「許されざる者 Unfoegiven」 1992年

- クリント・イーストウッド Clint Eastwood -

<大好きだった西部劇>
 僕は昔から西部劇が大好きでした。しかし、ジョン・ウェインにはまったという世代ではなく、お気に入り映画の多くはテレビの洋画劇場でやっていたマカロニ・ウェスタンとニューシネマ系の西部劇でした。特に「明日に向かって撃て」やそれ以降の西部劇、サム・ペキンパーの作品群などは、僕に映画の魅力を教えてくれた大切な作品ばかりです。考えてみると、、僕にとっての西部劇は、日本映画における最近の時代劇のような存在だったのかもしれません。それは、「男の美学」であり、「消え行く伝統」であり、「死へと向かう生き様」でした。そこには人生を生き抜く教訓だけでなく、誰もが直面しなければならない厳しい現実と挫折感が描かれていました。
 しかし、そうした西部劇の複雑で重みのあるストーリーというのは、1950年代以前にはほとんどありませんでした。それ以前の西部劇は、かつて時代劇が「チャンバラ映画」と呼ばれていた時代と同じように「カウボーイ映画」の域を出ていなかったのです。(もちろん、それはそれで楽しい映画の一ジャンルではあったのですが・・・)
 ハリウッド映画がストーリーをもった最初の作品は、西部劇の「大列車強盗」だったといわれています。そこからスタートしたサイレントのアクション映画時代が赤ちゃん時代だとするなら、50年代のジョン・ウェインの西部劇は少年時代、そして60年代から70年代にかけて生まれたニューシネマ時代の西部劇は、さまよえる青春時代だったのでしょう。では、その後の西部劇はどうなったのか?「ラスト・シューティスト」や「グレイ・フォックス」など、熟年西部劇の名作が何本も作られ、しだいに西部劇の時代は終わりを迎えつつあったといえるでしょう。しかし、そんな終りを迎えつつある西部劇にこだわり続けた男がいました。西部劇のテレビ・ドラマ「ローハイド」からキャリアをスタートさせ、その後マカロニ・ウェスタン「荒野の用心棒」によって、一躍世界的な人気スターとなったクリント・イーストウッドです。

<最後の西部劇>
 クリント・イーストウッドは、人気を獲得した後、自らの映画製作会社マルパソ・プロダクションを設立。その後は、アメリカ・ナンバー1のドル箱スターとして、次々にヒット作を連発してゆきます。その中には、西部劇の現代版ともいえる「ダーティー・ハリー」や「ガントレット」などの作品を発表しながら、その合間に自らのルーツともいえる西部劇をコンスタントに撮り続けました。残念ながら、それらの西部劇はアメリカの専門家の間では、ほとんど評価されず、日本やヨーロッパでだけ高く評価されるという現象が起きていました。それはまるで彼が大好きなジャズがアメリカ国内では評価されず、ヨーロッパや日本で愛され続けたこととそっくりの現象でした。驚くべきことに、彼のアメリカでの評価がヨーロッパや日本並みに追いつくのに10年以上の歳月がかかりました。
 1992年、この映画「許されざる者」がアカデミー作品賞、監督賞、助演男優賞、編集賞を受賞。遅まきながらアメリカの映画界は彼の偉大さを認めることになりました。かろうじて、アメリカの映画界はイーストウッドの西部劇を評価する最後の機会に間に合ったのです。なぜなら、彼はもう西部劇を撮ることはないはずだからです。彼は「許されざる者」を自分にとって最後の西部劇と決めて撮っていたのですから。彼が撮る最後の西部劇ということは、すなわち西部劇の黄金時代を知る最後の世代による最後の西部劇ということなのです。これ以後も西部劇は作られることでしょうが、それはかつての西部劇とはまったく異なるものとなるはずです。
 クリント・イーストウッドは自らの手で西部劇と言うアメリカ映画最古のジャンルを弔ったといえるのかもしれません。だからこそ、この映画には西部劇の歴史だけでなく、アメリカの歴史までもが映し出されているのです。

