- ヴァン・ダイク・パークス Van Dyke Parks -

<謎のソング・サイクル>
 「世界一有名な世界一売れないアーティスト」と呼んで良いのかもしれません。今や20世紀を代表する作品と呼ばれる彼のアルバム「ソング・サイクル」(1968年)は、少しずつではあっても売れ続けているはずですから、それなりの枚数は売れているはずですし、今後も売れ続けてゆくでしょう。そして、多くの人々を感動させ、新しい音楽を生み出すエネルギーの源となって行くでしょう。時代は少しずつ彼を売れるアーティストにしてゆくかもしれません。しかし、1990年にワーナー社が彼の過去のアルバムをCD化し再発したところ、結局さっぱり売れず、再び廃盤になってしまったと言います。まだ時代は彼に追いつけづにいるのでしょうか?
 それにしても、デビュー・アルバム「ソング・サイクル」の発表時、発売元のワーナーが自ら業界誌にその売れなさぶりを公表し、ただ同然の価格で通信販売を行ったなんて・・・もしかすると、手の込んだキャンペーンだったのではないのだろうか?と疑いたくなるような話しです。(そのくせ、その後彼はワーナーのオーディオ・ヴィジュアル部門の副部長にまでなっているのです!)
 確かに、彼の音楽は万人向けのポップスではないでしょう。僕がもし「ソング・サイクル」を発売当時に買っていたとしても、たぶん彼のことを変人だとは思っても、天才だとは思わなかったはずです。実際、彼のインタビュー記事を読んでも、彼自身がかなり難解な人物であることがわかります。そして、アルバム「ソング・サイクル」の中で展開されている霞がかかったような不思議な音の世界は、彼自身の不可解さをそのまま写し取ったかのようです。「ソング・サイクル=歌の輪」は、永遠に回り続け、けっしてその謎が解けることはないのでしょう。それは、ある意味では「謎解きを楽しむ音楽」と言えるのかもしれません。

<天才子役から天才ミュージシャンへ>
 彼は1943年アメリカ南部ミシシッピー州のハティスバーグに生まれています。少年時代は、やはり南部のレイクチャールズですごしましたが、50年代に入ると北部のニュージャージー州プリンストンに移り、10歳の頃ニューヨークでテレビの子役スターとして大活躍したといいます。その後、ミュージシャンとしての活動を始め、ロスアンゼルスに移住。テリー・メルチャーやレニー・ワロンカーらのワーナー系プロデューサーたちに気に入られ、数多くのアルバムでバック・ミュージシャンに起用されるようになって行きました。そして、この時彼を起用してくれた人物との関係が、その後とことん売れないにも関わらず音楽活動を続けることができる条件を生み出すことになります。
(俳優と言えば、以前世界中で話題となったデヴィッド・リンチの連続TV作品「ツイン・ピークス」第12話にヴァン・ダイク・パークスが出演していました。貴重な演技が見られます!)

<テリー・メルチャー、ブライアン・ウィルソンとの出会い>
 テリー・メルチャーは、1942年ニューヨーク生まれでヴァンとは1歳違いですが、母親があの有名なアメリカの国民的アイドル歌手、ドリス・デイで、父はレコード会社の社長という恵まれた環境に育っていました。そのため彼は早くからミュージシャンとして活動しますが、フィル・スペクターとの出会いからプロデューサーとしての道を歩み始め、後にビーチ・ボーイズのメンバーになるブルース・ジョンストンとともにビーチ・ボーイズ・サウンドを支えて行くことになります。
 そんな彼がヴァンの才能に目を付けスタジオ・ミュージシャンとしてだけでなく作詞家、作曲家としての仕事を与えてくれました。そしてある日、ビーチ・ボーイズのブライアン・ウィルソンに紹介してくれます。これが、ロック史に残る伝説のコンビ誕生のきっかけでした。

<レニー・ワロンカー>
 そして、もうひとりヴァンを支え続けた重要人物が、ワーナーの重役にまで登りつめた大物プロデューサー、レニー・ワロンカーです。彼もまた1941年LA生まれということで、ヴァンとそう年齢はかわらないのですが、やはり彼の父もまたリバティー・レーベルの社長ということで、早くから音楽業界と縁が深く、ワーナーに入社後、ハーパーズ・ビザールモジョ・メンボー・ブラメルズなどを育てました。後にバーバンク・サウンドと呼ばれることになる映画音楽のようにオーケストラを多用した高度な音楽は、レニーが採用した数多くの優れた才能が生み出したものでした。そして、その中にヴァンを初め、ランディー・ニューマンニック・デカロペリー・ボトキンJr.らのライター&アレンジャーがいました。さらに彼は70年代に入ると、ゴードン・ライトフットマリア・マルダージェームス・テイラーリッキー・リー・ジョーンズらのシンガー・ソングライターを育て、大物プロデューサーとしての地位を確立します。そんなワーナーのエリート・コースを歩んだ男が最も頼りにしていたライター&アレンジャーが、ヴァン・ダイク・パークスだったのです。

