旅するビートニク俳優の短き人生 |
<ロンサム・カウボーイ>
1980年代にテレビで放送されていたオーディオ・メーカー、パイオニアのCM「ロンサム・カウボーイ」を覚えていますか?(50代後半以上の方なら見ているはず)けっこう話題になったCMなので今でもYoutubeで見ることができます。懐かしいはずなので是非ご覧ください!音楽はライ・クーダーです!今見てもカッコイイCMらしくないCMです。海外ロケで有名俳優を使うというバブル期らしい作品かもしれませんが、その短編映画のようなCMの主役がウォーレン・オーツでした。
映画ファンの方なら、サム・ペキンパーの名作「ワイルド・バンチ」と彼が主役を務めた「ガルシアの首」での彼の演技を覚えているかもしれません。彼が主役を務めたジョン・ミリアス監督の「デリンジャー」も名作でした。しかし、ほとんどの映画での彼の役割は脇役、それもちょい悪的な存在で、不幸なことに彼は1982年に53歳でこの世を去ってしまいました。そのため、彼のことを覚えている人もどんどん少なくなっているはずです。
先日、ハリー・ディーン・スタントンの遺作「ラッキー」を見ていて、ハリーと同じペキンパー・ファミリーとして活躍していたウォーレン・オーツのことを思い出しました。
今さらではありますが、彼のことを忘れないために、ニューシネマの時代、1970年代アメリカ映画を代表する脇役俳優ウォーレン・オーツをご紹介させていただきます。
<俳優への道>
ウォーレン・オーツ Warren Oatesは、1928年7月5日ケンタッキー州のディーポイという田舎町にドイツ系移民の子として生まれました。1940年、彼は家族と共にルイヴィルに引っ越します。そして、そこで高校、大学時代を過ごすことになりました。ただし、彼は大学に入学する前、失恋のショックから逃げるため、海兵隊に入隊。そこで戦闘体験こそなかったものの、厳しい訓練を受けた後、大学に入学しています。その時代の体験は彼に大きな影響を与えることになりました。
平和な日常に戻った当初、なんの具体的な目的もなく大学生活を送っていた彼ですが、芝居と出会ったことで人生が大きく変わることになりました。地元の劇団で俳優として活動した後、24歳の時に彼はプロの俳優を目指してニューヨークへと旅立ちます。
<舞台俳優からテレビの俳優に>
1952年、ニューヨークの街で、彼は俳優であり演劇教師でもあったハーバート・バーコフの演劇教室で学び始めます。「マッカーシズム」、「公民権運動」などアメリカは政治的な混乱が強まる時代でしたが、幸いなことに演劇界にとっては多くの才能が登場し、花開いた黄金時代でもありました。特にニューヨークの演劇界では次々に舞台劇の傑作が誕生し、そこからカリスマ的な大スターが登場していました。
テネシー・ウィリアムスの「熱いトタン屋根の猫」(1955年)、アーサー・ミラーの「橋からの眺め」(1955年)、ウィリアム・インジの「バス・ストップ」(1955年)、ジュリー・アンドリュース主演の「マイ・フェア・レディ」(1956年)、オードリー・ヘップバーンの「オンディーヌ」(1954年)が大ヒット。その他にも、ブロードウェイからはマーロン・ブランド、ジェースン・ロバーツ、ジェームス・ディーンなどが次々に登場しています。
しかし、二枚目でもなくカリスマ的ともいえないオーツはそんな演劇界で目立つ存在にはなれず、食べるためにテレビ・ドラマの俳優をし始めます。当時、テレビの急速な普及により、テレビ・ドラマの需要が急激に増えていました。そのため、様々な作品に出演する俳優のニーズが増加しており、少しづつ彼の仕事は増えて行きました。
<ニューヨークからハリウッドへ>