<クリント・イーストウッド>
 この映画の監督であり、主役でもあるクリント・イーストウッドは、大恐慌まっただ中の1930年5月31日にカリフォルニア州サンフランシスコで生まれました。経済的に恵まれた家庭ではなかったようで、厳しい時代の中、職を点々とする父親とともに引越しを繰り返す少年時代を過ごしました。それでも、父親は音楽好きだったようで、彼をジャズ・クラブに連れて行ってくれることもありました。おかげで彼は生であのチャーリー・パーカーやレスター・ヤングなどかつてのジャズ・ヒーローたちの演奏を生で聞く機会に恵まれ、後にパーカーの伝記映画「バード」を撮ることになります。
 終戦の年、彼はオークランドに住み、15歳にしてジャズ・クラブでピアノを弾くアルバイトをしていたといいます。高校では、バスケットの選手として活躍しながら、クラスの劇にのも出演、初めて芝居というものを体験しました。ただ、この頃の彼はジャズにはまっていて、ウエストコースにやって来たミュージシャンのライブを聞くのが最高の楽しみでした。しかし、彼の運命は徴兵によって大きく変えられることになります。2年ほど陸軍に入隊していた彼は、その基地を訪れていたユニバーサルの撮影隊の助監督に映画界入りを進められ、除隊後、ユニバーサルに俳優として採用されました。
 1955年「半魚人の逆襲」で映画初主演」を果たすものの、その後はまったく売れず、二年後にはユニバーサルを解雇されてしまいました。その後はフリーで俳優活動を続けるものの、仕事はなく、テレビの仕事とプール堀の仕事でなんとか食いつなぐ日々が続きました。そんな彼を救ったのが、1959年にCBSテレビで始まった西部劇シリーズ「ローハイド」でした。妻のつてでそのドラマの準主役となった彼は、番組の世界的なヒットとともに一躍有名人の仲間入りを果たします。しかし、テレビで活躍してはいても、ハリウッドからの声はかからず、すでに彼は30歳を越える年齢に達していました。そんな彼に再び映画出演のチャンスを与えてくれたのは、イタリアの映画界でした。(考えてみると、後に彼が作った映画を早くから高く評価してくれたのも、やはりヨーロッパの人々でした。本当の意味のアメリカを描いていた彼の作品は、本国アメリカの人々にとって理解しがたいものだったのでしょうか?)
 テレビでの彼の知名度、黒澤明の傑作時代劇「用心棒」のパクリ、そして後にイタリア映画を代表する監督となるセルジオ・レオーネの才能によって誕生した映画「荒野の用心棒」(1964年)と続編の「夕陽のガンマン」(1965年)は、どちらも世界的に大ヒット。血の流れない健全なハリウッドの西部劇とは異なるリアルかつスリリングなイタリア製西部劇(マカロニ・ウェスタン)は、この作品を機に一気にブームを巻き起こすことになります。例によって火がつくのが遅かったアメリカでも、1967年にやっとこの二作品が公開されたことで彼の人気は一気に高まりました。