<幻のアルバム「スマイル」>
 彼の名が、初めてロック史に刻まれることになったのは、なんと言ってもビーチ・ボーイズ幻のアルバム「スマイル」の共作者としてでしょう。もし「スマイル」が発表されていたとしたら、翌1967年に発表されたビートルズのアルバム「サージェント・ペパーズ・・・」が作り上げた神話に代わり、「ビーチ・ボーイズこそロックの歴史を変えたバンド」と言われるようになっていたかもしれません。・・・そう言われるほど、「スマイル」は時代の先を行っていました。(後に、「スマイル」の未発表の音源などを集めた大作CD・ボックス「グッド・バイブレーションズ」が、発表されるまで、その全容は謎のままだったのですが・・・)
 しかし、当時その先進性はレコード会社のキャピトルどころか他のビーチ・ボーイズのメンバーにすら理解されませんでした。バンドのリーダー的存在だったマイク・ラブは、「そんなわけのわからん歌詞の曲を俺に歌わせる気か!」と激怒したと言われています。(たぶんこれが普通の感覚ではあったのですが・・・)保守ガチガチのマイクと麻薬にどっぷり浸かり異常に厳しい父親の影におびえる精神異常一歩手前のブライアン・ウィルソン。この二人の間に、共通の理解など生まれるはずはありませんでした。(ブライアンはこのアルバムを「神に捧げるティーンエイジ・シンフォニー」と呼んでいたといいます)
 そして、この時作詞を依頼されていたヴァンもまた、マイクにその詞を徹底的に非難されました。彼は結局、「スマイル」の製作現場を去ることになり、そのままアルバム自体がお蔵入りになってしまったのです。

<ソロ・デビュー>
 こうして、プロデューサーとしての仕事に失敗したヴァンでしたが、彼の才能自体にケチがついたわけではなく、ワーナーとはアーティストとして専属契約を結び、1968年早々とソロ・デビューのチャンスをつかみました。そして、期待の大型新人として、デビュー・アルバム「ソング・サイクル」が華々しく発売されたのです。しかし、その結果は最初に書いたとおり史上稀に見る失敗に終わりました。普通なら、これでアーティスト生命は終わってしまうところなのですが、彼はそうはなりませんでした。彼のあまりに派手な失敗は、もしかするとかえって業界人たちの耳を彼のサウンドへと向かわせることになったのかもしれません。そう思えるほど、彼の評価は、評論家やミュージシャン、プロデューサーたちの間で高くなっていったのです。おかげで彼にはプロデューサーとしての仕事とキーボード奏者としての仕事が着実に回ってくるようになり、再びアルバム発表のチャンスが巡ってきました。

<セカンド・アルバム>
 少しずつ彼の評価は高まり、デビュー・アルバムの発売から4年後の1972年、セカンド・アルバム「ディスカバー・アメリカ Discover America」が満を持して発売されました。このアルバムには、前の年に彼がプロデュースしたカリブ海に浮かぶ島国トリニダード・トバゴのスティール・ドラムの演奏が巧みに収められ、カリブの音楽からみたアメリカ音楽の再発見的な構成になっていました。しかし、このルーツ・ミュージック的な視点もまた、当時のアメリカでは理解されず、またもや売上は惨憺たる結果に終わってしまいました。
 それでもなお、1975年には同じカリビアン・ミュージック路線の「ヤンキー・リーパー The Clang Of The Yankee Reaper」、1984年には黒人を主人公とした短編小説に基づくコンセプト・アルバム「ジャンプ! Jump!」、1989年には日本とアメリカの太平洋戦争からの対立とその後の協調をテーマとする(本人がそう言っていた)「東京ローズ Tokyo Rose」というミュージカル的なアルバムを発表しています。
 そして、どの作品も見事に売れませんでした。こうなると、彼の場合、売れないことが不思議なのではなく、売れないのにアルバムを発表し続けることができたことの方が不思議に思えてきます。これほど恵まれた天才がかつていたでしょうか?

