幸福に生きるってどういうこと?


「街場の現代思想」

- 内田樹 Ituki Utida -
<内田樹から若者へ>
 思想家、内田樹の「待場の現代思想」という本を読みました。内田氏のホーム・ページ日記に書かれた若者への人生相談的な文章を集めて、つくられたものです。ここではその概要を紹介しながら、ポイントと思われる重要な文章を書き出してみました。この本は、僕なんかよりももっと若い人が読むべき本だと思いますので、是非、一度お読みください!

PART1「幸福に生きるための教養の価値と未来」 

<教養の価値>
 日本では貧富の差が広がりつつある、というのは多くの人が感じていることだと思います。ただし、富を得ることで人は幸福になれるとは限らない、ということにも多くの人が気づいてるように思います。では、人が幸福になるためには、何が必要なのでしょう?
 もしかすると、そのために重要な意味をもつキーワードは「教養」ではないか?内田氏はそう書き始めます。

<教養とは何か?>
 絵画的な比喩を使って言えば、「教養」とは、「古今東西すべての知識」を網羅した巨大な図書館があった場合(ヘーゲル=ボルヘス的な幻影だ)、自分の持っている知識や情報が、その巨大な図書館の、どの棟の、どの階の、どの書棚に、どんな分類項目名をつけられて、どんな本と並んで置いてあるのかを想像することのできる能力のことである。・・・
 「教養」とは「自分が何を知らないかについて知っている」、すなわち「自分の無知についての知識」のことなのである。


 「教養」の重要性を認識し始めた大人たちは、子供たちの教育、自分の能力アップにお金をつぎ込むようになってきました。そうなると、現在の「貧富の差」は、そのまま「教養の差」に移し変えられることになるでしょう。ただし、「教養」を身につけることは、単に勉強するだけではなく、小さなころから「文化」に親しみそれを自然に身につけることが求められます。大人になってからの付け焼き刃的知識では、「華麗なるギャツビー」のギャツビーのように越せない壁にぶつかってしまいます。そんな壁を内田氏は、「文化資本の壁」と呼んでいます。

<文化資本の壁とは?>
 「文化資本」が作る境界線と、「年収」が作る境界線とでは、「壁」の高さも厚さも桁が違う。年収は本人の努力でいくらでも変わりうるけれど、子どもの頃から浴びてきた文化資本の差は、20歳すぎてからは埋めることが絶望的に困難だからである。しかし、そのような「成人して以後はキャッチアップ不能の指標に基づく階層差」がいま生まれつつある。


 かつて、社会は貴族階級とプロレタリア階級に分かれている時代がありました。(共産主義の登場と共に・・・)今や、そうした階級は過去のものとなりつつありましたが、新たに「階層社会」が生まれつつあります。

<階層とは何か?>
 「私は階級社会に生きており、私のものの考え方や感じ方やふるまい方は、階級的に規定されている」ということに「気がついた」人間の目にだけ「階級」は見え、そういうふうな考え方をしない人間の目には見えない。ただ「貧乏」であれば、「プロレタリア的階級意識」を持てるというものではないのである。・・・
 「階級」は「階級的自覚に目覚めたもの」が主体的に構築してゆくものである。
 それに対して「階層」というのは、本人がどう思おうと、ご本人の自己決定や努力とはかかわりなしに、リアルかつクールに「もう、すでに、そこに存在する。
 ある人間がどの「階層」に所属するのかということは、本人によって決定することができない。気がついたら「そこにいた」のであり、個人的努力ではめったなことでは「そこから抜け出せない」のが「階層」である。


 文化資本を「持つ者」と「持たざる者」の階層が、いつの間にかできつつあることに多くの人は気がついていません。そのうえ、この階層の特徴は、「文化資本を持つ者」はそのことの意味に気づかず、持たない者はそれを必死で獲得しようとしていて、それが時には犯罪の原因になることすらあるということです。

<文化資本の獲得は何故難しい?>
 「学歴による文化貴族」が決して口にできないのは「知らない」という言葉である。「知らない」という告白が、その人が「ほんらい所属する階層」を暴露してしまうことを恐れるからである。・・・
 ブルデューの卓抜なる喩えを借りて言えば、「血統による文化貴族」は自分の見た映画に出てきた俳優の役名を記憶し、「学校による貴族」は自分が見たことのない映画の監督の名前を記憶する。前者は「経験」をたいせつにし、後者は「知識」を「経験」に優先させる。
「作品そのものを熟視することをおろそかにしても作品について語ることを優先させ、感覚を犠牲にしても訓練を重んじる」こと、それが「学校による文化貴族」の「馬脚」なのである。


 これからの社会では「文化」は「資本」としての価値を持つ「お金」以上に大切なものとなってゆくのかもしれません。そして「文化」は「お金」のように簡単に獲得できるものではなく、逆にそれを獲得しようとする努力がマイナスに働くことが考えられます。では、その「資本」とは、そもそも何なのでしょうか?

