ネオリアリズモの代表作を生んだ名コンビ


- ヴィットリオ・デ・シーカ Vittorio De Sica、チェザーレ・ザヴァッティーニ Cesare Zavattini -
<ネオリアリズモ>
 映画の歴史において、「ネオリアリズモ」、「ヌーヴェル・ヴァーグ」、「ニューシネマ」は、映画の作り方を世界規模で変えた重要な転換点でした。
 イタリア映画が生んだ「ネオリアリズモ」は、1945年に終戦直後のローマの瓦礫の中で撮影されたロベルト・ロッセリーニ監督作品「無防備都市」が元祖といわれます。それは何もない中だからこそリアルに戦争を描くことができた「必要が生んだリアリズムの傑作」でした。しかし、リアリズモの潮流は戦争中にもルキノ・ヴィスコンティのデビュー作「郵便配達は二度ベルを鳴らす」(1942年)で誕生していたという説もあり、イタリアの映画文化が必然的に生み出したものと考えることもできそうです。どちらにしても、「戦争」こそがリアリズムを生み出す最大の原因となったことは間違いなさそうです。

「戦争こそがネオ・リアリズモの楼閣を築いたのである、と人はしばしば語った。戦争というこの巨大な事実は、人々の魂を根底から揺すぶった。そして作家はそれぞれ自分固有の方法で、増大するこの感動を映画の中に叩きつけようとしたのである」
チェザーレ・ザヴァッティーニ

 だからこそ、ネオリアリズモの作品は、他のイタリア人監督によって、ほぼ同時期に次々と生み出されることになったのでしょう。特にヴィットリオ・デ・シーカの「自転車泥棒」は、「無防備都市」よりもネオリアリズモを代表する作品として、映画ファンの間で世界的に認知されています。そうなったのは、「自転車泥棒」が「無防備都市」以上に「リアリズム」に徹した演出がなされ、物語もまた映画的なラストを持ち込まないリアルなエンディングだったからでしょう。ここまで冷徹なまでに現実を描いた映画は、それまで世界中のどこにもなかったのです。そんな歴史的名作を生み出した二人の人物にここでは注目したいと思います。監督として、ネオリアリズモをリードしたヴィットリオ・デ・シーカと彼以上にリアリズムにこだわり続けていた脚本家チェザーレ・ザヴァッティーニです。
 先ずは、「自転車泥棒」の監督であり、俳優としても活躍したヴィットリオ・デ・シーカから始めましょう。

<ヴィットリオ・デ・シーカ>
 ヴィットリオ・デ・シーカ Vittorio De Sica は、1902年7月7日イタリア中部ラツィオ州ソーラに生まれています。少年時代をナポリで過ごしますが、家は貧しく、幼い頃から働きに出ていました。その後、イケメンだった彼は役者の道に進み、1918年には映画に初出演し、1922年初舞台を踏むと、翌年にはタチアナ・パヴロワの劇団に入ります。20年代後半には当時の妻で女優でもあったジュディッタ・リソーネと自分たちの劇団を作ります。しかしその間にも、映画俳優としての活動も本格化していて、30年代に入ると映画界での活動が本業となって行きます。特に、コメディー映画の監督マリオ・カメリーニの作品で活躍し、コメディー俳優として人気を獲得します。「殿方は嘘吐き」(1932年)、「ナポリのそよ風」(1937年)、「バストで勝負」(1955年)などの出演しています。
 30~40年代は俳優として、歌手としてミュージック・ホールでも活躍し、人気タレントの仲間入りを果たしていた彼は、監督業への進出を果たします。(ちょっと北野武のようです)俳優としての得意分野だったコメディー映画から撮り始めた彼は、子供たちの目から見た大人の世界を描いた「子供たちは見ている」(1942年)で初めて脚本家チェザーレ・ザヴァッティーニ と仕事をしました。そして、その後はザヴァッティーニとのコンビで「靴みがき」(1946年(や「自転車泥棒」(1946年)などネオリアリズモの名作を次々に生み出すことになります。

