紛争輸出国家アメリカのお仕事一覧(1947年~1975年)


- CIAの誕生、ベトナム戦争、エルズバーグ事件・・・ -


CIAの誕生  ベトナム戦争 エルズバーグ事件(ペンタゴン・ペーパーズ) イラン(モサデク) インドネシア(スハルト、スカルノ)
カンボジア(ポル・ポト) ブラジル(ゴラール、ブラン) チリ(アジェンデ、ピノチェト)  コンゴ(ルムンバ、モブツ)   
<戦場の狂気>
 日本軍による南京大虐殺、ナチス・ドイツのユダヤ人虐殺、カンボジアでのクメール・ルージュによる虐殺、旧ユーゴスラビア分裂時の民族対立、ルワンダでの民族浄化、イスラム国によるリビアでの市民虐殺・・・時代が変わっても、戦場における狂気の虐殺はなくなることはありません。それは兵士による虐殺だけでなく、大衆をも巻き込んだ虐殺にも発展しています。戦争は兵士だけでなく一般市民までも狂わせるのです。
 改めて歴史を振り返ると、「戦争の世紀」と言われた20世紀において、アメリカは最も長く戦争をし続けた国です。思えば、アメリカ人が未だに銃の所持を制限しないのは、そんな唯一無二の戦争を続ける国が国民にまで「狂気」をもたらしているのかもしれません。
 核兵器を使った脅迫合戦となった「冷戦」は、狂気に取りつかれた国のトップが始めたものでした。そんな国の兵士たちが戦場で狂気に走るのはある意味当然かもしれません。このページでは、世界各地で起きた米ソ代理戦争について、まとめています。
 救いのない世界史ではありますが、こうした戦場の狂気が世界を危機に追い込みながらも、なんとか世界が21世紀を迎えることができたのには、ギリギリでその窮地を救ってくれた「勇気」の存在があったことも忘れてはいけないでしょう。
 そして、それと同じように戦争の狂気の裏側には、その戦争によって巨額の富を得ていた企業家たちがいたことも忘れてはいけないでしょう。本当に狂っているのは、「正気」で金を稼ぎまくるその企業家たちなのですから。
 まずは、そうした代理戦争を世界各地で仕掛けていたCIAという組織についてから始めます。

CIA(中央情報局)と狂ったトップ 
 1947年7月、アメリカはそれまでになかった大規模な軍の再編案を可決成立させます。これにより、陸軍省、海軍省、空軍省からなる国家軍政省(後の国防総省)が創設され、そのトップには国防長官と統合参謀本部が置かれました。初代の国防長官には、ジェームズ・フォレスタルが任命され、他に国家安全保障会議(NSC)、軍事委員会、国家安全保障資源委員会、中央情報局(CIA)が設立。CIAには秘密諜報活動の権限が与えられ、戦略事務局(OSS)には、秘密準軍事活動機能が与えられて復活しています。
 1948年にはNSCに「プロパガンダ、経済戦争、予防的直接行動(破壊工作など)、敵性国家の破壊(地下抵抗運動、ゲリラ活動への支援など)」の権限が与えられます。この年、CIAにとって最初の秘密諜報活動として、イタリアの選挙で共産党の活動を妨害する作戦が実行されました。その作戦の成功により、選挙では保守のキリスト教民主党が共産党に勝利。結果はアメリカの思うとおりになりました。
 CIAはその後元ナチス党員、ラインハルト・ゲーレン少将を中心にナチス戦犯のネットワークを作り、「ゲーレン機関」として対ソ連工作に利用し始めます。この組織について元CIA局員は後にこう述べています。
「ゲーレンはわれわれの喜ぶ情報を持ってくるから、CIAは彼を気に入っていた。われわれは彼の情報を常に利用し、ペンタゴンやホワイトハウスや新聞社など、他のいろいろな機関にも提供した。提供先も喜んだ。しかし、その情報はロシアを悪者に仕立て上げたガセネタで、我が国に大きな損害を与えた」
(怪しげな人物に頼む方も頼む方ですけどね)

<CIAによる陰謀輸出>
 「狂気の組織」CIAは、その後も、現在に至るまで、世界中にその活動範囲を広げ、「狂気」を拡散し続けています。思えば、IS(イスラム国)によるテロリズムの世界拡散と構図は一緒なのかもしれません。

 CIAの陰謀責任者ジェームズ・アングルトンが支配と占領とスパイ潜入に狂奔するソ連に脅威を感じ、妄想に取りつかれていたことが2007年に機密解除されたCIAの内部歴史文書で明らかになっている。海外内国治安プログラムと名づけられた計画によって、25カ国で77万1217人の軍人と警察官が訓練を受け、秘密警察がカンボジア、コロンビア、エクアドル、エルサルバドル、グアテマラ、イラン、イラク、ラオス、ペルー、フィリピン、韓国、南ベトナム、タイに創成された。パナマのアメリカ訓練学校では多数が訓練を受け、そのなかにはのちにホンジュラスとエルサルバドルで暗殺部隊のリーダーになった者もいる。

