マルセル・プルーストの文学論


「失われた時を求めて」
PART 2

- マルセル・プルースト Marcel Proust -
 ここからは「失われた時を求めて」を振り返りながら、そこに書かれた「文学」に関する文章を選び出して行きます。この本は、マルセル・プルースの「文学論」の書でもあります。

<「幸福な瞬間」の再現>
 マルセルは少年時代から文学者になることを夢見ていましたが、その原点には「ある時、突然やってくる幸福な瞬間」の記憶を蘇らせたいという願いがありました。文学とは、文章の力によって、そんな「幸福な瞬間」を再現し、追体験できるようにすることだと彼は考えていました。しかし、それは簡単に実現できることではありません。
 先ずはそんな「幸福な瞬間」を彼が体験した原体験についての記述から始めます。

 有名な作家になるのが、子どものころからのぼくの夢だった。けれどゲルマントのほうを散歩するたび、そんなのは無理だと思い知らされた。その願いをあきらめなければならないのは、どれほど情けなく思えただろう。・・・
 そうした文学的執着とはまったくべつなところで、それとは関係なく、ふいによろこびがわき上がってくることもあった。屋根や、石に照り返す日射し、道に漂うかぐわしいにおい、そうしたものがぼくをとらえ、脚を止めさせた。それらはただの光景ではなく、その奥に何か重要なことを隠しているように思えた。そのヒントは目の前にあるのに、考えてもぼくにはそれがなんなのかわからない。でも、何かがある。それを見極めるために、ぼくは立ち止まり、見つめ、嗅いだ。そうすることでその光景やにおいの彼方にいけるかのように。・・・
 けれども一度だけ、その何かをぼくはとらえかけたことがある。
 その日、いつもより長い散歩から帰り道、日も暮れかかっていたころに、全速力で馬車に乗らないかとぼくらに声をかけてくれ、ぼくは馭者の隣に乗せてもらうことになった。コンブレ―に帰る前に、マルタンヴィル=ル=セックの患者の家を訪ねるところなのだが、そこで待っていてもらえば送っていくと、医師は話した。馬車が角を曲がり、ぼくの目がマルタンヴィルの二つの鐘楼をとらえたその瞬間、例によってよろこびが体の奥底からわき上がってきた。
 鐘楼は暮れゆく日を受けて輝いていた。・・・


 「幸福な瞬間」をもう一度よみがえらせるにはどうすればよいのか?子供時代に抱いたその疑問を解決するために、彼は長い年月をかけて、作家になろうという努力を続けることになります。

<記憶の法則を知るための「愛」>
 「幸福の瞬間」を再現するには、その瞬間が訪れるのはどんな時なのか?その法則を知る必要があります。
 この本の中に「記憶」と「愛」の関りについての記述が多いのは、その法則を解くカギが「愛」であると彼が考えたからでもあるのでしょう。
 その解明こそがこの本の目指すところだったとも言えます。

 愛に関する思い出も、一般的な記憶の法則の例外にはならない。一般的な習慣の法則に規定されている。くり返しやることで習慣となったことは、深く記憶されない。だからある人をもっともよく思い出させるものは、まさにぼくたちが忘れてしまった、とるに足らないことだ。
 記憶の最良のものは、ぼくらの外界にある。雨まじりの風、閉め切った部屋のにおい、ぱっと燃え上がる炎のにおいなどのあって、知性が必要なしと見なして忘れたこと、忘れることのできなかったこと、すっかり泣き尽くしたのにまだ流れる涙の理由など、外界の、どこにでも見出せる。
 では記憶とは、ぼくらの内側にしかないのだろうか。いや、きっと違う、ぼくらの内側、しかも、多かれ少なかれ長引いた忘却のなかにこそ記憶は隠れている。忘れてしまったからこそ、ぼくらは思い出し、思い出したその過去に連れ出される。過去と同じくその事態とふたたび向き合い、過去と同じ苦しみを味わう。というのも、そうなっている自分というのは、今の自分にとってどうでもいいものを愛していたからだ。


 人を愛するとは、その人の記憶を深く削み込むこと。ただし、それは削み込まれたことで、その価値を失って行くのかもしれません。「愛」における記憶に削み込む行為とは、ズバリ「恋のアタック」の過程です。多くの恋愛映画、恋愛小説は、この過程をドラマチックに描くことが目的になっています。そして、最も盛り上がるのはその成功までの過程であって、そのから先はもうどうでもいいのです。アルベルチーヌとの恋もそんな描き方をされています。

 ひとりの女を見たとする。それは人生の舞台装置のなかの、たんなるイメージに過ぎない。海の背景に立つアルベルチーヌと同じだ。やがてぼくたちはそのイメージを切り離し、自分の隣に置き、立体鏡のレンズをとおして眺めるように、少しずつその量感や色彩を見ることができるようになる。だからこそ、かんたんにはなびかない女たち、すぐにはものにできず、また、いつかものにできるかもわからない女たちだけが、興味を惹くのである。なぜなら、彼女たちと知り合いになり、近づき、我がものにするということは、そのひとりの人間にさまざまなイメージのかたちや大きさや色合いを与えていくことだからで、一個の肉体やひとりの女の評価など、相対的なものほかならないのである。

 記憶として愛を削みこむため、それをより立体的に記憶するために必要なのは、「カメラ」ではなく「くちびる」である。なんともフランス文学的な記述です!

