「アンダーグラウンド Underground」

- 村上春樹 Haruki Murakami -

Part 4

<異色の村上作品>
 村上春樹の小説は全部読んでいても、この作品は読んでいないという方はけっこういそうです。何せ題材が暗いし、分厚いし・・・。オウム真理教による地下鉄サリン事件の犯人ではなく被害者にインタビューを行ったものを分厚い一冊の本にまとめた内容ですから、僕自身も村上春樹によるものでなければ読むことはなかったでしょう。
 ところが読み出してみて驚きました。今まで彼の小説はすべて読んできたのですが、初めて読んでいて泣けました。村上春樹作品中、翻訳ものも含めて最も感動したのがこの「アンダーグラウンド」でした。僕自身が、子供をもつ親になり感動しやすく涙もろい親父になったせいも多分にあるのかもしれませんが、・・・。少なくとも、村上作品に登場する主人公たちよりも、この本に登場するごく普通の人々には感情移入しやすかったのは間違いありません。その点では、作者が事件の被害者たちを生き生きとした人間として描きたかったという意図は見事に実現されていたといえます。

「僕が『アンダーグラウンド』を書くにあたって、加害者側ではなく被害者のインタビューだけをできるだけ多く集めてみようと思った動機は、それまでの日本のマスメディアに被害者たちの声がほとんど登場しなかったからだ
 それに対して僕が試みたのは、彼ら被害者にも生き生きとした顔と声があるという事実を伝えることだった。彼らが交換不可能な個であり、それぞれの固有の物語を持って生きているかけがえのない存在であるということを、僕は少しでもこの本の中で示したいと思った。それが小説家というもののひとつの役目ではないかと思ったのだ。小説家はあるいは要領が悪く、愚かかもしれない。しかし我々はものごとを安易には一般化しない。・・・」

「東京の地下のブラックマジック」より

 人々を生き生きとした存在として描き出すためには、小説家村上春樹の存在は逆にリアリティーを減らすことになる、そう考えたこともあり、彼は自らの存在を文章の中から限りなく消そうとしています。そして、それが読者に生の被害者の声を聞かせることにも結びついたようです。
「・・・村上春樹という人間の影を消してしまおうと。とにかく自分を殺して相手の話を聞いて、それを自分の中でいったん沈めて、そこから改めて、その人が実際に目の前で話しているように文章として浮かび上がらせていこうと。・・・」
村上春樹

<小説家のノンフィクション>
 多くのノンフィクション作品は、事件や事実を歴史として正確に再現、記録し後世に伝えることを目的として書かれるか、その具体的な対応の参考となる資料として書かれているといえます。
 それに対して、小説家である著者は、どんな小説を書いてもそこには彼が思う「自分とは何か?」「社会とは何か?」「世界とは何か?」といった思想や問いかけをそこに込めています。そして、それは小説だけではなく、このインタビュー集にもいえることのようです。
 著者はインタビューした被害者たちの言葉を並べているだけですが、そこから確かに著者の言葉も聞こえてくるのです。次の文章はそのことについて書かれたものでしょう。
「社会がもともといかに劣悪なものであるにせよ、改良の余地がわずかしかないにせよ、少しずつでもいいから我々はそれを補強していかなくてはならない。そのような意志こそが、痛みに耐えつつ社会の閉鎖性をも正しく活性化させていくのではないか。僕は基本的にそ感じている。・・・」
「『アンダーグラウンド』をめぐって」より

 彼がこの本のために行った62名の関係者に対する膨大な調査資料はその後、彼の「1Q84」で再び大きな役割を担うことになりました。「1Q84」に登場する新興宗教「さきがけ」についての描写はまさにそこから生まれたものでした。その基本となる彼のカルトについての考え方について、こんな文章があります。

「彼らの多くは、自分というものの『本来的な実体』とは何かという、出口の見えない思考トラックに深くはまりこむことによって、現実世界(仮に<現実A>とする)とのフィジカルな接触を少しずつ失っていった。人は自分を相対化するためには、いくつかの血肉のある仮説をくぐり抜けていかなくてはならない。・・・
 しかし、実際には、今我々が囲まれている現実には、あまりにも大量のインフォメーションと選択肢が満ちており、その中から自分に有効な仮説を適切に選んでインテイクすることは、ほとんど不可能に近いように思える。・・・
 そこにたまたま強力な外部者が現れる。その外部者は、いくつかの仮説をわかりやすいセットメニューにして彼らに手渡してくれる。そこには必要なすべてのものが、こぎれいなパッケージになってそろっている。・・・」


