「情報の自由」を守る孤高の戦士たち 


「ウィキリークスとジュリアン・アサンジ Wiki Leaks and Julian Paul Assange」
<ウィキリークスって何?>
 ネットの世界の進化には基本的にあまり関心のない僕ですが、「報道の自由」の問題も含め、その影響力の大きさから「ウィキリークス」には興味がありました。その創設者、ジュリアン・アサンジは、2013年以降、英国にあるエクアドル大使館に幽閉状態にあり、その活動も一時ほど聞かれなくなりました。
 そもそも、ジュリアン・アサンジとは何者なのか?
 ウィキリークスとは何を目的とした組織だったのか?
 素朴な疑問を解くために、ウィキリークスの元ナンバー2が書いた暴露本を読んでみました。もちろんどこまでが本当かはわかりませんが、その全体像はある程度理解できました。
 僕としては、そこからわかったことが大きく二つありました。
 ひとつは「ウィキリークスとは何か?」という疑問への答え。
 そして、もうひとつは、ジュリアン・アサンジというカルト・ヒーローは、運命に導かれるように悲劇へと向かったのだということです。それはまるで、フラれることを知りながらダラダラと関係を続ける悲劇的なラブ・ストーリーを読んでいるかのようでした。(読んでいてイライラさせられるところも含めて・・・)
 それで先ず「ウィキリークスとは何か?」という疑問への答えから始めましょう。
 いきなりですが、今回参考にした「ウィキリークスの内幕」の翻訳者によるウィキリークスの簡潔な説明はこうです。

 国家権力や支配階級のパワーの源泉は、情報の独占にある。権力者はみずからに不都合な情報を隠蔽し、かならず腐敗する。ならば、権力者にとって不都合な情報を内部告発するサイトをつくり、そこで全部公開してしまえばよい。権力者は失脚し、世界にはびこる悪や不条理は糺される。やがて支配者も階級も消滅し、平等で平和な世界が実現するだろう・・・・・コンピューター・テクノロジーを駆使し、無政府主義の理念をデジタルに追求しようとしたのが、ウィキリークスである。
 実にわかりやすい説明です!
 ウィキリークスの登場まで、歴史上の内部告発者たちは、手元にある資料をマスメディアに持ち込んで告発を行っていました。マスメディアは、その調査力を用いて、その情報の信ぴょう性を確認した後、その報道力を用いて告発を行い、世論に訴え、権力者を追い込んで行きました。
 例えば、ニクソン大統領を辞任に追い込んだ「ウォーターゲイト事件」では、「ディープスロート」という名の内部告発者が「ワシントン・ポスト」の記者に情報を持ち込みました。しかし、こうした内部告発には危険が伴います。告発者は事件発覚後には、記者に対してだけではなく法廷での証言を求められます。そうなると、告発者はマスコミに追われることになり、時には警察や情報機関によって監視されたり、逆に裏切者として命を狙われる可能性もあります。(したがって、よほどの民主国家でなければ情報の漏洩など不可能です)
 ネットの登場は、内部告発をやりやすくしたようにも思えますが、残念ながらコンピューターの通信履歴や通信会社の記録などにより、内部告発者の特定は十分に可能です。しかし、もしネット上に足跡を残さずにマスコミに情報を送ることが可能ならば、多くの心ある人々が内部告発をしてくれるのではないか?
 そう考えて内部告発者のための専用サイトを作り出したのが、ジュリアン・アサンジというオーストラリア出身の若者だったわけです。したがって、「ウィキリークス」とは、「発信者を特定できないネット上の専用ポスト」(機密保持機能付き目安箱 Highsecurity anonymous drop box)のこと、といってもよさそうです。
 システムの構造上、ウィキリークス側でも告発者が誰なのかはわからないのですが、そのおかげでウィキリークス側から告発者の名前が漏れる心配もないわけです。さらにウィキリークスのもつ登録ドメインが削除されても、自動的に他の場所でミラーサイトが立ち上がるシステムになっているので、ウィキリークスをネット上から消し去ることは不可能です。こうしたネット上の仕組みもまた「ウィキリークス」の本質と言えます。
 最後に残されたのは、こうして得られた情報をどうやって公開するのかという問題になってきます。そこに大きな問題が生まれることになるのですが、その前にこの仕組みを作り上げた男の生い立ちを先ずは振り返ります。

<ジュリアン・アサンジ>
 ジュリアン・アサンジ Julian Paul Assange は、1971年7月3日オーストラリアのクイーンズランド州で生まれました。両親が早くに離婚したため、母親と共に暮らしますが、1979年に母親が再婚。新しい父親は新興宗教に属するグループのメンバーでしたが、そこから母親は息子と共に逃げ出しました。1982年には離婚が成立しますが、親権争いが5年ほど続き、その間、母親は父親から逃げるため数十回もの引っ越しを繰り返したといいます。そのため、アサンジ少年はほとんど学校に通うことができず、孤独な少年時代を過ごしました。そんなオタク生活の中、彼は16歳でハッカーとしてデビューしています。
 彼の愛読書は、ネット社会の近未来を描いた近未来SF小説「クリプトノミコン」(1999年1巻)とノーベル文学賞作家ソ連のソルジェニーツィンの「収容所列島」です。「クリプトノミコン」は孤立した島に「情報基地」を作るという計画を彼に思いつかせ、「収容所列島」は恐るべき監視社会の恐怖を彼にもたらすことになりました。

