- ワシーリー・カンジンスキー Wassily Kandinsky -

<時代を変えたアーティスト>
 ワシーリー・カンディンスキー、1866年に生まれ1944年第二次世界大戦の終戦を待たずにこの世を去ったこの天才画家の存在は、このサイトで取り上げている20世紀後半という枠からはちょっとはみ出しています。しかし、彼の作品がその後の画家やアーティストたちに与えた影響の大きさ、そして、彼の作品が未だに多くの人にインパクトを与え続けている事実を考えた時、その存在感は現役のアーティストをはるかに越えているとも言えます。僕自身、彼の作品を最初にじっくりと見たのは、1987年に東京国立近代美術館で行われた大規模な展覧会が初めてでしたが、その衝撃は僕の美術に対する考え方を大きく変え、美術に対する興味を膨らませてくれました。
 どの芸術ジャンルにおいても、「時代を変えるアーティスト」は、あらゆるジャンルを横断的、総合的に見渡す広い視野と遙か先を見通す先見性を合わせ持っているものです。古くは、レオナルド・ダ・ヴィンチのようにアーテイスト兼科学者兼発明者兼哲学者のような人物がいました。音楽の世界でも、マイルス・デイヴィスのようにジャンルを越えて音楽の範囲を拡張した人やザ・ビートルズのように音楽だけでなくファッション、美術、映画、政治にまで影響を与えたアーテイストもいます。美術の世界でも、20世紀後半にはアンディー・ウォーホル
のようなマルチ・アーティストが後に現れていますが、カンディンスキーはその先駆けとも言える総合的なアーティストでした。彼は抽象絵画の先駆者であるだけでなく、舞台美術家、評論家、出版者としても活躍し、多様化する20世紀の芸術を代表する人物となりました。彼こそ、20世紀前半を代表する芸術家と呼ぶに相応しい人物です。先ずはそんな彼の素晴らしい言葉から始めて見たいと思います。

「どんな作品にも空虚な場所がいつまでも残っていなくてはなりません。つまり拘束的であってはいけないのです。おそらくそれは”永遠の”法則ではなく、”明日の”法則でしょう。わたしは慎み深く、!”明日”で甘んじます」

<天才誕生>
 1866年、ワシリー・ワシリエヴィッチ・カンディンスキーはモスクワで生まれました。父親のワシリーは東シベリアの生まれで、お茶などを扱う商売人でかなり裕福な家庭でした。しかし、彼が5歳になった頃、父親の病気療養のため黒海沿岸のオデッサに引っ越してすぐに両親は離婚してしまいます。そして、ちょうどこの頃、彼は素描を描くようになり、絵画に引き込まれて行きましたが、それはまだ単なる趣味の一つにすぎませんでした。
 1886年、彼はモスクワ大学に入学し、そこで法学や経済学を学びました。さらに、大学在学中に彼は自然科学、人類学、民族誌の調査隊メンバーとして、ロシア北部ヴォログダ地方を旅しています。この時の体験は、後に彼の作品にも大きな影響を与えることになります。彼は家中が様々な彫り物や装飾模様で覆われたある民家での体験について、こう後に語っています。
「その家はわたしに、絵のなかを動き回るということ、絵の中で生きるということを教えた。・・・最後に室内に入った時、わたしは自分が四方八方から絵に取り囲まれているような気がした。わたしは絵の中に組み入れられてしまったのだ」

「・・・わたしの中で、自分の芸術のさらなる願望や目標がはっきりとした形をとってきたのは、おそらく、こうした印象を通じて以外ではないのだ。わたしは多年にわたって、観る者が絵の中を”散歩”し、われを忘れて絵の中へ溶け込んでしまうようにする可能性を探し求めてきたのである」


<画家への転身>
 1892年、彼は法学試験に合格し、翌年モスクワ大学法学部の助手となります。その後モスクワ市内の印刷工場で美術主任となり商業美術の専門家としても活躍するようになり、そのマルチな才能を発揮し、成功を手にしかけます。しかし、1896年、モスクワで開かれたフランス美術展での衝撃的な出会いにより、彼の人生は大きく変わることになります。それは、会場に展示されていたモネの作品「積みわら」との出会いでした。
 有名なモネの「積みわら」は、一見すると畑にわらを積み上げた様子を描いただけのどこにでもある風景画に見えるかもしれません。しかし、実はこの作品にはいろいろなバリエーションがあり、それぞれがまったく異なる「積みわら」の表情を見せています。それは積み上げられたわらを描いた「静物画」でありながら、「積みわら」という特殊な形態を用いて非現実的な世界を描き出した抽象絵画のようにも見えるのです。そのため、モネのこの作品は後に抽象絵画の原点だったと言われることになります。カンディンスキーは、そのことにいち早く気づき、その衝撃によって自らも画家の道を歩み始めようと決意したのでした。
 こうして、画家一本に道を決めた彼はミュンヘンに移住。そこでアントン・アズベの画塾に入り、本格的に絵画について学ぶとこになりました。1900年にミュンヘンアカデミーに入学した彼は、仲間たちと展覧会を自主的に開催するためのグループ、「ファーランクス」を結成します。

