- 近田春夫、ヴィブラストーン Haruo Chikada , Vibrastone -

2003年3月8日ビブラトーンズについて追記

<評論家、近田春夫>
 実は、僕は長い間、近田春夫氏のことを誤解していました。70年代からテレビを見ていた方なら憶えているかもしれませんが、彼はかつてテレビのの芸能評論として有名な人物でした。(芸能コメンテーターなる呼び名は、当時まだなく実際彼はかなり辛口の発言をする「おすぎ」的な評論家でした)その印象があまりに強く、彼がミュージシャンとしての活動を始め、そういった評論活動を一切しなくなった時、僕は本当に偉いと思ったものでした。
 言いたいことだけ言って、何もやらない評論家に対する異議申し立てを自ら実行に移すことは・・・素人なのに対したもんだ!と言うわけです。しかし、実際には彼は日本の歌謡界をしっかりと生きてきたミュージシャンでもあったのです。

<仮面の裏側で>
 しかし、彼がミュージシャンであったと同時に評論家であったということは、後に非常に重要な意味を持ちました。それは和製パブリック・エネミーとも言える彼のハード・コア・ラップ・ミュージシャンとしての活躍において、その強烈なメッセージ性を生む基礎となったからです。
 彼の辛口評論家としての視点、そして当時テレビでしゃべることができなかった数々の制約に対する怒りの爆発なくして、日本のラップの発展はなかったのではないだろうか、そう思えるのです。かつて、テレビ画面でにこやかにコメントを述べていたその裏で、マスコミや社会に対する疑問や不満、怒りが、どれだけ蓄積されていたのか?もちろん、それがわかるほど当時の僕は大人ではなかったのですが・・・。

<グループ・サウンズ時代>
 近田春夫は、1951年東京生まれで、鈴木慶一と同じ年。初期のフォーク・ロックを支えたミュージシャンたちより、微妙に若い世代に属しています。彼のサウンドが、かなりひねくれていて、「裏沢田研二」などと呼ばれたのは、そのせいもあったのかもしれません。
 彼がミュージシャンとしての活動を始めたのは、1960年代の後半、グループ・サウンズ・ブームまっただ中のことでした。内田裕也率いる1815ロックン・ロール・バンドにキーボード奏者として加わった後、独立して1974年に近田春夫&ハルヲフォンを結成し、本格的なソロ活動に入りました。

<辛口評論家として>
 しかし、その間彼は芸能評論家、大衆音楽評論家としても大活躍し、テレビ出演、雑誌への執筆でかなりの有名人になっていました。おすぎとピー子の歌謡局版といった感じでズバズバと切るその評論家としての姿勢は、かなり厳しいものがあったのですが、表の顔はあくまでも明るいギャグに包まれたものでした。(そうでなければ、すぐにブラウン管から消えていたでしょう・・・)

<ハルヲフォン結成>
 1976年、ファースト・アルバム「カム・オン・レッツ・ゴー」を発表。この時のメンバーは、近田春夫(Vo,KeyB)、小林克巳(Gui)、高木英一(Bas)、恒田義見(Dr)の4人で、近田春夫の3枚目的キャラクターを活かしたグループ・サウンズの70年代版を展開していました。その後「ハルヲフォン・レコード」(1977年)に次いで「電撃的東京」(1978年)を発表、このアルバムでは山本リンダ、平山みき、ザ・ピーナッツ、郷ひろみらのヒット曲をテクノ・ニューウェーブ的カバー曲として見事に変身させ、いよいよ彼の名を広めることに成功しました。

<ソロ・デビュー>
 ハルヲフォンを解散した近田は1979年初ソロ・アルバム「天然の美」を発表します。バックには当時人気絶頂だったYMOのメンバーなどをそろえ、作詞、作曲陣に歌謡曲畑から筒美京平、山口洋子、井上忠夫、宇崎竜童を迎えるなど、彼のひねくれ歌謡ポップスにとって最高の布陣による代表作となりました。(この頃「ああ、レディ・ハリケーン」が、CMとのタイアップによりヒットしています)

