- アラスカ・シーカヤック・ツアーにて -

<一言だけ前置き>
 これは本当にあった出来事です。フィクションではありません。作者である鈴木創自身が経験したお話です。(詳細並びに決定的写真は「カヌー・ジャーナル1994年春号」に乗っています)

<クジラへの遙かなる旅>

 その旅の話しが持ち込まれたのは、僕が通っているスポーツ・クラブのカヌー仲間からでした。
「アラスカでシーカヤックに乗ってクジラを見るツアーがあるらしいんだけど、いっしょに行かないかい?」
そんなツアーがあるなんて聞いたことがありませんでした。それもそのはず、そのツアーが日本人向けとして企画されたのは初めてのことだったのです。
 東京から故郷の小樽に帰ってくる前、僕はスキューバ・ダイビングに入れ込んでいて嫁さんまで海の中で見つけるほどでした。正確にいうと伊豆大島野田浜の沖合10メートルほどのところです。しかし、北海道の冷たい海では海に潜ることのできる期間が限られてしまうため、北の海に相応しいシーカヤックが僕の新しい趣味になりつつありました。(ドライ・スーツを着て潜るのは、僕は好きではありません)と言っても、水中散歩から水面散歩へと方向転換したばかりの僕は、その頃まだまだカヌーに関しては初心者でした。
(注)シーカヤックは海用に海水が入りにくくなり、舵もついたカヌーのことで、もとはイヌイットの人々が開発したもの、カヌーは川用も含め、カナディアン・カヌーなどボートに近い形も含めた全般を指します。
 しかし、スキューバ・ダイビングで沖縄の西表や慶良間、小笠原、グレート・バリアリーフまで出掛けながら、一度もクジラと出会うことがなかった僕にとって、「ホエール・ウォッチング・ツアー」という言葉は、決定的な魅力をもっていました。

 もちろん、本当にクジラが見られるんだろうか?という疑問はありました。僕だけでなくツアーに参加する全員が、その点については半信半疑だったはずです。なにせ、このツアーはアラスカ・ディスカバリーという現地の会社が企画したもので、日本側の主催者アウトドア・ショップの「秀岳荘」さんも、その点については自信がなかったようです。
 とはいえ、このチャンスを逃すと、一生後悔するかもしれないという思いは消しがたく、僕は結局参加を決意。1993年7月25日、新千歳空港発のJALの臨時直行便に乗って、アラスカへと出発しました。(この直行便は年に一回運行されていました)
 いよいよクジラと出会う旅に出発です。

<州都ジュノーへ>
 北回りでアラスカのアンカレッジに向かう飛行機は意外なほど早く目的地に到着しました。(とは言っても、6時間かかっていますが・・・)確かに、地球儀で見ると北海道とアラスカは以外に近いことがわかります。とはいえ、アラスカ自体非常に広大な土地です。アンカレッジから州都のジュノーまでは、再びアラスカ航空の飛行機に乗って1時間半飛ばなければなりません。そして、ジュノーに一泊して、そこで現地のスタッフと合流。翌朝早く再び空港へ行き、今度は小さな水上飛行機に乗って出発です。
 ついでながら、ジュノーの州立博物館は、お薦めです。特にカヤックに関する展示は、ファンには応えられません。アザラシの皮でできた防水パーカーや用具の数々、貴重な写真など他では見られないような貴重なものばかりです。ジュノーを訪れた際は是非ご覧になってみて下さい。

<日本側リーダー新谷暁生さん>
 翌26日朝は霧が深く、視界不良のため飛行機が飛べる状況ではありませんでした。いつになったら、飛べるのかわからないまま僕たちは、空港ロビーに釘付けになっていました。いきなりのトラブルに全員が早くも落ち込み気味です。気がつくと昼近くになっており、仕方なくそこで昼食をとることになりました。すると、そのツアーの日本側リーダーが荷物の中から、大きな大漁旗を出してきて、それをロビーの真ん中に広げ始めました。ド派手な柄の大漁旗の上で車座になっての昼食会というわけです。このリーダーが、ニセコのペンション「ウッドペッカー」のオーナー、新谷暁生さんでした。
 テレビで数年に渡り特別番組として放送された「グレート・ジャーニー」という冒険旅行のドキュメンタリー番組をご存じでしょうか?かつて人類がアフリカで生まれた後、長い年月をかけて、ユーラシア大陸を旅し、その後アリューシャン列島を渡り、アメリカ大陸に到達、最後に南アメリカ最南端に到達するまでの旅を、自動車などの乗り物を使わない当時の移動手段に近い方法で再現しようという企画でした。その番組で、カヤックと冬山部門のスペシャリストとして登場したのが、新谷さんでした。そんな凄い方とは、知らなかった僕は、最初彼に会ったとき、こんな呑気なおじさんで大丈夫なのか?と思ったものです。
 しかし、弱きになっていたメンバーの気分を変えようと広げた大漁旗は、効果てき面でした。さすがは長年登山客やスキー客をリードしてきただけのことはあります。技術的な面はアメリカ人スタッフにまかせ、ムード作りに専念する新谷さんの存在なくして、あの旅は成り立たなかったかもしれません。そして、彼の心づかいはその後さらに大きな意味をもつことになります。なぜなら、この旅において、みんなの「心の持ちよう」は大きな意味をもつようになっていったからです。
(注)「グレートジャーニー」については、関野吉晴著「失われた世界をいくグレート・ジャーニー(人類5万キロの旅)」をご参照下さい。

