- ヴェルヴェット・アンダーグラウンド Velvet Underground -

<広がり続ける影響力>
 ヴェルヴェット・アンダーグラウンド、彼らのことを取り上げるのは、ちょっと気合いが必要でした。それは、彼らを単に優れたロック・バンドというくくりだけで紹介するのは、不十分だからです。そして、その広範囲にわたる活動と影響力は、未だに世界各地で拡がりをみせているからです。だからといって、彼らの活動は数多くのジャンルにまたがっていたとか、時代に応じてスタイルを次々と変えていたというわけではありません。彼らが録音したオリジナル・アルバムは、わずか4枚にすぎませんし、その活動期間も、1967年のデビュー・アルバム発表から実質的には4年に満たないのです。まして、衝撃的なデビュー・アルバムを生み出したオリジナル・メンバーによるアルバムは、たった1枚にすぎづ、活動期間中に彼らが音楽的な注目を浴びることは、ほとんどありませんでした。(最近になって、当時のライブ音源が次々にアルバム化されていますが・・・)
 しかし、彼らはその後しだいに注目を集めるようになって行きます。その人気はパンクの時代、オルタナティブ・ロックの時代とロックの流れが変わっても、衰えることはありません。もしかすると、その影響力はロックという音楽ジャンルに限るならビートルズに匹敵するかもしれません。パンクも、グランジも、あらゆるノイズ系サウンドの原点は、ヴェルヴェットであり、グラム・ロックの頽廃美やテクノなどのミニマルなサウンドもヴェルヴェットから発展したものなのです。
 ビートルズが「20世紀ロックの光」なら、ヴェルヴェットは「20世紀ロックの影」であり、ロックという音楽文化の全体像を見る上で、この二つは欠かすことのできない存在であると言えるでしょう。

<強力な個性の集合体>
 ヴェルヴェット・アンダーグラウンドという巨大な存在は、強力な個性がぶつかり合うことで生まれました。その一人、ルー・リード(本名ルイス・アラン・リード)は、1943年3月2日ニューヨークのブルックリンに生まれた生粋のニューヨーカーです。(ブルックリンを舞台にした映画「スモーク」にも、ゲスト出演したいましたっけ)彼の父親は会計士で、彼はシラキュース大学で英文学を学び、ちゃんと卒業し、その後は小さなレコード会社に就職し、細々とバンド活動を行っていました。そんな彼が、ある日運命的な出会いをします。
 イギリス、ウェールズから現代音楽を学ぶために留学してきたジョン・ケイル(1940年12月3日生まれ)との出会いから、1964年新しいバンドが結成されました。ルー・リードがヴォーカルとギターを担当、ケイルのベース、ピアノに加えて、ドラマーにアンガス・マクライズ、ギタリストにスターリング・モリソンが参加。こうして生まれた新バンドは、さっそくニューヨークのアンダーグラウンド・シーン、カフェ・ビザールなどの店を中心にライブ活動を開始しました。

<アンディー・ウォーホル>
 アーティストたちであふれたこの街で、彼らの噂を聞きつけて興味をもった人物がいました。それが、もうひとつの個性、ポップアートの創始者アンディー・ウォーホルでした。当時、次から次へと芸術活動の範囲を拡大していた彼は、新たな挑戦の場として音楽の世界を選び、自らヴェルヴェット・アンダーグラウンドのプロデュースを志願しました。彼は、先ず自分が仕掛けた作品「チェルシー・ガール」に出演していたモデル出身のニコ Nicoをバンドに加えました。

<ニコ>
 ニコ(本名クリスタ・パフゲン Christa Paffgen)は、西ドイツのケルン生まれで、イタリアでフェリーニの映画「甘い生活」に出演した後、ストーンズの仕掛け人アンドリュー・オールダムに認められイギリスに渡りました。そこで彼女はミュージシャンとして活動を開始した後、渡米しニューヨークにあったウォーホルの工房「ファクトリー」の常連になっていました。
 この時、彼女の参加に反対したアンガスはバンドを離れ、代わってモーリン・タッカー Maureen Tuckerが加わりました。こうして、ウォーホルのプロデュースの元、バンドのスタート準備がととのいました。