<狂気の指導者たち>
 そもそも、初代国防長官となったジェームズ・フォレスタルは、反共産主義の急先鋒となりますが、トルーマンの再選が厳しいとみて、有力候補のデューイに接触し閣内への残留を願い出ます。しかし、その裏工作がばれてしまいトルーマンは、彼を辞任させられてしまいます。こうして権力を失ったフォレスタルは情緒不安定となり、「自分は追われている!」と突然言い出し、ついには「神経衰弱」と診断され入院させられます。そして1949年5月22日、彼は入院していた精神病院の16階から飛び降り命を絶っています。
 仕事が彼を狂わせたのか?もともと狂気に走った人物がトップをまかされたのか?どちらにしても、アメリカは上層部から狂いだしつつあったということです。 

 歴代の大統領もまた危険な人物が多かった。
 例えば、「ウォーターゲイト事件」によって大統領を辞任することになったニクソンの人物像について、その側近だったキッシンジャーはこう語っています。
「ものすごい変人・・・実に不愉快な男・・・神経質でわざとらしい・・・知らない人間と会うのを嫌がった」
「政治家になるとは不思議だ。人間嫌いは半端ではなかった」
「あの狂人」
「飲んだくれの友人」
(神経症的な不安感に常に襲われていて、それが民主党本部の盗聴という異常行動にまで発展したといえます)

 それに対して、ニクソンはニクソンでノーベル平和賞受賞者でもあるキッシンジャーのことを、時には「ユダヤ野郎」と呼び、時には「冷血無頼のサイコパス」と表現していました。
 どっちもどっち、ベトナム戦争を泥沼の状況に追いやったのは、この「飲んだくれの狂人」と「サイコパス」だったわけです。

イランにて 
  イランの首相モハンマド・モサデクは、イギリスのアングロ・イラニアン・オイルカンパニー(BPブリティッシュ・ペトロリウムの前身)が、石油から得られる利益をほとんど奪い去っていることに抗議。ついに石油生産事業を国営化してしまいます。イギリスに対する不満をもつ大衆の支持を得て、反米に舵を切ったモサデク首相は、アメリカにとって取り去るべき存在となります。そこでCIAが動き出します。
 CIAは、イラン国内のジャーナリスト、説教師、軍、警察の高官、国会議員などを買収し、反政府活動を主導するように動かします。さらにイスラム過激派の「イスラム戦士」の武力を買収して思い通りに使い始めます。国内が混乱し始める中、首都のテヘランには多くの大衆が集まり、混沌とした状況になりました。
 そんな中、モサデク首相は共産主義者であり、ユダヤ人でもあるという噂が流され、内乱はいよいよ本格化して行きます。さらに同時進行でアメリカに雇われた暴徒たちがツデー党のメンバーを装って暴れまわり、モスクの破壊を行います。この時の暴徒たちの中には、後にイランの指導者となるルッホラー・ホメイニの姿もありました。こうして始まった混沌とした状況の中、ザヘディ将軍率いる軍によるクーデターが1953年8月に実行され、モサデクは反逆罪により有罪判決を受けることになりました。
 こうしてイランの新たな指導者として、アメリカ政府にとって最も扱いやすいモハンマド・レザー・パフラビー国王が選ばれることになりました。(日本では一般的にパーレビ国王と呼ばれていました)この米国の傀儡独裁政権は、この後25年以上続くことになります。
<ベトナム戦争への原爆投下>
 1954年、ベトナム独立同盟(ベトミン)との戦闘に苦戦するフランスがアメリカに援軍を求めます。それに対し、アメリカ側は犠牲が出るであろう地上部隊を送る代わりに原爆を使用する作戦を検討し始めます。
 ラドフォード提督と私の考えは、三発の小型戦術原子爆弾を使用するということだった。そこはかなり辺鄙な場所だ。一発の爆弾を投下するのに丸一日かかってもいいので、必ず命中させるように。適切な場所に投下しなければならない。反対はなかった。そして、共産主義者のやつらをその地域から消し去れば、楽団はフランス国家の「ラ・マルセイエーズ」で演奏でき、フランス人たちは、ディエン・ビエン・フーから元気な姿で出てくるだろう。・・・

 結局、この作戦はフランス軍にも被害が及ぶ可能性が高いとしてフランス側から断られたといいます。(フランス人は狂ってはいなかったようです)

インドネシアにて 
 第二次世界大戦後、1949年に独立したインドネシアではスカルノ政権が誕生。独立運動の英雄でもあったスカルノは、国内で絶対的な人気を得ていて、それを背景に民主化を推し進めます。そして1955年西欧諸国による支配に反発する第三世界の国々を集めて、アジア・アフリカ会議をバンドンで開催。29カ国の国々は、「民族自決」をスローガンに非同盟諸国のグループを結成することになります。
 アメリカにとって、それは社会主義国の増加以上に衝撃的なことでした。そこでCIAがスカルノ政権転覆のために動き始めます。インドネシア国内でCIAは、反政府勢力に武器供与を開始し、クーデターを計画しますが、作戦は失敗します。

