
「ベニスに死す Morte A Venezia 」 1971年
- ルキノ・ヴィスコンティ Luchino Visconti
、ダーク・ボガード Dirk Borgarde -
<リド島にて>
以前、 僕は新婚旅行でヴェネチア(ベニス)を訪れた際、この映画の舞台となったリド島に泊まりました。4月の終りというまだけっこう寒い時期だったこともあり人影はまばらでしたが、海辺に並んだリゾート・チェアを見ながら、「ベニスに死す」の名場面を思い浮かべることができました。この時の天気は、映画の前半部のように暗くてどんよりとした曇り空で、かえって映画の暗いムードを思い浮かべることができました。
地球温暖化により海面が上昇し、ヴェネチアの街は新しく作られた防波堤によて守られることになりました。しかし、そのために周りの海の水が澱んでしまい街全体が臭くなってしまったといいます。まるで、映画の後半にペストが広まって、ベニスの街全体が死の匂いに包まれてしまったことを思い出させます。
かつて人類の英知を結集して海の上に建設された海上都市ベニスは同じ人類が発展させた科学文明によって皮肉にも地上から消されようとしています。今や少しずつ海に沈みゆくその街は、歴史と伝統の国イタリアから消えゆく19世紀以前の貴族文化を象徴しているのではないか?そんなふうにも思えます。
もちろん、この映画の監督ヴィスコンティが、この作品を撮った時代には、そんなヴェネチアの悲劇的な運命がすぐそこまで迫っていようとは思いもしなかったのでしょうが・・・。
<トーマス・マン>
この映画の原作はもちろんドイツが生んだ偉大な作家トーマス・マンの同名小説「ベニスに死す」です。彼が実際に自分が体験した出来事をもとに、この小説を書いたことは、彼の妻が証言していて間違いはなさそうです。しかし、この映画の主人公はあえてトーマス・マンではなくグスタフ・アッシェンバッハという名の架空の作曲家に代えられています。その「グスタフ」という名はこの映画で使用され再評価されることになったマーラーの交響曲第五番の作者グスタフ・マーラーからとられています。トーマス・マンはマーラーと親しかったらしく、この小説にある美少年との出会いは、マーラーの訃報を聞いた後、新しい作品を書く途中でスランプに陥っていた時期にあたるそうです。しかし、明らかに私小説とわかる「ベニスに死す」を発表するということは自らが少年趣味であることをカミング・アウトすうようなものです。彼の妻も夫がその美少年に夢中になっていたことを書き残しているのですから、当時のほうが同性愛、少年愛に対して寛容だったということなのでしょうか?それとも、ある種の限られた社会では、そうした趣味は許容されうる文化だったということかもしれません。実際、ヴィスコンティー自身も少年趣味を認めていました。それは、ミケランジェロのダビデ像を愛する美意識と共通しているのかもしれません。こうした同性愛、少年愛とは、美に対する憧れの延長なのか?肉体的、性的なものまで含むのか?こうした美意識の問題ばかりは、それぞれの人、それぞれの文化によって異なるのも当然でしょう。
<マーラーの交響曲第五番>
この映画で使用されたマーラーの交響曲第五番は、マーラーにとっては黄金時代に書かれた作品でありながら、初演時からあまり評価されず忘れられた存在でした。しかし、この映画で使用されて以降一気に有名になり、その後はマーラーの代表作と呼ばれることになります。
強迫神経症にかかり、生涯「死の不安」に悩まされ続けたといわれるマーラーにとって、この作品は最愛の妻アルマに捧げた愛の証であると同時に「幸福なる死」をイメージした究極の作品だったともいいわれています。それだけにヴィスコンティの選曲は実に見事だったといえるでしょう。それにしても、この映画のために作曲されたかのような第四楽章アダージェットの美しさはまさに「幸福なる死」そのものに感じられます。
ちなみに、美少年のタッジオがサロンで弾いている曲は、ベートーベンの「エリーゼのために」です。
<ヴィスコンティと少年愛>