<テクノの仕掛け人からバンド活動へ>
 1980年代に入ると、彼はバック・グラウンドだったBEEFをジューシー・フルーツとしてデビューさせ、「ジョニーはご機嫌ななめ」(1980年)のヒットにより一躍テクノ・ポップ系アイドル・グループに仕立て上げた。(アルバム「ドリンク」(1980年)発売)
 その後、ビブラトーンズというホーン・セクションを抱えた大所帯のファンク・バンドを結成し、ソロ活動からバンド活動、ライブ活動を中心とするようになり、歌謡界の表舞台にはほとんど姿を見せなくなって行きました。スガ・シカオより遙か昔、本格的ファンクが受け入れられるにはちょっと早すぎたようです。

<ビブラトーンズ>
 近田以外のビブラトーンズのメンバーは、福岡裕(ユタカ)(Vo.&Per)、窪田晴男(G)、岡田陽助(G)、横山英規(B&Sax)矢壁篤信(Dr)、矢野正道(Key)でした。バンド後半には矢野が抜け、代わりにホッピー神山が入っていました。
 後に窪田晴夫はパール兄弟、福岡・矢壁・ホッピー神山はPINKへと移っていき、後のJ−ロック界にも大きな影響を残すことになります。

<J−ラップ創成期>
 そして、いよいよ近田春夫はラップの世界へと向かって行くことになります。シュガーヒル・ギャングが歴史上最初のラップ・アルバム「ラッパーズ・ディライト」を発表したのが1980年。グランド・マスター・フラッシュが、タイトル通りにメッセージを込めた名盤「メッセージ」を発表したのが1982年。(「ヒップ・ホップの歴史」については、1992年のページを参考にして下さい)
 近田春夫は、そんなラップ初期の動きを敏感にキャッチ、President BPMとして、12インチ・アルバム"Comnunication Breakdown"を発表、かつて自分がテレビでしゃべることができなかったマスコミ批判を思う存分展開、日本のラップの先駆けとしての活動を始めました。(この頃、ともに活動を開始したのが、いとうせいこうでした)

<いとうせいこうと近田>
 考えてみると、この二人はともにミュージシャンであると同時に文筆業もこなすアーティストです。ラップ初期、日本語をどうやってリズムに乗せるのか?という試行錯誤には、やはり日本語に対する深い理解が必要だったに違いありません。今や、そんな苦労などまったく無かったかのように若いミュージシャンたちが次々に現れていますが、彼らは日本語に対する深い知識を身につけているわけではありません。それは、たぶん日本語自体を、彼らがラップに乗りやすいように変えてしまったのです。

<Vibrastone誕生>
 そして、1986年RUN-DMCがラップの第二世代誕生を告げるアルバム「レイジング・ヘル」を発表、白人グループ、ビースティー・ボーイズが白人層にまで受け入れられるラップ・ロック・アルバム「ライセンス・トゥ・イル」を発表し、いよいよラップがロックに迫る勢いを持ち始めたころ、近田は本格的なラップ・グループ結成へと向かい、バンド・サウンドによる本格的ラップを目指し、ビブラストーンを結成しました。サウンドの要となったのは、かつて江戸アケミ率いるJAGATARAでファンキーなギターを弾いていたOTOでした。JAGATARAのリード・ヴォーカル、江戸アケミの死後、彼はヴィブラストーンの中心メンバーとして活躍を続けて行きました。
 1989年、熱いライブを封じ込めたアルバム「Vibra Is Back」を発表し、1991年には「Entropy Productions」でメジャー・デビューを飾ります。
 その後も「スマイル!!」(1993年)、「Vibrastone」(1994年)などを発表。ホーン・セクションまでもそろえたパワーあふれるバンドをバックに展開する近田とDr.トミーのタブーを無視したハード・コア・ラップの世界は、和製パブリック・エネミーと呼べる力強さを持ち、ほとんどのロック・アーティストが失ってしまった体制へのプロテストの姿勢を見事に復活させていました。