<資本とは何か?>
 経済学が教える「資本」の定義は「利潤を生み出すもの」である。・・・要するに、どこかに「差異」を生み出して、それを媒介にしrて「交換」が行われる限り、どんな差異でも差異でありさえすれば「資本」は運動する。
 経済資本はどのようなかたちのものであれ、「うつろいやすい」ものである。むしろ、経済資本はその「うつろいやすさ」ゆえに差異を生み出し、交換を加速するのである。
 しかし、文化資本はそうではない。
 文化資本はより狭隘な社会集団に排他的に蓄積される性質を持っている。

(長い伝統に支えられた日本文化が「クール・ジャパン」として再評価されるのもその例でしょう)

 皮肉なことに、文化資本の獲得を目指すことは、それ自体が文化資本獲得への道を閉ざしてしまうといいます。確かに、あのギャツビーも莫大なお金をもとに上流階級の文化を家に持ち込みますが、やればやるほどそれが逆効果になると内田さんは指摘します。そして、こうも書いています。

 でも、文化資本主義社会にもひとつだけ救いがある。それは、この社会における「社会的弱者」は自分が「社会的弱者」であるのは主に「金がない」せいであって、「教養がない」せいでそうなっているということには気がつかないでいられるからである。

 必死で文化資本を獲得しようとする者は、その苦労を知るだけに自分より下の差別する側にまわりがちです。とはいえ、皮肉なことにそうした「差別」から生まれる「怒り」や「反抗心」は、「生きがい」ともなるし文化を生み出す原動力にもなりうると考えられます。
<成り上り貴族は差別する>
 しかし、「成り上り貴族」は「自分より下の人間」を探すことに熱中する。「成り上がることを切望しながら、それを達成できなかった人々」こそは、彼らの「恥ずべき自画像」だからである。それから目を背けたい当のものだからである。
 だから、「成り上り文化貴族」は必ずや勤勉な差別主義者となる。あらゆる領域で、あらゆるトピックについて、どうでもいいようなトリヴィアルな差異を発見し、どうでもいいようなニュアンスの違いを言い立てて、そこに「文化資本をそこそこ持ったもの」と「文化資本をそれほど持たなかったもの」の「越えがたい境界線」を引きたがるようになる。
 しかし、話をさらにややこしくするのは、「そこそこ」と「それほど」の差異のような、どうでもいいようなトリヴィアルな差異に大騒ぎし、その差別化に熱中できる能力こそが、プチブルの活力の源だということである。


<文化資本家に文化は生み出せない?>
 つまり、「生まれつきの文化貴族」というような社会階層そのものがプチ文化資本家は、「右手で文化資本を作り出し、左手でそれを拝んでいるのである」。・・・逆説的な言い方になりますけど、「教養がないことに気づいてしまった人間」だけが「教養」を文化的な価値として作り上げる主体になることができます。
 「教養」は実体としてどこかにあるものではありません。「それ」がないせいでなんとなく「入れてもらえない場所」があると感じているのは、あなたの「妄想」にすぎません。しかし、その「どこにもないもの」「かたちのないもの」を探して、手に入れたいという不条理な欲望がおそらくは「文明」というものを作り出してきたのです。
 「プチ文化資本」というどっちつかずの中間状態は決して悪いものではありません。それこそが文化生成の場そのものですから。


 「教養」という名の「文化資本」の獲得こそ「幸福」への近道であると誰もが意識しだしたとしたら・・・社会はどうなるのでしょうか?

