呼べないぜ、ということも言えるかもしれません。
 でも、そんなにテレビ・カメラが嫌いなら最初からテレビになんかでなければいいのです。それは、単にワルぶってるだけじゃないか?そうも思えたのです。普段から政治問題について鋭い発言をしているぶん、どうも厳しい見方をしてしまいます。たぶん、こうして彼らは多くの人々から尊敬されつつも、胡散臭がられているのではないか、そんな気がします。
 しかし、僕は彼らの行動が単に「良いカッコしい」ではないと思っています。彼らの行動には信念があることは明らかだからです。彼らの音楽は流行を取り入れながらも、確かに「ロック」であることを辞めてはいない、そう思います。

<ボノの取っつきにくさ>
 日本人はアイリッシュ・サウンドに対し、情緒的には親近感を覚えやすいように思います。それは気候、風土、地理的にアイルランドと日本が近いことから、質的に近いせいかもしれません。しかし、政治的、宗教的にみるとアイルランドと日本はかなり異なっています。イギリスの植民地として虐げられ、生き延びて行くために世界中に移民せざるを得なかったアイルランドの人々。彼らの存在は、日本にとっての沖縄もしくは韓国のような存在です。
 かと思えば、アイルランドは、第二次世界大戦中、イギリスからの独立運動の最中だったことから、ドイツ軍に協力していたという意外な歴史ももっています。ヨーロッパに位置していながら、その歴史は実に複雑なのです。
 そう考えると、日本人がアイルランドの国民感情を理解することが困難のは当然でしょう。ボノの取っつきにくさの原因は、そのせいもあるのでしょう。

<U2誕生>
 ボノ・ヴォックスこと、ポール・ヒューソンは、1960年5月10日、アイルランドのダブリンに生まれました。(なんと僕の生まれた日と2ヶ月違いです。まさに同世代です!)父親は郵便局員で生粋のダブリン子、アイルランドの国教とも言えるローマン・カトリックの信者でしたが、プロテスタントの女性と結婚い、自らもプロテスタントに改宗。子供たちもまたプロテスタントとして育てられました。 
アイルランド紛争の歴史

 ヨーロッパにけるマイノリティー的存在だったアイルランドというカトリックの小国において、プロテスタントであるということは、二重の意味でマイノリティーだったことになります。このことは、U2の音楽のもつ複雑さにも少なからぬ影響を与えているはずです。
 そんなポールがバンド活動に参加するきっかけは、1976年中学校の掲示板にはりだされたバンド・メンバー募集のポスターでした。広告主は後にU2のドラマーとなるラリー・ミューレン。その後、アダム・クレイトン(べース)、デイブ・エヴァンス(ギター)を含めたメンバーが集まり、先ずはザ・フィードバッグ、その後ザ・ハイプ(誇大宣伝)と言う名前のバンドを作って活動して行きます。スタート当初、彼らが目指していたのはバディ・ホリーやローリング・ストーンズらの50〜60年代のロックでしたが、コピーするだけの演奏力が伴わなかったために、しだいにオリジナル曲を増やして行きます。(今では信じられませんが・・・)

<パンク・ムーブメントに乗って>
 そうこうするうちに時代はパンク・ムーブメントへと移行し始めました。そのため、彼らが演奏する曲も、ストゥージズMC5ヴェルベット・アンダーグラウンドなど、元祖パンクのバンドたちの曲から影響を受けるようになって行きます。とはいえ、当時の彼らはまだ15〜16歳の少年たちでしたから、彼らをパンク・ロック最後の世代と呼ぶのはちょっと無理があるでしょう。
 それでも、彼らは見た目はしっかりパンクのバンドとして活動し、ダブリンの街で少しずつその名を知られるようになります。そして1978年、彼らはある音楽コンテストで優勝を飾り、それをきっかけにCBSのオーディションに合格、いっきにデビューのチャンスをつかみました。
 1979年発表の3曲入りデビューシングル「U2 : 3」はいきなりアイルランドでナンバー1ヒットに輝き、1980年のデビューアルバム「BOY」は早くも全英チャートを飛び越えて、全米チャートにまで登場するヒットとなりました。

<独特のスタイルから80年代の最高峰へ>
 デビュー時点で、彼らはすでに独自のサウンド・スタイルを確立していたと言えそうです。「ジ・エッジ」ことデイブ・エヴァンス独特のギター・サウンドとボノ・ヴォックス(ラテン語で「良い声」という意味)のヴォーカルが生み出すパンク・サウンドでもニューウェーブでもない独特の音空間は、誰かのフォロワーでないと同時に、彼らのフォロワーを生むこともありませんでした。
 1980年代の中頃はロックにとっては、ムーブメント不在、ヒーロー不在の時期だったこともあり、彼らは80年代を代表するロック・ヒーローとして孤高の存在となりました。1985年アメリカのロック雑誌「ローリング・ストーン」は彼らを「1980年代ロックの最高峰」と讃えています。
 こうして彼らの黄金時代が始まります。
「アイリッシュ・オクトーバー October」(1981年)
「WAR (闘い)」(1983年) 
「ブラッド・レッド・スカイ=四騎 Under A Blood Red Sky」(1984年)
「焔 The Unforettable Fire」(1984年)
「ヨシュア・トゥリー The Joshua Tree」(1987年)
映画「魂の叫び Rattle and Hum」(1988年)とサントラ盤「魂の叫び」
絶頂期を迎えた彼らは「U2サウンド」を確立しながらも、その音楽を少しずつ変えて行きます。