<小さな集落グスタバスへ>
 さて、新谷さんのおかげでメンバーの心の中の不安が取り払われたころ、それまで重たい霧に包まれていた空もしだいに明るさを増し、無事水上飛行機はジュノーの小さな空港を離陸することができました。30分ほどの飛行の後、着いたのはグスタバスという集落の小さな飛行場。もちろん管制塔らしきものも見当たらず、単なる空き地のような場所でした。そこで荷物を下ろした後、僕たちはサビだらけのワゴン車に乗り換えて海に向かいました。もちろん、それで目的地に着いたわけではありません。舗装などされていないガタガタ道を通って着いたのは、小さな桟橋がひとつだけある小さな入江でした。すると、そこにはすでにクルーザーが3隻ほど待機しており、甲板には僕たちが乗るためのカヤックがすでに積み込まれていました。天気は小雨状態が続いていました。ここからいよいよ目的地となる無人島、チチャゴフに出航です。
 雨と霧にかすむ海は、意外なほど静かで波も風もほとんどありませんでした。そのため船は天候のわりにほとんど揺れることもなく進んで行きました。しばらくすると突然甲板から船内の僕たちに声がかかりました。どうやらクジラが現れたから見てみろということのようです。渡された双眼鏡で示された方向を見ると、確かにそこにクジラがいました。それも明らかにザトウクジラで、近くを航行する船を意識してか、ブリーチングをしています。「ようこそ!」とでも言っていたのでしょうか。その時になって初めて、僕はこの旅が、思っていたよりも凄いものなのではないか?と気づきました。
 しかし、霧にかすむ海でジャンプを繰り返すザトウクジラの姿は、まるで夢の中の出来事のようにぼんやりとしており、それが現実とは正直まだ思えませんでした。
 僕たちとクジラとの間にはまだ何百メートルもの距離があったのです。

<無人の島、チチャゴフ島へ>
 さて、こうしている間に船は一時間半かけて目的地チチャゴフ島のマッド・ベイと呼ばれる浜に到着しました。当然ですが、そこには船が係留できるような埠頭などなく、それどころか人間が上陸した痕跡すらまったくない自然のままの浜でした。その後の5日間、僕はこの島で人類が地球に築いてきた文明の名残りをほとんど見ることがありませんでした。それは、その島が細い水路の奥にあり、外海からの漂着物が流れてこないせいでもありましたが、それ以上に島への上陸制限が厳格に守られていること、そして、その数少ない上陸者たちのモラルがしっかりしていることの証明でもありました。さすがは自然保護先進地です。(実はこの旅で僕が持ち帰ったおみやげの中に、お菓子のプラスチック・ケースがありました。これは、浜で拾った唯一のゴミであまりの貴重さに思わず持ち帰ったものでした)
 さて、いよいよ上陸作戦開始です。船では浜に近づけないため、僕たちは船に積んであったゴム・ボートに乗り移り、カヤックを引っ張りながら島へと向かいました。これから数日間、僕たちは完全に文明から切り離されるのかと思うと、ちょっと心細くはありましたが、これぞまさに冒険です。昔から弱虫な僕ですが、何故かこうなるとワクワクしてしまうのです。

<マッド・ベイにて>
 朝早く出発したこともあり、マッド・ベイへの上陸作戦は昼には完了。さっそく午後にはカヤックに乗って最初の航海に出発しました。先ずは肩慣らし程度に近場を散策、夕方にはキャンプに戻りました。ところが戻ってみてビックリ。出発した時に浜辺だった場所がなんと海の底になっていたのです。もちろん、そのことは予想済みで、テントはしっかりとそれより高い位置に張られていましたが、海の底に沈めて冷やしていた缶ビールがなんとはるか海の底になっているではないですか!
 それから夕食の準備になったわけですが、まったく急ぐ必要はありませんでした。夕方といっても陽が沈むのは、なんと夜中の1時過ぎのことなのです。これほどキャンプに適した土地はないと言えるでしょう。

