1989年

- ライプチヒ奇跡の行進とベルリンの壁崩壊 -

<劇的な世界変動>
 20世紀後半、世界の歴史変動は、それ以前の変動とはまったく異なる展開をみせるようになっていました。その原因のひとつは、マスコミ、特にテレビによる報道です。なかでも、世界中からニュースを衛星中継によって24時間生中継するという画期的な放送局CNNの登場は、報道の常識を変えただけでなく、政治や社会のあり方を根本的に変えるほどの影響を与えることになりました。
 「ベルリンの壁崩壊」という1989年の世界的大事件は、こうしたテレビ報道によって世界中が生中継でその成り行きを注視した事件の象徴ともいえます。この事件は、第二次世界大戦が終わった1945年から始まった東西ドイツ長きに渡る分裂をわずか1年ほどの間に終わらせるという驚くべき短期間の出来事でした。(正確には、東西ドイツの分断は1961年8月13日から始まっています)1989年の時点で、一年後にベルリンの壁がなくなっていると予想できた人は一人もいなかったでしょう。それは、単なる民主化運動やドイツ統一運動の盛り上がりだけでは起こりえないほど奇跡的な出来事でした。そこには、1991年に崩壊したソ連における変革と同じような内部崩壊の連鎖的なメカニズムが働き、それを海外メディアが報道によって加速させるという複合的な要因が重なり合っていたのです。
 「カオス理論」において用いられる有名な例え話があります。
「中国で一羽の蝶が羽ばたいたことで小さな風が起き、それがきっかけとなって気圧のバランスが崩れ、それがより大きな風を起こし、ついにはアメリカ大陸を襲う台風を生み出してしまう」こうした「カタストロフィーの理論」がピタリと当てはまるのが、この事件だといえそうです。
 では、そうした連鎖的な大変動が起きるには、どんな条件が必要なのでしょうか?
 それは混沌とした状況の中に、ある一定の方向にエネルギーの流れが生まれることがひとつ。そして、そのエネルギーの場の中に小さな渦が生まれ、その渦がそこに流れるエネルギーを吸収することで一定の形を保つようになると、それは新たな秩序の誕生となるのです。(これは実は社会現象のための理論ではなく物理化学界の大物学者イリヤ・プリゴジンによる物質界における究極の秩序誕生理論です)
 このことが、1980年代末のドイツで実際に起きたと考えられます。きっかけとなった最初の小さな渦が生まれたのは、東ドイツの古都ライプチヒ。そして、その渦に巨大化するためのエネルギーを与えたのが、東ドイツの国民が心の中に抱えていた「民主化の願い」であり「東西ドイツ統一の願い」でした。ただし、巨大なエネルギーはその後、ドイツ国外からも押し寄せることになります。それはソ連において同時進行で起きていたペレストロイカ「改革」のエネルギーでした。

<ベルリンの壁>
 1945年にドイツが無条件降伏をして、ヨーロッパにおける第二次世界大戦は終了します。しかし、その瞬間からドイツの分割統治が始まります。結局、ドイツは東と西に分けられ、それぞれがソ連、アメリカによる統治のもとで再スタートを切ることになりました。しかし、首都ベルリンについては、東ドイツ国内にありましたが、東側、西側による共同管理をしていました。ところが、1961年8月13日深夜2時、東ドイツの人民警察と人民軍が鉄条網とバリケードにより街を分断。その二日後には壁の構築を開始。9月20日までに全長12kmにおよぶ壁が完成。さらに西ベルリンの周囲は全長137mに及ぶ鉄条網によって取り囲まれ、これ以後西ベルリンは陸の孤島となりました。
 ベルリンの壁は冷戦の象徴であると同時に東ドイツが西ドイツに示す統一拒否の固い意志を象徴する存在でもありました。ベルリンの壁が壊されることになる1989年の年頭、ホーネッカー国家評議会議長は、こう発言していました。
「壁の存在理由が除去されない限り、壁は50年後、100年後も存在するだろう」
 しかし、同じ年の11月彼自身と壁が同時に除去されることになります。