<ネオリアリズモの時代>
「自転車泥棒 Ladri di biciclette」(1946年)
(監)(脚)ヴィットリオ・デ・シーカ
(脚)チェザーレ・ザヴァッティーニ、スーゾ・チェッキ・ダミーコ、オレステ・ビアンコリ、アドルフォ・フランチ
(原)ルイジ・バルトリーニ
(撮)カルロ・モントゥオーリ
(音)アレッサンドロ・チコニーニ
(出)ランベルト・マジョラーニ、エンゾ・スタヨーラ、リアーネーラ・カレル

 戦争で職を失い、息子を育てるためにも仕事をしなければならない父親は、やっと映画のポスターを貼る仕事を得ます。ところが、そのために必要な自転車を盗まれてしまったため、父と子はローマ中を探し回ることになります。
 ネオリアリズモの代表作であり、「リアリズム映画」の時代を生んだ戦後映画史に残る重要作品のひとつです。
「これだけのシナリオを書くのに、六か月の月日を要した。この種の映画においては、余りに面白すぎる筋立てとか、余りに才知のありすぎる台詞とかを排さなければならぬ。つまりそういうところで、リアリズムと造られたコメディとの差が生じてくるのである」
チェザーレ・ザヴァッティーニ(「自転車泥棒」について)

 映画評論家の田山力哉はこう語っています。
 「自転車泥棒」はしかし、作者の側の何の主張も盛り込まず、単に事実を凝視する一つのルポルタージュ的作品であった。作品自体が現実の証人であった。だがこの映画が出来たあと、ザヴァッティーニとデ・シーカはさらに前進を試みていた。

「今や単なる検証の段階を乗り越えなければならぬ。そして具体的・社会的な関係を、より深くえぐらなければならぬ。この作品の後、デ・シーカと私は、より進んだ、何か他の事をしたいと考えている」
 だが、ザヴァッティーニとデ・シーカが、その方向でそれ以上前進することはありませんでした。時代がそれを許さなかったのです。

<チェザーレ・ザヴァッティーニ>
 デ・シーカとのコンビでネオ・リアリズモの名作だけでなく様々なイタリア映画の名作を生み出した脚本家チェザーレ・ザヴァッティーニ Cesare Zavattini は、1902年9月20日イタリアのエミリア地方ルッツァラに生まれています。戦前はジャーナリストとして働きながら小説を執筆していましたが、1935年に映画「百万リラやろう」で初めて脚本を書きました。
 戦後すぐにデ・シーカの監督作「靴みがき」(1946年)の脚本を書き、ネオ・リアリズモの先駆のひとりとなりました。同い年の二人は、戦争中の1942年にカフェで知り合い、俳優から監督業に転身しようとしていたデ・シーカと映画の話で意気投合した彼は一緒に仕事をしようとコンビを結成したのでした。
 彼の脚本におけるこだわりは、リアリズムの追及へのこだわりでもありました。

「映画というものは唯一回きりのことをしか描いてはならぬものだ。つまり描こうとする対象に遭遇する正にその瞬間だけを捉えるのだ。あらかじめ作り上げ組み立てられたシナリオなどは私には書けない。私の書くのは頭で考えたテーマではない。人間を全的に捉える、武装なしで事実というものに直面する人間を描くことだ・・・私は現実そのものの詩的・精神的・社会的な意味の明瞭さに確信を抱いている。そしてコミュニケイションの可能性という点からしても、現実は、私の書こうと欲する最大のスペクタクルなのである・・・私が絶対に自分のシナリオに書かないのは、作りものの物語だ。そんなものはピンセットでつまんで、窓から捨ててしまえ。それが、時代の流れというものに聖なる重要性を与える唯一の方法である」
チェザーレ・ザヴァッティーニ

 こうしたザヴァッティーニのリアリズムへの強いこだわりがあったからこそ、戦後イタリア映画の黄金時代がやって来たともいえます。しかし、そのこだわりは、興業的なヒットを求められるようになると、映画界に受け入れられなくなります。芸術性と娯楽性の両立が困難なのは当然ではあります。皮肉なことに、イタリア経済が復興し映画界が好景気になったことで、芸術性よりも娯楽性が求められるようになったといえそうです。

「『自転車泥棒』当時の作品を今見直してみるとき、私は悲しい。非常に悲しい。なぜなら私は当時から抱いていた理論を、作品の上で今日まで続けることが出来なかったという印象を持つからだ。私はまことにアッケなく重大な挫折をなした・・・。」
チェザーレ・ザヴァッティーニ