<カヤック船団>
 そうそう、参加者のほとんどがペアだったため、僕は現地スタッフの女性リーダー、ベスニーさんとコンビを組み、同じ二人乗りカヤックに乗り込むことになりました。そのおかげで船をこいでいる間の会話は必然的に英語になり、海外旅行気分を味わうこともできました。(当然ですが、無人島に日本人ばかりでいると、日本にいるみたいな気分になっていまいます)
 そのうえ、僕はカヤックの前の席についたため、必然的に船団の一番前を行くことになりました。これもまた、後に大きな意味をもつことになります。

<至福のトイレ・タイム>
 翌7月27日、朝6時に起床し、朝食後トイレ・タイム。
もちろん、トイレなどないので、それぞれ好きなところで用を足すのですが、どこでもよいというわけではありません。大でも小でも、便の臭いは熊(グリズリー)を呼び寄せる怖れがあるのです。したがって、めいめいがキャンプから数百メートルは離れることになっていました。そのうえ、陸上にそのウン跡を残さないため、海にある程度近い場所を選びます。そうすると、潮が満ちた時にウンチは浮き上がり、波に乗ってはるか太平洋へと運ばれて行く天然の水洗トイレというわけです。
 ただし、お尻を拭いたティッシュ・ペーパーは水に溶けないため、ライターで火をつけて燃やすことになっていました。そのため、雨が降っていると火がつかなくて大変です。手にやけどを負いながらのトイレは、まさに「焼けクソ」状態でした。
 しかし、この不便なトイレ・タイムが時に至福の一時になった日もありました。なんとトイレ・タイムに海の近くでしゃがんでいると、目の前の海でクジラがブリーチングを始めたのです。ジャンプをしたり、尾びれで海面をたたいたり、まるで僕に朝のおはようの挨拶をしているかのようでした。もしかすると、その時間はクジラにとっても「おはよう」を言う時間だったのかもしれません。
 まさかクジラのショー・タイムがついているトイレとは!おかげで、このツアー中、神経質な僕にしては珍しく常にお通じは完璧でした。

<霧の中の出航>
 翌27日の朝は濃い霧でした。気温も10度をきり、夏とはいえフリース・ジャケットとゴム引きパーカーの重ね着をして完全装備です。数メートル先も見えない中、ベスニーのコンパスを頼りに出発しました。途中、突然ハリバット釣りのクルーザーが目の前に現れたりして、危険なこともありましたが、11時を過ぎると突然霧は晴れ、いっきに青空が広がり始めました。気温もどんどん上がり始め、目的地に到着して上陸する頃にはまるでハワイ並みの暑さになっていました。(実際この年のアラスカはかつてない暑さになっていたそうです)まさか、夏とはいえアラスカで半袖Tシャツどころか、上半身裸でハイキングをすることになるとは、・・・驚きでした。

<クジラへの接近>
 翌28日は、朝のトイレ・タイムでクジラを見た後、その後の移動中ずっと前方にクジラを見ることになりました。まるで目の前にニンジンをぶら下げられたロバのように、僕たちはクジラを見ながらパドリングを続けました。近づけそうで近づけない状態が続きましたが、どうやら彼らは僕たちを少しずつ近づけてくれているように思えてきました。
 その日のキャンプ地は狭い水路に面した海のすぐそばだったため、クジラはもちろん巨大な観光船が沖を航行してゆくのも見ることができました。何せフィヨルドという地形は、海岸からいきなり深い海になっているので、10メートルもあるザトウクジラが泳げばすぐに触れそうなところを泳いで行きます。巨大な観光船もまた驚くほど近くを通るため、新谷さんは、わざわざ日本からクジラに聞かせるために持ってきたバイオリンを取り出し、「星条旗よ、永遠なれ」を演奏し始めました。他のメンバーも急いで海岸に整列。全員で船に向かって敬礼しました。
 あの時、観光船に乗っていた人たちにバイオリンの音色は聞こえたでしょうか?目の前を泳いで行くクジラたちのように、僕たちの心もいつになくゆったりとしており、そこが日本から遙か離れたアラスカの無人島であることなど、すっかり忘れ去られていました。

