- ウォー WAR -

<仲間よ目をさませ>
 "Why Can't We Be Friend?"(なぜ友達になれないの?)
 なんというシンプルな問いかけでしょう。ちょっと気恥ずかしくなるくらいの純なタイトルをもつ曲を大ヒットさせた人種混合のファンク・バンド。彼らはその名を「WAR(=戦争)」といいました。
 ベトナム戦争のまっただ中、ベトナムからの米軍の撤退と人種差別の撤廃を目指す人々のデモに揺れるアメリカで、あえて「戦争」という名をバンド名に用いた彼らは、その名に反して平和的で人種融和的なミュージシャンたちの集合体でした。そして、彼らの曲は暗い時代を乗り越えようとするアメリカ国民の願いを代弁するかのように、未来を明るくポジティブに見つめていました。
 しかし、その明るさは時代が落ち着きを取り戻すとともに、しだいに必要とされなくなり、その上現実がそう簡単に代わるものではなく、人々もそう簡単には友達にはなれないのだと言うことが明らかになってくると、その存在もまた過去のものとして忘れ去られてゆきました。
 もちろん、彼らが忘れられた直接の原因は、70年代後半のディスコ・ブームの勢いが彼らのように複雑なグループをもつファンク・バンドを市場から追いやってしまったからなのですが・・・。
 しかし、彼らが生み出したラテン、ファンク、スカ、ジャズ、ロック、レゲエを融合した独自のファンク・ミュージックは、時代を越えてその輝きを失うことはありませんでした。
 1990年代にはいると、彼らの曲は数多くのDJやミュージシャンたちにサンプリングというかたちで掘り起こされ、再び脚光を浴びるようになってゆきました。
 テクニック的に高度でありながら、聴く者をリラックスさせる「癒し系ファンク」とも呼べそうな彼らのファンク・グルーブは、まさにワン&オンリーの存在だったのです。

<プレ・ウォー>
 1962年、カリフォルニア州ロングビーチ出身のドラマー、ハロルド・ブラウンと同じカリフォルニア州サンペドロ出身のギタリスト、ハワード・E・スコットクリエイターズというバンドを結成。1965年にシングル"Burn Baby Buern"を発表しましたが、この曲は同年LAのワッツ地区で起きた黒人暴動の際、そのテーマ・ソング的な使われ方をされることになりました。そう考えると、この時代の彼らこそ「ウォー=戦争」という名前に相応しいバンドだったのかもしれません。しかし、この頃の彼らのことは余りよくわからず謎に包まれているようです。
 その後、バンドにはさらにベーシストのB・B・ディッカーソン、オルガン&ピアノのロニー・ジョーダン、サックス&フルートのチャールズ・ミラーが加わり、R&Bのカバー・バンドとして活動を続けて行きました。そんな中彼らは、しだいにサルサ、スカ、オルガン・ジャズなどの要素を加えてゆき、ロミオズという新バンド名で活動をしてゆきます。(当時、後にサム・クックやオーティス・レディングの後継者と言われることになるソウル・アーティスト、ボビー・ウーマックがギタリストとして参加していた時期もありました)

<エリック・バードンとの出会い>
 1969年頃、バンドはベーシストがB・B・ディッカーソンからピーター・ローゼンに代わり、パーカッション担当としてパパ・ディー・アレンが参加、ホーンも加わった本格的ファンク・バンドになっていました。しかし、まだ彼らは独自のカラーを出すことはできず、元アメフト選手のディーコン・ジョーンズという黒人ヴォーカリストのバックを務め、ナイト・シフトというバンド名でクラブを中心に活動していました。
 ある日イギリスのロック・バンド、アニマルズ(「朝日のあたる家」で有名なブリティッシュ・インヴェイジョンを代表するバンドのひとつ)のヴァーカリストだったエリック・バードンが彼らのライブを聴きにやってきました。さらにその日は、同じ白人のプロデューサー、ジェリー・ゴールドスタイン(マッコイズの「ハング・オン・スルーピー」が有名)と無名のハーモニカ・プレイヤー、リー・オスカーも同じ会場に来ていました。(デンマーク出身の彼もこの後、バンド唯一の白人メンバーとして活躍することになります)
 この日のナイト・シフトの演奏が気に入ったエリック・バードンは、すぐに彼らに声をかけ自分のバック・バンドになってくれるよう要請します。こうして、イギリスの白人ヴォーカリストとアメリカのファンク・バンドのタッグが実現、エリック・バードン&ウォーが誕生した。なお、この時彼らの運命を変えた3人の白人をクラブに招待したバンドのメンバー、ピーター・ローゼンは、この年ドラッグの大量接種が原因でこの世を去っています。これは新たなスタートを切る直前の悲劇でした。(ベーシストは、再びB・B・ディッカーソンになった)

