- 植木等とクレージー・キャッツ Hitoshi Ueki & Crazy Cats -

<昭和とともに生まれた男>
 クレージー・キャッツのヴォーカルであり昭和を代表するコメディアン、植木等 Hitoshi Ueki は、1926年(対象5年)12月25日名古屋市に生まれています。クリスチャンから僧侶に転向する不思議な父親のもとで育つことになる彼が生まれた日がクリスマスであるというのも運命的ですが、その日は大正天皇が亡くなった日でもありました。彼は昭和とともに誕生したといえるわけです。
 植木等について語るためには、彼の父親、僧侶の徹誠について語らなければなりません。昭和を代表するキャラクターはその父親の影響なしでは生まれなかったと思えるからです。植木等は「日本一の無責任男」と呼ばれることになるにも関わらず、実際は真面目で責任感のある生き方を貫き通しました。実はそのギャップにこそ、植木等そしてクレージーキャッツの魅力の秘密が隠されているのではないか、そんな気がします。
 まずは、彼の父親の話から始めたいと思います。

<植木等の父>
 植木等の父親、植木徹之助(後の徹誠)は、1895年(明治28年)に三重県の伊勢市で生まれました。11人兄妹真ん中だった彼は、小学校を卒業すると同時に地元が生んだ有力者、御木本の真珠加工工場で働くため東京に出ました。すると、御木本家がクリスチャンだったことから、彼も教会に通うようになり、ついには洗礼を受けてクリスチャンになりました。ただし、真面目なクリスチャンだった彼ですが、当時の流行歌だった義太夫が好きでアマチュアながら「植木東響」という芸名を持つほど人気もありました。そのため一度はプロの義太夫語りになろうとするものの、両親から反対されて泣く泣くあきらめたそうです。(植木等の遺伝子は父親ゆずりだった!)
 ところがミュージシャンになることをあきらめたからか、クリスチャンとして生きて生きていたからか、その後、彼は労働運動の活動家として活躍し始めます。時代は、まさに「大正デモクラシー」真っ只中でした。彼は鈴木文治らが開設した「日本労働学校」で学び始めることになります。
 1923年(大正12年)、日本を関東大震災が襲います。この時の火災で御木本の本店が焼失。そのため、工場も閉鎖に追い込まれました。徹之助は職を失うと同時に治安維持法の公布により、労働運動の継続もしだいに困難になってしまいます。
 そんな厳しい状況の中、植木等は3人目の男の子として生まれました。仕事を失った徹之助は、しかたなく家族連れて三重にある義理の父の家、西光寺に転がり込むことになりました。そして、そこで義理の父に勧められ、お坊さんになるための修行を開始します。こうして、クリスチャンとしての洗礼を受けた社会活動家の僧侶が誕生することになったのです。
 一人前となり田舎の小さな寺を任された僧侶、徹誠はその土地で部落解放運動の中心として活動を始めます。しかし、右傾化する時代の流れの中、彼は思想犯として特高に逮捕されてしまいます。
 当時、彼は「戦争は集団殺人だから、絶対に死ぬな。そして、できるなら相手も殺すな」と人々に説いていたのですから、逮捕されるのも当然でした。
 そのため、等少年は学校で周りの子たちから「アカの子」と呼ばれていましたが、彼自身は父の思想が間違っているとは思わなかったので平気だったといいます。素晴しい父子関係です。ただし、家庭人としての父親は、妻に苦労をかけ続ける最悪の「無責任男」だったことも確かなようです。

<僧侶を目指して>
 彼と家族は父親が逮捕されたことで、いよいよ生活に困ることになります。等や長男が父親に代わってお経を唱えたりするにも限界があり、ついに等は僧侶になるために東京本郷にある寺で小僧として住み込みで働くことになりました。こうして、彼は5年間、寺で修行をし続け、出所した父親や家族とともに東京で暮らしながら東洋大学に入学します。
 その頃、彼は大学で音楽好きの仲間とバンドを作り音楽活動を始めます。彼がヴォーカルを担当し、ラジオ歌謡や軍歌、シャンソン、タンゴなどを演奏するそのバンドは、軍需工場で慰問コンサートを開催し、女工さんたちに大人気だったといいます。この時の体験が彼に歌手になる夢をもたらすことになりました。しかし、そんなつかの間の音楽活動も東京大空襲により家を失い、兄を戦争で失うことで再び暗転してしまいます。彼はその後、終戦までの期間を北海道で「援農学徒」として働きながら過ごすことになりました。

