- ユダヤ系 VS ナチス・ドイツ -

「カサブランカ」、「独裁者」・・・etc.

<反ナチス映画>
 1940年代のハリウッド映画について書かれた「『カサブランカ』はなぜ名画なのか」という本があります。(著者は福井次郎さん)そこに書かれているのは、ヨーロッパで始まった世界大戦にハリウッドの映画界がどう関わっていったのか?世界にどれだけの影響を与えたのか?そして、逆に映画界がどう変わることになったのか?という興味深い歴史です。
 かつて「モンロー主義」を範とし孤立主義をとっていたアメリカは、他国の戦争に関わることを良しとしていませんでした。(その後のアメリカは、その真逆の路線に歩み出すのですが・・・)第二次世界大戦の際、アメリカはヨーロッパでの戦争が1939年に始まった時点では、まったく参戦の動きを見せませんでした。ナチス・ドイツの独裁体制に関しても、ドイツからの移民が多い経済界は好意的な見方をしていたといいます。ただ、ヒトラーによるユダヤ人差別の問題は、いち早くユダヤ系移民をとおしてアメリカにも伝わっていました。その他にも、ナチスドイツによってヨーロッパが侵略され始めるとアメリカへ多くの人々が逃れて来るようになり、そうした人々を中心にナチスの危険性が訴えられるようになります。特にほとんどの社長がユダヤ系という映画業界では、その動きが顕著でした。その先駆ともいえるのが、イギリスから戦争を逃れてハリウッドにやって来たアルフレッド・ヒッチコックの渡米後第二作「海外特派員」です。

「ハロー・アメリカ、君たちの明かりをしっかり守るんだ。世界でたったひとつ灯っている明かりなのだから」

 この映画のラスト・シーンにはラジオをを使って主人公がアメリカに向かってメッセージを発するシーンが加えられています。このメッセージを書いたのは、この映画の脚本を担当したベン・ヘクト。、彼は「国のないパレスチナ・ユダヤ人の軍事委員会」共同議長を務める人物でもありました。
 しかし、本当の意味でナチス・ドイツを批判しアメリカを参戦へと動かした作品は同じ1940年チャップリンが発表した「独裁者」でしょう。

「独裁者」
 この歴史的名作は簡単に作られたわけではなく、様々な困難を乗り越えて製作された後、困難を乗り越えてやっと公開にこぎつけた作品でもありました。
 実は、アメリカ映画界には人種によるある種の住み分けのようなものがありました。映画の製作会社はほとんどがユダヤ系の創業者が設立したものでした。監督や脚本家にもユダヤ系が多かったのですが、俳優にはロシア系が多かったようです。(あの有名なスタニフラフスキー・システムの創設者スタニフラフスキーもロシア出身です)
 それに対し、大手映画館の経営者の多くはドイツ系でした。そのため、ドイツに対して批判的な映画は、当然、公開する映画館を限定される可能性があったといえます。その上、1939年時点で脚本を書き始めていたチャップリンが映画の製作を発表すると、すぐに彼の元には脅迫状が送られてき始め、彼は一時製作の中止も考えたといいます。もし、この時点で、当時ヒトラーがユダヤ人捕虜に対しどんな残虐な行為を行っていたのかを知っていたら、製作を中止していたかもしれない、そう後にチャップリンは語ったといいます。チャップリン自身はユダヤ人ではなかったようですが、妻のポーレッ・ゴダードの父親がフランス系のユダヤ人だったことから、妻の影響が彼に製作を進めさせたとも言われています。こうして、映画は無事に完成し、1940年、ニューヨークを皮切りにして、アメリカ全土での公開が始まりました。そして、映画は予想以上の大ヒットとなり、年間の興行収入でも第3位となりました。