<エリック・バードン&ザ・ウォー、デビュー>
 さっそくエリック・バードンは、ウォーをバックにアルバムを制作。1970年のアルバム「宣戦布告」からは、シングル「スピル・ザ・ワイン」が大ヒット、いきなり全米3位まで上昇します。しかし、その後はまったくパットせず、ヨーロッパ・ツアー中にエリックはウォーを解雇してしまいました。しかし、エリック・バードンのこの判断は、ウォーにとってはかえって幸いな結果を生みました。首にされたことで、彼らはこの時期スタジオ・ワークに集中できるようになり、ジェリー・ゴールドスタインのプロデュースの元、単独でのアルバム制作に取りかかります。
 こうして、ウォー単独のアルバム「オール・デイ・ミュージック」(1971年)が発表されることになりました。そして、そこからシングル"Slippin' Into Darkness"が全米16位のヒットとなり、いよいよ彼らの快進撃が始まることになります。
世界はゲットーだ The World Is A Ghetto」(1972年7位)、「シスコ・キッド The Cisco Kid」(1973年2位)、"Gypsy Man"(1973年3位)、「仲間よ目をさませ!Why Can't We Be Friend?」(1975年6位)、「ロー・ライダー Low Rider」(1975年7位)、"Summer"(1976年7位)彼らは次々とヒットを飛ばして行きました。

<ファンク黄金時代の終わり>
 しかし、1977年に「ギャラクシー Galaxy」がヒットして以降、彼らはまったくヒット曲が出なくなってしまいました。時代はディスコ全盛の時代となり、ディスコで踊れる単純なディスコ・サウンド(白人向け?)かディープなグルーブ感を持つ泥臭いファンク・サウンド(黒人向け?)、そのどちらかを演奏しなければ市場に受け入れられなくなっていたのです。
 ソウル、ロック、ジャズだけでなくスカやレゲエ、サルサなどカリブのサウンドまでを取り込んだ良質で高度な混血ミュージックにとって、この状況は最悪でした。
 そのうえチャールズ・ミラーは、1980年に刺殺され(34歳)、パパ・ディー・アレンも1988年演奏中に心臓麻痺で倒れ、そのままこの世を去ってしまいました。(57歳)
 1980年代になって、久しぶりに彼らに脚光があたる状況が生まれます。それは全く新しい世代、ラッパーやDJたちが、改めてウォーの高度なファンク・サウンドに注目したためでした。しかし、残念なことにこの頃には、オリジナル・メンバーのほとんどは、すでにバンドを去った後でした。

<ポジティブでファンキーなサウンドの謎>
 彼らがウォーとして活躍を始めるまでの期間、どんな音楽をどんな目標をもって演奏していたのか、それは良くわかりません。それだけに10年近い下積み時代、それも60年代という激動の時代を生き抜いてきたからこそ、彼らはあえて「どうして友達になれないんだ?」と素朴に歌いかけることができたのかもしれません。それは、ボブ・マーレーが国内、国外での闘争の歴史を乗り越えてゆく中で、そのサウンドを明るくポジティブなものに少しずつ変化していったのと似ているかもしれません。
 だからこそ、彼らの音楽のもつメッセージは嘘臭く聞こえないのではないでしょうか。そして、いつまでも、オリジナルのまま充分に通じているのではないでしょうか?

<締めのお言葉>
「そして、みんなに言ってほしい」と、彼らは再び口をひらいた。
「生めよ、ふえよ、とな」
「こんちくしょう、人間は親切でなきゃだめだよ」

カート・ヴォネガットJr.著「ローズ・ウォーターさん、あなたに神のお恵みを」より

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