<デビュー>
 彼らのデビューは、「Plastic Exploding Inevitable」というタイトルのイベントへの出演でした。それは、当時の時代を反映した前衛的なイベントで、映像、ダンス、ライトショウそして音楽が組み合わさったアンディーの作品でした。彼らは、その中の音楽担当だったわけで、その点ではアンディーの作品の一部にすぎなかったとも言えるかも知れません。
 しかし、時代の寵児だったアンディーのこの作品は、当然注目を集め、重要な役目を担った彼らは、さっそく単独でのライブのチャンスを得るとともにアルバムを発表することになりました。それが、ウォーホルによるバナナのジャケットで有名なアルバム「Velvet Underground And Nico」でした。

<時代に逆らう過激な活動>
 時代はサイケのまっただ中。しかし、彼らの音楽は当時全盛期だったヒッピー・ムーブメントとは、ほとんど関わりがありませんでした。彼らは、ドラッグによる精神の覚醒やそれによる新時代の幕開けを賛美していたわけではなく、ドラッグによる感覚の麻痺や精神の退廃、それに性の倒錯をノイジーなギターでありのままに表現していたのです。それは、ストーンズが「悪魔を憐れむ歌」で人間のもつ悪魔性、暴力性を、ダイレクトに表現していたのと似ていたのかもしれません。
 そして、彼らの先輩格にあたるビートの英雄たち、ジャック・ケルアックアレン・ギンズバーグウィリアム・バロウズらの影響を最も受けたバンドだったとも言えるでしょう。(このビート文化を知るとヴェルヴェット・アンダーグラウンドが、もっとわかってくるでしょう。詳しくは、映画「ビートニク」へ)
 その後アメリカは、彼らの表現していたとうり不気味なドラッグ社会へと向かって行きますが、彼らの歌う重くて暗いドラッグ讃美の曲はそれをいち早く予言するものでした。
 しかし、そんな彼らの不気味な世界観が世の中に受け入れられるはずはなく、当時アルバムの売上も全米チャートの100位にすら入ることはありませんでした。

<メンバー交代と新アルバム>
 アンディー・ウォーホルの後押しで参加したニコは、美しさとアーティストとしての才能を兼ね備えていましたが、ドラッグの乱用と音楽性の違いから、他のバンドのメンバーと対立、結局追い出されてしまいました。残った4人のメンバーは、そのまま活動を続け、1968年にはセカンド・アルバム「White Light/White Heat」を発表しました。しかしこの時点で、天才ではあるが飽きっぽい性格のアンディーは、ヴェルヴェットへの興味を失っており、ルー・リードとジョン・ケイルの関係も終わりをむかえようとしていました。
 1969年サード・アルバム「Velvet Underground V」が発売される頃には、すでにジョン・ケイルもバンドを離れており、先がないと判断された彼らはついにヴァーブ・レーベルに見放されてしまいました。幸いアトランティック・レーベルが契約してくれたため、彼らにとってのラスト・アルバム「ローデッド Loaded」(1969年)は発売されることになりましたが、ルー・リードはその内容に納得できず、強引に発売されたことに反発してバンドを去ってしまいました。
 結局、翌年には残った2人のメンバーもバンドを去り、実質的にVUはこの世から消えてしまいました。(バンドは、残った新メンバーたちによって続けられ1973年まで存在しましたが・・・)

<メンバーのその後>
 結局、彼らは活動中ほとんど脚光を浴びることはなかったのですが、しだいにその重要性が認められるようになってゆきました。そのきっかけのひとつは、各メンバーのその後の活躍でした。

<「ジャンキーの女王」ニコ>
 ニコは、バンドを脱退後ティム・バックリーや若かりし日のジャクソン・ブラウンらフォーク界の一流ミュージシャンたちをバックに、1967年ソロ・アルバム「チェルシー・ガール」を発表。その後もジョン・ケイルをプロデューサーに迎えて「マーブル・インデックス」「デザート・ショア Desertshore」「The End」「カメラ・オブスキュアー Camera Obscure」(1985年)などのアルバムを発表。1988年にイビザ島で突然の死を遂げるまでミュージシャンとして第一線で活躍を続けました。
 俳優、モデル、ミュージシャンであり、数多くのアーティストたちと浮き名を流した恋多き女、そして「ジャンキーの女王」と呼ばれた時代を代表する女性、ニコの音楽には、そんな彼女の危険な魅力が生かされていました。