<ライプチヒで蒔かれた種>
 ゲーテなど多くの天才を生み出したドイツを代表する文化都市ライプチヒで起きた最初の民主化を求めるデモは、ほんのわずかの人々が参加しただけの小さなデモにすぎませんでした。警察の取り締まりが及びにくい教会を拠点に集まったアーティストや牧師など、数十人が逮捕覚悟で行なったデモは、毎週月曜日に静かに行なわれ続け、少しずつその参加人数を増やしてゆきました。
 このデモで参加者たちがスローガンに掲げていたのは、以下のようなものでした。
「我々はここに留まる」
「我々が国民だ」
「自由選挙を開催せよ」
「国家治安省は出て行け」
・・・・・
 彼らは西ドイツに逃げ出すのではなく、あくまでこの国に残って改革を実現すると主張していました。その覚悟が周りの人々の心に届き、その輪がどんどん広がり、ついにはベルリンやドレスデンなど、他の大都市にも飛び火することになったのかもしれません。
 当初、デモの開催を無視していた警察ですが、その人数が増え続けていることに危機感をもち、ついに実力(暴力)でそのデモを解散させます。ところが、この時、西ドイツのテレビ局がこの様子を撮影していたため、暴力によるデモ隊への攻撃は国外から強い批難を浴びることになりました。(当時、東ドイツは西ドイツに多額の借金をしていたこともあり、西ドイツの反応も意識せざるを得ない状況になっていました)こうして、デモ隊は海外からの注目を浴びることで決意を新たにします。そんな彼らを勇気付けるように周りの状況も急激に変わりつつありました。

<国外の変化>
 同じ頃、東ドイツでは、隣国ハンガリーがかつてのような厳しい入国管理を止めつつありました。そのため、東ドイツの国民がハンガリーを経由して、西側のオーストリアに入国。そして、そこから西ドイツに亡命するというルートができ、多くの東ドイツ国民が西側へと亡命することになりました。もう東ドイツ政府は西側へ向かう亡命者を止めることはできなくなったのです。こうした政治の流れは、元はといえば東側のリーダーであるソ連自身の方針転換から生じたものでした。この年の10月東独成立40周年の記念行事に出席したゴルバチョフは、東ドイツの指導者ホーネッカーにソ連が進めるペレストロイカを東ドイツでも実行するよう促しました。それは、ある意味「ライプチヒのデモ隊」には手を出すな、という指示だったともいえます。しかし、こうした周囲の変化を東ドイツ政府の首脳陣は、まったく認めていませんでした。そんな高官の一人クルト・バーガーはこう言っていたといいます。
「隣人が壁紙を張替えたとしても、我々が同じことをする理由にはならない」
 そうした対応に対し、この時、ゴルバチョフはホーネッカーにこう言ったそうです。
「歴史はあまりにも遅く来る者を処罰する」
 そして、現実はそのとおりになります。

<天安門事件>
 もうひとつ東ドイツの市民に大きな影響を与えた事件。それは同じ1989年に中国で起きた「天安門事件」でした。CNNなどによって、世界に配信したこの事件の映像は同じような立場に立たされている東ドイツ国民にとって他人事ではありませんでした。戦車の前に立つ青年。武器を持たない市民に発砲する中国の軍隊。あまりに衝撃的なこれらの映像を世界中の人々が目にしているにも関わらず、東ドイツの政府SED(社会主義統一党)の指導部は、この時の中国政府の対応を批判するどころか、賛同の意を表明しました。東ドイツ国民は政府のその態度に失望し、その後さらに西ドイツへの亡命者が増えることになりました。