<終戦後、ギタリストとして>
 終戦後、北海道から戻った彼は、テイチク・レコード主催の新人歌手コンテストに参加し、1500人の中の4人に選ばれます。この時、すでに彼の歌唱力は飛びぬけていたということです。しかし、彼がその歌唱力を生かすチャンスはまだまだ先のことになります。運命は、彼にまだチャンスを与えてはくれませんでした。
 とりあえず、ミュージシャンとして生きる道を歩もうと決意した彼は、両親の反対を押し切って、バンドボーイとして、刀根勝美楽団に入団します。そして、彼はそこでドラマーを目指す三歳年下の親分肌の青年、野々山定夫と出会います。それが後にクレージーキャッツのバンド・リーダーとなるハナ肇でした。
 バンドで働くため、彼は中古のギターを買ってギタリストになるための練習を始めます。そして、ハナ肇とともに萩原哲晶率いる8人編成のバンド、デュークオクテットにギタリストとして参加。進駐軍クラブを中心に演奏活動を始めます。幸いなことに、1952年ごろ急に日本ではジャズのブームが始まり、彼らのようなジャズを演奏できるバンドマンは引っ張りダコの存在となります。
 その後、彼はドラマーのフランキー堺率いるコミックバンド、シティー・スリッカーズに移籍。そこでトロンボーン担当の谷啓、ピアニストの桜井千里と出会います。

<クレージー・キャッツ誕生へ>
 シティー・スリッカーズの一員として、当時の人気スター越地吹雪やペギー葉山らの前座をつとめる中、彼は同じように忙しく活動していた人気バンド、シックス・ジョーズのメンバーと付き合うようになります。そのバンドのベーシストだった渡辺晋は後にバンドのマネージャーだった曲直瀬美佐と結婚し、渡辺プロを設立し、植木にとって生涯の盟友となります。
 同じ頃、ハナ肇が自らのバンド、「ハナ肇とキューバン・キャッツ」を立ち上げます。そのメンバーは、ハナ肇(ドラム)、萩原哲晶(クラリネット)、橋本光雄(ピアノ)、稲垣次郎(テナーサックス)、南晴子、筑波礼子(ヴァーカル)の7人でした。
 このバンドとシックス・ジョーズは誕生したばかりの渡辺プロのバンドとして活動することになり、ハナ肇と渡辺はすぐに植木と谷啓にもキューバン・キャッツに参加するよう声をかけました。こうして、植木と谷が参加してバンドはメンバーを一新、再スタートを切ることになります。時は1957年(昭和32年)、バンド名はこの時すでにクレージー・キャッツと改められていました。
 なぜ、キューバン・キャッツがクレージー・キャッツになったのか?それは進駐軍クラブでの演奏中、彼らのハメをはずしまくる演奏にGIたちが「You Crazy!」と叫んだからということです。こうして誕生したクレージー・キャッツのメンバーは、
ハナ肇(ドラム)、植木等(ヴォーカル、ギター)、谷啓(トロンボーン)、犬塚弘(ベース)、石橋エータロー(ピアノ)、安田伸(テナー・サックス)
 当時、渡辺プロが画期的だったのは、彼らバンドのメンバーを社員として雇い、仕事の量に関わりなく給料を支払っていたことです。これにより、メンバーは安定した収入により家族を安心して養うことができました。こうした、心の余裕が彼らのおバカなギャグを生む原動力だったのかもしれません。それともうひとつ、彼らのもつジャズで鍛えた優れたリズム感もまたテンポの良いギャグに影響を与えていました。チャップリンも、ビートたけしも、エノケンも、ドリフターズも、優れたコメディアンには優れたリズム感があります。
 ただし、優れた演奏力とおバカなギャグを武器にクレージー・キャッツは人気者となりましたが、それはあくまでも進駐軍クラブやキャバレーなどの狭い範囲だけのことでした。それが日本全体へと一気に広がることになったのは、テレビの力によるものでした。