「『跳びなさい』と外部者は言う。『君がやるべきことは、古い大地から新しい大地に跳び移ることだけなのだ』」
「自己とは何か」より

<小説家の世界とカルトの世界>
 小説家もまた読者を閉じられた「物語の世界」に閉じ込めることを仕事としています。しかし、カルトの指導者が信者を招きいれる「信仰の世界」と小説の生み出す世界は根本的に違うといいます。その違いについて、こう書いています。

「・・・僕らは物語という装置を通してそれを行う。『跳びなさい』と僕らは言う。そして読者を物語という現実外のシステムの中に取り込む。幻想を押しつける。勃起させ、怯えさせ、涙を流させる。新しい森の中に追い込む。固い壁を抜けさせる。自然ではないことを自然であると思わせる。起こるはずのないことを起こったことであると信じさせる。
 しかし物語が終わったとき、仮説は基本的にその役割を終える。・・・言い換えれば、その物語は開かれている。・・・しかし、個人としての麻原彰晃が、組織としてのオウム真理教が多くの若者に対してなしたのは、彼らの物語の輪を完全に閉じてしまうことだった。・・・」

「自己とは何か」より

「物語とは魔術である。ファンタジー小説風に言えば、我々小説家はそれをいわば『白魔術』として使う。一部のカルトはそれを『黒魔術』として使う。・・・」
「自己とは何か」より

 しかし、「アンダーグラウンド」で描かれているのは、彼らカルトの人々ではありません。あくまでもその主役は事件に巻き込まれたごく普通の人々です。だからこそ、読者はごく自然に登場人物に感情移入してしまい、いっしょに事件の混乱とその後の悲劇に巻き込まれてしまうのです。
 ごく自然に涙が出てしまうのも当然かもしれません。第一、作者自身こう語っているのです。

「・・・『アンダーグラウンド』だけは今読み返しても泣きます。まあこれは自分の文章というよりは、そこにある人々のボイスに共感するわけですけど、涙がとまらなくなる。・・・」
村上春樹

 「アンダーグラウンド」は名目上、村上春樹の作品ではあっても、それ以上に62人の証言者の作品でもあることを忘れてはいけないと思います。

<著者の問いかけ>
 この作品で最も重要なことは、村上春樹という小説家があえてノンフィクションといういつもとは異なるスタイルを用いて読者にある「問いかけ」を行っているということかもしれません。そして、その「問いかけ」は、「地下鉄サリン事件」以降の彼の作品における重要なテーマとして、常に扱われることになります。この作品の「あとがき」にある下記の文章は、まさにその「問いかけ」について書かれたものです。特に、その後半部は彼がエルサレム賞の授賞式で行った有名な演説における「システムとの闘い」についての部分と共通しており、彼が常に同じテーマで作品を発表し続けていることを示しています。

「私たちがこの不幸な事件から真に何かを学びとろうとするなら、そこで起こったことをもう一度別の角度から、別のやり方で、しっかりと洗いなおさなくてはいけない時期にきているのではないだろうか。『オウムは悪だ』というのは易いだろう。また『悪と正気とは別だ』というのも論理自体としては易いだろう。しかしどれだけそれらの論が正面からぶつかりあっても、それによって<乗り合い馬車的コンセンサス>の呪縛を解くのはおそらくむずかしいのではないか。
 というのは、それらは既にあらゆる場面で、あらゆる言い方で、利用し尽くされた言葉だからだ。言い換えれば既に制度的になってしまった、手垢にまみれた言葉だからだ。このような制度の枠内にある言葉を使って、制度の枠内にある状況や、固定された情緒を揺さぶり崩していくことは不可能とまではいわずとも、相当な困難を伴う作業である私には思えるのだ。
 とすれば、私たちが今必要としているのは、おそらく新しい方向からやってきた言葉であり、それらの言葉で語られるまったく新しい物語『物語を浄化するための別の物語』なのだ - ということになるかもしれない。」


「アンダーグラウンド Underground」 1997年
村上春樹(著)
講談社

<追記>
<荒川洋治「本を読む前に」より>
 作者はみずから想像力と言語で(それがたとえ不恰好で、事実性をそこなう危険があるにしても)この事件の意味に向き合うべきだがそれを避けた。その背景にはノンフィクションの隆盛はフィクションの敗北感と強く結びつく。多くの資料をくまなく集め、「はだかの言葉」を絶対のものとしてふりがざすノンフィクションの威勢は、情報化社会の波に乗って作家たちの想像力を無用のものにしつつある。地下の真相を描いた本書は、フィクションの「力」を地下に沈めた。
(しかし、そこから「1Q84」が生まれることになります)

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