<1989年10月9日>
 1989年10月9日ライプチヒでは、それまでの最大規模となるデモ行進が開催されることになりました。その日、7万人もの参加者に膨れ上がったデモ隊は、ロウソクの明かりを灯しながら静かに行進を行い市内を一周することになっていました。しかし、暴力を用いてでもデモ隊の行進を阻止するよう指令を受けていた政府側の部隊は銃を装備して待ち受けていました。状況はまさに一触即発だったといえます。
 そんな中、ライプチヒ在住の東ドイツを代表する音楽家クルト・マズール Kurt Masurは、デモ隊と警察が衝突することがないよう市内の放送設備を使って、両者に暴力を用いないよう呼びかけました。国民的英雄が発したこの勇気ある放送は、デモ隊、警察両者の心に届くことになりました。
 さらにこの時、すでに東ドイツ政府の権力システムは崩壊をし始めていました。デモ隊を制圧する部隊の指揮官は、身内も参加しているかもしれないデモ隊に自分の判断で発砲することなどできず、上官にその判断を仰ぎますが、責任問題になることを恐れた上層部は誰もが判断できず、結局は最上部から現場判断にゆだねるという返答が返ってくることになりました。そして、そうした愚かなたらい回しが行なわれている間にデモ隊は警察本部などの建物前を通過してしまいました。
 こうして、デモ隊は無事に市内を一周することで、デモの成功を内外に知らしめることになりました。当初数十人から始まったデモは7万人のデモへと膨れ上がりましたが、この成功はそのデモが東ドイツ中で開催可能であることを示し、このデモ自体もさらに規模を拡大し、10月16日には15万人、10月23日には30万人が参加することになりました。この間、自らの敗北を認めたエーリッヒ・ホーネッカーは、10月18日書記長の座を放棄します。さらにその後継者となったエーゴン・クレンツ Egon Krenzが、ホーネッカーらの旧共産党指導部に責任をとらせることで、社会主義体制を維持しようともくろみ、国民に対し自由選挙の実施を約束します。しかし、もはや東ドイツの国民は共産党指導部を信用していませんでした。クレンツに対する批判はどんどん強まり、結局彼は選挙への立候補をとりやめてしまいます。

<1989年11月9日>
 運命の11月9日がやってきました。
 この日、国民からの激しい批判に対し、政府は東西ドイツを分けていた国民の移動制限を今後撤廃すると記者会見で発表します。ところがこの時、政府担当者のギュンター・シャボウスキーが発表の期日についてあやふやな発表をしてしまいます。そのために、すぐにでも国境が開かれるのではないかと多くのベルリン市民が誤解して、次々とその夜、国境周辺に集まり始めました。こうして、ライプチヒで起きたデモ隊と警察、軍とのにらみ合いと同じことが、再びベルリンの国境で起きることになりました。必死で上層部にどう対応したらよいかを尋ねる国境の警備員たち。しかし、彼らに的確な指示を与えられる上役はもういませんでした。
 国境封鎖を指示し軍隊を出動させたとしても、結局、東ドイツが崩壊すれば自分が後に責任をとらされることになるだろう。逆に国境を開かせれば、その時点で東ドイツは崩壊する。そうなれば、自分の現在の地位は失われる。東ドイツの政治家、官僚たちは、もう自分の責任をどうやって回避するかしか頭にありませんでした。こうして、東ドイツの社会主義体制は、その責任者たちがそろって持ち場を放棄することであっさりと終焉を迎えたのでした。この変革は、まさに「無血革命」だったといえるでしょう。
 東ドイツの国民は、お隣の西ドイツが戦後の復興の後、西側の一員としてどんどん経済成長を遂げてゆく姿を見せられてきました。親類縁者からは当然そうした情報は伝わり、テレビでもそんな豊かな西ドイツの生活ぶりを見てきた彼らは、なぜ自分たちがこんな貧しい生活を強いられなければならないのか?疑問をもつのは当然のことでしょう。こうして、不満は蓄積され巨大なエネルギーとなり、小さなほころびから大きな裂け目へと拡大する原因となったのでしょう。

<ヒューマニズムの勝利>
 20世紀後半にはテレビなどに映像が残されたヒューマニズム勝利の瞬間がいくつかありました。「エリツィンによるモスクワ解放」(1991年)「ワシントン大行進」(1967年)などは、その代表例です。20世紀は東と西に世界が分断されていた時代だっただけに、「ベルリンの壁崩壊」という大事件は、その終焉を象徴する大事件として20世紀最大の事件だったといえそうです。
 ただし、ほとんどの事件に主役と呼べる英雄がいた中で「ベルリンの壁崩壊」に関しては、主役はあくまでも「市民」だったといえるでしょう。ベルリンの壁を越えてゆく素晴らしい笑顔の人々、その誰もがドラマの主役だったのです。そこには時代を動かした究極のヒューマン・ドラマがあったのです。

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