<チャンチャン焼きの夕べ>
 翌29日は風が強まり、しだいに天気は下り坂に向かい始めました。強い向かい風に身をかがめながらのパドリングが続きましたが、新谷艇がカヤックをこぎながら釣り糸をたらすと、すぐに見事なシルバー・サーモンがかかりました。
 この日の夜はキャンプ最終日ということで、僕たち日本人がサーモンのチャンチャン焼きをガイドのスタッフにごちそうすることになりました。味噌や豆腐はアメリカ側のスタッフが仕入れていてくれたので、味噌汁も作りました。(味噌汁の具に、ジャイアント・ケルプの輪切りを入れてみましたが、これは大失敗でした!)すっかり仲が良くなっていたみんなは、まだ日にちもあるのにすっかり涙目になってしまいました。気がつくと、空からも雨の滴がしたたり落ちてきました。

<クジラまであと3メートル>
 翌30日も「別れの雨」は降り続きましたが、風はぴたりと止み、鏡のようにないだ海はカヤックに最適な状態でした。最後のパドリングをじっくりと味わうように僕たちは迎えのクルーザーが待つ浜へと向かいました。すると、この日もまたクジラが前方に現れました。やはり彼は僕たちを待っているのではないだろうか?なんだかそう思えました。今日がラストということで荷物も軽くなり、いよいよクジラがだけが目標となった僕たちは、ベスニーが準備した携帯用のソナーも駆使しながら、少しずつクジラとの距離を縮めてゆきました。
 音もなく、空と海の区別もつかないぼんやりとした世界は、僕たちを夢の世界へと誘い込んでいるようでした。すでに僕にはクジラや海に対する怖れはまったく無くなっており、クジラがカヤックをひっくり返しても、それはそれで幸せだとすら思っていました。僕にとってクジラとの「出会い」は、すでに「希望」でも「期待」でもなく、「確信」へと変わっていました。クジラたちさへ僕たちの気持ちを理解してくれるなら、それはごくごく普通の出来事としておこりうるのだと確信していました。
 たぶん、あの時それぞれのカヤックに乗っていた全員が同じ思いを抱いていたに違い有りません。そして、そんな気持ちが通じたのでしょう。それまで少しずつ近づいていた一頭のザトウクジラが、ついに僕たちの目の前に現れたのです。それも先頭にいた僕の目の前、3メートルくらいの近さでした。(この瞬間をとらえた同行していたカメラマンの方の撮った写真から、そのクジラは10メートル以上はありました)
 意外なことに、それだけ大きな生物がすぐ近くに浮上してきたにも関わらず、波はまったく起きませんでした。それは潜るときも同様でした。なんという無駄のない泳ぎでしょう。普段彼らがブリーチングをする時には、もの凄い音と波を発しているにも関わらずです。
 それはまるで、彼がか弱い人間たちの船がひっくり返らないよう気を使っているかのようでした。もしかすると、こう言おうとしていたのかもしれません。
「ご苦労様、もう帰っていいよ」

<あれから15年以上が過ぎ>
 このお話には、いくつかの後日談があります。
 あの時、僕といっしょに小樽から参加した旅の仲間のひとりは、その後ニセコの川でカヌーが転覆、人工のせきがつくる渦に巻き込まれて脱出できずにこの世を去りました。自然のままの川なら、たぶんその悲劇は起きなかったはずです。この時、いっしょに川を下っていたもうひとりの仲間は、事故の後、カヤックに二度と乗ることはありませんでした。彼は、貨物船の船長として、世界中の海を旅し続けた後、小樽に戻り、完全に岡に上がりました。
 カヌーの事故で亡くなった仲間の遺灰を、僕といっしょに小樽の祝津の海にまきに行った別の仲間は、80歳に近い高齢にも関わらず、世界一周船の旅に参加。すでに異なるコースで2周目を終え、3週目に向かう予定が決まっているそうです。彼はきっと死ぬまで旅をし続けるのでしょう。
 そして、僕はと言えば、その後一度小樽近郊の海で死にそうな目にあって以降、少しずつカヤックに乗る機会が減り、すっかり丘ダイバー、丘カヤッカーになってしまいました。
 二児の父親はもう死の危険をおかすわけにはゆかないですし、・・・。
あの旅から戻ってすぐ、僕は生まれてまだ5ヶ月の長男と久しぶりにいっしょにお風呂に入りました。すると彼はうれしそうにお湯をバシャバシャたたいてはしゃぐのです。
「お父さん、お帰りなさい!」
 それはまるで、あのザトウクジラのブリーチングを思わせました。

<締めのお言葉>
「・・・あの子は変わったし、今も変わっている最中だ。陸と海とにいよいよ一つになって来た。しかし、陸と海とに結びついていることは大きな力になると同時に大きな危険なのだ。ティキシィは早くここから出ていって、自分自身の生まれたもとのものを取り返さなければいけない」

C・W・ニコル著「ティキシィ」より

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