<現代音楽系アート・ロッカー、ジョン・ケイル>(追記:2014年9月)
 ジョン・ケイルは1962年にラ・モンテ・ヤングのグループ「永久音楽劇場(The Theatre of Eternal Music)」に参加。現代音楽から音楽活動をスタートさせたアーティストです。この時のメンバーは、トニー・コンラッド(バイオリン)、アンガス・マクリース(パーカッション)、マリアン・ザジーラ(ヴォーカル)、ラ・モンテ・ヤング(ヴォーカル、サックス)でジョン・ケイルがヴィオラでした。ここで彼らは様々な音をアンプで増幅し、その音のうなりに合わせて即興音楽を演奏するという新しい音楽に挑戦していました。自然界に生じるドローン効果のある音響に、ヤングは永久に終わらない音楽を感じていた。バンドはそんな永遠の音楽環境を集団即興によって作り出そうとしていた。
 こうした経験がヴェルヴェットの音楽に生かされたといえます。
 ジョン・ケイルは、こうして現代音楽を学んでいたアーティストだっただけに、ソロ活動を始めるとさっそく現代音楽畑の作曲家テリー・ライリーとの共同製作アルバム「チャーチ・オブ・アンスラックス」(1971年)を発表するなど独自の活動を展開して行きました。ロイヤル・フィルハーモニック・オーケストラとの共演作「ジ・アカデミー・イン・ペリル」(1972年)、ブライアン・イーノとの共演作「ロング・ウェイ・アップ Long Way Up」(1990)などを発表した他、かつての盟友アンディー・ウォーホルの死を悼んでルー・リードと共演した「ソング・フォー・ドレラ」(1990年)を発表するなど、その活躍は続いています。

<ノイズ・ロックの王、ルー・リード>
 彼こそ、ロック・バンドとしてのヴェルヴェットにとって最も重要な存在だったことは、その後のソロでの大活躍からも明らかでしょう。
トランスフォーマー Transformer」(1972年)、「ロックン・ロール・アニマル」(1974年)、「ベルリン Berlin」(1977年)、「ストリート・ハッスル Street Hassle」(1978年)、「ブルー・マスク The Blue Mask」(1982年)、「ニューヨーク New York」(1989年)、「マジック・アンド・ロス Magic And Loss」(1990年)、どれも傑作ぞろいです。まさに彼こそ「ロックン・ロール・アニマル」だ!

<アウトサイダーが生んだロックの原点>
 ニコの退廃的で危険な美的センス、ジョン・ケイルの現代音楽、ミニマル・ミュージック指向のセンス、ルー・リードのノイズ・ロック指向のセンス、それに芸能人大好き人間アンディー・ウォーホルのあのバナナのジャケット。これらが1966年という熱い時期に出会い、怪しげな光を放ち初めて、早40年がたとうとしています。
 その間ロックは、どんどん変化をとげてゆきましたが、未だに僕にとって魅力的なロックの典型は、ヴェルヴェット・アンダーグラウンド・スタイルとでも呼ぶべきものです。それは、ロックという音楽がもつ本質的なもの、「アウトサイダーの音楽」であり続けることであり、常にノイジーであり続けることでもあります。

<僕とヴェルヴェット>
 20年近く前のこと、僕は大塚に住んでいた彫刻家の友人の家によく遊びに行っていました。そこには、変わった連中がいつも遊びに来ていて、週末にはよく夜中まで酒を飲んだり、レコードを聞いたりしていました。
 二日酔いで目が覚めたある「日曜の朝」、もうひとり泊まっていた初対面の男性とヴェルヴェット・アンダーグラウンドのバナナ・アルバムをしみじみ聴きながら、なぜかまたビールを飲みだしたことを思い出しました。あの頃は、自分にとってもアートでロックなちょっと退廃的な日々でした。
 あとで聞くと、その時の男性は今は東大の助手で(いやもう教授になっているかも)、コリン・ウィルソンの著作の翻訳を手がけているとか。そうそう、コリン・ウィルソンと言えば、あの「アウトサイダー」の著者です。やっぱりロックの基本は「アウトサイダー」ですか。いや待てよ、彼らの場合は、「ワイルド・サイダー」か!

<締めのお言葉>
「獣を追っかけて殺せるなんて、おまえたちが考えたなんて馬鹿げた話しさ!」と、その豚の頭はいった。
「おまえはそのことは知ってたのじゃないか?わたしはおまえたちの一部なのだよ。おまえたちのずっと奥の方にいるんだよ?どうして何もかもだめなのか、どうして今のようになってしまったのか、それはみんなわたしのせいなんだよ。」

ウィリアム・ゴールディング著「蝿の王」より

<追記>2014年9月
「ヴェルヴェッツは、四人だけでフィル・スペクターのサウンドに挑むようなことをやっていた」
スターリング・モリソン

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