<映画監督としてのデビュー>
 1968年、彼は自らの映画製作会社「マルパソ・プロダクション」を設立します。ハリウッドに復帰した時点で彼は早くも自らの手で映画を撮る準備を始めていたのです。1971年早くも彼は監督デビュー作となったサスペンス映画「恐怖のメロディ」を発表します。しかし、同年発表のドン・シーゲル監督作品「ダーティー・ハリー」の大ヒットに隠れ、監督としての彼の仕事については、ほとんど話題にはなりませんでした。その後も、彼は監督として数多くの作品を発表してゆきます。
「荒野のストレンジャー」(1972年)、「ブリージー」(監督のみ、1973年)、「アイガー・サンクション」(1975年)、「アウトロー」(1976年)、「ガントレット」(1977年)、「ブロンコ・ビリー」(1980年)、「センチメンタル・アドヴェンチャー」(1982年)、「ダーティー・ハリー4」(1983年)、「ペイル・ライダー」(1985年)、「ハート・ブレイクリッジ 勝利の戦場」(1986年)、「バード」(1988年)、「ホワイト・ハンター・ブラック・ハート」(1990年)、「パーフェクト・ワールド」(1993年)、「マディソン郡の橋」(1995年)、「スペース・カウボーイ」(2000年)、「ミスティック・リバー」(2003年)、「ミリオンダラー・ベイビー」(2004年)、「父親たちの星条旗」「硫黄島からの手紙」(2006年)、「インビクタス 負けざる者たち」(2009年)、「アメリカン・スナイパー」「ジャージー・ボーイズ」(2014年)・・・。
 彼の場合、「ダーティー・ハリー」シリーズのほとんどのように現代劇のほとんどは自分以外の監督に撮らせています。その中には、テッド・ポスト、マイケル・チミノ、ジェームス・ファーゴなど、彼の作品をきっかけとして一流監督へと伸びていった者もいて、彼がスタッフを育てるという面でも大きな貢献を果たしたことがわかります。特に、後に「ディア・ハンター」でアカデミー監督賞を受賞することになったマイケル・チミノは、「ダーティー・ハリー2」の脚本を担当した後、イーストウッド主演の「サンダー・ボルト」で監督デビューを飾っており、まさにイーストウッドの愛弟子的存在でした。
 彼が自ら監督した作品群をみてみると、そのジャンルはとにかく多岐に渡っており、彼が監督としてすべてのジャンルを撮ってみたかったのではないかとさえ思えます。「恋愛もの」「SF」「戦争もの」「ボクシングもの」「山岳アクション」「犯罪もの」「刑事もの」「音楽もの」「映画内幕もの」「ロード・ムービーもの」そして「西部劇」。それらの中で西部劇の本数は以外に少ないかもしれませんが、それぞれに異なる魅力をもつ作品であり、それぞれの時代を映し出した作品でもありました。

<イーストウッドとヴィジランティズム>
 自分のことは自分でけりをつける。西部の男の個人主義、誇り高い自立精神は、実は、両刃の剣である。極端にこれを貫くと、法は自分だ、というヴィジランティズム(自警主義)になる。自警団の発想である。
 イーストウッドの映画は、このヴィジランティズムの影がおおっている。西部開拓の時代には、馬や牛という貴重な財産を盗んだ人間は、法の裁きなどという面倒な手続きを経ず、縛り首(私刑)にしていいというフロンティアの掟があった。

川本三郎「映画の戦後」より

 しかし、そうした思想性の映画を作り続けてきたイーストウッドも、しだいにそれでは強い者しか生き残れないし、弱者の存在を否定することになるということに気づき始めます。そのことは、先ずは彼の映画の中の相棒たちのキャラクターに現れます。
 イーストウッド映画のなかで次第にマイノリティの問題が重要になってくる。強いヒーローがマイノリティに寄り添う。弱いマイノリティが強いヒーローに倣って自らも戦うようになる。
 「ダーティー・ハリー」シリーズでは、刑事イーストウッドの相棒を見てゆくと一作から5作まですべてマイノリティであることがわかる。メキシカン、黒人、女性、黒人、アジア系。・・・

 その後は、作品の重要なテーマとして、アメリカ人以外の民族が登場してきます。例えば、「硫黄島からの手紙」での日本人、「インビクタス」の南アフリカの黒人、「グラン・トリノ」のモン族など。当然、彼は昔から共和党の支持者だったのですが、トランプの当選を彼はどう思ったのか?気になるところです。