<文化資本獲得競争は文化を生み出さない?>
 「文化資本の獲得なくして幸福はない」そう人々が考えるようになったら、その獲得に向けた競争社会あできると考えられます。・・・
「文化資本の偏在によって階層化される社会」というのが出現したとすればそれは、要するに「出世主義者」たちが繁盛する社会である。
 ところが「権力、財貨、情報にむらがる亡者たち」というものほど「文化」と無縁なものはない。
 そこで「文化」と呼ばれて流通する財貨はもう本来的な定義からして「文化的」とは呼び難いものとなるほかない。


 かつてヨーロッパにおける文化を支えたのは、長い年月の間に資産をたくわえ、その利子だけで働かずとも暮らせるようになった貴族階級などごく一部の人々でした。彼らがパトロンとして、その購入者や観客としてアーティストを支援したからこそ、ヨーロッパには絵画や小説、音楽、哲学などの歴史が築かれたのです。しかし、それは20世紀前半までのことになります。それはなぜか?

<新たな文化創造の担い手は誰か?>
 残念ながら、ヨーロッパ文化の創造的なケルンを構成していたこの遊民たちは1914-18年の第一次世界大戦によって、社会階層としては消滅した。
 インフレのせいで金利で生活できなくなってしまったからである。彼らはやむなく「サラリーマン」というものになり、そんなふうにして、世界からホームズもデュパンも明智小五郎も消えてしまったのである。・・・
 それこそが現代の文化的衰退の大きな原因であることはどなたにもお分かりいただけるであろう。
 ところが。
 ここに「負け犬」という新しい社会階層が登場したのである。・・・
 「負け犬」は21世紀日本が生み出した新しい「ランティエ」(高等遊民)ではないだろうか。彼女たちは「パラサイト」であるか一人暮らしか、同性の友人とルームシェアしているか、とにかく「扶養家族」というものに縛られている。・・・
 扶養家族がなく、定職への固着がなく、ある程度の生活原資が確保されていると、人間は必ず「文化的」になる。
(僕の意見では、一部の「オタク」たちも「ランティエ」となる可能性を十分もっていると思うのですが・・・)

PART2「幸福に生きるために必要なこととは」

 人は高い目標を持って挑む人生に成功することで幸福を得られるでしょうか?
 そもそも高い目標を持てない人は幸福になれないのでしょうか?
 現代社会の風潮では、人は早くから高い目標を掲げ、それに向かって家族全員で立ち向かってこそ幸福が得られる。となりつつあるようです。本当にそうなのでしょうか?

<幸福になれる人とは?>
 人生の達成目標を高く掲げ、そこに至らない自分を「許さない」という生き方は(ごく少数の例外的にタフな人間を除いては)、人はあまり幸福にはしてくれない。
 あまり言う人がいないから言っておくが「向上心は必ずしも人を幸福にしない」。
 幸福の秘訣は「小さくても、確実な、幸福、をもたらすものについてのリストをどれだけ長いものにできるのか、にかかっている。


 では、人は何を目標にして生きるべきなのでしょう?
 仕事のため?お金のため?家族のため?
 内田さんは、そもそも「労働」こそが「人間」を生み出すと、書いています。
<人間とは働くことで初めて人間になる>
 モーリス・ブランシェは作家についてこう書いている。
「作家はその作品を通じて、自分を発見し、自分を実現する。作品以前において、作家は自分が誰であろうかを知らないし、現に何ものでもない。作家は作品を始点にして存在し始める」
 この文章の中の「作家」を「人間」に、「作品」を「労働」に書き換えて読んでみよう。
「人間その労働を通じて、自分を発見し、自分を実現する。労働以前において、人間は自分が誰であるかを知らないし、現に何ものでもない。人間は労働を始点にして存在し始める」

 さらにいうなら「労働」が生み出す「収入=お金=貨幣」こそ、「人間」という存在の原点であるとも書いています。

 人間は商品ではなく、まず貨幣を作り出した。貨幣のおかげで商品が発生し、交換が始まった。そして最後に、「交換をするもの」として「人間」が誕生した。ご覧のとおり、人間と貨幣と商品と交換はループをなしている。だから厳密に言えば「人間が貨幣を作り出した」というのは不正確な言い方なのだ。
 だって、貨幣以前に「人間」は存在しなかったんだからね。


 では、「労働」(貨幣を生み出す行為)しない人に生きる意味はないのでしょうか?もちろん、その他にも生きる目的として重要なことがあると著者は指摘しています。
「人は不快に耐えるために生きている」というのです!「不快に耐える人々」は、それがけっして貨幣を生み出さなくても、意味があるということです。いや、それこそがより本質的な生きる目的だというのです。なぜなら、「労働」の意味は、「不快」に耐え誰かのために行うことで、それが嫌な仕事でも、多くを生み出していなくても、それで十分に価値があるということになるからです。
 しかし、そのためには、人間はその「不快」を「達成感」に変換できることが求められます。

