1913年

- プトレマイオスからハッブルへ -

<宇宙の誕生と時間、空間>
 20世紀に科学が明らかにした謎の中でも、最も驚異に満ちたもの、それは宇宙の全体像とその誕生の物語かもしれません。宇宙が、いつどうやってできたのか?完全ではないものの、かなりの部分が明らかになったことで人類の世界観はまたひとつ新しい段階に突入したといえます。
 実は、宇宙誕生の物語は単に我々の住む世界がいつどうやってできたのか?ということだけでなく、「時間とは何か?」、「空間とは何か?」という究極の問いにも結びついています。それでは宇宙の姿に迫り、その起源にたどり着いた時間を越えた宇宙への旅に出発しましょう。
「宇宙論には起源と構造の問題があるといったが、それは時間と空間の問題といってもいい。しかし時間と空間はまったく別個に独立して存在するのではなく、両者は不可分のものとして『時空』を形成している」

「考えてみれば物理学という学問は、デモクリトスが宇宙万物はアトモスから成ると主張した昔から、『統一統合』というたった一つの方向を目指してきたように思える。」
松井孝典著「宇宙誌」より

<宇宙像の変遷>
 宇宙の全体像を思い描くことは、はるか昔から行われてきました。特に古代ギリシャの学者たちは宇宙の姿について数多くの説を残し、その後の研究者たちに大きな影響を与えてきました。アリスタルコスは、すでに古代ギリシャ時代に太陽中心説となえていましたが、その説は誰からも支持されることなく忘れられ、プトレマイオスが発表した地球を中心とする宇宙像が圧倒的な支持を得るようになりました。
 この頃すでに太陽や惑星など個々の星の周期運動は正確に観測されるようになっており、それらの動きを説明するためにプトレマイオスは地球を中心に80個以上に及ぶ天球層が存在すると仮定。それぞれの星は、それぞれの天球層に属して運動しているため異なる動きが可能なのだと説明しました。しかし、そのためにプトレマイオスの天球儀は異常に複雑な構造とならざるを得ませんでした。もし、太陽を中心に地球が回っていて、他の星も同じように太陽の周りを回っているとしたら、こうした複雑な動きは驚くほどすっきりするはずだ。そう考えたことから、コペルニクスは太陽中心説に行き着いたともいわれています。
「宇宙論は宇宙そのものを語るというより、世界観を語るときの思考様式であった」
佐藤文隆著「ビッグバンの発見」より

 昔も今も科学者たちは世界はよりシンプルで美しい形で説明できるはずだと考えているのです。
「式が実験と一致することより、式に美しさのあることの方が重要だ」
ポール・ディラック(理論物理学者)

 1543年にコペルニクスが発表した「天球の回転」は、太陽中心説(地動説)を初めて科学的に論考した書物となりました。ただし、この段階でコペルニクスが主張したのは、プトレマイオス説の否定であり、あくまで太陽系の姿に関するもので、宇宙の全体像はまだまだはるか彼方の存在でした。
 彼の説から宇宙全体の姿を想像するには、目で見ることのできる天体の動きから見えない範囲の宇宙像へと拡張することのできる新しい思考の枠組み、そして星の動きを理論的に明らかにすることが必要でした。天文学における正確な観測データとそこから打ち立てられた理論において17世紀に大きな役割を果たしたのは、ティコ・ブラーエとその弟子ヨハン・ケプラーでした。特にケプラーは天文学における重要な三つの法則を発表し、その後の天文学、物理学に大きな影響を与えています。彼によって、天体の動きは初めて数式によって表わされ、宇宙には隠された「調和」が存在していることが明らかになったのです。1618年発表の「世界の調和」は、その集大成ともいえる書となりました。彼の発表した三つの法則をここで書き出しておきます。
<ケプラーの第一法則>
「惑星の軌道は太陽を一つの焦点とする楕円である」(楕円軌道の法則)

<ケプラーの第二法則>
「太陽と惑星を結ぶ線(動径)は同一の時間内に常に等しい面積を横切る」(面積速度の法則)

<ケプラーの第三法則>
「惑星の公転周期の2乗は太陽からの平均距離(楕円の長径の半分)の3乗に比例」(調和の法則)

 しかし、こうした天文学の理論も実際の星の動きによって証明することができなければ、その価値を認められることはなかったでしょう。ケプラーの三つの法則も、その後ニュートンが1687年に「プリンキピア」を発表し、そこで紹介するまでは忘れられた存在になっています。