 けれども、写真の最新技術のような側面が、くちびるにはあるとぼくは思う。
 最新技術では、遠近法を変えることで、家が塔ほどの高さになったり、離れて建つ柱を重ね合わせたり、広大な水平線を窓の中におさめたり、といったことができる。つまり、ある角度から見える画一的な景色が、くちびるで知ることによって、さまざまな角度からとらえた多様な姿をあらわすと考える。まさにアルベルチーヌの頬にくちびるを寄せる短い瞬間に、ぼくは十の異なる彼女を見た。このたったひとりの少女は、いくつもの顔を持つ女神のようだった。・・・


 記憶としてより深く削み込むためには、「心の痛み」は重要な意味をもつでしょう。
 それは時に消すことのできない記憶を生み出す原因になることは、多くの文学作品が描いています。

 あのときの祖母の引きつった顔を、消し去ることはできそうもない。あのときの傷を、祖母から、というよりも、ぼく自身から、消すこともできない。死者たちは生きているもののなかにしか存在しないのだから、彼らを傷つけたことを思い出そうとすれば、ぼくたちは休みなく自分自身を見つけることになる。この苦痛がどれほど過酷であっても、ぼくは全力でそこにこだわる。なぜならこの苦痛こそ祖母との思い出の証であり、その思い出がぼくの内に間違いなくあり続けると確認できるからだ。その痛みを通してしか真実の祖母を思い出すことができない、とぼくは感じていた。・・・

 マルセルは、しだいに「記憶」がもたらす「幸福感」の秘密に近づいて行きました。それが時を越え、はるかな過去へと我々を連れて行ってくれることがあるのはなぜか?そこにはある種の法則があることに彼は気づきます。

・・・そんなのだ、記憶は、忘却のおかげで、現在という時代とはいかなる絆も結ばず、いかなる鎖の環を投げ渡すこともできず、その過去にとどまり、日付にとどまり、その隔たりを縮めることなく、谷間のくぼみや山の頂で、ひっそりと孤立している。けれども突然、そうした思い出が、ぼくたちに新しい空気を吸わせてくれることがある。なぜならそれは、まさしくかつて吸い込んだことのある空気だからだ。詩人たちは純粋な空気で、楽園をよみがえらせようとむなしく試みているが、かつて吸い込んだことのある空気でなければ、何もかも一新するあの深い感覚をもたらすことはできないだろう。真の楽園とは、失われた楽園にほかならないからだ。

 それは時には過去の同じ場所へと我々を連れていってくれることもあります。

 共通の感覚に呼び覚まされたはるかなる場所たちは、一瞬、まるで格闘家のように現在の場所と取っ組み合う。そして、いつも現在が勝利をおさめることになる。ぼくがいつも美しさを感じるのは、敗者のほうだった。それはあまりにも美しいので、ぼくは恍惚となったまま、不揃いの敷石の上にも、一杯のお茶の前にもとどまり、はるかなる場所があらわれた瞬間には、そうしたコンブレーを、そうしたヴェネツィアを、そうしたバルベックを存在させ続けようとつとめ、はるかなる場所が逃れ去ってしまうと、またふたたび出現させようとするのだった。それらの町は、侵入してきたかと思うと押し返され、そびえたったかと思うと、次にぼくをこの今いる場所に、しかし過去の浸透しやすい場所に見捨ててしまう。

 それは「音楽」にたとえることも可能でしょう。

 ぼくたちの抱くもっともうつくしい観念は、聴いたこともないのによみがえってくる音楽の旋律のようなものだと思い、その旋律に耳を澄ませ、転写しようとしているかのようだった。そのことを思い出して、ぼくはうれしくなった。なぜならそれが、当時からぼくは一貫してぼくであり、そこにぼくの性質の基本的な特徴が含まれていることを示してくれたからだ。と同時に、その当時からいっこうに自分が進歩していないと思うと、かなしくもあった。
 ぼくは思い出した。花とか、小石を、注意深く、自分の心に照らして、じっと見つめながら、その兆しの下には、ぼくの見つけるべきまったくべつの何かがある、ひとつの観念があると、すでにコンブレーで感じていたのだった。