 人類が再生産を維持するために必要な資質は「快楽を享受する能力」ではない。そうではなくて、「不快に耐え、不快を快楽に読み替えてしまう自己詐術の能力」なのである。・・・
 結婚は快楽を保証しない。むしろ、結婚が約束するのはエンドレスの「不快」である。だが、それをクリアーした人間に「快楽」をではなく、ある「達成」を約束している。それは再生産ではない。「不快な隣人」、すなわち「他者」と共生する能力である。おそらくはそれこそが根源的な意味において人間を人間たらしめている条件なのである。


 例えば、不快な隣人(かもしれない)である結婚相手との関係はどうなのでしょう?
 結婚生活こそ、人によっては子育てこそが不快なる共生、そのものかもしれません。そして、その究極の不快に耐えられることにも生きる意味があると著者は語ります。
<人は他人を理解できると誤解する生物である>
 人間の人間性は、「絶対的に理解も共感も絶したはずの他者の声が、それでもなお聴き取れる」という逆説のうちに存するのであり、そこ以外にはない。
 死者とだってコミュニケートできる、というのが人間の定義である。まして、あなたの配偶者は生きている。・・・
 結婚とは「この人が何を考えているのか、私には分からないし、この人も私が何を考えているのか、分かっていない。でも、私はこの人にことばを贈り、この人のことばを聴き、この人の身体に触れ、この人に触れられることができる」という逆説的事況を生き抜くことである。


 人は理解できないはずの存在とコミュニケートしたがる生き物である。その好例は死者との関係です。
<人間は死者の声を聞く唯一の生物である>
 人間が墓を作ったのは、「墓を作って、遠ざけないと、死者が戻ってくる」ということを「知っていた」からである。旧石器時代の墳墓にはしばしば死体の上に巨大な石を載せ、死者が土から出られないようにしたものがある。おそらくは、「戻ってこないように重しを載せる」というのが墓の本義なのだ。人間の人類学的定義とは、「死者の声が聞こえる動物」ということなのである。そして、人間性にかかわるすべてはこの本性から派生している。

 幸いなことに僕は今まで一度も離したいなんて考えたこともなかったので、この問題には?だったのですが、やっとわかりました。
<離婚しない夫婦とは?>
「私にはこの人がよく分からない(でも好き)」という涼しい諦念のうちに踏みとどまることのできる人だけが愛の主体になりうるのである。

 そうなんですよね。なぜ、そう思えるのか?その理由はたぶん人それぞれなのでしょう。
 でも、もしそれがなかった結婚なら?それをどこかの時点で失ったのなら・・・離婚という選択肢は必然的に浮かんでくるものなのでしょうか?
 このことについても、著者はわかりやすく指摘しています。
<なぜ多くの人が離婚してしまうのか?>
・・・手元に「リセットボタン」を握りしめて結婚生活をしている人間は、まさに「リセット可能」であるがゆえに、その可能性を試してみたいという無意識の欲望を自制することができない。それはその人が特別に自制心に欠けているとか、愛情に乏しいとかいうことではない。ボタンがあれば押したくなり、ドアノブがあれば回したくなる。人間というのはそういうものなのである。

 この考え方は、チェーホフがかつて「ドラマに登場した銃は使われなければならない」と言ったのと一緒ですね。そうなると、この論理は兵器、軍隊にも拡張することができることになります。
<なぜ戦争は起きるのか?>
 1927年の不戦条約は「国際紛争解決のため、また国策遂行の手段としての戦争を放棄する」ことを誓い、世界63カ国がこれに調印した。しかし、「リアリスト」の政治家たちは、このように夢想的な条約が効果的に戦争を抑止できるとは考えず、「自衛のための戦争はこの限りではない」という解釈を採用した。そして世界の国々はこの解釈を根拠に、まるで魅入られたように、史上最悪の戦争に突入していったのである。・・・
 「自衛のために」という大義名分は「不戦条約」に対する一種の「リセットボタン」である。堂々たる宣言を掲げても、その一隅に小さな文字で「この宣言は次のような場合には破ってもよい」と書いてあると、私たちは「次のような場合」を必要になって探し始めるのである。
・・・