・・・CIAは在インドネシアのCIAの訓練部隊を、反乱に巻き込まれたトラ狩りのハンターだとか、珍しい蝶を探していた学者だったなどとする話をでっち上げた。作戦失敗の犠牲者の一人がCIAの作戦本部長フランク・ウィズナーである、すでに正気を失いかけていたウィズナーは、とうとう完全に精神を病んでしまった。「鬱病」と診断されて半年の電気ショック療法を受け、のちにCIAロンドン支局に降格されます。・・・

 この後、ケネディが大統領に就任すると、インドネシアとアメリカの関係は改善されます。そして、ケネディはインドネシアの訪問を発表し、二国間の和解が発表されるはずでした。ところが、その直前にケネディは暗殺されてしまいます。
 ところが、ケネディの後を継いだジョンソン大統領は、再びインドネシアへの経済援助打ち切りをチラつかせます。
「良い子にしていないなら、もう、キャンディはあげないよ」とばかりにスカルノを公然と駄々っ子扱いするのはやめていただきたい。スカルノは『おまえの援助など要はない』と言うしかないのだから」
 このスカルノの発言にジョンソンは、引き下がることになります。(なんだか2016年のフィリピン大統領ドゥアルテを思わせる発言です)

 1965年に入り、インドネシアでは共産党員が350万人を越え、スカルノは中国の援助を受けて、核実験を行うと宣言します。それに対し、再びCIAが動き出し、ついにスカルノ政権を崩壊させることに成功します。
 1965年9月30日の深夜、CIAの後ろ盾を得た大統領官邸の警護隊の兵士らがスカルノ政権打倒を企てたとして、高級官僚6名を殺害。インドネシア共産党がクーデターを企てていたとして、陸軍のスハルト将軍がスカルノ支持派を壊滅させ、新政府は共産党員とそのシンパを逮捕、処刑して行きました。それに対して、アメリカ、イギリス、オーストラリア政府は虐殺を止めるどころか、共産党員の名簿を政府に渡し、それをもとにインドネシアでは大虐殺が行われ、市民までもがそれに参加する異常事態になりました。それからの数か月で左派の死者は、50万から100万人に達したと言われます。(この大虐殺を当時の犯人グループが演じてみせた衝撃のドキュメンタリー映画が「アクト・オブ・キリング The Act of Killing」です)
 こうして誕生した右派のスハルト軍事独裁政権は、その後十数年続くことになります。インドネシアは石油など天然資源の宝庫でありながら、国民は貧しさから脱出できない状況が続きます。この時のインドネシア国内の混乱を描いた映画が、ピーター・ウェアーの出世作となった「危険な年」です。 

ブラジルにて
 1961年8月ブラジルでは、民主的な選挙によって選ばれた副大統領ジョアン・ゴラールが大統領に就任。社会主義的な経済改革、農地改革、民主的な権利の拡大、共産党の合法化を進めます。このままでは、ブラジルもまたキューバに続き、共産圏の一員となってしまう。アメリカはすぐにブラジルに圧力をかけるため、経済援助の停止を実施。アメリカよりの政権へと交代させるため、CIAが動き出します。そして、そのための操り人形として陸軍参謀長官のウンベルト・カステロ・ブランコ将軍に白羽の矢が立てられます。こうして、CIAの命を受けたブランコは、軍を動かしクーデターを実行し、政権の掌握に成功します。
 ブランコによるブラジルの独裁政権は、この後20年の長きにわたり続くことになります。この間に音楽によって、批判を行い続けたのがカエターノ・ヴェローゾシコ・ブアルキらのトロピカリズモ運動のアーティストたちでした。

ベトナム戦争 
 第二次世界大戦に勝利をおさめ、歴史的に戦争で勝ち続けてきたアメリカにとって、朝鮮戦争は初めて勝つことのできなかった戦争となりました。しかし、フランスの後を引き継ぐように始まったベトナム戦争で、アメリカは始めてホー・チ・ミン率いるベトコンに敗北を喫することになります。
 なぜ、世界最大の経済大国であり軍事大国でもあったアメリカは、東南アジアのちっぽけな国に破れたのか?
 思えば、、この戦争でのアメリカの敗北は、20世紀における「アメリカの時代」の「終わり」の始まりでもありました。この戦争での敗北を教訓にアメリカは、1990年湾岸戦争でイラクのフセイン政権打倒に成功。再び「強いアメリカ」が復活したと思われました。ところが、2001年の9月11日、そんなアメリカの栄光の時代はあっという間に終わりを迎えます。
 ベトナム戦争での敗北を正しく分析・理解し、反省をその後の外交に生かしていれば、アメリカがイスラム圏の国々を敵に回し、テロ攻撃を受けることにはならなかったはずです。そして、「アメリカの時代」もまだ終わっていなかったのではないかと僕は思います。

<ゴ・ディン・ジェム政権誕生>
 1955年、フランスの傀儡となっていたバオ・ダイ皇帝が首相に保守的なカトリック教徒のゴ・ディン・ジェムを指名。皇帝に代わり政権を掌握することになりました。直ぐに彼は強硬な姿勢を示し始め、ベトミン支持者を弾圧、数千人を処刑します。
 この恐るべき指導者ゴ・ディン・ジェムについて、シカゴ大学の政治学者ハンス・モーゲンソーは、こう印象を語っています。
「東洋の暴君にふさわしい、ずるがしこくて非情な行動を取る人物。政治家としては、反共産主義を行動のよりどころにしているが、実際には、自らが反対する全体主義体制のレプリカを、細部に至るまで忠実に作り上げようとしている」