1950年代の終わりごろ、テレビ・ドラマのニーズが増えることで、その撮影地はニューヨークからロサンゼルス、ハリウッドへと移動し始めます。1958年元々都会暮らしが嫌いだったオーツは、ニューヨークを脱出し、ハリウッドのある西海岸に仕事場を移すことにします。そして、ヒッチハイクにより、東海岸から西海岸への旅に出ます。ジャック・ケルアックの「路上」が発表されたのが1957年なので、彼の旅は、ビートニク世代の多くが体験したヒッチハイクの旅の追体験となったのかもしれません。
1959年、ハリウッドで働き始めた彼は、第二次世界大戦を舞台にしたゴードン・パークス監督の戦争映画「潜望鏡を上げろ」に出演。いよいよ映画界での活躍が始まります。そしてこの頃、彼はテレビ界で活躍し映画の世界に進出しようとしていたサム・ペキンパーと出会っています。
<サム・ペキンパーとの出会い>
テレビの人気シリーズ「ライフルマン」の演出をしていたサムが、テレビの西部劇に出演していた彼を見て気にいって出演をオファー。この後、サム・ペキンパーとウォーレン・オーツは個人的にも親しい間柄になり、映画の撮影だけではなく、長くに渡る友人関係が始まります。2人は後にモンタナ州の田舎に土地を共同で購入、映画の撮影時以外はそこで過ごす生活を死ぬまで続けることになります。(冒頭に書いた「ロンサム・カウボーイ」のCMもそのモンタナ州の別荘で撮影されています)
ペキンパーの作品としては、1962年の「昼下がりの決斗」に初出演。1965年「ダンディー少佐」に出演後、1969年にペキンパーの最高傑作と言われる名作「ワイルド・バンチ」にも出演しています。
「ワイルド・バンチ」(1969年)で彼が演じたのはパイク(ウィリアム・ホールデン)、ダッチ(アーネスト・ボーグナイン)、テクター(ベン・ジョンソン)という大物3人の仲間で、テクターの弟ライルでした。役柄的には、3人ほど貫禄のないチャラい存在でしたが、ラストにはカッコイイ台詞が用意されていました。ラスト・ファイトに向かうパイクに出陣を促されると、彼は短くこう答えます。
「Why Not おう、行こうぜ!」
この短い台詞にペキンパー作品らしい男の美学が凝縮されています。
正義のためでもなく、政治的主張のためでもなく、もちろん金のためでも、愛のためでもない。自分たちにとって許せない友人の仇討ちというシンプルな理由のみで、自分たちの命を懸ける。この後の彼らの死にざまは映画史に残る壮絶な映像として永遠不滅のものとなりました。
そんな壮絶な闘いを生き延びたかのような存在が、その後彼が初めて主役を演じることになった「デリンジャー」(1973年)の主人公ジャック・デリンジャーです。単なる金目当てではなく、まして義賊でもない彼の生き様もまた、それまでのギャング映画の主人公とは異なる存在でした。
「この映画は他のどんなギャング映画とも違う。世の中が悪かったからこうなったとか、人々のために義侠心からこんあことをやっているとか、そんなふうな社会的化け物を描いた映画じゃないんだ」
ジョン・ミリアス
「ワイルド・バンチ」と同じように「戦う男たち」を描き続けた脚本家・監督のジョン・ミリアスの代表作「デリンジャー」は、FBIによって「大衆の敵ナンバー1」と指名された有名なギャング、ジャック・デリンジャーの生涯を描いた作品です。ちなみに彼の顔は、射撃訓練の標的としておなじみでアメリカの凶悪犯を代表する存在です。デリンジャーは、銃を用いた武装銀行強盗犯として有名ですが、実は彼は自分では誰も銃では撃ってはいないという説があります。それよりも彼は映画にもあるように親しく行員たちに話しかけ、けっして高圧的、暴力的な人間ではなかったようです。(ロバート・レッドフォード主演の「さらば愛しきアウトロー」はまさにデリンジャーの残党の物語のようでした)実は愛すべきヒールだった彼を警察(国家)が憎むべき存在として、反国家権力の象徴にしてしまったのかもしれません。