<イーストウッドの西部劇>
 1972年の「荒野のストレンジャー」は、マカロニ・ウェスタンの影響を強く受けた作品でしたが亡霊としてのガンマンという新しい要素が、すでに盛り込まれていました。
 1976年の「アウトロー」は、70年代ニューシネマの流れをくむ西部劇で、彼にとって集大成的作品のひとつでもあります。それを証明するのが当時の西部劇には欠かせなかった傍役俳優の豪華さです。僕の大好きな本、川本三郎編集の「傍役グラフィティー」という本でも、この映画について「傍役顔見世映画」とも書かれています。ちょっと俳優たちの名前をあげてみると、・・・
ウィリアム・オコンネル(「荒野のストレンジャー」にも出演)、ジョン・バーノン(「ポイント・ブランク」「夕陽に向かって走れ」)、サム・ボトムズ(「ラスト・ショー」「地獄の黙示録」)、ジョン・デイヴィス・チャンドラー(「ダンディー少佐」)、ビル・マッキニー(「サンダーボルト」「ジュニア・ボナー」)、マット・クラーク(ビリー・ザ・キッド21才の生涯」「ロイ・ビーン」)、ローヤル・ダーノ(「ミネソタ大強盗団」「ビッグ・ケーヒル」)、チャールズ・タイナー(「北国の帝王」「夕陽の群盗」)
 当時の西部劇を見ていた人にはお馴染みの渋い傍役たちズラリと並んだだけでもワクワクものなのに、それぞれが見せ場を与えられ、生き生き活躍する姿は感動ものです。
 1985年の「ペイル・ライダー」のストーリーは、基本的に西部劇の名作「シェーン」と変わりません。しかし、タイトルどうり青ざめた寒々しい世界で繰り広げられる静かな闘いの映像は、アメリカ映画というよりもベルイマンやラース・フォン・トリアーら北欧圏の監督作品を思わせる美しいものでした。この作品は、もっともっと高い評価を受けて良かったはずです。
 そして、1992年の「許されざる者」へといたるわけですが、実はこの作品の脚本は1970年代に書かれたものでした。

<「許されざる者」>
 当初、「許されざる者」の脚本はフランシス・F・コッポラが所有していました。(書いたのは、「ブレード・ランナー」の脚本を書いたデビッド・ウェッブ・ピープルズです)1980年代の初めにイーストウッドは、この脚本の存在を知り、なんとか手に入れようと交渉を開始。すると当時コッポラは自らの映画製作会社が倒産し混乱していたこともあり、その脚本の映画化を放棄。おかげでイーストウッドはこの脚本の権利を買うことができましたが、すぐには映画化せず大切にその企画を暖め続けました。それは自分にとって最後の西部劇になるであろうことを実感していたからであり、自分が主人公の気持ちに近づける年齢になることだったのかもしれません。こうして、1970年代からじっくりと熟成された極上のバーボンともいえる脚本を得て、1992年満を持して彼は自らの西部劇人生に落とし前をつけるべく、この作品を世に送り出したのです。
 西部劇映画の集大成とはいっても、この作品には今までの西部劇とは異なるストーリー展開もあります。例えば、イギリスの大物俳優リチャード・ハリスを使った賞金稼ぎのガンマン、イングリッシュ・ボブは、この映画における最強のライバルと思われますが、意外なことに、途中で土いじりが好きな地元の保安官ダゲット(ジーン・ハックマン)に完璧に叩きのめされてしまいます。観客の予想はここで完全に覆され、この映画がいつもの西部劇とは違うのだということを実感させてくれます。
 これまでもそうでしたが、この映画の時代考証は今まで以上に奥が深く、着ている衣装やヘアー・スタイル、銃などの小物まで、すべて1880年代の西部にこだわったものが使用されているそうです。それだけではなく、主人公もまたそれまでの「荒野ストレンジャー」や「ペイルライダー」の主人公のような神がかった人物ではなく、ごく当たり前の人間としてリアルに描かれています。例えば、久々に馬に乗ろうとした主人公がぶざまに落馬したり、ピストルでは当たらないからと散弾銃を持ち出したりするなど、昔の西部劇ではけっしてありえなかったでしょう。こうした、リアルさへのこだわりについても、この作品は究極の西部劇といえるのです。考えてみると、西部劇というジャンルは新しくなればなるほど、古さをリアルに再現し、なおかつ人間の本質をよりリアルに、そして殺人という行為についてもより深く描くようになってきました。そんな西部劇の進化が行き着いた先がこの映画であり、もうそこから先はないのかもしれません。そして極めつけは、この映画に「セルジオ・レオーネとドン・シーゲルに捧ぐ」という献辞があることです。「荒野の用心棒」で彼に本物の西部劇を教えてくれたイタリアの巨匠セルジオ・レオーネ。そして、「ダーティー・ハリー」などで、アクション映画の撮り方のノウハウを教えてくれたドン・シーゲル。この二人への献辞はこれが最初で最後だっただけに、クリント・イーストウッドにとってこの映画がいかに重要であったかがわかります。だからこそ、彼にとってこの映画は最後の西部劇だったわけであり、アメリカの映画界にとってもまた最後の西部劇となりうる作品となったのです。
 さらば西部劇!さらばハリウッドそしてアメリカ!
 どんな正義の名の下に行われても殺人は殺人である。「人が人を殺す」というその罪の深さは決して消えることはない。このことを最後の最後に宣言した彼は、この後は西部劇ではなく「戦争」や「犯罪」という今を生きる我々に身近なテーマで「命」について語り続けることになります。そして、それはアメリカという国のもつ本質的な罪深さに対する強烈な批判ともなってゆくことになります。西部劇が描き出したガンマン国家アメリカの本質は、今もなお生き続けているのですから・・・。
 この映画の後、やはりイーストウッドは西部劇を撮ることはなく、それまで以上にバラエティーに富んだ作品を世に送り出し続けることになります。