<反戦運動への圧力>
 1960年代に入ると、ベトナム戦争に対する反戦運動の盛り上がりは、政府にとって無視できない状況になります。CIAそしてジョンソン大統領は、そうした反戦活動を指導する活動家たちは、みな共産主義者であるという確信のもと、監視と情報収集を本格化させます。暗号名「ケイオス」と命名されたCIAによる国内の違法な監視活動が新設された「特別作戦グループ」によって遂行されます。この作戦は7年近く続き、30万人もの市民と組織がコンピューターのリストに登録され、7200人の詳細な個人データのファイルが作成されました。もちろん反戦運動の指導者たちが、みな共産主義者などという証拠など見つけられるはずはありませんでした。本気でリチャード・ヘルムスCIA長官は、反戦運動は共産主義者によるものと考えていたのだとしたら、やっぱり政府関係者は狂っていたのでしょう。
 1967年2月、CIAが全米学生協会に資金援助していることをランパーツ誌が突きとめてスクープに成功します。続いて、ニューヨーク・タイムズ紙とワシントン・ポスト紙が、CIAの隠れ蓑になっている団体をすっぱ抜きます。そこから、新聞や雑誌が一斉にCIAが反共産主義の大学教授やジャーナリスト、援助活動家、宣教師、労働組合幹部、人権活動家に資金供与して彼らを手先として利用していることを報じ始めました。これにより、文化自由会議、フォード財団、自由ヨーロッパ放送、ラジオ・リバティなどの組織が信用を失墜させられました。

 1968年1月、「テト攻勢」の後、ジョンソン大統領の人気は急落し、3月31日には大統領選への出馬を断念することを発表します。

<ソンミ村の狂気>
 1968年3月16日有名なソンミ村での虐殺事件が起きます。
「村にいるのは老人と母親と子供と赤ん坊だった・・・やつらは村落にやって来ると、女性をレイプして赤ん坊を殺した。誰もかれも見境なく・・・おまけに民間人を殺害するだけでは飽き足らず、死体を切り刻んだ。さすがにそれを調理して食べるまではしなかった。頭がおかしくなると、あんなにひどい行動をとるのだろうか」
ウィリアム・カリー大尉率いる第一大隊の行為を上空から発見し、それを止めさせたヘリコプターの乗員ラリー・コルバーン

 驚いたことに、ソンミ村の事件に対し、世論調査によるとアメリカ人の65%は当初無関心だったといいます。アメリカ国民の心理は、そんな残虐な行為が軍によって行われているとは信じたくなかったのかもしれません。それとも、アメリカ全体が狂気のウィルスに冒され、狂気ともいえる暴力に対して、無反応になっていたのでしょうか?

<ダックフック作戦>
 1969年10月13日、ニクソンはアメリカ軍に対して核攻撃の厳戒態勢に入るよう秘密指令を出した。核兵器を掲載した戦略空軍爆撃機が各地の軍事基地に派遣され、攻撃の命令を待った。B-58が32機、B-52が144機、KC-135空中給油機が189機という内訳だ。この行動はソ連に対するシグナルであり、ハノイ政府を和平交渉の場に引き出すためにもっと大胆な圧力をかけてほしいという意思表示だった。
 後に作戦チームの担当者だったロジャー・モリスは、この「ダックフック作戦」は軽率な計画だったことを認めています。
「統合参謀本部はこんなくだらない計画に何年もエネルギーをつぎ込んできた。簡単な解決法など存在しない戦争に、またひとつ性急な解決策が持ち込まれてしまった・・・この程度のものがパンタゴンで現実味を帯びるなんて、軍事的にも政治的にも大きな失敗だった。・・・」

 なぜアメリカは、ベトナムという小国との戦いに敗れたのか?その最も重要な原因に戦う相手についての無理解がありました。アメリカには予測できなかったのですが、ベトナムの人々は、核兵器で攻撃されたとしても、負けを認める気はまったくなかったはずです。例えば、北ベトナム軍のヴォー・グエン・ザップ将軍は、後にこう語っています。
「われわれがこの戦争で勝利をおさめたのは、隷属状態で生きるよりは死ぬ方がましだという信念のおかげだ。その正しさはこの国の歴史が証明している。われわれは常に、民族自決を何よりも熱望してきた。この精神をもって強力な敵と向かい合えば、スタミナも勇気も創造力も決して衰えない。・・・」

 なぜアメリカは、ベトナム人の心理を知ることができなかったのか?
 それは、アメリカ政府内にベトナム人の文化やその心理についてアドバイスできるような専門家がいなかったからです。なぜ、そうした人材がいなかったのか?言語、文化、地理、自然など東南アジアについての専門家の多くが、1950年代の「赤狩り」によって大学を追い出されてしまっていたからなのです。共産圏の国々について研究する学者イコール共産主義者と見なされてしまうなら、誰もがそうした地域の研究をしなくなるのは当然のことでした。