「ウォーレン・オーツが演じたデリンジャーの興味の対象は、犯罪そのものより、犯罪によって有名になった名前と彼の顔が一致することだった。この男は自分のことが後々に語り継がれる場面を想像して、それにふさわしいようにふるまおうとした。・・・」
大久保賢一「荒野より」より
「デリンジャー」の翌年、彼は再び主演俳優としてペキンパー監督作品「ガルシアの首」に出演します。こちらは、賞金首のお尋ね者ガルシアの首を運ぶことになった男のロードムービーです。彼は自身の生き様同様、旅が似合う俳優になって行きます。
<ロード・ムービーの男>
時代はこの後、映画冬の時代に突入。そんな中、新しい監督たちが登場し、「ニューシネマ」という新しいスタイルが誕生することになります。
1967年、彼はジョン・シュレシンジャーの最高傑作「夜の大捜査線」に出演。人種差別主義者の保安官の元で働く、チンピラっぽい警察官を演じました。
1971年、彼はニューシネマを代表する伝説的作品「断絶」(モンテ・ヘルマン監督作品)にも出演しています。さらに「イージーライダー」の主演俳優ピーター・フォンダの初監督作品であり、2人のカウボーイを主人公としたロードムービー「さすらいのカウボーイ」にも出演しています。
「デリンジャー」と同じ年1974年に公開されたもう一つの出演作品に「地獄の逃避行 バッド・ランズ」があります。この作品は、世界の映画監督が選んだ20世紀の傑作選ベスト100で67位に選ばれた巨匠テレンス・マリックの記念すべきデビュー作です。この作品もまた「断絶」と同じような「ロード・ムービー」の傑作で、主人公(マーチン・シーン)の恋人(シシー・スペイセック)の父親役で主人公に殺される最初の被害者を演じています。
こうして彼の出演作品を振り返ると、アメリカを旅するロードムービーの名作が並んでいることに気づかされます。彼はインタビューでこんなことを語っています。
「浮浪者というのは、常に容疑者なんだ。地に根をおろして生活している人間たちから見れば、自分の守るべき家庭を脅かす脅威なんだ。連中は黒い馬に乗ってやってきて、彼らの女房や娘をさらって、ものにしてしまう男達なんだ。放浪者には家庭もない、責任もない。・・・」
ウォーレン・オーツ「荒野にて」より
<その他の出演作品>
1978年「ブリンクス」(ウィリアム・フリードキン)ピーター・フォーク、ピーター・ボイル、ジナ・ローランズと共演した銀行強盗映画
1979年「1941」(スティーブン・スピルバーグ)ジョン・ベルーシ、ダン・エイクロイド、三船敏郎などと共演した戦争パロディ
1981年「パラダイス・アーミー」(アイヴァン・ライトマン)ビル・マーレイ、ジョン・キャンディと共演したコメディ映画
1982年「ボーダー」(ルイ・マル)ジャック・ニコルソンらと共演し、「ロンサム・カウボーイ」のイメージと重なるメキシコとの国境を舞台にした名作
1983年「ブルー・サンダー」(ジョン・バダム)ロイ・シャイダー、マルコム・マクダウェルらと共演したB級アクション映画の傑作
彼はハリウッドの映画人とほとんどつき合わず、モンタナの山の中に住み続け、50年代のビートニクたちと同じように鈴木大拙の禅の思想からの影響を受けてもいたようで単なるカウボーイ的な田舎暮らしをしていたわけではなかったようです。そして、ヘビー・スモーカー人生を貫き通し、1982年4月3日53歳という若さで心臓マヒによりこの世を去ってしまいました。
<参考>
「ウォーレン・オーツ 荒野より」 1981年
(著)ウォーレン・オーツ
(訳)大久保賢一
立風書房