「浮雲」

- 成瀬巳喜男 Mikio Naruse -

<映画史に残る名作>
 この映画は映画史に残る名作として常に日本映画歴代ベスト10に選ばれてきた作品です。もちろん、成瀬巳喜男の最高傑作といわれてきました。しかし、僕はつい最近まで未見のままでした。正直、「浮雲」のあらずじを聞いて、見たいという気にならなかったせいかもしれません。「ダメ男とダメ女のだらだらと続く愛の遍歴」この映画のあらすじはざっくりこんな感じです。
 先日、NHKのBS放送でデジタル・リマスター版としてこの映画が放送されていたので、ついに見ることができました。

 確かに物語りは、ダメ男とダメ女の愛の遍歴を延々と追いかけたものでした。しかし、その描写が実にリアルかつ丹念に描かれていて驚かされます。もちろん、デジタル・リマスター版ということで、元々素晴らしかった映像が見事に蘇っています。このリアリズムの裏には、撮影の玉井正夫、美術の中古智という優秀なスタッフの存在があったことも重要です。さらに原作者の林芙美子、脚本家の水木洋子という二人の女性の視点がなければ、絶対にリアルな女性目線の映像は撮らなかったでしょう。
 戦後間もなくの頃、日本中のどこにでもあったバラックの家、そのオンボロかげんや伊香保温泉のうらぶれたスナックの雰囲気はセットとは思えません。しかし、それ以上にリアリズムを感じるのは、俳優たちのセリフです。キザなセリフも、小粋なセリフもなく、そこではあくまでダメな男と女の嘆きや自嘲が繰り返されます。これは、格好つけなければ気がすまない男性の脚本家には書けないセリフ、内容だと思います。

<エロティック・ムービー>
 高峰秀子の入浴シーンは当時きっと多くのファンに衝撃を与えたのではないでしょうか?考えて見ると、当時男女混浴はそう珍しいことではなかったかもしれないのですが・・・。それでもこの映画はセックス・シーンを盛り込んで脚本をちょっといじると日活ロマン・ポルノの一本にもなりえるリアルな愛欲映画になりそうです。それだけ、この映画には生々しい愛の姿が描かれているということであり、同時に二人の主演俳優がその品の良さによりギリギリのところでエロティックさを抑えることで文芸作品の傑作として古さを感じさせない作品になりえたのでしょう。この映画の魅力は大人になってやっと理解できるものかもしれません。

<不幸が似合う女優、高峰秀子
 この映画を輝かせることに最も貢献しているのはやはり、美しさと色気、まさに「薄幸の美女」といったたたずまいをもつ女優、高峰秀子でしょう。彼女の存在なくして、この映画はあり得ません。なぜ、彼女はこの映画にここまではまっているのか?そのことについて映画評論家の川本三郎さんは、こう書いています。

 現代のような「なんでもあり」の時代から見ると、古臭いまでにモラルにとらわれている。しかし、その抑制こそが高峰秀子を美しくきわだたせている。
 「浮雲」の高峰秀子が美しいのも、家庭のある男性、森雅之との世を忍ぶ関係を続けている、いわばひかげな女であるからに他ならない。不幸が高峰秀子を美しくする。

 高峰秀子は早くからフリーになった。俳優は映画会社に属するものと決まっていた時代に高峰秀子はフリーの道を選んだ。フリー第一号である。その結果、作品を自分で選ぶことが出来た。駄作が少ないのはそのため。木下恵介と成瀬巳喜男をはじめとして小津安二郎、五所平之助、稲垣浩、豊田四郎ら錚々たる監督の作品に出演している。
 だから以前、インタビューした時、うれしそうにこう言った。
「私は幸せだった。日本映画のもっともいい時期に、もっともいい監督たちと仕事が出来たのだから」
 彼女はこうも語っています。
「いつの場合にも普通よりちょっと控え目にしておくのが大事なんです、女優は」

川本三郎「映画の戦後」より

<戦後日本人の肖像画>
 この映画は戦争によって人生を狂わされた戦後日本人の肖像画でもありました。戦争前の人生から家族や財産、仕事だけでなく、モラルや尊厳、名誉、宗教心など様々なものを奪われたことで生きる望みを失った人がどれだけいたことでしょう。そうした前後日本人のモラルの崩壊を描いた作品としてもこの映画の価値は高いといえます。生きる目標を失った主人公のような人々が、その後、高度経済成長を支え、生活の向上だけを生きる目標として闇雲に働き続けることになるのです。こうして、モラルを失った新しい日本人の時代が始まることになったのです。そう考えると、この映画の主人公のダメ男ぶりは、敗戦によってモラルや文化、天皇制などすべてを否定されてしまった日本の姿にそのままダブって見えてきます。

<愛の旅の終焉>
 二人の愛の旅は、日本の秘境「屋久島」で終わりを迎えます。その終わる方は、やはり悲劇と見るべきなのでしょうか?それとも、最後になって二人が一緒に暮らせるようになっていたことから幸福だったと見るべきなのでしょうか?
 二人の愛は、縄文時代からの歴史が刻まれた巨大な森の島で伝説となりました。悲劇的な愛のロード・ムービーとして、この作品も時代を越えて高く評価され、忘れられることはないのです。未見の方は是非一度ご覧下さい!