 1973年1月23日、ベトナム和平会談で和平合意が成立し、27日には正式にパリ和平協定が調印されました。そして、3月29日には最後のアメリカ兵がベトナムから撤退します。
 ところが、アメリカはまだベトナム戦争の負けを認められず、4月にはニクソンとキッシンジャーのコンビは、南北ベトナムでの空爆作戦の再開を指示します。その作戦の規模は、それまでの最大のものになる予定だったといいます。ところが、この作戦は実行される直前にキャンセルとなります。その理由は、ニクソンが「ウォーターゲイト事件」の捜査が始まったことを知ったからでした。もし、ここでベトナムの泥沼から抜け出せず、国民世論を敵に回すことになれば、彼は大統領の座を明け渡さなければならない。彼はそれよりも、「ウォーターゲイト事件」に関する議会対策に時間を割くべきと考えたようです。そう考えると、「ウォーターゲイト事件」は、アメリカ政界の暗部を暴露しただけではなく、ベトナム人の命を何万人規模で救ったとも考えられます。
 1975年4月30日、北ベトナム軍の攻撃により、ついに南ベトナムの首都サイゴンが陥落しました。

 ベトナム戦争において、アメリカ軍が使用した爆弾は、第二次世界大戦で両陣営の国が使用した爆弾の3倍に達していたといいます。さらに、この戦争の間に、1900万ガロンの農薬がベトナムの農地を汚染し、1万5000の村のうち、9000が破壊されることになりました。
 アメリカはベトナムに対し、核兵器の使用を告げて降伏を要求した回数は13回。アメリカ兵の死者は5万8000人以上ですが、それに対しベトナム人の死者は380万人にのぼりました!

 1973年10月、アメリカを代表したキシンジャーと北ベトナムを代表したレ・ドク・トの二人に、ベトナム戦争の和平を実現した功労者としてノーベル平和賞が与えられました。しかし、レ・ドク・トはこの賞の受賞を拒否。そもそも戦争を仕掛けた側であるアメリカのキッシンジャーは恥じ入ることもなく賞を受け取りました。アメリカが輸出した「狂気」は、どうやらノーベル賞の選考委員までも狂わせてしまったようです。 

カンボジアにて
 1970年4月30日、ニクソンは北ベトナムの基地があるとされるカンボジアへの侵攻作戦開始を発表します。しかし、この作戦は北ベトナム軍と米軍の戦いでありながら、その後、戦場となったカンボジアに史上まれにみる悲劇をもたらすことになります。
 1972年12月、ニクソンはキッシンジャーに、カンボジアへの爆撃について、こう指示しています。
「空を飛べるものはすべて投入し、やつらを粉々にしろ。燃料も予算も制限はない。わかったな」
 そこから始まったカンボジアへの空爆によって、カンボジアの米の生産量は6分の1に激減。国全体が崩壊の危機に追い込まれたカンボジアに1974年アメリカが行った人道援助は250万ドルに達し、それはカンボジアの国家収入において95%にあたりました。(自分で壊滅状態になるまで攻撃しておいて、人道援助とは・・・!)
 その間にカンボジアの民衆を反米意識によってまとめた左派ゲリラ組織「クメール・ルージュ」の元将校チヒット・ドーはこう語っています。

「爆撃を受けるたび、クメール・ルージュは地面に開けられた穴に人々を連れていった。どんなに大きく深い穴か、地面がどんなに削り取られ焼き払われたか、実際に見てもらうためだ・・・大きな爆弾や砲弾が撃ち込まれると、普通の人は恐怖のあまり本当に下着を汚してしまうときもある。心は凍りつき、思考が止まった状態で、三日も四日も無言のまま歩き回る。恐ろしさで半狂乱になった人たちは、クメール・ルージュから聞かされた話を素直に信じてしまう。みんながクメール・ルージュに加わり、自分の子どもたちを送り込む・・・落下した爆弾が小さな子どもに命中するときもあるが、そうなると父親はクメール・ルージュを全面的に支持するようになる。・・・」

 アメリカ軍の攻撃により、カンボジア人50万人が命を落としましたが、その後、クメール・ルージュは150万人もの市民を虐殺します。これは21世紀にイスラム国(IS)が世界各地で行った市民の虐殺とそっくりの構図だったと言えそうです。

 アメリカは、こうして誕生したポル・ポト政権と友好関係をもちます。アメリカが嫌う共産主義政権にも関わらず、彼らはポル・ポト率いるクメール・ルージュの残虐な行為を見逃し続けます。当時、キッシンジャーはタイの外相にこう語ったと言います。(1975年)
「われわれは友人だとカンボジアに伝えてくれ。たしかに人殺しのろくでもない連中だが、それが障害にはならない」
 その後、ベトナム軍がカンボジアに侵攻して、クメール・ルージュの恐怖支配は終わりを迎えますが、その間カンボジアの全人口の4分の1が消えていたと言われます。アメリカが許した狂気の行き着く極北の地のひとつがカンボジアだったことを忘れてはいけないでしょう。

