失われた時を蘇らせる長い長い魔法の書 |
<「世界一有名な未読の書」>
この本は、ハーマン・メルヴィルの「白鯨」と並び、「世界一有名な読まれていない本」といえる作品です。
なにせこの小説は全7巻、文庫本では全10冊にもなる超大作です。その上、切れ目なく続く長い文章、ドラマチックな展開のほとんどない物語のため、エンターテイメントとは程遠く、誰もが知る小説でありながら完読した人を僕はほとんど知りません。もちろん、僕も多読なつもりですが、長い本は苦手なので、今までの一度も挑戦すらしたことがありませんでした。
人生60年目に突入した2020年、新型コロナによる突然の暇、図書館が1か月以上閉館になる中、「失われた時を求めて」(全一冊)という本を図書館で見つけました。翻訳と編集が角田光代さん(共著)ということなので、ダメ元と思いつつ借りてしまいました。
優れた作家による編集・翻訳によるとはいえ、超短縮版ということで、あらすじを追うだけで終わってしまうのではないかと思ったのですが、そんなことはありませんでした。
村上春樹(著)「1Q84」より
「プルーストの『失われた時を求めて』はどうだ?」とタマルは言う。
「もしまだ読んでいなければ、読み通す良い機会かもしれない」
「あなたは読んだ?」
「いや、俺は刑務所にも入っていないし、どこかに長く身を隠すようなこともなかった。そんな機会でもないと『失われた時を求めて』を読み通すことはむずかしいと人は言う」
「まわりに誰か読み通した人はいる?」
<「長い長い恋愛ドラマ」>
あとがきにもあるのですが、この作品は、それぞれの文章を縮めたり、編集したりするのではなく、主人公とアルベルチーヌの恋愛ドラマ部分に的を絞ることで大幅な編集を実行しています。当然、それぞれの章の間が大幅にカットされているので、全体の物語を知らないと展開がわかりずらいのは確かです。では、やはり頑張って全巻読破を目指さないと意味が無いのか?というとそうでもないと思います。
それは、この作品が仕掛けた長い長い仕掛けを一気に読み通すことで初めて体験することができるからです!この作品が掲げているテーマは、時間を越えて「記憶」を蘇らせることで体験できる感動を描き出すこと。そして、それを体験するには長い小説の冒頭からエンディングまでを憶えている必要があるのです。そうなると、一か月も二か月もかけて、全部を読んでいてはダメなのです。もちろん何度も読んだり、記憶力のある人なら良いのですが、現代人にはそこまで暇のある人は少ないのが事実です。(とはいえ、その挑戦が可能な方は是非この機会に挑んでみてください!)
この小説の冒頭はこんな感じです。それはまるで「記憶」が収められた潜在意識の暗い世界への入り口へ招待されるようです。(村上春樹の「井戸」や「穴」を思い出す方もいるでしょう)
長いあいだ、ぼくは早くベッドに入ったものである。ろうそくを消し、さあ眠ろうと思う間もなく眠りに落ちて、三十分もすると目が覚めてしまう。ぼくは短い夢の中で、それまで読んでいた本のなかに入りこみ、教会になったり四重奏曲になったりする。目が覚めても、まだ夢の片鱗が残っている。早く眠らなきゃとろうそくを消そうとして、部屋が真っ暗なことに気づいてびっくりする。それから、その闇に安心する。
<「文学論の書」>
今回わかったのは、この小説は主人公の恋愛物語の形式を用いて展開された「文学論」の書だということです。「失われた時をもとめて」というタイトルが示すとおり、この本で著者のマルセル・プルーストの分身である主人公は、自らの記憶をよみがえらせることで小説を書くにはどうすればよいのか?を自らに問いかけ続けます。
ここではそうした彼の文学作品を生み出すために必要な「記憶」の復元と文章化の手法について書かれた部分を選び出してみました。文学が好きなあなたには、この部分だけでも十分に読み応えがあるはずです。是非、読んでみて下さい。そしてもちろんあなたが時間に余裕があって、根性があるなら、全10冊に挑んでみて下さい!