例えば、ヴィスコンティの場合、彼の少年時代の写真を見ると、まるで「ベニスに死す」の主人公タジオのような美少年であることに驚かされます。もしかすると、彼が美少年に向ける愛情とは自らの少年時代を懐かしみ、彼が母親から受けた愛情を懐かしみ、なおかつ、彼が育てられてきた失われゆくヨーロッパの貴族文化を懐かしむ気持ちから生まれてくる究極の自己愛なのかもしれません。少年愛とは、失われてしまった過去の自分、そして母親への愛なのではないかと・・・。実際、ヴィスコンティほど「老いについて」そして「若さへの憧れ」について作品を撮り続けた監督はいないでしょう。彼の代表作のひとつ「山猫」に登場する老いゆく貴族バート・ランカスターは彼の分身でしたが、その対極に位置する若さの象徴として描かれた若く美しい軍人にはアラン・ドロンが扮していました。また「家族の肖像」でも、再びバート・ランカスターが彼の分身として登場し、彼が憧れると同時に嫌うことにもなる若者にはヘルムート・バーガーが使われていました。これらの作品を並べてみると、彼が愛したのは単に美少年だったというわけではなく、あくまで「若さのもつ美しさとエネルギー」だったのだと思えます。
ヴィスコンティは、この中編小説をいつも持ち歩いていて、いつか必ず映画化しようと考えていました。しかし、その願いはなかなか叶わず、彼の代表作となった「地獄に堕ちた勇者ども」(1969年)が世界的にヒットしたことで彼の名が世界中に知られ、やっと実現することができました。
ただし、同性愛、それも美少年に対する愛を描くことは、当時はまだ限りなくタブーに近いことでした。それだけに、製作側からはヴィスコンティに対して、美少年ではなく美少女にしてはどうかという提案もあったそうです。もちろん、それでは水着美女好きスケベおやじの回想録になってしまいます。こうして、「ベニスに死す」は「地獄に堕ちた勇者ども」をアメリカで配給したワーナー・ブラザースが資金面でバックアップすることで企画が動き出しました。しかし、細部にこだわるヴィスコンティ作品を撮るにはまだまだ予算が足りず、俳優たちは全員普段のギャラの半分以下で出演をOKしたといいます。
<ダーク・ボガード>
この映画をヴィスコンティの代表作に高めた最大の功労者は、やはりヴィスコンティの分身を演じたダーク・ボガードでしょう。ダーク・ボガード
Dirk Bogardeは、本名をデレク・ファン・デン・ボガールドといい、1918年3月28年生まれのオランダ・ベルギー系貴族出身のイギリス人です。父親はオランダ人で「ザ・タイムズ」の美術部長、母親はスコットランド生まれの女優という芸術一家に育ちました。
チェルシー工芸学校と王立美術学校で商業美術と舞台美術を学び、大道具係として芝居の世界に入りました。ところが、ある日代役として舞台に上がったのをきっかけにあっという間に人気俳優となります。1940年から1946年にかけて、イギリス陸軍に入隊した彼は、復員後すぐに芝居の世界に戻ると、1948年”Esther
Waters”で映画俳優としてデビューを果たした後、渋い演技派俳優として活躍を続けることになりました。
ヴィスコンティは「地獄に堕ちた勇者ども」(1969年)で彼を使った際、次なる作品として計画していた「ベニスに死す」の主役を彼に決めていたそうです。ヴィスコンティに「ベニスに死す」を繰り返し読み、マーラーの作品すべてを聴くように指示された彼は、原作を30回も読み、主人公の性格を完全に把握。ヴィスコンティも撮影中、彼に主人公の役作りをすべてまかせ自由に演技をさせたといいます。ボガード自身、自伝の中で「ベニスに死す」での演技は自分にとって生涯最高のものだったと書いているほど、彼は映画の中でグスタフになりきっていました。
実は彼は生涯一度も結婚していません。そのうえ、女優たちとの間にも恋の噂はなく、ゲイだったのではないかといわれています。彼ほどヴィスコンティの分身にぴったりの役者はいなかったのかもしれません。(ちなみにもうひとりのヴィスコンティの分身、バート・ランカスターは3度の結婚歴があり、ゲイではありません)
<ビヨルン・アンドレセン>
名優ダーク・ボガードの演技は確かに生涯最高のできだったかもしれません。しかし、海辺に立つ美少年タジオの輝きは、そんな名演技をも吹き飛ばすほどのものでした。それはどんなに優れた演技力があっても表現することができないものでした。
タジオを演じた少年ビヨルン・アンドレセン
Bjorn Andresenは当時15歳。この役のためにスタッフは、ヨーロッパ各地で美少年を探し回り、スウェーデンのストックホルムでそのイメージに合う少年をついに見つけ出しました。1959年1月26日に生まれた彼は元々はミュージシャン志望で、友達とバンドを組んで演奏していたところをスカウトされました。「ベニスに死す」の前に「純愛日記」(1970年)という映画にちょい役出演していましたが、この映画に出演して有名人になった後、彼はなんと「映画には興味がない」と宣言し、あっさりと映画界を去ってしまいました。ある意味彼は永遠の美少年となる道を選んだともいえそうです。