チリにて 
 1970年11月3日、南米のチリで、サルバドール・アジェンデがチリの国会で153対24の圧倒的大差で大統領に選ばれます。しかし、社会主義的な主張をして選ばれたアジェンデは、間違いなくソ連よりの政治を行い、南米に新たな社会主義国家が誕生してしまう。そう考えたニクソンは、アジェンデ政権をつぶすよう国家安全保障会議に指示します。
「チリと同じように行動しても大丈夫だと、南アメリカ諸国の将来の指導者たちに思わせてはいけない・・・厄介なことになる・・・この程度なら平気だ、安全だと見くびられては困る。ラテンアメリカで勝手な真似はさせない」
 1972年12月4日、アジェンデはアメリカ合衆国と多国籍企業を国連での演説で徹底的に非難し、大きな反響を得ます。90分に及ぶ情熱的な訴えは、国連総会の会場を埋め尽くした聴衆の喝采を浴び、「ビバ、アジェンデ!」の大合唱が響き渡ったといいます。彼はこの時、第三世界の英雄となったのでした。

「もはや私たちの経済は、一握りの巨大な外資系企業と輸出の80%以上を独占されるような隷属状態を容認できない。彼らにとっては、利益をもたらしてくれる国よりも、自分たちのほうが常に大切なのだ・・・これらの企業はチリの銅を長年にわたって搾取し続け、この42年間だけでも40億ドル以上の利益を上げてきた。・・・私たち途上国は豊かになる可能性を秘めているのに、貧しい暮らしから抜け出せない。あちこちで頭を下げて融資や援助を懇願しているが、本当は豊かな資源を輸出できる。これは資本主義経済システムの典型的な矛盾だ。・・・」
サルバドール・アジェンデ

 1973年9月11日、アウグスト・ピノチェト将軍による軍事クーデターにより、側近たちと共に追いつめられたアジェンデ大統領は、最後のラジオ演説を行います。

「私は辞任するつもりはない・・・帝国主義を振りかざす外国資本が反動勢力と結託し、軍隊が伝統を破る雰囲気を創造した・・・チリ万歳!チリ万歳!最後にひとつだけ言っておきたい。私の犠牲は決して無駄にならない。少なくとも道徳的な教訓となり、犯罪者や卑怯者への戒めとなるだろう」
 この放送の後、彼はフィデル・カストロから贈られたライフル銃で自ら命を絶ちました。
 この事件の詳細については、映画「サンチャゴに雨が降る」(1975年)が大いに参考になるはずです。記録映画のように史実にのっとった作りは、ドラマチックではないものの丹念に作られています。ジャン・ルイ・トランティニャンやビビ・アンデルセン、アニー・ジラルド、ベルナール・フレッソンなどヨーロッパの左翼系映画人の協力によって作られた重厚な作品です。(監督は、脚本も書いているチリ人エルビオ・ソトー)
 ピノチェトは、クーデターを成功させた後、3200人以上の反体制派を殺害し、何万人もの市民が投獄され、拷問を受けることになりました。さらにこのクーデターの成功をきっかけに、中南米ではアルゼンチン、ウルグアイ、ボリビア、パラグアイ、ブラジルの右派政府が関与した諜報組織ネットワークが「コンドル作戦」を開始。アメリカなど世界各地で活動する左派の要人を13000人も殺害します。この異常な作戦をアメリカ政府は十分に把握していたはずが、見て見ぬ振りを通します。(6万人が殺されたという説もあり)
 ちなみに、ロバート・レッドフォード主演のCIAを舞台にしたサスペンス映画「コンドル」(1975年)は、この「コンドル作戦」を描いたわけではないようです。

コンゴにて 
 1961年1月、アフリカ中部のコンゴで民主的な選挙で選ばれたパトリス・ルムンバが、それまでの親米路線を見直し、ソ連に接近を開始します。アフリカに共産主義国家が誕生することを恐れたアメリカ政府は、CIAにルムンバの暗殺を指示します。2000年にルムンバの生涯についての映画「ルムンバの叫び」が製作されています。彼が世界中のアフリカ系の人々に与えた影響は非常に大きく、アメリカでもマルコムXやモハメド・アリら公民権運動の活動家たちが彼の影響を受けています。
 CIAは、ルムンバ政権を内部崩壊させ軍部によるクーデターを起こさせます。こうして軍事独裁政権の指導者となったのが、ジョゼフ・モブツでした。CIAが行う政府転覆作戦の他の例も同様ですが、この時、政権の座について男は、まさに「最悪の独裁者」でした。
「モブツは世界で最も残忍で腐敗した独裁者の一人として、30年間にわたって支配者の地位にとどまり続けた。ダイヤモンド、鉱物資源、戦略的金属の巨大な鉱床からもたらされる巨額の歳入を私物化し、権力維持のために大量虐殺を行った」
ティム・ワイナー(「CIA秘録」の著者)