ではまず初めにこの本の<あらすじ>を書いておきます。
<「究極のあらすじ」>
第一章「スワン家のほうへ」
主人公マルセルは大金持ちの息子です。この章では、彼が幼少期を過ごしたフランス北部の町コンブレ―の思い出が描かれます。
町の名士であるスワン氏と娼婦オデットの悲恋が物語の中心となり、今回の全一巻本では大幅にカットされています。
第二章「花咲く乙女たちのかげに」
マルセルは前述のスワン氏の娘ジルベルトに恋をしますが、彼の恋心は受け入れられませんでした。
そんな時、フランス北部海沿いのノルマンディー地方の海岸で彼はアルベルチーヌという年下の少女と出会い恋に落ちます。
このあたりからこの本は始まります。
自転車を押す、褐色の髪の、ふっくらとした頬の少女と、すれ違いざま目が合った。笑いを含んだその視線は、ぼくにとってはまったく未知のものだった。まるで、少女たちだけが生きている小宇宙の、見たこともない生物が送る視線のように。帽子を目深にかぶった彼女は、ぼくと目が合った時、おしゃべりに夢中になっていたが、はたしてその目はぼくを認識していたのだろうか。認識していたとしてら、ぼくはどんなふうに見えただろう?・・・
第三章「ゲルマルトのほう」
マルセルはゲルマント公爵夫人のサロンを知り、アルベルチーヌとも再会します。なかなか公爵夫人は彼女にマルセルを紹介してくれませんでしたが、ついに念願がかないます。彼はこれでジルベルトへの恋に終止符を打つことができ、貴族社会への第一歩を同時に踏み出します。しかし、その喜びの感情は複雑なものでした。めんどくさい男です。
よろこびは写真のようなものだ。愛する人の前で撮ってもフィルムに焼き付けられるだけだ。その後帰って、自身の内の暗室 - 他者がいるときには「使用禁止」とさけている部屋 - で現像してはじめて写真になる。
よろこびはそんなふうに実感するまで時間がかかったが、この出会いの意味の大きさを、ぼくは即座に理解した。
今この瞬間、未来の快楽を得るための「チケット」が突然手渡され、何週間も待ち望んでいたその「チケット」の持ち主になったと感じたところで、なんだというのか。この「チケット」を手に入れたことで、ぼくのつらかった追求にも終止符が打たれ、そればかりか、あの人の存在にも終止符が打たれるのだ。
第四章「ソドムとゴモラ」
ゲルマント公爵の弟、シャルリュス男爵の同性愛行為をマルセルは目撃します。そして彼はアルベルチーヌにも同性愛の恋人がいるかもしれないと疑い始めます。そのため、彼は運転手らを使い彼女を尾行させるようになります。ほとんど彼はストーカーになっていました。本当にめんどくさい男です。だからこそ、こんな長い本が書けたのですけど・・・。
パリに戻った当初は、アンドレや運転手が、ぼくの恋人とドライブをしたときの一部始終を伝えてくれたが、ぼくは満足できなかった。パリの近郊はバルベックの郊外と同じくらい厄介だという気がして、何日かアルベルチーヌを連れて旅行をしたこともあった。けれどもどこへ行っても、彼女の疑わしさは同じことで、それがよからぬものである可能性もいっこう減じず、監視もますますむずかしくなるだけなので、結局ぼくは彼女とパリに戻ってきた。実際、バルベックを離れるとき、これでゴモラとはおさらばで、アルベルチーヌをゴモラから引き離と思っていた。なのに、なんということだ!ゴモラは世界のいたるところに散らばっていたのだ。
第五章「とらわれの女」
いよいよアルベルチーヌと同棲し始めたマルセルですが、自らが自由を望むにも関わらず、彼女を束縛する気持ちを抑えることができなくなります。ついには彼女と衝突してしまいます。その後一時的に和解するものの、ある日突然彼女は彼の元を去ってしまいます。そりゃそうでしょ。
彼女がいないとき、ぼくは想像のなかで彼女を思うことはできるが、その不在はさみしく、所有することはできない。彼女が目の前にいれば、話しかけることはできるが、その会話によって自分が自分から離れていくようで、うまく考えられなくなる。彼女が眠っていれば、こちらから話しかけることもなく、彼女から見られていると意識していることもない。ぼく自身、何も取り繕う必要がない。アルベルチーヌは、目を閉じ、意識を失うことで、知り合ったときから幾度もぼくを失望させてきた数々の性格を、ひとつまたひとつと脱ぎ捨てたのだった。彼女は植物や樹木のように、無意識の生命に生かされているにすぎず、それはぼくの生命とはまったくかけ離れた、ある種異様な、けれどぼくのものとなった生命だった。
第六章「消えたアルベルチーヌ」
ようやく居所がわかったものの、アルベルチーヌは再会を前に落馬事故によって命を落としてしまいます。一方、かつて彼が愛したジルベルトは、スワン氏の死後、ゲルマント公爵の甥と結婚してしまいます。
アルベルチーヌの死のショックを受けていた彼ですが、時と共に彼女への恋心が消えて行く中で、彼女への記憶もまた失われて行くことに気づきます。
