「戦争の悲しみ THAN PHAN CUA TINH YEU」

- バオ・ニン Bao Ninh -

<アメリカ草>
 「アメリカ草」という植物をご存知でしょうか?
 ヴェトナム戦争が本格化していた1960年代に米軍が種を撒布したことで知られるイネ科植物の通称です。米軍がヴェトナムに農業援助を行っていた?まさかです。米軍は軍の作戦として、この植物をヴェトナム中で成育させようとしていたのです。その理由は、この植物が乾季になって枯れると極端に燃えやすくなることで知られていたからです。そんな植物が生い茂る土地にナパーム弾を落とせばどうなるか?米軍が使用した枯葉剤が人体にもたらした後遺症の悲劇は有名ですが、それ意外にも米軍はその土地の自然を破壊する様々な方法を用い、ヴェトナム全土を不毛の土地にしてでも共産軍を殲滅しようとしていたのです。その国の国土を不毛にし、国民すべてを苦しめようという恐るべき作戦です。
 局地的な第三次世界大戦ともいえたヴェトナム戦争におけるヴェトナム市民の死者数は、一般市民の方が兵士の死亡数を上回ったといわれています。これは戦争の歴史において、それまでなかったことだともいわれています。(それまでの戦争は軍隊と軍隊の戦闘で、ある意味「騎士と騎士の決闘」の延長でした)
 ヴェトナム戦争から後の兵士と市民が明らかではない現代の戦争における犠牲者の多くは、兵士ではなく市民になりつつあります。それはイラクでもアフガニスタンでも同様です。たぶんシリアもそうなるでしょう。(2013年8月)

<戦争とは?>
 「戦争とはそういうものだ」そういい切れるほど私たちは戦争の現実を知らないものです。(もう太平洋戦争の記憶を語れる人も少なくなりました)それでも、ヴェトナム戦争という東南アジアを舞台にした戦争については、日本人の多くがある程度の知識をもっているかもしれません。
 実は、僕の叔父が日本電波ニュースという通信社の特派員としてヴェトナムやカンボジアで長く取材活動をしていたことから、ヴェトナム戦争について多くのことを聞かされてきました。つい先日、その叔父がNHKで放映された特別番組「それでも記者は戦場へ向かう」という番組に出演していて、その仕事の重さに改めて感動させられました。ヴェトナム戦争においては、多くの特派員たちによる命がけの取材が米軍の撤退を早める役目を果たすことができたことは十分に評価できることです。それはまさに「ペンもしくはカメラの勝利」でした。
 しかし、我々日本人が知るヴェトナム戦争とは、こうした日本人カメラマンによる取材とハリウッド映画におけるアメリカ兵から見た映像がほとんどであり、ヴェトナム人の目線から見た戦争の姿を知る機会はまったくありませんでした。映画「プラトゥーン」が許せない映画だと思うのは、そうした一方的なアメリカ人目線でしかヴェトナム戦争を見ずに、さもさも戦争を理解したかのように語ること姿勢に嫌悪感を覚えるからです。

<ヴェトナム人が見たヴェトナム戦争>
 しかし、ヴェトナム人が見たヴェトナム戦争を知ろうにも、今までそうした情報を得ることは困難でした。ホーチミン率いるヴェトナム共産党のもとでは、あの戦争を客観的に語ることは困難だったからです。共産軍の兵士が、当時の戦闘を語ることが可能になったのは、ヴェトナム軍が長く続いたカンボジアへの侵攻(ポルポト政権との戦い)を終えて、やっと戦時下ではなくなった1980年代後半以降のことです。
 1986年にヴェトナム共産党が発表した市場経済の導入と対外開放路線は、「ドイモイ(維新)」時代の幕開けとなり、その影響は文学にも及ぶことになりました。それでも、この小説の発表については、当時軍部からの批判もあり、作品タイトルが原題の「戦争の悲しみ」から「愛の行先」に変更させられ、第二版が売り切れた後、再販されなかったのも、また軍の影響によるものだったと言われています。

「君は、つまり、これから戦場へ行くんだね。止めようとは思わない。私は老人で、君は若い。若者の志を抑えることなんて誰にもできやしない。ただね、君に自分を見詰めて、じっくりと考えて欲しいことがある。人間という地上の存在の、天上の絶対者に対する義務はね、命を安易に捨てることじゃなくて、何よりもまず生きることだ。人生の道程で出会うさまざまな出来事を避けて通るんじゃなくて、何よりもまず生きることだ。・・・生きることが何よりも大切だとは言わない。だが、死によって何かを証明せよというような主張には極力警戒すべきだと言いたいんだ。・・・」
詩人でもある主人公の養父の言葉

