- ザ・フー The Who -

<フーズ・フー>
 ザ・フー The Who その名は、ほとんどのロック・ファンなら知っているでしょう。しかし、Who's Who? ザ・フーとは、いったいどんなバンドなのか?ときかれたら、意外に答えられない人が多いかもしれません?それどころか、オリジナルは一曲も聴いたことがない、と言う人もけっこういるかもしれません
 誰もが知っているけど、意外に聴かれていないバンド、もしかするとそれが「Who」かもしれません。(しゃれじゃなくて)そう言う僕も、フーについての知識は断片的なものばかりでした。実際、このバンドの代表作のタイトル「四重人格」が示すように、彼らの音楽は非常に複雑であり、それが彼らのサウンドのもつ重厚さや時代の先を行く新しさに結びついたと言えるでしょう。

<フーズ・スタート>
 21世紀に入ってもなお、その活動を続けるフーの歴史は、1962年にまでさかのぼることができます。ロジャー・ダルトリー(Vo)が組もうとしていたバンド、デトワーズに学生時代からの友人だったピート・タウンゼント(Gui)とジョン・エイントウィッスル(bas)が参加したのが、その始まりでした。
 その後彼らはバンド名をハイ・ナンバースと改め、ロンドンで活動を開始しましたが、ある日コンサート会場で観客のひとりが、彼らのバンドのドラマーに対決を挑んできました。そして、彼は怒濤のようなドラミングを見せると、なんとバンドのドラムセットをたたき壊してしまったのです。この挑戦者こそ弱冠17歳のキース・ムーンでした。(ちょっと出来過ぎのような気もしますが・・・)
 こうして四人のメンバーがそろうと、彼らは1964年その名をザ・フーと改名、1965年にシングル"I Can't Explain"でデビューを飾りました。

<フーズ・ジェネレーション>
 時は1965年、ロンドンではモッズが大ブームとなっていました。(この時代の雰囲気を知りたい方は、映画「さらば青春の光」を是非ご覧下さい。スティングなどが主演のこの映画はモッズのカタログのような作品です。作品の内容自体も素晴らしいです)
 フーのメンバーも、このモッズ・ファッションにニューヨーク発のポップ・アートを持ち込んだ斬新な衣装とキース・ムーンお得意のドラム・セット破壊に代表される過激なステージであっという間にモッズ系の若者たちの人気を獲得します。そして、デビュー・アルバム「マイ・ジェネレーション」のタイトル曲の大ヒットにより、文字通り彼らはモッズ・ジェネレーション最大のヒーローになりました。(この後、「マイ・ジェネレーション」は、それぞれの時代にそれぞれの世代によって歌われることにより永遠に生き続ける名曲となりました。例えば、パンク時代のパティ・スミスなど)

<フーズ・サウンド>
 そのうえ彼らは他のブリティッシュ・ビート・グループとは大きく違う面をもっていた。それは、多くのバンド(ビートルズ、ローリング・ストーンズも含めて)が、先ず初めにアメリカンのブルース、R&Bナンバーのカバー中心でアルバムを制作しデビュー・アルバムとして発表していたのに対し、彼ら、フーは、デビュー時からほとんどの曲をオリジナルで固めることにより、若者たちの心をつかんだということだ。この点でも、彼らは他のバンドの一歩先を行っていた。
 さらに言うなら、彼らはシングル・ヒットを狙うということを決してしませんでした。シングルは、アルバムの中からカットするだけであり、シングルのための曲作りは一切しなかったのです。これもまた、70年代半ばに訪れるアルバム中心のロック界の流れを先取りしていたと言えるでしょう。

<フーズ・ネクスト>
 しかし、彼らは世界一のライブ・バンドと呼ばれる暴力的なパフォーマンスだけが売り物のモッズ・バンドでは終わりませんでした。(もちろん、世界一のライブ・バンドという評価だけでも凄いことなのですが・・・。ちなみに、彼らのライブは結局日本で見ることはできませんでした。ほとんどの大物が来日している中、これは意外な事実です)
 彼らが新しい領域へと踏み出すきっかけとなったのは、1966年発表のセカンド・アルバム「クイック・ワン Quick One」という曲の録音時の出来事でした。彼らは、その時アルバムに収める曲を一通り演奏し終えたのですが、録音時間を計ると、まだ10分も余っていることが分かりました。そこで、彼らは急遽いくつかの曲をつなぎ合わせ組曲風の長い曲に仕上げ、その空き時間を埋めることにしたというのです。(それが、なんとこのアルバムのタイトル・ナンバーになってしまいました)まさか、これがロックの新しいアルバム・スタイルの誕生につながることになろうとは・・・。
 こうして生まれた組曲形式のロック・ナンバーの集大成となった作品が、後に映画化、ミュージカル化までされることになる史上初のロック・オペラ・アルバム「トミー Tommy」だったのです。