 皮肉なことに、このモブツが仕掛けたアフリカにおける巨大イベントが「モハメド・アリVSジョージ・フォアマン」による伝説的な試合(あの「キンシャサの奇跡」)でした。記念コンサートのステージに上がったファニア・オール・スターズの「ヴィヴァ・ラ・ムジカ!」の叫びは、その後、パパ・ウェンバと彼のバンド「ヴィヴァ・ラ・ムジカ」を生むことにもなります。

<エルズバーグ事件(ペンタゴン・ペーパーズ漏えい事件)> 
<ペンタゴン・ペーパーズとは?>
 1967年6月17日、国防長官ロバート・S・マクナマラの指示によってヴェトナム戦争に関する調査が国防総省によって開始されます。そして、1969年1月15日、3000ページにおよぶ本文と4000ページからなる47巻の報告書として完成しました。当初は「マクナマラ文書」とも呼ばれていた調査資料、これが後に「ペンタゴン・ペーパーズ」と呼ばれることになるのでした。

<マクナマラ文書の持ち出し>
 1969年夏、アメリカのシンクタンク、ランド研究所で働くアナリスト、ダニエル・エルズバーグは、後に「ペンタゴン・ペーパーズ」(1945年からの「ベトナム戦争の記録」)と呼ばれることになる機密書類を読み、いかにアメリカが間違った戦争を行っているのかを知り衝撃を受けます。その中には、アメリカ軍によりねつ造された証拠によって始められた「トンキン湾事件」の真実も書かれていました。彼はその後、何度もベトナム戦争は失敗だったとして、米軍の撤退を主張し続けましたが無視し続けられます。そこで彼は危険を覚悟の上で、その47巻におよぶ資料をすべてコピーして持ち出し、公表しようと考えます。彼と同じようにベトナムで実際に調査を行い、「ベトナム戦争」は止めさせるべきと考えていたトニー・ルッソーは彼の考えを支持。自分のガールフレンドのリンダ・シネイに協力を得ることになっていました。
 1969年10月1日、彼はサンタモニカのランド本部を出ます。この時、彼が手にしていたブリーフ・ケースには47巻に及ぶ資料すべてが入れられていました。フラワームーブメントど真ん中、アメリカの中でも同性愛者やアーティストたちが多く住む街、そこでゼロックス製新型コピー機をもつ広告代理店を経営していたリンダの協力で一気に資料をコピー。彼らは10月15日に予定されていた全国規模の反戦集会までにその資料を公開するつもりでした。こうして徹夜のコピー作業が始まり、「ペンタゴン・ペーパーズ」と呼ばれる資料が漏えいすることになりました。
 エルズバーグは同僚のコンラッド・ケレンらと連名で「ニューヨーク・タイムズ」に寄稿し、アメリカ軍の即時撤退を求めるつもりでした。それと同時に文書を公開すればインパクトは倍増すると考えていました。しかし、彼らの寄稿文は発表されたものの肝心の資料の発表は、遅れに遅れる2年の歳月を要することになります。
<記事としての発表>
 1971年6月13日、彼がコピーした資料の一部が「ニューヨーク・タイムズ」に掲載されます。しかし、司法省が記事の差し止めを要求し、ニューヨークの連邦地方裁判所は、その仮処分を認めたため、その後の連載にストップがかかってしまいました。それに対し、エルズバーグは資料を今度は「ワシントン・ポスト」に持ち込み、残りの資料も17に分けて異なる新聞社に持ち込みました。結局、彼の飼料は19の新聞社によって公表されることになりました。(「ボストン・グローブ」、「シカゴ・サン=タイムズ」、「セントルイス・ポスト=ディスパッチ」、「クリスチャン・サイエンスモニター」など)
 それに対し、国家への裏切り行為としてFBIがエルズバーグの行方を追いますが、なかなか彼を見つけることができませんでした。その間、彼の父親はインタビューでこう答えています。
「ダニエルは、あの愚かな殺戮行為を終わらせるため、自分のすべてを犠牲にしたんだ・・・あいつが本当に文書を新聞社に持ち込み、それを政府が犯罪行為として非難するなら大いに結構・・・戦場に送られたはずの若者の命を救ったのだからね」

 6月28日、エルズバーグは自ら当局に出頭。その後、機密漏えいなどの罪で裁判所から懲役115年という重い刑が言い渡されることになりました。しかし、政府による記事の掲載差し止めを、連邦地裁のマーレエ・ガーフェイン判事は認めませんでした。その理由は、事前差し止めを正当化するのに必要な国家の安全に対する害について政府側から説明がなかったというのが、判事の判断だった。
「国家の安全は、守備だけに基づくものではない。安全は、我々の独立した法制度の価値にもある」
 6月30日、最高裁判所は賛成6、反対3で「ニューヨーク・タイムス」と「ワシントン・ポスト」2紙に対し、ペンタゴン・ペーパーズの掲載を認める判決を下します。それにより、「ボストン・グローブ」と「セントルイス・ポスト=ディスパッチ」への掲載差し止め命令も無効となりました。政府によるこれらの差し止め命令に対し、裁判所が下した判決は、「憲法に反する過度に思い上がった行為であり…政府にはその裁量はない」