「許されざる者 Unforgiven」 1992年公開
(監)(製)クリント・イーストウッド
(製総)デヴィッド・ヴァルデス
(脚)デヴィッド・ウェッブ・ピープルズ
(撮)ジャック・N・グリーン
(編)ジョエル・コックス
(音)レニー・ニーハウス
(出)クリント・イーストウッド、ジーン・ハックマン、モーガン・フリーマン、リチャード・ハリス、ジェームス・ウールヴェット

<あらすじ>
 1880年、アメリカ北部ワイオミング州。賞金稼ぎや列車強盗で一世を風靡したウィリアム・マニー(クリント・イーストウッド)は、銃を捨て静かに農場暮らしをしていました。しかし、妻を亡くし二人の子供をかかえた彼は体力の衰えと闘いながら苦しい農場経営を続けていました。そんな彼のもとにある日スコフィールド・キッド(ジェームズ・ウールヴェット)という若いガンマンが現れ、彼に賞金稼ぎへの協力を依頼します。それは、娼婦をの顔をナイフで切り裂き重傷を負わせたカウボーイに娼館の女主人が懸けた1000ドルをいっしょに狙おうというものでした。11年間銃を持っていなかったマニーでしたが、今後子供たちを育てることを考えると、今稼げるだけ稼いでおかなければ、と考えた彼はその話に乗ることにしました。
 途中でかつての仲間ネッド・ローガン(モーガン・フリーマン)を仲間に加えた3人は、目的の街に向かいました。しかし、街を牛耳る保安官のリトル・ビル・ダゲット(ジーン・ハックマン)は犯人のカウボーイを馬と交換に保釈してしまい、逆に街にやって来る賞金稼ぎを次々に追い出していました。一人街に残っていたマニーもまたダゲットにつかまり、半殺しのめにあいます。それでも、娼婦たちの献身的な看病によって辛うじて助かったマニーは、再び犯人のカウボーイたちを追い詰めて、ついに彼らの命を奪いました。
 目的を果たすことはできたものの、途中でその仕事を降りていたローガンはダゲット一味につかまり、激しい拷問により殺されてしまいました。そのことを知ったマニーは賞金をキッドにあずけ、キッドとローガンの妻、そして自分の子供たちで分けるよう言い残し、ダゲット一味と対決するため、街へと一人戻ってゆきました。

<参考資料>
 偶然このページを書いているとき、凄い本が出ました。中条省平著「クリント・イーストウッド アメリカ映画史を再生する男」(ちくま文庫)です。この本を読んでいただければ、僕の書くべきことはなくなってしまいます。