<フーズ・パートナー>
 この時、彼らにロックの新しい方向性を進めさせるきっかけをつくった人物は、実はやり手のマネージャー、キット・ランバートだったと言われています。それが芸術性の追求が目的だったのか、営利追求のためのリストラ策だったのかは別として(確かに「クイック・ワン」録音時の組曲形式は彼のアイデアだったようです)、彼らの過激なステージの仕掛け人も、元はと言えば彼だったようです。
 1960年代という、ロックにとって過渡期だった時代、スターの影には必ずと言ってよいほど、やり手のマネージャーやプロデューサーが存在していました。ビートルズにはジョージ・マーティンという素晴らしいプロデューサーがいたし、もうひとりのビートルズとまで言われたマネージャー、ブライアン・エプスタインの存在もありました。
 ローリング・ストーンズには、彼らを発見した同世代のマネージャー兼プロデューサー、アンドリュー・ルーグ・オールダムがいましたし、グラム・ロックのブームを築き上げた影の仕掛け人もT−レックスデヴィッド・ボウィをプロデュースしたトニー・ヴィスコンティーでした。パンク・ロックにもマルコム・マクラーレンというカリスマ的なプロデューサーがいたことは言うまでもないでしょう。
 そして、このフーの場合にも、キット・ランバートとともに重要な役割を果たしたプロデューサー、シェル・タルミーの存在がありました。
 彼はフーをデビューさせ、「マイ・ジェネレーション」でいっきにブレイクさせた仕掛け人であるだけでなく、キンクスマンフレッド・マンもプロデュースしており、ブリティッシュ・ロックの基礎を築いた人物のひとりとも言えそうです。
 まだまだロックは生まれたての赤ちゃんであり、それぞれのサウンドを確立するためには、若いミュージシャたち意外の知恵も必要だったのかもしれません。この時期は、才能あるプロデューサーにとっては、最もチャンスの多い時代だったと言えるでしょう。

<フーズ・トミー>
 
さらに前述のアルバム「トミー」は、音楽、芸術系映画の第一人者、ケン・ラッセル監督によって映画化され、出演者の豪華さも手伝い世界的な大ヒット作となりました。(オリバー・リードアン・マーグレット、などの俳優以外にも、エリック・クラプトンエルトン・ジョンティナ・ターナーに加えてロジャー・ダルトリーをはじめとするフーのメンバーも出演しています)
 そのおかげで「フー」の名はアメリカ全土にも知れわたることとなり、ブリティッシュ・ロックの代表的バンドとして、彼らはレッド・ツェッペリンと並び称される存在になります。(日本では、なぜかフーの人気は今ひとつで、よりポップで分かりやすいディープ・パープルのほうがブリティッシュ・ロックの代表格とされていました)
 こうして二枚組のコンセプト・アルバムという新しいスタイルを成功させた彼らは、同じようにトータルなコンセプトをもつ作品を次々に発表して行きます。特に"Who's Next"(1971年)、「四重人格 Quadrophenia」(1973年)は、「トミー」と並ぶ傑作と言われています。(後者は、モッズの時代を描いた二枚組の大作で、「さらば青春の光」として映画化されました)

<フーズ・デッド>
 こうしたピート・タウンゼントの才能が生み出したフー独自の音楽世界の成功は、もちろん喜ばしいことでした。しかし、フーの音楽がより深みを増してゆくことは、彼らがデビュー当時にもっていたシンプルでワイルドなロック本来の魅力を失ってゆくことでもありました。
 この変化は彼らのファンを戸惑わせただけでなく、それ以上にメンバーのキース・ムーンを苦しませたとも言われています。キースは、フーの表看板的な人気者でしたが、バンドの方向性がしだいにステージからスタジオへと向かっていったことや、それぞれのメンバーがソロ・アルバムの制作へと乗り出してゆく中で、しだいにその居場所を失って行きます。
 もともとドラッグと酒に溺れ、数々の奇行を繰り替えしていた彼は、1978年9月7日その両方のとりすぎがもとで31歳の若さでこの世を去ってしまいました。

<フーズ・アライブ>
 バンドのかき回し役でありそのパワーの源でもあったキースの死によって、フーのパワーは急激に低下しました。新たなドラマーとして元フェイセスのケニー・ジョーンズが加わったものの、今や伝説の存在となったキースの代わりがつとまるはずもなく、バンドは1982年に解散してしまいます。それでも彼らは再結成と解散を繰り替えしながら21世紀を迎え、2000年の時点ではなんと元ビートルズのリンゴ・スターの息子、ザック・スターキーをドラマーにすえてツアーを行っているといいます。

<フーズ・リジェンド>
 フーを一躍有名にしたステージ上のあらゆる物を破壊するパフォーマンスは、キースの死によって単なる演出ではなかったことが証明されました。それは本物の怒りの表現であり、キースはその矛先を自らに向けることによって、その死を早めたのかもしれません。
 こうして、「ザ・フー」はロック史における伝説の仲間入りを果たしました。そして、その後時代が変わっても、若者たちが自らの怒りを音楽で表現しようとする時、しばしばその原点として、フーのドラマー、キース・ムーンの破天荒なドラミングが語られるようになったのです。

<締めのお言葉>
「暴力が時には美でありうると言う人たち(中には知的な人たちでさえ)がいる。ぼくにはそれがわからない。というのは、美しいと感じるのはほんの一瞬のことで、ぼくにとってその瞬間はけっして暴力的ではないから」

アンディー・ウォーホル

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