 著者は最後に若者たちのための提案をしています。
<なぜ大学で学ぶことに意味があるのか?>
 キャンバスという無意味に広い空間が必要なのは、そこに行くと「自分が知りたいことが知れる」からではない。そこに行くと「自分がその存在を知らないことさえ知らなかったもの」に偶然でくわす可能性があるからである。「大学の中をふらふらする」という作業がどうしても必要なのはそのためである。
・・・・・
 学生が「すでに知っていること」にピンポイントして、それを量的に拡大する教育を行うのか、学生たちが「まだ知らないこと」にピンポイントして、それを「欲望」するように仕向ける教育を行うのか、私はここに高等教育がこの先、高等教育として生き残ることができるかどうかの分岐点があると思っている。
<デジタル教育の最大の欠点とは?>
 デジタル・コミュニケーション(定量可能、分割可能な知識単位を交換するシステムをとりあえず、そう呼称する)には致命的な難点がある。
 それは「自分が知っているもの」しか「注文」できない、ということである。

・・・・・
 デジタル・コミュニケーションがたいへん効果的な局面があることを私は否定するわけではない。けれども、大学教育は「そういうもの」ではないだろうと申し上げるのである。

 こうした環境が当たり前になることで、多くの若者たちの頭の中の「想像力」には「限界」が生じようとしています。
<想像力とは想像の限界を意識することである>
 想像力というのは、「現実には見たことも聞いたこともないもの」を思い描く力である。そのためには、自分がいま見ているものは「見せられているもの」ではないのか、自分が想像できるものは「想像可能なものとして制度的に与えられているもの」ではないかという疑念を抱き、そのフレームの「外部」に向けて必死にあがき出ようとする志向がなくてはすまされない。想像力を発揮するというのは、「奔放な空想を享受すること」ではなく、「自分が『奔放な空想』だと思っているものの貧しさと限界を気づかうこと」である。

 「想像力」には、自分の想像力の限界を気づかせる意味があると同じように、それによって自らの人生を未来から眺めるという「俯瞰」のための役割もあります。
<想像力は人生を「俯瞰させる>
 私たちの人生もそれと同じく、「犯人がまだ分からない推理小説」のように構造化されている。けれども、それにもかかわらず私たちが日々どうということもない些末な出来事をわくわく楽しめるのは、それが「巨大なドラマの伏線」であったことを事後的に知って「なるほど、あれはそういうことだったのか」と腑に落ちている「未来の私」を想定しているからである。私たちの日々の散文的な、繰り返しの多い生活に厚味と奥行きを与えるのは、今生きている生活そのもののリアリティーではない。そうではなくて、「私の人生」という物語を読み終えた私である。

 自らの生きる姿を思い描くことは、日々の喜びを生み出すだけではなく、それが行き着く先には「すべてを自らの死の時から遡って見つめる」という究極の俯瞰に至ります。
 そこまで行きつける時、すべての時、すべての苦しみ、すべての喜びは美しく輝いて見えるのでしょう。
<死から見えてくる人生>
 私たちは今起きつつある「私の人生」という物語を「すでに読み終えた私」(ナレーターとしての私)を想定し、その「私の物語を読み終えた私」が今起きつつある出来事にリアリティとしての厚みや深みをそのつど賦与するという、時間の順逆が狂ったかたちで生きている。「私の物語を読み終えた私」ということである。「美しいカットグラス」の美しさを構成しているのが、それが割れた瞬間に立ち会っている未来の自分が経験する喪失感であるのと同じように、私の今ここにおけるリアリティの厚みと深さと熱を担保しているのは、「死んだ後の私」という視座なのである。

<失われゆくものをなぜ、人は愛するのか?>
 つまり、「割れるグラス」の魅惑を今現在構成しているのは「それが失われた瞬間に立ち会っている未来の自分」が経験する喪失の予感なのである。
 今目の前にある「うつろいやすいもの」の美や儚さは、それらの器物そのもののうちに内在するのではない。そうではなくて、「それが失われた瞬間に立ち会っている私」という先取りされた視座が作り出した「想像の効果」なのである。私たちが「価値あり」と思っているものの「価値」は、それらの個々の事物に内在するのではなく、それが失われたとき私たちが経験するであろう未来の喪失感によって担保されているのである。