 そうして「記憶」をよみがえらせ過去の幸福な瞬間をもう一度味あわせることこそ芸術作品の存在意義なのです。

・・・要するに、マルタンヴィルの鐘楼の眺めが与えられる印象であれ、不揃いな敷石やマドレーヌの味のような無意志的記憶であれ、どちらにしても、感覚を、それに応じた法則や観念を持つ兆しとして、解釈しようとつとめつつ、思いをめぐらし、ぼくが感じたものを暗がりから引きずり出そうとし、精神的な等価値のものに変えようとしなければならない。
 そうする方法は、ぼくはたったひとりだと思っていた。芸術作品を作ることをのぞいて、どんな方法があるというのか?そしてもうすでに、ぼくの精神のなかではさまざまな結果がひしめき合っていた。スプーンの音やマドレーヌの味といった類の無意志的記憶も、さまざまな形象で描かれた真実も、ぼくの頭のなかではいっしょくたになって、鐘楼や伸び放題の草と言った形象が、花で飾られた複雑な魔法の書となっていた。その第一の特徴は、ぼくには与えられるということだった。そしてぼくは、それこそが真実であることのあかしにちがいないと感じていた。

 しかし、芸術作品は自由自在に「幸福感」を生み出せるわけではありません。そこにはある種の決まりごとがあり、その範囲内でしか芸術は生み出し得ないのです。

 すでにぼくは結論に達していた。ぼくたちは、芸術作品にたいして、いささかも自由ではない。芸術作品というものは、こちらが勝手に創るものではなく、すでに存在しているものであり、それは必然ではあるが隠れてもいるから、自然の法則を見つけるように、それを発見しないといけない。しかし、その発見すべきものとは、よく考えれば、ぼくたちにとってもっとも貴重なもの、しかも、ふつうは永久に知り得ないものではないだろうか?つめりそれは、ぼくたちの真実の生ではないのか。ぼくたちの感じたとおりの真実なのに、ぼくたちが思っているものとかけ離れた真実ではないか。偶然によって本当の記憶がよみがえったとき、大きな幸福でぼくらは満たされるという発見ではないのか。
 ぼくがそう確信したのは、いわゆる写実主義と言われる芸術の、誤りのためだった。この芸術の過ちとは、ぼくたちが生活のなかで感じるものに、ひどくかけ離れた表現を与え、しかもその表現をそのまま現実そのものと取り違える習慣を身につけたことだ。しばらくぼくたちを困惑させていた文学理論を気にする必要など、まったくないとぼくは思った。
 今ぼくは理解した。表現すべき現実は、主題の見かけではなく、見かけなど問題ではないほどの、深遠さにある。


 この小説の最後の方になると、いよいよ彼は、小説を書く決意を固めます。残された時間は少ないけれども自らの生きてきた人生を「生きるに値するもの」として記憶するために今なら書ける、そう判断するに到ったのです。

 結局、この<時>の観念は、ぼくにとって、これ以上進めず戻れない、最後の地点だった。それは人を奮い立たせ、ぼくにこう語り掛けていた。
 もしもぼくが人生の途中で、ゲルマントのほうやヴィルパリジ夫人との馬車での散歩の折に、きらりと感じたものに到達したいと思うのなら、今こそはじめるべきだ、と。そして、人生は生きるに値すると思わせてくれるのだった。闇に包まれた人生も照らすことができ、たえず歪められている人生の姿を真実に戻すことができ、要するに、人生を一冊の本のなかで実現できるように思えた今、ぼくにとってどれほどこの人生が、さらに生きる値するものと思えただろう!そんな書物を書ける者はどれだけしあわせだろう、またそうする者には、どれほどの労苦が待っているだろう!

 そうなのだ、先ほどぼくが作り上げた<時>の観念は、今こそこの作品にとりかかるときだと告げていた。いまこそはじめるときなのだ。けれども、サロンに入り、しわだらけになった人々の顔を見たことで<時>の観念を得たわけだが、そのとき抱いた不安は、今べつの角度から、ぼくをとらえる。まだ間に合うのだろうか?ぼくはまだ、この仕事ができる状態にあるのだろうか。精神にしか見えない風景があるのに、それをじっと見ようとすると、ほんのわずかな時間しか残されていない。

 この小説最後の文章でプルーストは、人生が記憶によって過去と現在を結びつけていることを示しています。そして、それらの人生が結びつくことで人類の歴史は構成され無限につながっていると・・・。
 そして、この小説はそうした一人の人間の記憶を一冊の本にまとめあげた作品であると宣言しているわけです。
 小説の冒頭、マルセル少年は短い夢から目覚めます。当時の彼にはまだ長い記憶の積み重ねはなく、本や音楽が夢の主役でした。彼の人生はそこから始まり、一日一日と様々な記憶を増やし続けることになり、その文章化を生きる目標にすることになります。
 こうして、「失われた時を求めて」は始まり、その小説を書き始めるに到るまでの物語が動き出します。
 そして誕生した全七巻におよぶ膨大な記憶の束は書籍となって、21世紀の今も読まれ続けることで、プルーストの記憶は読者の記憶の一部となり、永遠の生を得たといえそうです。そして、同じように「失われた時を求める」作家たちは彼の後を追い続けることになったわけです。

「失われた時を蘇らせる長い長い魔法の書」
「失われた時を求めて」PART1


「失われた時を求めて」全一冊 (1913年~1927年)この本の出版は2015年です。
A La Recherche Du Temps Perdu
(著)マルセル・プルースト Marcel Proust
(訳・編)角田光代、芳川泰久
新潮社

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