<この年の映画>
「愛人(ラ・マン)」(監)ジャン=ジャック・アノー(脚)ジェーン・マーチ(原)マルグリット・デュラス(出)ジェーン・マーチ、レオン・カーフェイ
「愛の風景」(監)ビレ・アウグスト(脚)イングマール・ベルイマン(ベルイマンの自伝的作品、カンヌ映画祭パルム・ドール、ベルニラ・アウグストが主演女優賞受賞)
「愛を弾く女」(監)クロード・ソーテ(出)エメニュエル・ベアール(ヴェネチア映画祭銀獅子賞
「アラジン/ A Whole New World」 (音)アラン・メンケン アカデミー作曲、歌曲賞
「いとこのビニー My Cousin Vinny」(監)ジョナサン・リン(マリサ・トメイがアカデミー助演女優賞受賞)
「エイリアン3」(監)デヴィッド・フィンチャー(原案)ヴィンセント・ウォード(脚)デヴィッド・ガイラ―、ウォルター・ヒルほか(出)シガニー・ウィーバー、チャールズ・S・ダットン
「オルランド」(監)(脚)サリー・ポッター(原)ヴァージニア・ウルフ(出)ティルダ・スゥイントン、シャルロット・ヴァランドレイ
「クライング・ゲーム」(監)(脚)ニール・ジョーダン(撮)イアン・ウィルソン(出)スティーブン・レイ、ジェイ・デヴィッドソン
「氷の微笑Basic Instinct」 (音)Jerry Goldsmith (ポール・バーホーベン監督のサスペンス・スリラー)
「秋菊の物語」(監)チャン・イーモウ(出)コン・リー、リウ・ペイチー(ヴェネチア映画祭金獅子賞、主演女優賞
「シンプルメン」(監)(製)(脚)ハル・ハートリー(撮)マイケル・スピラー(出)ロバート・バーク、ウィリアム・セイジ
「セント・オブ・ウーマン/夢の香り Scent of a Woman」(監)マーティン・ブレスト(アル・パチーノがアカデミー主演男優賞受賞)
「そして人生はつづく」(監)(脚)アッバス・キアロスタミ(撮)ホマユン・パイヴァール(カンヌ国際映画祭ロッセリーニ賞)
「小さな旅人」(監)(脚)ジャンニ・アメリオ(カンヌ映画祭グランプリ受賞のイタリア映画)
「チャーリーChaplin」 (音)John Barry (リチャード・アッテンボロー監督のチャップリンの伝記映画)
「ドラキュラ Bram Stoker's Dracula」(監)フランシス・フォード・コッポラ(石岡瑛子がアカデミー衣装デザイン賞
「ハモンハモン JAMON JAMON」(監)(脚)ピガス・ルナ(撮)ホセ・ルイス・アルカイネ(出)ペネロペ・クルス、アンナ・ガリエナ
「ハワーズ・エンド Howards End」 (音)Richard Robins (奇才ジェームス・アイヴォリー監督作品、エマ・トンプソンがアカデミー主演女優賞カンヌ映画祭45周年記念賞受賞)
「プリティー・リーグ」(監)ペニー・マーシャル(脚)ローウェル・ガンツ、ババルー・マンデル(出)トム・ハンクス、ジーナ・デイヴィス
「ザ・プレイヤー」(監)ロバート・アルトマン(主)ティム・ロビンス(カンヌ映画祭監督賞、主演男優賞受賞)
「ボディーガード The Bodyguard」 (監)ミック・ジャクソン(音)David Foster (ホイットニー・ヒューストンで大ヒット)
「摩天楼を夢みて」(監)ジェームズ・フォーリー(出)アル・パシーノ、ジャック・レモン(ヴェネチア映画祭男優賞
「マルメロの陽光」(監)(脚)ビクトル・エリセ(主)アントニオ=ロペス・ガルシア(カンヌ映画祭国際批評家連盟賞、審査員賞受賞)
「マンボ・キングス/わが心のマリア The Mambo Kings」 (監)アーネ・グリムシャー(音)Robert Kuraft
(サルサ・ラテン・ファンは必見!ティト・プエンテのティンバレスは鳥肌もの)
「許されざる者 Unforgiven」(監)(製)(主)クリント・イーストウッド(アカデミー作品賞、監督賞、助演男優賞ジーン・ハックマン)
「ラテン・アメリカ/光と影の詩」(監)(脚)フェルナンドE・ソラナス(カンヌ映画祭フランス映画高等技術委員会賞受賞)
「リバー・ランズ・スルー・イット A River Runs Through It」 (音)マーク・アイシャム (ロバート・レッドフォード監督の美しい傑作、ブラッド・ピットの出世作)