 映画では、チャップリンのマイムを通してヒトラーが徹底的にコケにされ、ラストの六分間の演説で高らかにヒューマニズムの価値が謳い上げられるが、アメリカ国民は、結局彼のメッセージをしっかりと受け止めることになる。映画はヒットし、切符売り場に長蛇の列ができるのだ。
 これがヒットを飛ばすとなると、当然世論の流れも変わってゆかざるを得ない。その結果、事態を危惧した英国駐在米国大使のジョセフ・ケネディ(後のケネディ大統領の父親)が、11月13日にハリウッドを訪問する。そして、ハリウッドの重鎮たちに、これ以上の反ナチ映画を作らないよう呼びかけるのだ。この時、ケネディは、英国での反ユダヤ主義の隆盛を語り、枢軸国が勝利した際にはハリウッドが真っ先に血祭りに挙げられるだろうと演説した。ベン・ヘクトの証言によれば、この時多くのユダヤ人有力者がケネディの意見に同調したということである。


 「独裁者」に続き、ゲイリー・クーパーがアカデミー主演男優賞を獲得した「ヨーク軍曹」が公開され、こちらも大ヒット。良心的兵役忌避者だった主人公が国のために銃を取り英雄になってゆく物語はアメリカの参戦を呼びかける最高の広告宣伝となりました。こうして、アメリカの国内世論は参戦へと急激に傾いたものの、1941年に入ってもまだアメリカ政府は参戦を決めきれずにいました。それは、ユダヤ人とはまったく異なる立場から戦争に反対する参戦阻止の運動を続けていたからです。その中心には親ドイツの人々ですが、その他にも純粋に反戦平和を求めるグループと反共産主義のグループこれらもまた参戦に反対していました。
 なぜ反共産主義のグループが参戦反対なのか?というと、それはヨーロッパ戦線への参加は、共産主義国ソビエト連邦との共闘を意味するからです。

 なによりも問題は、これら反共産主義のバックに数々のファシスト団体が控えていたことである。こうしたアメリカのファシスト団体としては、ウィリアム・ダドレイ・ベレーの銀シャツ党、チャールズ・カフリン神父のユニオン党などがあり、ともに反ユダヤ主義を特徴とし、枢軸側に同情的な発言をして第二次世界大戦への参戦に反対していた。そしてこれらのファシスト団体の支援で、40年にはジェラルド・L・・スミスによって「アメリカ第一」という組織が作られるが、この組織には、ハリウッドの映画人もかなり参加したのである。

 結局アメリカは、参戦を決めかねているうちに日本軍による奇襲攻撃を受け必然的に戦争に参加することになります。(日本軍による真珠湾攻撃をアメリカは知っていて、あえて攻撃させたのは、それにより国内の反戦、参戦反対派の口を完全に封じ込めるためという説があるのもこのせいでしょう)
 こうして、アメリカによる対独戦争が始まると、いよいよハリウッドは様々な作品を世に送り出し始めます。そして、その中でも最も大きな影響を与え、作品としての評価も高かったのが「カサブランカ」(1943年)でした。この映画の成功により、次々と反ナチスの映画が撮られ始めることになります。以下はその中の代表作です。

「ミニバー夫人」(1942年)(監)ウィリアム・ワイラー(原)ジョン・ストルーガー(主)グリア・ガーソン、ウォルター・ピジョン
「カサブランカ」(1943年)
「死刑執行人もまた死す」(1943年)(監)フリッツ・ラング(原)ブレヒト
「恐怖省」(1943年)(監)フリッツ・ラング(主)レイ・ミランド
「ヒトラーの狂人」(1943年)(監)ダグラス・サーク
「第七の十字架」(1943年)(監)フレッド・ジンネマン(主)スペンサー・トレイシー
「ラインの監視」(1943年)(監)ハーマン・シュムリン(原)リリアン・ヘルマン(脚)ダシール・ハメット(主)ポール・ルーカス
「ヒトラーの子供たち」(1943年)(監)エドワード・ドミトリク
「自由への闘い」(1943年)(監)ジャン・ルノワール
「幻影のハーゲンクロイツ」(1944年)(監)ハーバート・ビーバーマン
「渡洋爆撃隊」(1944年)(監)マイケル・カーティス(主)ハンフリー・ボガート
「救命艇」(1944年)(監)アルフレッド・ヒッチコック