<最高の武器を得て>
 生まれたてのラップが持っていた本質的な魅力に憧れていた近田にとって、ラップとはメッセージをリズムに乗せて叩きつけるための最良の武器であったということに違いないでしょう。
 そうそう、かつてロッキン・オンの渋谷陽一氏は、「電撃的東京」のライナー・ノーツにこんなことを書いていました。
「・・・彼がテレビの司会などで時々チラッと見せる毒気と批評性、僕はそれのギッシリつまった彼の音が聞いてみたい。今までの日本のロックにはなかったものができるはずだ。」

なんとそれがラップになったわけなのです。

<次なる時代は?>
 昔から、あらゆるジャンルにおいてパイオニアの苦労というのは、一般大衆に受け入れられないものでした。今やラップ全盛の日本ですが、近田春夫という名をどれだけの人が知っているでしょう?そして、今やラップはそんな初期の姿からは大きく変わり、そのすそ野を広げることに成功しました。それは若者たちの日常会話の延長であり、コマーシャルに最適のメッセージ媒体であり、子供たちにとっての数え歌のような存在となったのです。そんな状況を見て、彼はどう考えているのでしょうか?それとも、彼はもしかすると、すでに次なる新しい何かを探し始めているのでしょうか?

<締めのお言葉>
「言語は世界を固定するために作られたものである」

岸田秀著「幻想を語る」より

<追記>
 2010年11月、BPMとビブラストーンのマネージメントをしていたという方からメールをいただきました。驚きとともに感動でした。おかげでOTOがビブラストーンに参加したのはジャガタラ解散後のことだったことなど、教えていただきました。当時者の方に読んでいただけるとは、驚き、感動とともに記事の内容について責任も痛感しました。今後とも、間違いなどあれば常に修正してゆきます。
 いつでも読者の方のご意見をお待ちしています。

<追記>(2012年10月)
 松永良平(著)「20世紀グレーテスト・ヒッツ ポピュラー音楽の記憶から」の中に近田氏のインタビューがありました。そこには、彼が以下に過去の自分の仕事に興味がなく、常に新しい挑戦しか頭にないのかが語られています。そして、アンチ・フォーク、アンチ・はっぴいえんどで、元祖ディスコ派だったことに驚かされました!時代の先にいた人ですね。

「70年代初頭には、日比谷野音とかで何かあると、だいたい行ってたと思う。ただ、ぼくははっぴいえんどとか、フォークソングやるような連中は好きじゃなかったから、ああいう感じの連中のそばには、こっちからは行かなかったね。ぼくが行ってたのは、要するに、ワルい方(笑)。そこがきめてだよね。サウンドの種類というよりは。」

「かっこいい人が多かったからね。女の人なんかとくに。やっぱり見た目でかっこいいと思える人が多い場所で鳴ってる音の方が、自分にとっては魅力的に思えるんだよね。フォークの人とかって、身体の動きがないんだよね。」
 この人、当時からすでにフォークでもロックでもないヒップホップ系の元祖だったことがわかります。はやっ!

「・・・やがて、ロックというスタイルでは、一個前の時代のことしか表現できないと思って、ロックはやめようと思うときがきた。そのとき、あの映画(「ファントム・オブ・パラダイス」(監督)(脚本)ブライアン・デ・パルマ1974年作品)のことが鮮明なかたちで見えてきた。ショウビズにいつまでも追いつかれないようにしなくちゃいけない。ショウビズに組み込まれると意味が変わっちゃうんだよね。何でもそう。ヒップホップもそう。そうなると、ホント興味がなくなっちゃうし、その表現自体もつまんなくなっちゃうから。」
 この人、「ロック・イズ・デッド」をいち早く理解した日本人のひとりだったのです!はやっ!

「自分の好みで言ったら、自分の曲以外全部嫌いだもん(笑)。ただ、そういう自分の立場がはっきりしてるから、何を書いても好き嫌いには拠らないわけですよ。自分の好なポイントって、ホントに狭い。今、自分が書いてる曲が一番好きで、しかもそれは刻一刻と動いていくわけだから。基準自体も絶対的じゃないから、何の役にも立たない。」
 好みはうるさいといいながら、逆にこの人の音楽の受容の幅は誰よりも広いともいえます。

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