<ガリレオ・ガリレイ>
 1610年に初めて天文学の世界にレンズを用いた望遠鏡を導入したガリレオ・ガリレイの存在は、ケプラーとニュートンを継ぐ重要な存在となりました。ケプラーによる天体の研究が行き詰まる中
「神秘的な力」の導入という形に逃げて行かざるを得なかったのに対し、ガリレオは「神秘的な力」もしくは「神の力」の介入を認めず、あくまで論理の力により天体の動きを説明しようとしました。そして、そのために天体の動きを人間が扱うことのできる物体の動きに置き換えるという画期的な方法を用います。
 さらにガリレオは物の性質を語るため、最も科学的な視点を明確にしたことでも偉大な存在です。それは「客観的に事実を観測する」という今ではごく当たり前のことです。要するに「実験とは、いつ誰がやっても同じ結果がでなければならない」ということです。

<ルネ・デカルト>
 こうした物理学の進歩にとって、もうひとり重要な存在がいます。それは哲学者として知られるデカルトです。「我思うゆえに我あり」という言葉でも有名なデカルトは、世界を「精神界」と「物質界」に分けたことで知られています。(二元論)
「すなわち私を私たらしめているのは身体=物質ではなく、純粋な精神=意識であって、その存在は考えられることによってのみ認識されることをデカルトは哲学の第一原理として掲げたのだった。」
松井孝典著「宇宙誌」より

 彼の考えによると、神は宇宙を創造されたが、その宇宙は物質とその運動の理論で記述することが可能な世界であり、「精神」もしくは「神」の世界とは別のものであるとなります。デカルトによってなされた「物質」と「精神」の分離は、その意味では、「宇宙」と「神」の分離でもありました。
 こうして、天文学は数式によって記述される幾何学空間において論理的に語ることが可能になりました。これは「科学」が「神」や「聖書」からの自由を獲得し、数式によって宇宙を表現することができる時代の到来でもありました。こうして、科学が「自由」を獲得した時代になって、いよいよ世紀の天才アイザック・ニュートンが登場。先人の業績を元に世界だけでなく宇宙を数式によって表わすという快挙を成し遂げることになるわけです。
「西欧の近代はまさにデカルトの哲学の上に民主主義と合理主義を倫理と教育思想を築いていった。そして、デカルトの延長線上にニュートンの科学を得たことで、西欧の近代はさらに一層の拍車をかけられたのである。」
松井孝典著「宇宙誌」より

<ブレーズ・パスカル>
 「人間は考える葦である」というパスカルの名文句には続きがあります。そしてその続きは「人間論」であると同時に「宇宙論」について彼が語ったものでもあります。
「人間はひとくきの葦にすぎない。自然のなかで最も弱いものである。だが、それは考える葦である。彼をおしつぶすために、宇宙全体が武装するには及ばない。蒸気や一滴の水でも彼を殺すのに十分である。だが、たとい宇宙が彼をおしつぶしても、人間は彼を殺すものより尊いだろう。なぜなら、彼は自分が死ぬことと、宇宙の自分に対する優勢とを知っているからである。宇宙は何も知らない」
「パンセ」(1662年)

<アイザック・ニュートン>
 アイザック・ニュートンが彼の著書「プリンキピア」で示した宇宙像とは、すべてのものは物質とその運動によって表わすことができるという基本に基ずくものでした。彼が示した「万有引力の法則」はその基礎となり、宇宙は星ぼしの運動の組み合わせによって成り立っているとされたのです。
「・・・・・彼が生まれ時にはすでに、数学的な運動の科学はガリレオによって、天体の法則はティコ・ブラーエやヨハネス・ケプラーによって、さらにある得べき近代精神はデカルトによって用意されていた。後に『プリンキピア』第三篇で”世界大系”として総合されることになる宇宙の断片のあらかたは、未完成のまま無造作に、ニュートンの前に投げ出されていたのである。

 ・・・・・ロンドンのウエストミンスター寺院にあるニュートンの墓には、詩人アレグザンダー・ポープの作になる次のような言葉が刻まれている。
『神はいわれた、ニュートン出よ、と。するとすべてが明るくなった』

「ニュートンの宇宙論の最大の特徴は、われわれの宇宙から一切の価値意識を排除したことにあった。それはコスモスとしての宇宙からユニバースとしての宇宙への転換です。ニュートン以降、天体宇宙の探求は世界観をかけた学問ではなくなった。・・・・・」
松井孝典著「宇宙誌」より