<恵まれた天才>
 世の中には、天才でありながら不遇の生涯を終えた人物は数多くいました。しかし、彼は並はずれた才能とレニー・ワロンカーを初めとする優秀な理解者たちのおかげで、実に恵まれた人生を送ってきたと言えるでしょう。たまに気が向いてライブを行うとなれば、彼のマニアックなファンたちは、あっという間にチケットを買い占めてしまいます。(もちろん、スタジアム級の会場でのコンサートはできないでしょうが・・・)
 しかし、それでもなお彼の心の中には、ずっと満たされない思いが存在していたはずです。それは、ブライアンとともに挑んだ「スマイル」が、ついに日の目を見なかったという60年代の苦い思い出です。残念なことに、その思いをはらす日は、なかなかやってきませんでした。もう一人の主役ブライアンが精神的にボロボロの状態となり、1980年代が終わる頃まで作品を制作することすらできなかったからです。(彼のソロ・アルバム「ブライアン・ウィルソン」が発売されたのは、1988年のことです) 多くの人々は、二人のコンビが復活するのは、ビートルズの再結成よりも困難だと考えていました。しかし、ほぼ30年という長い空白ののち、ついに幻のコンビが復活することになります。それが、1995年発表のアルバム「オレンジ・クレート・アート」です。

<オレンジ・クレート・アート>
 美しいアルバム・ジャケットそのままのノスタルジックで優しい曲の数々のほとんどは、ヴァンが作詞、作曲、アレンジを行いましたが、その美しいハーモニーは、まさにブライアン・ウィルソンの完全復活を告げるものでした。しかし、この後、二人のジョイント・コンサートの企画もあったのですが、結局ブライアン側のオーケーがでず、それは実現しませんでした。ヴァンは、その企画の実現に大きな期待を寄せていたようです。「スマイル」のリベンジはそう簡単には実現しないのかもしれません。

<ムーン・ライティング>
 1988年、ヴァンは初のライブ・アルバムを発表しました。この「ムーンライティング Moonlighting-Live At The Ash Grove」は、オーケストラをバックにした本格的な内容でコンサート自体めったに行わない彼にとっては、まさに貴重なアルバムと言えるでしょう。あとは、いつの日かブライアンとのジョイント・コンサートが実現することを祈りたいものです。
 社会や人生に対するシニカルな視線は、デビューの頃からの友人ランディー・ニューマンと良い勝負かもしれません。しかし、ランディーがブラック・ユーモアによって、そんな視点から世界を笑い飛ばしているのに対し、彼はあくまで真面目に世界を見つめています。「オレンジ・クレート・アート」の中の曲"Movie Is Magic"の中にこんな一節があります。
Movie Is Magic
Real Life Is Tragic
彼の友人たちを襲った悲劇の数々を思えば、そんな歌詞も当然かも知れません。
ブライアンの精神的な崩壊、デニス・ウィルソンの死、それに親友だったニルソンローウェル・ジョージの死など、悲劇は年々増えています。彼のシニカルな視点に磨きが掛かるのもしかたがないでしょう。「ムーンライティング」という実にはかなげなタイトルもまた、そんな彼のシニカルさを良く現しています。
 ロックの世界にも、着実に高齢化の波は押し寄せています。「オレンジ・クレート・アート」は、そんな初期ロック世代の人々の心を、ノスタルジックで美しい記憶の中の世界へと逃避させてくれるトリップ・アルバムのような気がします。

<追記>
 2004年、ブライアン・ウィルソン名義で幻のアルバム「スマイル」が発売されました。これほど発売に時間をかけたアルバムは他にないかもしれません。

<締めのお言葉>
「ああ、すべては美しいが、理解を超えていて、悲しかった。人にはなにもわからなかった。人は生き、大地を走り、馬に乗って森を駆け抜けるが、その姿に挑むように、将来をうけあうように、また郷愁を誘うように見つめるものたちがあった- 夕方の星、青い糸沙参、緑の茂ったアシの池、人や牛の目・・・。
 そして時には、まだ見たことはないが長い年月あこがれていたことが突然起こり、すべてのものからヴェールがはがれそうな気になることもあった。
 しかし、そんな瞬間はすぎて、なにごとも起こらない。謎は解かれることなく、魔法の呪文は解かれることなく、結局人は年老いて・・・ずるがしこくなり・・・あるいは賢くなり・・・しかし、依然としてなにもわからず・・・依然として待ち続け、耳をすまし続けたのだ」

ヘルマン・ヘッセ著「ナルチスとゴルトムント」より 

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