<テレビでブレイク!>
 1959年、フジテレビ開局とともに始まった番組「おとなの漫画」にクレージー・キャッツは出演することになりました。それは月曜から土曜までの毎日、その日のニュースをネタにそれをコントにして5分間の番組として放映するという企画でした。時代が時代なだけに、その番組はすべてがぶっつけ本番の生放送でした。ちなみに、この番組の台本を書くために作家としてデビューしたのが、青島幸男でした。短い番組ではありましたが、全国放送のこの番組によってクレージー・キャッツの名は全国に広まることになります。
 1961年(昭和36年)3月4日午後6時半、日本テレビで彼らが出演する新番組がスタートします。昭和を代表するヒット番組「シャボン玉ホリデー」です。11年ものロングランヒットとなったこのバラエティー番組は、ザ・ピーナッツとクレージーキャッツを中心に歌とコントを詰め込んだ楽しい番組で、これは僕も子供の頃に見ていました。
 あの有名なギャグ「お呼び出ない?お呼び出ない?こりゃまた失礼いたしました!」はこの番組から生まれたものです。
 
 植木等が語っていたところでは、ある日番組の放送中に(もちろん生放送の最中)当時植木の付き人だった小松正夫が、タイミングを間違えて植木を呼び入れたため、仕方なく植木が「お呼びでない!」を連発してごまかした、というのが原点だったということになっています。ところが実際は、当時まだ小松正夫は植木の付き人ではなく、これは植木が作った小松の名前を広めるための作り話だったといいます。これもまた植木等という人物の心使いを示す逸話です。
 この番組は、単なるコント番組ではなく渡辺プロのアーティストたちによる素晴しい歌謡ショーでもありました。(中尾ミエ、伊東ゆかり、園マリ、梓みちよ・・・)そして、この番組から昭和歌謡を代表するヒット曲「スーダラ節」が誕生します。

<スーダラ伝説>
 この曲「スーダラ節」にも誕生秘話があります。
 ある時、植木家が突然停電になってしまいました。しかし、周りの家は停電ではない?ということで近所の電気屋さんに来てもらいました。その時やって来たのは、16,17歳ぐらいの少年で、大丈夫なのか?と見ていると、彼は鼻歌を歌いながらあっさりと停電を直して帰りました。そして、その時の少年の鼻歌があの「ススラ、スーララッタ、スラスラスイスイスイ・・・」だったといいます。その鼻歌がすっかり頭に残ってしまった植木は、その後しばらく仕事中にそのマネをするようになり、それを毎日聞かされた渡辺晋が、面白いから歌にしたらどうだといったのでした。そこで、作詞が青島幸男、作曲が萩原哲晶による大ヒット曲「スーダラ節」が誕生することになりました。(1961年8月発売)
 音楽業界におけるこの曲の重要さとして特筆すべき点があります。この曲はレコード会社ではなく芸能プロダクションが原盤を制作した最初のレコードだったということです。わずか数社のメジャーレーベルが独占していた音楽業界で、初のインディーズ・レコードだったわけです。原盤の権利を有していたことで、渡辺プロは大きな利益を得ることになり、事務所の発展に大きな貢献をすることになります。
 意外なことに、当初、植木等はこの歌を歌うことを嫌がったといいます。父親譲りの生真面目な性格からすると、「スーダラ節」の無責任な主人公の生き方に感情移入できないのは当然でした。彼は酔っ払いの無責任男どころか、酒も飲まず、夜遊びもしない真面目人間だったのです。

ちょいと一杯のつもりで飲んで、いつのまにやらはしご酒
気がつきゃホームのベンチでごろ寝、これじゃ体にいいわきゃないよ
わかっちゃいるけど、やめられない


 ところが、その歌の歌詞を聴いた父親は意外なことに、「わかっちゃいるけど、やめられない」のフレーズは、まるでお釈迦様の言葉のようだと褒め、是非歌うようにといったとか・・・。父親の方が大きな人間だったようです。

<日本一の無責任男誕生>
 この曲の大ヒットに映画界もすぐに飛びつきました。すぐに映画「スーダラ節 わかっちゃいるけどやめられねえ」が大映で製作されます。しかし、タイトルをもらっただけの作品は不発に終わり、すぐに植木等らクレージーキャッツのメンバーを主演にした映画の企画が登場します。監督には古沢憲吾が選ばれ、映画「ニッポン無責任時代」が作られ大ヒットを記録することになりました。
 この映画の主題歌「無責任一代男」の「こつこつやる奴は、ごくろうさん」というフレーズも忘れられません。勤勉実直な日本的サラリーマン像を馬鹿にしたかのようなこの曲は、高度経済成長にわく当時の日本人に対するアンチテーゼとして大衆の心をつかんだともいえます。実は60年安保をへて70年安保へと続く反体制的な時代の流れにクレージーキャッツは無関係ではありませんでした。