<宇宙を測る>
 しかし、この段階で宇宙の姿について言えたのは、すでに知られている太陽系の延長、もしくはその集合体としての宇宙であり、それがいつどうやってできたのか?という疑問にはまったく答えられるものではありませんでした。そして、この問題に答えを出すまでに200年の歳月が流れ、20世紀に入りやっと宇宙の姿が明らかになるのです。
 宇宙の全体像を明らかにできた決め手、それは星々との距離を正確に測定する方法の確立でした。地球からすべての星への距離がわかれば、それを3次元に映し出すことで宇宙の全体像が見えてくるのです。しあkし、はるかかなたの星までの距離をどうやって測るのか?光を当てて、その反射がもどってくるまでの時間を測ればそれは可能ですが、それでは時間がかかりすぎます。(星までの距離は、光が届くまでの年数「光年」で表現されているのですから・・・・・)
 ここで大きな役割を果たすことになったのが、俗にH−R図と呼ばれるものです。(1913年発表)それはデンマークの天文学者、エニュアル・ヘルツシュプルングとアメリカの天文学者ヘンリー・ラッセルの二人の研究をもとに作られた星の分類図のことで、それによると多くの星(主系列星)はその図の中である一定の線上に並んでいることが明らかになりました。それが何を示しているのかというと、それぞれの星をスペクトル分析したもの(=色)とその星の絶対等級(=星を10パーセクという一定の距離に置いたときの明るさ)には一定の関係(おおよその比例関係)があるということです。すなわち、星の「色」がわかれば、その星本来の明るさ(絶対等級)がわかるということなのです。
 ということは、地球から見られる「見かけ上の明るさ」とその星本来の明るさ(絶対等級)を比べれば、どれだけ星までの距離があるかもまたわかるということでもあるのです。これは実に画期的なことでした、これにより星の明るさを調べることで、星までの距離がかなり正確にわかるようになったのですから。
 ただし、この方法には当初いくつかの問題点がありました。あまりに遠い星になると、星と地球との間に存在する星間物質(宇宙に漂うゴミ)の影響によりかなりの誤差が生じることが一つ。それにH−R図の分類における主系列星とは異なる種類の星、超巨星や巨星、白色矮星など特殊な星についてはスペクトルだけで絶対的な明るさを測ることはできなかったのです。さらに問題だったのは、星の集合体である星雲の場合には、星の光が交じり合ってしまい、スペクトル分析が不可能だったことです。これではアンドロメダ星雲やM78星雲までの距離を測ることはできません。

<ケフェウス型変光星>
 この問題を解決したのはケフェウス型変光星と呼ばれるタイプの星の存在でした。それがどんな星かというと、周期的に明るさが変化する星で、その明るさが変化する周期が長いほど明るいということがわかっていました。そのうえ、このタイプの星は多くの星雲の中に存在していることもわかっていました。したがって、ある星雲までの距離を知りたければ、その星雲の中にあるケフェウス型変光星を見つけ、その星の変光する周期から明るさ(絶対等級)を割り出します。そして、その星の見かけの明るさと比較することで、その星までの距離を知ることができるというわけです。ちなみに、このケフェウス型変光星を発見したのはアメリカの天文学者ヘンリエッタ・S・ソービットでH−R図の生みの親ヘルツシュプルングがその星を用いて星までの距離を割り出す方法を考え出したのは1913年のことです。
 こうして確立された星や星雲、星団までの距離を測定、算出する方法を用いて、銀河系の大きさや形を明らかにした最初の人物、それがアメリカの天文学者ハーロウ・シャプリーでした。(1918年)ちなみに、テレビのウルトラセブンに出てきたシャプレー星人は彼の名から取られたのでしょう。
 それでは彼が算出した銀河系の形はどうなっていたのかというと、それは直径が25万光年で中心部の厚さが18000光年という凸レンズ型の星の集まりで、我が太陽系はその中心から約5万光年はずれにあるということでした。
 こうして、我々が住む地球がある太陽系とその外側の銀河系の形が明らかになりました。しかし、銀河系は実は宇宙に無数に存在する「島宇宙」のひとつにすぎないこと、そしてそれらの島宇宙がお互いに離れてゆきつつあること、さらにはその宇宙の起源といわれるビッグバンの存在が明らかになるには、もうひとつ偉大なる天文学者エドウィン・ハッブルの登場を待たなければなりませんでした。

<締めのお言葉>
「宇宙のことを理解しようとする努力は、人間の生活をドタバタ喜劇の水準から少しばかり引き上げるきわめて少ない事柄のひとつであり、同時にそれにいくらかの悲壮美を与えるものである」

スティーブン・ワインバーグ(物理学者)

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