<区切りの作品>
 例えば、純粋に反体制の若者として社会への怒りをぶつけていた80年代なかばまでを一区切りとすると、「焔」以後の彼らは、「広島に落とされた原子爆弾」「マーチン・ルーサー・キング牧師」「エルヴィス・プレスリー」それに「南アフリカのアパルトヘイト」など、具体的に社会に対し問題提起を行う、より政治的で内省的な主張をテーマとするバンドになって行きました。
 そして、その変化を音楽的な表現にまで広げてみせたのが、ダニエル・ラノワとブライアン・イーノのエンジニアリング&プロデュースによるアルバム「焔」でした。
 このアルバムで生み出された音響空間は、いっきにダニエル・ラノワの名を世界的に広め、その後彼はピーター・ゲイブリエルボブ・ディランネヴィル・ブラザースロビー・ロバートソンらのアルバムをプロデュースする大物プロデューサーへと成長することになります。
 1987年に発表された「ヨシュア・トゥリー」は、僕だけでなく多くの人が1980年代を代表する名盤に教えていますが、それだけに彼らにとっての次なるオリジナル・アルバムへの期待と不安はそうとうなものがあったでしょう。

<ロックの魂への旅>
 普通のバンドなら、ここで音楽的に煮詰まって解散してしまうか、開き直って二番煎じ的なアルバムを作るかのどちらかかもしれません。しかし、彼らはそうなる前に初心に返るための「心の旅」に出発しました。
 その「心の旅」は、アイルランドからアメリカ深南部へとロックのルーツをたどる旅でした。彼らはその途中で数多くのミュージシャンたちと出会い、その中のひとりB・B・キングとは共演ツアーを行うことになります。その旅の記録は映画「孤独の叫び」で見ることが出来ます。
 少年から大人へ、そしてかつて憧れていたロックン・ロールのルーツへと「魂の旅」を続けた彼らは、こうして大きな区切りを向かえることになりました。

<アイリッシュ・サウンド・ブーム>
 ところで、彼がアメリカでロックのルーツを探る旅を行っている頃、彼らに向けられた世界の目は、その故郷アイルランドにも、向けられるようになりました。(当時活躍していたアーテイストでアイリッシュ系は、他にエンヤ、ウォーターボーイズ、ホットハウス・フラワーズ、クラナド、ポーグス、クリス・デ・バー、ヴァン・モリソン、ブームタウン・ラッツ、シン・リジー、クリス・レア、エルヴィス・コステロ、シンニード・オコーナー、オイスター・ボーイズそれとトム・ジョーンズも)彼らの活躍は1980年代後半にアイリッシュ・サウンドが世界の注目を浴びるきっかけの一つになりました。もちろん、彼らの音楽にはアイリッシュ・サウンドの伝統は感じられませんが、その歌詞や反体制的な政治姿勢からは、反骨で独立心旺盛なアイルランド魂がしっかりと感じられます。ついでに言うと、アメリカにおけるアイルランド系住民の存在は、警察官、消防士などの固い仕事に従事していることで有名で、社会主義よりの民主党支持者が多いと言われています。ただし、レーガン元アメリカ大統領や赤狩りで有名なマッカーシー上院議員、ジョン・ウェインなど、マッチョなタカ派もまたアイリッシュであることも確かです。

<その後のU2スタイル>
 自らのルーツへと立ち返った彼らは、この後まったく新しい「U2スタイル」を生み出して行きます。
「アクトン・ベイビー Actung Baby」(1991年)「ズーロッパ Zooropa」(1993年)「ポップ Pop」(1997年)と続いた90年代のU2サウンドは、80年代のそれとはまったく異なるタイプでした。それまでの、時に骨太で時に美しく幻想的だったロック・サウンドは、ノイジーでエレクトリックなダンス・サウンドへと変貌をとげ、ロックにこだわる多くのファンを驚かせました。
 「もうU2に興味なし」そういう人もかなりいました。僕自身も、「ヨシュア・トゥリー」への思い入れは今でも強いのですが、それでも90年代の3枚はけっこう気に入っています。
 どのスタイルが好きかは、あくまで個人の趣味の問題ですが、彼らがロックにおける最重要の規範「ライク・ア・ローリング・ストーン 転がる石にコケはつかない」に対し、未だに忠実であることだけは間違いありません。
 けっして、時代の先を行っているわけではありません。しかし、時代を意識しながら着実に変化をとげながら彼らは21世紀に入ってもなお大活躍しています。数少ない僕と同期世代のバンドにはいつまでも、がんばってほしいと思います。

<締めのお言葉>
「我々に求められる唯一の勇気、それはいつ出会うともしれない奇妙なもの、異常なもの、不可解なものに対する勇気である。
 人類はこうした感覚に臆病だったために、生をそこないつづけてきた。・・・」

ライナー・マリア・リルケ

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