アルベルチーヌはぼくにとって、思いの強さでしかなかった。その思いがぼくのなかで生きているかぎり、彼女は物理的な死を越えて生きのびていた。反対に、その思いが死んでしまった今となっては、アルベルチーヌはその肉体があったとしても、ぼくにはいっこうによみがえってこないのだった。
人間の肉体が、その肉体を愛する者にあれほどの苦痛を与えるのは、肉体に過去の時間がすべて含まれているからだ。その中には、じつに多くのよろこびの思い出と欲望の思い出がある。本人にとっては、もう消え去った思い出だとしても、いとしい肉体をじっと見つめたり、その肉体を時間の中に長く添わせていく者にとっては、ひどく残酷な思い出になり、その思い出に嫉妬し、思い出を含む肉体が消えてしまえばいいと願いすらする。死んでしまえば、<時>は肉体から離れ、思い出も - どんなにつまらない色あせた思い出も - もうこの世にはいない女とともに消え去り、いまだ思い出にさいなまれる男からも、やがては消え去るからだ。思い出は、生きた肉体への欲望が消えていくにしたがって消えていくはずだ。
第七章「見出された時」
第一次世界大戦後、マルセルの周囲の人々はみな老い、それぞれの人生を続けていました。マルセルは、久しぶりに訪れたサロンの敷石でつまづいた瞬間、子供の頃に母親と旅をした時の懐かしい記憶がよみがえり、「記憶」の不思議に感動します。そうした記憶がもたらす感動を文学作品として文章化することへの欲望が強まった彼は、いよいよ小説を執筆しようと決意します。しかし、自分には残されている時間はそう多くないと思う彼は、焦る気持ちを抑えられませんでした。
それを象徴するのは、皿にあたるスプーンの書であり、糊のきいたナプキンのかたさであって、それらはぼくの精神をあらたに生かすのに、人道主義や愛国主義や国際主義や形而上学的な会話より、ずっと貴重なものだった。
こうして世界の文学史に残る偉大な小説が書き始められ、その完成品を自分は読んだいたのだということに読者は気づくことになります。そう思って、もう一度頭からこの小説を読み直すことも可能なわけです。
<マルセル・プルースト>
この作品は、著者であるマルセル・プルーストの自伝的な小説として読むことも可能なので、彼の簡単な生い立ちも書いておきます。
マルセル・プルーストMarcel Proustは、1871年7月10日パリ西部のヌイイ=オートゥイユ=パッシーで生まれています。父親は有名な医師で、母親はユダヤ系の金融業者の娘という裕福な家庭に育てられました。しかし、9歳の頃から喘息の発作に悩まされるようになり、自分の寿命は長くはないと意識しながら青春時代を過ごしました。そんな中、彼は高校時代から文学サロンに出入りするようになり、多くの文学作品を読む読書家であるだけでなく、当時最先端の文学を理解し、作家を目指す若者でした。1892年には同人誌を創刊し、翻訳や執筆活動を行い始めます。
1909年に両親がこの世を去ったことから、彼は多額の遺産を相続したため、働くことなく文筆活動に専念できることになりました。彼は、残された時間が少ないと感じながら、この作品の構想を練ります。そして、コルク張りの防音室にこもって執筆を開始。社交界からも離れて、孤独な作業に熱中するようになります。こうして、書き始められたこの小説は膨大な長さとなりますが、残念ながら当時この作品の魅力に気づく出版社はなく、世に出ることはありませんでした。
1913年、第一巻のみが自費出版という形で世に出ます。その後も、彼は作品を書き続け、少しづつ第二巻以降も世に出るようになります。1919年にはフランス文学の最高峰ゴンクール賞を受賞。ついに彼は作家として文学界で認められることになりました。残念なことに、彼にはもう時間は残されておらず、1922年彼はこの世を去り、第五巻以降は未発表に終わったのでした。
<いよいよ始まり>
文学的な評価は高いものの、切れ目なく続く長い長い文章。
殺人事件も、戦争も、大災害も直接的には描かれないドラマチックさに欠けた物語。
全七巻読むのは無理でも先ずは一冊本に挑戦してみて下さい。
それで気にいったら、頭にもどって今度はノーカット版に挑むというのはどうでしょうか?
(僕は遠慮しますが・・・)
ちなみに一冊本だってバカにしてかかると読みきれませんよ。
超あらすじですが参考にして下さい。
というわけで、後編はマルセル・プルーストによる文学論をまとめてみます。
もちろん「失われた時を求めて」を読みながらです。
「失われた時を求めて」(後編)
マルセル・プルーストの文学論
「失われた時を求めて」全一冊 (1913年~1927年)この本の出版は2015年です。
A La Recherche Du Temps Perdu
(著)マルセル・プルースト Marcel Proust
(訳・編)角田光代、芳川泰久
新潮社