<風景画から抽象絵画へ>
 画家としてスタートした当初、彼は風景画を熱心に描いています。そして、そこからしだいに色彩を重視する抽象的な絵画へと作風を変化させて行きました。それは彼が最初に衝撃を受けたモネの影響だったのかもしれません。
「わたしは漠然と、自分が王国の秘密を感じとっているような気がしていた。しかし、わたしには、この王国を芸術の王国へと結びつけることができなかった。・・・わたしには時折、自然が芸術家の努力をあざ笑っているように思われる時があった。だが、それにも関わらず、自然はあまりにもしばしば、わたしの前に抽象的な意味で『神のごとく』姿を見せるのである。・・・」

 彼は風景から直接色を感じとり、それをキャンバスに移し替えることで新しい絵画のスタイルを生み出そうとしていました。彼にとって、色彩以前に世界はなく、色彩が初めてそれを現象させるというふうに考えていました。
 こうして、彼の作品はしだいに具象から離れ、色彩と単純化された形からなる抽象的な作品へと進化し始めました。

<「青騎士」発刊>
 1912年、彼は友人たちと「青騎士」年鑑を発刊します。この本は絵画だけでなく、シェーンベルクらの音楽家の文章や楽譜、それに世界各地の版画や絵画なども載せた芸術ジャンルの枠を越えた総合的な芸術年鑑に仕上がっていました。「青騎士」の仲間たちは、この後自らの手で展覧会も開催し、芸術においてひとつの大きな流れを作ることになります。
「わたしたちは、このささやかな展覧会において、はっきりした特定のフォルムを宣伝しようというのではありません。わたしたちは、ここに並べられているフォルムの相違のうちに、芸術家の内的願望がいかに多様なかたちで形成されるかを示そうとするのです」

<ロシア革命>
 1916年、革命前夜のロシアにもどった彼は、そこで知り合ったニーナ・アンドレイフスカヤと結婚。モスクワに再び住み始めます。そして、翌年の11月16日「10月革命」が起きると教育人民委員会内の造形芸術局(IZO)への参加を求められます。
 彼は迷わず、この申し入れを受け、IZOの演劇、映画部長と「造形芸術」誌の編集長を兼任することになりました。その後彼はモスクワにできた絵画文化美術館の館長など、数々の仕事をこなし、ついにはモスクワ大学の名誉教授にも任命されました。
 しかし、共産党による独裁体制がしだいに固まろうとする中、芸術に対する自由が制限される危険性を感じ始めた彼は、モスクワを発ち、ドイツにもどる決意を固めます。ちょうどその頃、彼にはワイマール州立バウハウス校から招聘の誘いが来ていたのでした。

<バウハウス運動の聖地へ>
 1922年6月、彼はバウハウスに赴任し、その後デッサウ市への移転から、1933年にナチス・ドイツによってバウハウスが閉鎖されるまで、ドイツにおける芸術の発展につくすことになります。
 こうしてみると、彼の人生は「革命のエネルギーに満ちあふれた未来の国ロシア」と「バウハウス運動により頂点を極めた芸術の理想郷ワイマール」二つの黄金時代の中心に位置していたことになります。こうした、エネルギーに満ちた時代を生きたことが、彼の作品に色彩と形の多様性を与え、さらにその統合という困難な仕事を可能にさせたのでしょう。だからこそ、彼の作品には前向きなエネルギーが満ちているのです。

<カンディンスキーと音楽>
 彼は子供の頃、ピアノやチェロなどの楽器を習っており、その後も音楽との関わりが多い芸術家でした。シェーンベルクなど作曲家たちとの交流も多く、彼は作品を製作する際、常に「音楽」を意識した作品作りを心がけていたようです。
「・・・作曲家は、聴き手の手をとって、彼の音楽作品の中に突入させ、一歩一歩その人を導きながら、”楽曲”が終わる時に手を離す。誘導法は完璧である。それが絵画の場合は不完全である。だがしかし!画家も同じくこの誘導法を応用することができるのである。・・・」
 1935年の彼の作品「連続 Succession」は、そんな彼の音楽観を視覚化したものかもしれません。