それでも、最高裁判所は、ニューヨーク・タイムズ、ワシントン・ポストに、彼がもたらした情報の報道許可を認める判決を下します。
 幸いなことに、彼の裁判はその後、政府側が彼についての情報を不正な方法で得ていたことが明らかになったため、無効となり、彼は釈放されることになりました。ニクソン大統領直属の捜査チームが、彼が通っていた精神病院に侵入して情報を得ていたのです。それが明らかになったのは、1973年のこと。その調査を行っていたチーム「鉛管工」のことが、あの有名な「ウォーターゲイト事件」の捜査によって暴露されてしまったからでした。
「そもそもベトナム戦争がなければウォーターゲイト事件はなかった。しかし、ダニエル・エルズバーグの存在がなかったらウォーターゲイト事件はなかった」
ボブ・ハルデマン(ニクソンの首席補佐官)
 「ペンタゴン・ペーパーズ漏えい事件」は、意外なことに「ベトナム戦争」を止めるよりも、「ウォーターゲイト事件」によってニクソン大統領を引きずり下ろす役割を果たすことになりました。(映画「大統領の陰謀」はこの事件を暴露した記者たちを描いています)

 2011年、エルズバーグは、ウィキリークスにイラクでのアメリカ軍のヘリによる民間人射殺映像を渡したとして逮捕されたマニング上等兵への支援集会に参加。警察が、集会参加者が立ち退き命令を無視したとして逮捕したメンバーの中にエルズバーグ氏もいたそうです。

 この戦争は1955年以降、あるいは1960年以降も、決して「内戦」ではなかった。アメリカの支援を受けたフランスが、ベトナムの植民地支配を再び目指したときと同じ状況だ。外国から武器や資金を全面的に提供されているほうの勢力は、支援国の思惑に左右されてしまう。これでは国内の勢力同士の戦いであっても、内戦とは呼べない。現在でもこの戦争についてアメリカでは、「本来は内戦であるはずの戦いに」「介入している」と考える学者がほとんどで、そのなかにはリベラルな批評家さえ含まれているが、こうした発言はもっと痛ましい現実を覆い隠している。「北からの攻撃」という公式見解と同じで、これも作り話にすぎない。国連憲章ならびにわれわれ自身が公言している理想の観点からすれば、これは外国による侵略、しかもアメリカによる侵略戦争である。
ダニエル・エルズバーグの回想より

<ダニエル・エルズバーグ>
 ユダヤ系ではあっても、クリスチャンサイエンスの信者となっていた両親に育てられたエルズバーグは、ハーバード大学で経済学を学びました。第二次世界大戦で海兵隊で活躍後、彼はリベラルではあっても反共の経済学者としてランド研究所に入所しました。そこで彼はマクナマラによるベトナム戦争関連の調査にも関わることになります。そして、その内容から米国政府が続けてきたベトナム政策がいかに欺瞞に満ちたものであるかを知り、その協力者でもある自分の罪深さにも気づくことになりました。
 そして、その罪悪感がペンタゴン・ペーパーズの漏えいにつながることになりました。

「ペンタゴン・ペーパーズ/最高機密書類」 2017年
(監)スティーブン・スピルバーグ
(脚)リズ・ハンナ、ジョシュ・シンガー
(撮)ヤムス・カミンスキー
(音)ジョン・ウィリアムス
(出)トム・ハンクス、メリル・ストリープ
 かなり事実に忠実に描かれています。ただし、この映画ではあえて漏えいした側を描くのではなく、ワシントン・ポストの女性社長と編集部にスポットを当てています。そのおかげで、映画は初めからスリル満点の展開で娯楽映画として楽しめる作りになっています。さすがはスピルバーグ監督です!
 とはいえ、最も勇気を必要としたはずのエルズバーグという人物にももう少しスポットを当ててほしかった気もします。それはそれでもう一本別の映画が作れそうです。
 「もう一本」と言えば、この映画には「続編」があります。ラスト・シーンで、民主党本部にガードマンが入る場面。これはまさに映画「大統領の陰謀」のオープニングです!お見事。

フォッグ・オブ・ウォー Fog of War マクナマラ元国防長官に学ぶ11の教訓
 eleven lessons from the life of roberts mcnamara」
 2003年
(監)(製)エロール・モリス Errol Morris
(製)   ジェリー・ビルソン・アールバーグ Julie Bilson Ahlberg
      マイケル・ウィリアムス Michael Williams
(製作総)ジョン・ケイメン Jon Kamen,ジャック・レクナー Jack Lechner,ロバート・メイ Robert May
      フランク・シャーマ Frank Scherma,ジョン・スロス John Sloss
(撮影)  ロバート・チャペル Robert Chapell,ピーター・ドナヒュー Peter Donahue
(音楽)  フィリップ・グラス Philip Glass
(出演)  ロバート・マクナマラ Robert McNamara


「オリバー・ストーンが語るもうひとつのアメリカ史(2) ケネディと世界存亡の危機」 2012年
The Untold History of the United States
(著)オリバー・ストーン Oliver Stone 、ピーター・カズニック Peter Kuznick
(訳)金子浩、柴田裕之、夏目大
早川書房

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