「浮雲」 1955年
(監)成瀬巳喜男
(原)林芙美子
(脚)水木洋子
(撮)玉井正夫
(音)斉藤一郎
(出)高峰秀子、森雅之、山形勲、加藤大介

この映画の最後、画面にはこの名文句が刻まれています。

「花の命は短くて
 苦しきことのみ多かりき」

林芙美子(著)「放浪記」より

<成瀬巳喜男>
 成瀬巳喜男は、1905年8月20日東京に生まれました。1920年、父親が早くに亡くなってしまったため、彼は家計を支えるために知人の紹介で松竹の蒲田撮影所で働き始めます。1922年からは助監督として、池田義信のもとで働き、同時に短編の喜劇映画用脚本を書くようになります。
 1929年、彼は「チャンバラ夫婦」で映画監督デビューを果たします。1931年の作品「腰弁頑張れ」は、松竹蒲田調の喜劇映画として高く評価されますが、それ以後、彼は喜劇から離れ、女性を主人公とするシリアスな作品を中心に映画を撮るようになります。
 水久保澄子主演の「君と別れて」(1933年)で高い評価を受けた後、栗島すみ子主演の「夜ごとの夢」(1933年)では早くも「浮雲」につながる「ダメ男のために苦労させられる寂しい女性」の原型が描かれています。当時、彼は松竹の撮影所長だった城戸四郎から「小津安二郎は二人いらない」と言われたといい、そうならないために独自の女性映画路線を模索することになりました。
 1934年、彼は助監督の山本薩夫とともにPCLに移籍。1935年には川端康成の原作をもとに自身初のトーキー映画「乙女ごころの三人姉妹」を撮ります。この年の「妻よ薔薇のように」はキネマ旬報ベスト10の一位に選ばれ、いよいよ彼は名匠の仲間入りを果たします。
 1937年、彼は実生活で女優の千葉早智子と結婚しますが、1940年には離婚。彼の実生活もまた破滅型だったのかもしれません。戦時中も彼は戦争映画を全く撮らず、芸人たちの人生を描いた「旅役者」(1940年)や「芝居道」(1943年)、「三十三間堂通し矢物語」(1945年)など、「芸道もの」と呼ばれる作品と子供の視点から社会を見つめた「まごころ」(1939年)、「秀子の車掌さん」、「なつかしの顔」(1941年)などの作品を撮り続けました。
 終戦後、1946年に「浦島太郎の後裔」で再スタートを切った彼は、東宝争議の混乱の中、黒沢明、山本嘉次郎とともに東宝を離れ、より自由な映画製作を求めて独立プロダクション「映画芸術協会」を設立します。しかし、思うような作品を作ることができなかった彼は、1951年古巣の東宝に復帰します。そして、急病のために降板した千葉泰樹に代わって名作「めし」を監督し、見事に復活の遂げます。

<映画の黄金時代とともに>
 1950年代に入ると、彼は林芙美子の小説を原作として次々に傑作を夜に送り出し、絶頂期を迎えます。
 高峰秀子主演の「稲妻」(1952年)、高峰三枝子、上原謙主演の「夫婦」(1953年)、杉村春子、沢村貞子主演の「晩菊」(1954年)そして、「浮雲」が生まれます。これらはすべて林芙美子の原作がもとになっていて、それを水木洋子、田中澄子らの女性脚本家たちが脚色しています。
 この時期の彼は林芙美子以外にも川端康成原作の「舞姫」(1951年)、「山の音」(1954年)室生犀星原作の「あにいもうと」(1953年)、「杏っ子」(1958年)や徳田秋声原作の「あらくれ」(1957年)など、文芸作品の映画化も多く、これらもまた女流脚本家たちの活躍なしにはありえませんでした。
 中でも、女流脚本家の先駆となった水木洋子は、元々は劇作家の出身でした。その後、映画界に仕事場を移し、名作「また逢う日まで」(1950年)を共同脚本で担当して有名になった彼女は、その後、1952年に「おかあさん」で成瀬巳喜男の脚本を担当し、その後、数多くの脚本を提供することになりました。彼女は1995年の「ひめゆりの塔」まで50年に渡り日本の映画を支え続けることになります。

「おかあさん」 1952年
(監)成瀬巳喜男
(脚)水木洋子
(撮)鈴木博
(音)斉藤一郎
(出)田中絹代、加藤大介、岡田英次、香川京子
 母親を主題とした作文コンテストに全国からよせられた作品の中からヒントを得て、水木洋子が書き下ろしたオリジナル脚本。少女役の香川京子と母親役の田中絹代の関係を描いた親子映画の名作であり、田中絹代にとっても代表作となりました。

 田中澄子もまた劇作家出身の脚本家で、成瀬作品の「めし」(1951年)、「稲妻」(1952年)、「晩菊」(1954年)、「放浪記」(1962年)などの脚本を担当しています。この二人の女性の存在抜きに成瀬巳喜男の傑作は生まれなかったかもしれません。

 「浮雲」でも成功した高峰秀子とのコンビは、その後も長く続き、「女が階段を上る時」(1960年)、「乱れる」(1964年)では中年女性の複雑な心理を描き高く評価されました。 1967年、司葉子主演の「乱れ雲」を撮影中、体調不良となり入院。直腸がんと診断されました。残念ながら彼はそのまま回復することなく、1969年7月2日にこの世を去りました。

「『それ要らない』とか、『これも要らない』・・・だんだん物がなくんっていくんえすよ。セットの中から。だからそれの極端な、つまり何も要らないんだ、物があるとじゃまなんだ、それからカラーも色がゴタゴタあるとじゃまなんだ、何もない白バックの前で一本撮りたいなといっていたのが
最後のセリフでしたね」

高峰秀子「講座日本の映画(6)日本映画の模索」(岩波書店)より

「(成瀬巳喜男は)酔うと、小津安二郎がおれにつくれない映画は溝口の「祇園の姉妹」と成瀬の「浮雲」だと言ってくれたという話を心から楽しそうに言ったそうである」
佐藤忠男「日本映画の巨匠たち」より

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