「阿賀に生きる」(監)(編)佐藤真(撮)小林茂(音)経麻朗(国際ドキュメンタりー映画祭国際批評家連盟賞
「いつかギラギラする日」(監)深作欣二(脚)丸山昇一(製)奥山和由(出)萩原健一、石橋蓮司、荻野目慶子、木村八大
「紅の豚」(監)(原)(脚)宮崎駿(製)徳間康快他(音)久石譲
「シコふんじゃった。」(監)(脚)周坊正行(製)徳間康快・平明(撮)栢野直樹(出)本木雅弘、清水美砂、柄本明、竹中直人
「死んでもいい」(監)(脚)石井隆(製)伊地智啓(原)西村望(撮)佐々木保志(出)大竹しのぶ、永瀬正敏、室田日出男
「青春デンデケデケデケ」(監)大林宣彦(脚)石森史郎(原)芦原すなお(音)久石譲(出)林泰文、大森嘉之、浅野忠信
「寝盗られ宗介」(監)若松孝二(製)奥山和由(原)(脚)つかこうへい(出)原田芳雄、藤谷美和子、
「橋のない川」(監)(脚)東陽一(原)住井すゑ(音)エルネスト・カブール(出)大谷直子、中村玉緒、杉本哲太、高岡早紀
「墨東綺譚 」(監)(製)(脚)新藤兼人(原)永井荷風(撮)三宅義行(音)林光(出)津川雅彦、墨田ユキ、杉村春子、乙羽信子

ワーナーマイカルのシネマ・コンプレックス海老名にオープン

アンソニー・パーキンス(俳優)エイズにより死去(60歳)
サタジット・レイ(監督)死去(70歳)
マレーネ・ディートリッヒ(歌手、俳優)死去(90歳)
いずみたく(演出家、作曲家)死去(62歳)
厚田雄春(小津組カメラマン)死去(87歳)
岡田嘉子(俳優)死去(89歳)
小川紳介(監督)死去(55歳)
五社英雄(監督)死去(63歳)
太地喜和子(俳優)自殺?(48歳)
三宅邦子(俳優)死去(76歳)
若山富三郎(俳優)死去62歳

<1992年の出来事>

環境と開発に関する国連会議(地球サミット)
第18回主要先進国首脳会議(ミュンヘン・サミット)
<アメリカ>
ロス・アンジェルスで黒人暴動発生(本文参照)
米軍主導の多国籍軍ソマリアへ出兵
IBM、フォードなどアメリカ企業が赤字転落
フロリダ半島でハリケーンによる大きな被害発生
SF作家アイザック・アシモフ死去
<ヨーロッパ>
独立国家共同体(CIS)創設ゴルバチョフ辞任しエリツィン体制へ
イギリス、メージャー率いる保守党が勝利
ドイツ・マルク高騰しヨーロッパ経済が混乱
セルビア・モンテネグロによる新ユーゴ連邦創設(旧ユーゴ解体)
バルセロナ・オリンピック開催
<アフリカ・中東>
アルジェリア非常事態宣言
ソマリア停戦協定調印
<アジア>
中国、韓国が国交樹立
国連カンボジア暫定機構発足
モンゴルで民主憲法制定民主化進む
アフガニスタン内戦が終結
インドの映画監督サタジット・レイ死去
<日本>
東京佐川急便事件(巨額融資と政治献金問題)
国連平和維持活動(PKO)法案成立
円が高騰118円台に入る
学校の週休2日制始まる
毛利衛が日本人初の宇宙飛行士としてエンデバー号に乗る
女子高生の間でポケベルが大ブームとなる
バルセロナ・オリンピックで岩崎恭子が金メダル獲得

<芸術、文化、商品関連>
「大農場」ジェーン・スマイリー著(ピューリツァー賞受賞)
「すべての美しい馬」コーマック・マッカーシー著(全米図書賞)
スティーブン・マイゼル撮影、マドンナの写真集「セックス」発表
スパイク・リーの映画「マルコムX」公開
<音楽関連>
カラオケ・ボックスが登場する
第二回「DJバトル世界大会」で日本のDJホンダが準優勝
ボアダムス、少年ナイフが海外でメジャー・デビュー
尾崎豊死去
<1992年の音楽>

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