 この小説は、ヴェトナム戦争を実にリアルにヴェトナム人の視点でとらえた貴重な作品ですが、けっして記録文学としての価値だけではなく、主人公たち二人のラブストーリーとしても十分に読みごたえがあります。そして、リアルで残虐なシーンが多いものの、それに匹敵する勇気や優しさ、犠牲的精神の美しさを描いていることで、読者は時に嫌悪感を覚えながらも、しっかりと心を揺さぶられながらどんどんページを読み進むことができるはずです。(300ページの厚さですが・・大丈夫です)
 時間軸を無視した複雑な構造とヴェトナムの歴史を含む理解しずらい文章もあるのですが、ところどころに丹念な解説がついているのもありがたいです。そのあたりは、この作品の翻訳をしてくれた井川一久氏が戦場特派員として実際に戦場を知る人物だったことも重要です。
 ヴェトナム戦争によって人生を狂わされてしまった人々の人生ドラマとして、文句なしに素晴しい作品を書いた著者バオ・ニンとはいかなる人物なのか?そこに注目したいと思います。

<著者、バオ・ニンとヴェトナムの歴史>
1952年1月18日、バオ・ニン Bao Nihnはヴェトナム中部ゲアン省のディエンチャウに生まれました。1945年にヴェトナムはヴェトナム民主共和国として独立したものの、フランス軍が再び占領しようとしていて、家族は田舎に疎開していました。
1954年、インドシナ停戦協定(ジュネーヴ協定)が締結されてフランス軍は北部から撤退。そのため、彼は家族と共に首都ハノイで暮らすことになります。
1965年、フランスに代わり、米軍が共産主義国家の拡大を防ぐためとして北ヴェトナムへの侵攻を開始。こうして、北ヴェトナム継続爆撃(北爆)が始まります。
1967年、彼は多くの詩人や文学者を輩出しているハノイの名門校チュー・ヴァン・アン普通学校高等部に入学します。(著者は、この小説の主人公と同じようにプチ・ブル、インテリ階級の出身でした)
1969年、高校を卒業した彼は、ヴェトナム人民軍の陸軍に入隊。当時、米軍を中心とする南ヴェトナム軍の兵力は70万人というピークに達しており、北ヴェトナム軍(DRV)と南ヴェトナム解放民族戦線(NFL)にとって最も厳しい時期だったといえます。
1970年、彼は配属された部隊とともにホーチミン・ルートに沿って北緯17度線(南北国境線)以南の激戦区B3戦区に到着します。(この小説における戦闘の主な舞台もまさにこの地域です)
1973年、彼は偵察隊の小隊長として部隊を率いるようになります。(この時彼はまだ22歳)
1975年、サイゴン攻略のホーチミン作戦に参加。4月30日にはサイゴン政権最後の砦となったクンソニュット空港攻撃に参加し、ヴェトナム戦争最後の戦闘を見届けることになりました。(この場面もまたこの小説のクライマックスになっています)
 しかし、彼にとっての戦争はそこで終わったわけではありませんでした。最後まで生き残ったということは、それだけ多くの戦友を失ったということであり、戦争に巻き込まれて殺された無数の一般市民の悲劇を目にしたともいえます。終戦後、彼は半年間、戦没者の遺骨収集に従事し、多くの仲間たちの遺骨をひろいました。(この遺骨収集と巡礼の旅もこの小説に描かれています)

「何ですって?平和ですって?糞食らえだ。平和なんて、死んだ仲間たちの血を吸って育った木じゃありませんか。骨は少々残してくれましたがね。生きる資格を一番たくさん持ってたのは、いまここで森番になって眠っている人たちですよ」
「厳しいことを言うね。でも、いい人間はまだ多いよ。次の世代、また次の世代にも、いい人間はどんどん生まれてくるさ。生き残った人間が、まともに、立派に生きてかないと、死んだ連中が何のために戦ったのか、何のために俺たちに平和を与えてくれたのかわからんことになる」

(遺骨を収集する主人公と彼を乗せたトラック運転手の会話)