<至福の時>
映画の主人公アッシェンバッハは、年老いた自らの惨めな姿を恥じながらも、美しいタジオの姿を見つめられる至福の時に満足して死んでゆきました。しかし、それはアッシェンバハを演じたダーク・ボガードにとっても至福の時であり、さらにはそんな彼の姿をフィルムに収めていたヴィスコンティにとっても至福の時だったのでしょう。映画が魅力的になるのは、何よりこうして俳優やスタッフがその世界に入り込み、登場人物と同じ世界を生きることにあるのでしょう。
「ベニスに死す」の妖しいまでの魅力は、ビヨルン・アンドレセンの美しさとシルバーナ・マンガーノの色っぽさ、そしてダーク・ボガードの醜さの見事な対比から生まれたわけですが、彼らが生きた1910年代のベニスの街もまたこの映画の主人公のひとりだったともいえます。それだけに監督はこの当時のベニスの街を再現することに非常にこだわりました。
監督は映画の舞台となるホテルを再現するため、「水浴ホテル」をまるごと借りきりました。そして、美術装置の専門家であるフェルディナンド・スカルフィオティに内装のいっさいを任せ、ホテルをまるごと18世紀末から19世紀初頭のスタイルに改造させました。さらに登場人物たちの衣裳としては、衣裳デザイナーのピエロ・トージによって1910年代の流行が再現されました。しかし、本物志向の監督はできるだけ当時の本物の衣裳を着せたいと考え、衣裳コレクターによって集められていたドレスを借りたり、本物の貴族が所有している衣裳を本物の貴族の夫人たちに着てもらうなどもしたそうです。(本物の貴族を出演させられたのは、名門貴族の出である彼だからこそできた技だったといえます)
しかし、こうした彼のリアリズム的なこだわりは、画面には見えないところにまで徹底されていました。主人公のアッシェンバッハが持ち歩いていた鞄はカスタム・メイドで作られ、ちゃんとGVAのイニシャルも刻まれていたそうです。そして、鞄の中には彼が着るであろう衣裳や櫛、ブラシ、マニキュア・セット、それに当時の日付の消印が押された切手をはった手紙までもが入っていたそうです。もちろん、それらの品物は映画の中には登場しないものばかりです。
映画の中の人生を生きるということは、自分自身が演じる者に精神的に同化することが一番でしょう。しかし、そうした精神的な同化も、もとはといえば、ちょっとした小道具や衣裳の再現などから始まることかもしれません。元祖リアリズム監督ヴィスコンティ恐るべし!
「ベニスに死す Morte A Venezia」 1971年公開
(監)(製)ルキノ・ヴィスコンティ
(製総)マリオ・ガロ、ロバート・ゴードン・エドワーズ
(原)トーマス・マン
(脚)ニコラ・バダルッコ、ルキノ・ヴィスコンティ
(撮)バスクァリーノ・デ・サンティス
(音)グスタフ・マーラー
(出)ダーク・ボガード、ビヨルン・アンドレセン、シルバーナ・マンガーノ、ロモロ・ヴァリ、マーク・バーンズ
<あらすじ>
1911年のベニス、ドイツ人の作曲家、指揮者のグスタフ・アッシェンバッハ(ダーク・ボガード)は休暇をとるために一人で訪れていました。船で渡った海水浴客の多いリド島は、イタリアだけでなく世界各地から観光客が訪れていて賑やかな場所でした。そんな中に、ポーランドからやって来た美しい女性(シルバーナ・マンガーノ)と彼女の息子タジオ(ビヨルン・アンドレセン)がいました。天気が悪く暗い空のベニスにうんざりしていたグスタフは少年の美しさに魅了されてしまいますが、自らの感情が抑えられず、かえって気持ちが落ち込んでしまいます。そんな暗い気分から逃れようと、彼はホテルをチェック・アウトしてしまいます。ところが荷物が手違いで目的地とは違う場所に送られてしまったため、彼はしばらくリド島に滞在しなければならなくなります。
再び、タジオと再会することになった彼は、もうその思いを抑えようとはしなくなります。ところが、その頃、ベニスでコレラが流行し始めていました。観光地のベニスの街は観光客が減ることを恐れて、そのことを隠そうとしていましたが、年老いて体力が衰えていた彼はそのコレラに感染してしまいます。しかし、病に冒されたものの彼はもうタジオのそばを離れる気にはなれませんでした。海辺に立つ美しいタジオの姿を見つめる彼の心は、死の恐怖ではなく深い満足感に満たされていました。すでに彼の魂は天国へと導かれていたのかもしれません。
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