<ネオリアリズモ時代の終わり>
・・・1950年代を境に、ネオ・リアリズムは姿を消し、新たな様相が映画界を訪れていたのである。米ソの冷たい戦争が、漸く経済再建の緒についたブルジョアジーたちに口実を与えた。検閲が厳しくなった。かつて抵抗運動に従事した労働者たちは、政府によって裏切られて行きつつあった。映画が直接的に政治や社会に切り込むことは、国家権力によって規制されはじめた。イタリア映画は混迷の時期を迎える。
田山力哉
 ネオリアリズモの作品は、世界の映画界に「リアリズム映画」の時代をもたらしましたが、その期間は意外に短かかったといえます。1950年代に入り、イタリア経済が上向き、共産主義に対しる批判が増すと、暗く重たい内容で左派よりのネオリアリズモの作品の人気は急降下することになったのです。

「イタリア映画は既にこの国の重大な問題を描き尽し、もはや社会的な批評の映画など撮るときは過ぎ、などという主張が現れはじめている。ところが、我々が告発しようとする社会的状況は以前の百倍もの問題を抱えているのだ。そして政府はそれを描くことを禁ずる・・・・・。私はイタリア映画は未だ何もなしていないと確信する。この10年間のネオ・リアリズムの運動はその緒についたばかりで、大問題に切り込むプロローグにすぎなかったのだ。本質が語られる前に、我々の口を封じられようとしている・・・・・。既に我々はイタリア社会の中傷者だといって非難されはじめた。私はイタリア映画の鋭い歯が一つ一つ抜けて行くのを見た・・・」
チェザーレ・ザヴァッティーニ

 そんな社会状況の中、孤独な老人の絶望を描いた「ウンベルトD」(1952年)も興業的に失敗作となり、仕方なくデ・シーカは元々の路線だったコメディー映画へと舵を切り直します。そして、その合間にシリアスなメロドラマを撮って行くことになります。
 
「昨日・今日・明日」(1963年)
(監)ヴィットリオ・デ・シーカ
(脚)チェザーレ・ザヴァッティーニ、エドゥアルド・デ・フィリッポ、ヴィラ・ヴィラ
(撮)ジュゼッペ・ロトゥンノ
(音)アルマンド・トロヴァヨーリ
(出)マルチェロ・マストロヤンニ、ソフィア・ローレン
 デ・シーカの分身となったマストロヤンニがコメディアンとしての実力を発揮したイタリアらしいコメディの代表作。
 この路線の代表作には、「ああ結婚」(1964年)、「紳士泥棒/大ゴールデン作戦」(1966年)、「女と女と女たち」(1967年)などがあります。
 もうひとつ、彼が得意としたメロドラマ路線の代表作としては、「ひまわり」を忘れるわけにはゆきません。

「ひまわり」(1970年)
 第二次世界大戦でロシア戦線で行方不明になった夫を探してウクライナ(旧ソ連)へと旅立ちます。長い捜索の後、美しく広大なひまわり畑でついに彼女は最愛の夫を見つけ出しますが、彼は現地の女性を結婚していました。しかし失意のまま、故郷へ帰った彼女はもういちど彼と再会することになりますが・・・。
 ヘンリー・マンシーニの美しすぎる音楽が見る者の涙を誘います。

 もうひとつデ・シーカの場合は、俳優としての活動もずっと続けています。
「ロベレ将軍」(1959年)はロベルト・ロッセリーニ作品。「処女の生血」「パンと恋と夢」(1953年)、ソフィア・ローレンと共演した「殿方ごろし」(1955年)など様々な映画で彼は俳優として活躍しています。
 考えてみると、俳優出身でその後、映画監督になった人は、けっこう多いかもしれませんが、二刀流を継続した人はそう多くはありません。いずれも天才監督、天才俳優たちばかりです!
 クリント・イーストウッド、ウディ・アレン、ジョディ・フォスター、ショーン・ペン、ベン・アフレック、デニス・ホッパー、北野武、チャールズ・チャップリン、オーソン・ウェルズ・・・?

<参考>
「海外の映画作家たち 創作の秘密」
 1971年
(著)田山力哉
ダヴィッド社

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