「若者よ!死を意識して生きよ」と語りかけているわけですね。
現代社会、特に教育において避けて通ろうとしている「死」を学ぶことこそ、生き生きとした社会を生み出すために最も必要なことなのかもしれません。
<死を意識しての生>
 今の若い人たちに欠けているのは「生きる意欲」ではなく、実は「死への覚悟」なのである。「生きることの意味」が身にしみないのは、「死ぬことの意味」について考える習慣を失ってしまったからである。・・・
 私が若い方々に勧奨することは、とりあえず一つだけである。それは、自分がどういうふうに老い、どういうふうに病み衰え、どんな場所で、どんな死にざまを示すことになるのか、それについて繰り返し想像することである。困難な想像ではあると思うけれど、君たちの今この場での人生を輝かすのは、尽きるところ、その想像力だけなのである。


 「想像力」は、たとえそれが不足している人間でも、その環境によっては、大きな役割りを果たすこともあります。例えば、アメリカのトップに立つという「ビジョン」を抱けるのは、黒人最初の大統領になろうという夢を抱いてきたオバマ氏だけではありません。たいした想像力も知識も持っていなくても、自分の父親が大統領だったという事実によって、自然に大統領になる「ビジョン」を持つこともあるのです。
 「想像力」は、人類がこの先も絶滅せずに生きのびるために必要なビジョンも与えてくれるはずです。例えば、人はなぜ「社会」を作り、地域社会の中に協力しながら生きる必要があるのでしょう?この問題に悩んだことのある人もいるはずです。
<共同体を支えるルールの価値とは?>
 短期的には合理的だが、長期的には合理的ではないふるまいというものがある。あるいは少数の人間だけが行う限り合理的だが、一定数以上が同調すると合理的ではないふるまいというものがある。
 例えば、「他人の生命財産を自由に簒奪してもよい」というルールは、、力のあるものにとって短期的には合理的であるが、それが長期にわたって継続すると、最終的には「最強のひとり」にすべて富が集積して、彼以外の全員が死ぬか奴隷になるかして共同体は崩壊する。

 この考え方を突き詰めれば、お互いを認め合い差別を否定する生き方も自然に理解できてくるでしょう。
<ヒューマニズムの存在する意味は?>
 わたしはどんなことがあっても、宗教や信条の違いによって、他人をひざまずかせて通りを磨かせたりしたくない。それはわたしがヒューマニストだからというより、そういったことが合理的ではないというコンセンサスを作っておかないと、いつわたしがひざまずいて通りを磨くことになるとわからないからだ。
 わたしたちは、状況が変化すればいつでもマイノリティにカテゴライズされてしまう可能性の中に生きている。だから常に想像力を巡らせ、マイノリティの人たちのことを考慮しなければならない。繰り返すがそれはヒューマニストではない。わたしたち自身を救うための合理性なのだ。

村上龍「恋愛の格差」(2002年)より

 けっしてこのことは、人への「愛」とか「博愛」などの美しい理由ではない、そう村上龍は説明しています。この言葉にも説得力があります。たとえ理解できない人だとしても、その人を差別することは、いつか自分に巡ってくるかもしれない。そう思えばこそ、人は理解できない人とでも仲良くしようとするのである。確かにこれは論理的な解釈です。でも、正直、僕はそうは思いません。そこには理由などなしに、そんな情景を見たくない。単純に、そんな心情を持つ人もいるはずだと思います。そっちが主流にならない限り、差別はなくならないと思います。
<理解できなくったっていいのだ!>
 逆説的に聞こえるかもしれないけれど、私たちが共同的に生きることができる人間というのは、私のことをすみずみまで理解し共感してくれる人間ではなく、私のことを理解もできないし、私の言動に共感もできないけれど、それでも「私はあなたの味方だよ」と言ってくれる人間のことなのである。

 人は理解し合えない人とでも共生できる。「私はあなたの見方です」と思えるだけでいい。人と人との交流による「心のつながり」こそが最重要。

 もし、そこに説明不能の「好き」という感情が機能したら、宗教戦争も人種差別も消える方向に向かうはずなのですが・・・
 最近、僕はテレビ東京の「YOUは何しに日本へ!」を見るたびに、どれだけ自衛隊が国連平和維持軍に協力しても、どれだけ政府がユネスコに資金援助しても、日本にやって来た外国人への「オモテナシ」以上の有効な平和外交はないのではないか、とつくづく思います。
 日本人は理解できない・・・でも好きな国だ。
 そう思ってもらえるよう、あなたのそばの外国人には親切にしましょうよ!
 そして、自分が死ぬ時のために、思い残すことのない人生を送りましょう。そして、奥さんには「あなたのことは理解できないけれど、好きです」そう言わせるようにしましょう!


「街場の現代思想」 2004年
(著)内田樹
NTT出版

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