 さらにハリウッドは、一流の監督たちを動員して戦争の記録映画を製作し、その現状を伝えることで、戦争への協力を国民全体に求めてゆきます。もちろん、そこには「編集」という演出がほどこされていました。

 かくて42年には、ハリウッド全体が戦時体制に入ってゆく。自発的な組織として戦時活動委員会が結成され、総動員で軍に協力してゆくことになる。そして情報局内に作られた映画部門と連携しながら、様々な活動が繰り広げていった。
(戦争記録映画を撮った監督としては、ジョン・フォード、ハワード・ホークス、フランク・キャプラ、ウィリアム・ワイラーらそうそうたる顔ぶれがいました)

 国民からの支持を得るため、戦場を舞台にした娯楽映画も数多く製作されるようになります。どの映画でも連合軍は一致団結して、ナチスや日本の軍隊を叩き潰す英雄として描かれています。そのほとんどは、単純な「勧善懲悪」映画だったといえます。

「ヤンキー・ドゥードゥル・ダンディー」(1942年)(監)ハル・B・ウォリス(主)ジェイムズ・キャグニー
「これが陸軍だ」(1943年)(監)ハル・B・ウォリス(主)ロナルド・レーガン
「潜行決戦隊」(1943年)(監)アーチー・メイヨ(主)タイロン・パワー
「熱砂の秘密」(1943年)(監)ビリー・ワイルダー(主)フランチョット・トーン
「サハラ戦車隊」(1943年)(監)ゾルタン・コルダ(主)ハンフリー・ボガート
「ガダルカナル・ダイアリー」(監)ルイス・セイラー(主)アンソニー・クイン

 当時のアメリカ大統領は、民主党のフランクリン・ルーズベルト。彼が左派よりだったこともあり、この時期は一時的にソビエトとの共闘を容認するべきとの考え方に基づき、親ソ映画も作られました。もちろん、それらの作品を撮ったのは、左派の映画人でした。しかし、そのことが後に彼らを赤狩りの悲劇へと導くきっかけとなるのです。

「モスクワへの密使」(1943年)(監)マイケル・カーティス(原)(脚)ジョセフ・F・デイヴィス(この映画にはルーズベルトが製作に関わった)
「ロシアの歌」(1944年)(監)グレゴリー・ラトフ(主)ロバート・テイラー
「テンダー・カム・レッド(優しき同志)」(1943年)(監)エドワード・ドミトリク(脚)ダルトン・トランボ(主)ジンジャー・ロジャース
「北極星」(1943年)(監)ルイス・マイルストン(脚)リリアン・ヘルマン(主)ウォルター・ヒューストン
「炎のロシア戦線」(1944年)(監)ジャック・ワーナー(主)グレゴリー・ペック(なんとこの作品がデビュー作!)

 この後、GHQの左派人脈から戦後の日本映画界は大きな影響を受けることになり、東宝争議など、様々な事件が起きることになります。戦後はアメリカも含め、左派の勢いが強まりますが、ソ連が世界の共産化を進めて行くことが明らかになることで、その反動が強まります。こうして、1950年代に入り「赤狩り」の時代が始まることになります。
 「20世紀」とは「戦争の世紀」でもあり「映画の世紀」でもありました。そして、1940年代は映画の歴史において黄金期にもありました。だからこそ、戦時下に「映画」は重要な戦略兵器としての役割を果たすことになったのです。戦争に「映画」を利用したのは、ナチス・ドイツだけではなくレニ・リーフェンシュタールだけでもなかったことを忘れてはいけないのです。

<参考>
「『カサブランカ』はなぜ名画なのか 1940年代ハリウッド全盛期のアメリカ映画案内」
 2010年
(著)福井次郎
彩流社

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