<芸術の都、パリへ>
 カンディンスキーは、バウハウスの校長を務めるなど、その中心として活躍しましたが、1930年代に入りドイツ国内ではナチスがその力を伸ばし、しだいに権力を手中に収めて行きました。ナチスは、ユダヤ人などの国内の富裕層を弾圧することで大衆の人気を獲得して行きますが、それと同時に共産主義者や芸術家、科学者など、インテリ層にもその弾圧の矛先を向け始めます。こうして、カンディンスキーもまたその弾圧の対象となり、危険を察知した彼は1933年、スイスを経由してパリへと逃れました。
 こうして、訪れたパリの街には、数多くのアーティストたちが集まっており、ここでもまた彼はホアン・ミロ、モンドリアン、レジェ、マン・レイ、マックス・エルンストらと知り合い、影響を与え合うことになりました。

<自然科学からの影響>
 彼はバウハウス時代あたりから、芸術以外の分野、特に自然科学やテクノロジーについて、強い興味をもつようになり、その影響がしだいに作品に現れてくるようになります。
 特に彼は有機体が胚の発生中に祖先がたどった進化段階の概略を繰り返すという反復説に感心を持っていました。これはひとつの生命の成長の歴史には、その生命が進化発展してきた歴史をすべて含んでいるという考え方で、彼の作品概念に大きな影響を与えることになります。
 1934年の「分割=統一 Division-Unity」には、彼のそんな考え方が表現されており、1940年の「空の青 Sky Blue」には、彼の考え方が表現されており、1940年の「空の青 Sky Blue」には、生命それも微生物に向けられた彼の愛が感じられます。彼にとっては、微生物もまた一つの完璧な生命体であり、人間もまたそうした生命体が協力し合うことで生まれた生命にすぎないのだと彼は考えていたのでしょう。

<第二次世界大戦>
 1939年、彼はフランス国籍を取得。しかし、この年フランスに対しドイツが戦闘を開始してしまいます。翌年には、ドイツがフランス領内に侵攻し、彼はパリを一時離れます。その後、彼をアメリカに逃がすための運動が起きますが、彼は渡米せずフランスにとどまる決意をします。
 それまで彼はロシア、ドイツから逃亡することで芸術活動を続けてきたわけですが、ついにここで逃亡することをやめたわけです。
 その後、彼はドイツの占領下にも関わらず、秘かに個展を開催するなど、芸術家としてドイツの占領体制に抵抗し続けました。この頃、ドイツ国内で彼の作品は完全に批判の対象となっており、1937年にミュンヘンで行われた有名な「退廃美術展」では、彼の作品が5点も展示され、批判の対象になりました。(これは、今ではある意味芸術家としての勲章とも言えますが)
 結局、彼は最後の祖国フランスを離れることなく、終戦直前の1944年12月13日、78歳でこの世を去りました。

<新しい芸術の指導者として>
 彼が偉大だったのは、自らが作品を発表することで、その芸術観を表現するのと同じように、後に続く後輩達への指導や教育のための理論作りにも力を尽くしたことです。こうした、彼の活動は自分の作品にフィードバックされることで、自らの作品の質をさらに向上させることにもなりました。
「完全な理論を築いたり、絵画の一般的な基礎を構成したりすることは、我々の時代には以前にもましてできそうにもないことである。・・・しかし、絵画には、確実な規則、主調低音を想起させるような原理など決して存在しない、とか、そうしたものはアカデミズムに通じるだけだ、とか主張することも、また早計であろう」

 そして、彼は自らの手で一つの芸術理論を築き、それを数々の作品とともに後世に残したのです。
「・・・表面的な調和、外面的な秩序で拘束せず、個々の要素を、その力、その生命を発揮、一方、仲介者である芸術家は、ひとつの体験をつらぬいて持続する不変なるもの-それは、抽象的で、ことばのおよばないレベルで、直観されたもの-を問いつつ、外面的なものを隠し、絵画の内側から本質的なものが開かれるのをな待つ。・・・」
『カンディンスキーのコンポジション概念について』 市川政憲

 20世紀前半、激動のヨーロッパを生き抜いた天才アーティストは、素晴らしい芸術を生み出した理想の時代と芸術そのものを否定する悪夢の時代をくぐり抜けながら、その激動の生涯を終えたのでした。

<締めのお言葉>
「私は悲しくもまた幸福である」

ワシーリー・カンディンスキー「ガブリエーレ・ミュンターへの手紙」より

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