「・・・国会前のデモには、あのクレージーキャッツも来ていて、彼らが静かに『赤とんぼ』を唄ったんですね。それを聴いたとき、僕はとても感動した。でも、そのときの感動って、とてもひとことですませられるようなものではないですよね。・・・」
永六輔(1960年)

 B面のカップリング曲「ハイ それまでョ」も歴史的名曲です。渋いバラードで始まった曲が、突然「テナコト言われて、ソノ気になって」からツイスト曲に変化するぶっ飛びノベルティー・ソングの傑作です。植木等の思いに反し、クレージーキャッツはあくまでも「クレージー」であることを求められ続けます。

<ソロ活動へ>
 1970年代に入りクレージーキャッツの人気はピークを過ぎ、「シャボン玉ホリデー」の放送も終了。時代はクレージーからコント55号、ドリフターズへと変わろうとしていました。これ以降、クレージーのメンバーたちはソロとして俳優、タレントとして活躍を続けることになります。
 1984年、植木等は映画「逆噴射家族」に出演します。若手の監督石井聰互の家族崩壊のぶっ飛びコメディー作品は、海外でも高い評価を受けることになり、植木の俳優としての存在感も高く評価されました。
 すると翌年、彼のもとにあの黒澤明から出演のオファーが来ます。こうして映画「乱」への出演が決まりました。この映画の撮影中、天皇と呼ばれていた黒澤監督との間にこんなエピソードがあったそうです。

「どうも、我々っていうのは淋しいもんだね。時間も何も滅茶苦茶な毎日だしね、朝早くから夜中までやって、へたすりゃその翌日まで仕事してさ。その上、スタッフに気を遣ったりしなくちゃならない・・・」
 ある日夕食の席で黒澤監督がこう語ったそうです。まわりのスタッフの多くは、「よく言うよ!朝まで働かせているのはあんたでしょ・・・それに気を使っているはこっちでしょ!」と思ったはず。すると、その席で黒澤の隣に座っていた植木が黒澤にこう言ったそうです。
「黒澤さん、何を甘ったれたことを言っているんですか。好きなメンバーを集めて好きな仕事ができているのに、どうしてそんあことを言うんですか」
 そう言われて黒澤は黙って部屋に帰ってしまったそうです。あの黒澤明を黙らせたのです。

<1990年代伝説の復活>
 1989年、植木の盟友でもあった渡辺晋がこの世を去りました。そのままクレージーキャッツの伝説が消えてゆくかと思われましたが、1990年突然伝説が復活します。クレージーのヒット曲を宮川秦が編曲・編集したヒット・メドレー「スーダラ伝説」が発売され大ヒットし、クレージーの人気が再燃することになったのです。しかし、彼らに残された時間はもうほとんどありませんでした。
 1993年9月10日、ハナ肇が肝細胞癌で他界。翌1994年には石橋エータロー。1996年には安田伸がこの世を去りました。そして、2007年3月27日植木等もまたこの世を去りました。
 クレージーのメンバー全員がそろった最後の仕事は、今は亡き映画監督、市川準の「会社物語 Memories of you」(1988年)でした。かつて「ニッポン無責任時代」で彼らが見せたエネルギッシュで反抗的なサラリーマン像とは異なるサラリーマンがそこにはいました。時代はもちろん変わっており、それに合わせて彼らもまた変わったのです。(ちなみに、植木等の映画俳優としての遺作は、あの宮藤官九郎の監督作品「舞妓Haaaan!!!」でした)

 進駐軍クラブできたえた確かなテクニックに支えられたクールでクレージーなギャグの数々には、植木等が父親から受け継いだ徹底した平等思想や谷啓がもっていた天性のクールで無邪気な生き方が色濃く反映されていました。そして彼ら個性的なメンバーを見事にたばねたハナ肇のリーダー・シップにより、クレージーキャッツはメンバーがこの世を去るまで顔ぶれが変ることがありませんでした。
 僕も含め、多くの人はクレージーのコミックバンドとしての活躍しか知りませんが、彼らのジャズバンドとしての活躍を一度は見てみたかった。クールでクレージーな彼らの演奏はカッコよかったらしいです。残念。

「ニッポン無責任時代」 1962年
(監)古澤憲吾
(脚)田波靖男、松木ひろし
(出)クレージー・キャッツ
 この映画から「スーダラ節」、「ドント節」、「無責任一代男」がヒット。映画自体も大ヒットとなり、この後シリーズ化されることになりました。

<参考>
「植木等伝 わかっちゃいるけど、やめられない!」
 2007年
(著)戸井十月
小学館

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