 その後、彼はハノイにもどり大学に通った後、1987年35歳でグエン・ズー文芸学校に入学。小説の執筆を始めます。時代は、ドイモイ政策による自由化が始まりだした頃で、文学界はそれまでの社会主義リアリズムだけではないより芸術的な文学を模索するようになっていました。
1990年、38歳になった彼は本書を完成させ、草稿のままヴェトナム作家協会に提出。
1991年、作家協会は彼の作品を問題ありと判断したものの内容的には高く評価。作品タイトルを「愛の行先」と改めさせた後、ヴェトナム作家協会賞を与えます。ただし、本書は第二版まで出版されるもののその後ヴェトナム国内では絶版となります。
1993年、ロンドンのマーティン・セッカー&ウォーバーグ社が本書を「戦争の悲しみ」と英訳して出版。
1994年、英国インデペンデント紙の外国小説賞を受賞。ここから海外へと広がることになります。

<戦争の始まりと小説の終わり>
・・・風よ、お前は移り気ね
一吹きごとに冷えてゆく
世界は凍る、今夜から・・・


 歌詞とメロディーには、時代の深い哀しみ、またそれと表裏一体の熱狂がこめられていた。悲痛の思い。そして同時に燃え上がる夢。フォンの歌声には、まもなく開幕する大戦争のために生まれてきた等しい若者たちの全精神が宿っているようだった。水平の一人の、厳しそうだった顔が涙に濡れていた。
 戦争!戦争!それは8月4日の夜から5日の朝にかけての海の叫びだった。

 ヒロインのファンが水平たちのために海辺で歌う場面。ここで書かれている8月4日とは、1964年8月4日の「トンキン湾事件」のことです。米軍の駆逐艦が北ヴェトナムの魚雷艇に攻撃されたとして、報復攻撃と称してヴィン市を空爆。ここからヴェトナム戦争が始まることになります。
 後に、ヴェトナム軍が攻撃を仕掛けたというのがでっち上げであり、米軍が自軍の誤った情報を利用して、戦闘を仕掛けていたことが明らかになりました。このことは、当時の国防長官マクナマラが証言しているので間違いないでしょう。大量破壊兵器を所有しているとしてイラクを攻撃した米軍はまったく同じことを当時も行っていたわけです。これこそ、アメリカの常套手段、2013年のシリアはどんな運命をたどるのか・・・。
 こうした歴史を知れば知るほど、アメリカという国の軍事情報ほど信じられないものはないとわかるはずです。その罪の重さは、21世紀にはいりアメリカに重くのしかかりつつあります。「自業自得」という言葉を当てはめるのは不謹慎でしょうか・・・

「死者の名前がわからんとね、彼らの死そのものの重みが我々の人生にのしかかってくるんだ」
 かつて師団政治委員の助手を長年務め、戦死者の遺体の梱包・埋葬の仕事を一手に引き受けていた遺骨収集隊の主任は、いつも隊員たちにそう語っていた。何だか呪いの言葉のように聞こえた。


  著者はあまりに多くの「死」を見てきたがゆえに、その名前のわからない「死」をすべて背負い込んでしまった男の悲劇を描くことで、その男=自分=ヴェトナム国民を救をうと思い立ったのかもしれません。


「戦争の悲しみ THAN PHAN CUA TINH YEU」 1991年
(著)バオ・ニン Bao Ninh
(訳)井川一久
河出書房新社刊「池澤夏樹(編)世界文学全集」より

<あらすじ>
 ハノイの高校生キエンと幼馴染のファンは、いつか結婚しようと誓い合う仲でした。しかし、彼が高校を卒業する頃、アメリカとの泥沼の戦争が始まってしまいます。キエンは軍隊に入り、その移動の途中にハノイによりファンに逢おうとします。かろうじて逢うことができた二人ですが、そこをアメリカ軍による空爆が襲います。その上、戦火の混乱の中、ファンが暴行を受けることに・・・。その後、別れ別れになった二人はそれぞれの人生を必死で生きることになります。
 危険な戦地を渡り歩く偵察部隊に配属されたキエンは、次々に仲間を失ってゆきますが、奇跡的に戦争を生き延びます。サイゴン陥落の歴史的現場にも居あわせた彼は、戦後、失った仲間たちの遺骨を収集する部隊に参加。大学に通った後、戦争中の体験をもとに小説を書き始めます。幸い彼は同じく生き残ったファンと再会を果たします。
 しかし、二人の関係はもうかつてのようにはなりませんでした。

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