<ウィキリークスの歴史>
 ここからは「ウィキリークス」が関わった事件を順番に振り返ります。

「ジュリアス・ベア事件」2008年1月14日
 ウィキリークスが、スイスの巨大銀行ジュリアス・ベアの内部文書、計算書などを公開。顧客一人につき500万から1億ドルという巨額の資産の脱税がこれで明らかになりました。タックス・ヘイブンとして有名なケイマン諸島を利用しての脱税システムの複雑な構造を暴露されたジュリアス・ベアはあわててウィキリークスへの反撃に出ます。
 元の従業員が書面による信用契約に違反して盗み出した企業秘密は仮処分命令によってサイト上から一度は消去されますが、すぐにミラーサイトが立ち上がりました。CBSニュースはウィキリークスのIPナンバーを「言論の自由のナンバー」として取り上げ、ウィキリークスはの名は一躍世界中に知られることになりました。そのおかげで、彼らの活動を支える寄付金は、大幅に増加し、一気に5000ユーロに達しました。

「サイエントロジー事件」2008年3月
 トム・クルーズがその熱心な信者として有名なアメリカのカルト教団「サイエントロジー」の内部文書を暴露。この情報入手経路には、後に世界中にその名を知られることになるハッカー集団「アノニマス」の存在があったようです。
 暴露の発端は、ライザ・マクファーソンという女性信者がサイエントロジーの監視下で死亡するという事件でした。なぜ彼女は死んだのか?その死因を調査した結果、彼女の死因は長時間にわたりベッドに拘束され、水分を与えられなかったことで起きた血栓症だったことが明らかになりました。その後、適切な処置を行っていれば、彼女は死に至らなかったと考えられました。この事実を暴露し、サイエントロジーへの攻撃を宣言したのが、当時まだ無名に近かった「アノニマス」で、彼らの得た情報を公開したのがウィキリークスでした。
 「アノニマス」は当時ネット上で下記のように自己紹介を行い、彼ら独特の仮面とサイエントロジーとの闘いについて説明を行っています。

「この仮面は、我々が恐怖を煽ろうとしているかのような印象を与えるかもしれませんが、我々にそのような意図はありません。サイエントロジー教会は、ときとして、彼らの陰謀に抗議する一般市民を迫害します。迫害とは、跡をつけたりつきまとったりする行為を指します。世界観を自分たちと共有しないというだけの理由で、彼らは他人の跡をつけるのです。我々の仲間の中には、彼らから脅迫やつきまといを受けた者もいます。このような脅しやつきまといから身を守るために、我々は仮面をつけているのです。サイエントロジー教会は強大な資金力を驚異的な法律家集団を擁し、悪辣な法廷闘争を仕掛けてくることで有名です。仮面は身を守る手段なのです」

 彼らアノニマスのスローガンはこうです。
「知識は自由です。我々はアノニマスです。我々は大群です。許しはしない。忘れはしない。我々を待ち受けなさい」
 こうして、アノニマスから多くの情報がウィキリークスに寄せられ、この間、サイエントロジー内部の秘密のマニュアルや彼らと関りのある企業や団体のリストなどが次々と公開されました。

<ウィキリークスの内部体制>
 この時期でのウィキリークスの内部体制(メンバー)は、意外なことに、アサンジ本人とその協力者となったダニエル、「エンジニア」と呼ばれた技術者のほぼ3人だけでした。(その後、技術者の「アーキテクト」が2009年に参加)
 上記のような事件により彼らの知名度は一気に世界的なものとなり、寄せられる情報は急増しますが、彼らと彼らとネットでつながるボランティアだけではそれを処理することが不可能になってゆきます。ボランティアは数的には多かったようですが、機密情報を任さられる信頼できるボランティアはほとんどいなかったようです。
 ナンバー2的存在だったダニエルは、ウィキリークスは今後しっかりとした体制と周囲からの信頼を築くため正式なオフィスを持ち、有償のスタッフを抱える組織へと進化するべきと考え始めます。しかし、ジュリアンはその考えに同意せず、あくまでも秘密組織としての小規模での活動を続けることにこだわりました。

「ネット検閲廃止に向けての闘争」2008年
 2008年、ウィキリークスは特定のウェブサイトへのアクセスをブロックするために世界中で使用されているさまざまなシステムのフィルター・リストを公開し始めます。要するに、国家権力によるネット上の検閲システムを公開することでその妨害を行おうとしたわけです。
 意外なことに、こうしたフィルターは、ノルウェー、デンマーク、イタリア、オーストラリアなどの民主的な先進国、それも情報公開が進む国で使われていました。その多くは、児童ポルノの広がりを防ぐためのものでした。ところが、それがすべてのパソコンに義務づけられることになると、政府がそこに反体制グループのサイトでも検閲対象として組み込むことも可能になっていたのです。実際、オーストラリアやフィンランドでは、それが明らかになっています。こうした政府によるネットの検閲が日本でも行われている可能性もないとはいえません。(あると考えた方がいい気がします)
 こうして、ウィキリークスは「情報の自由」のため「ネット検閲」との闘いを続けており、それを自分たちの重要な役割のひとつと考えています。

「アイスランド・カウプシング銀行事件」2009年8月
 ウィキリークスはアイスランド最大の銀行カウプシングが、アイスランド経済の破綻による倒産直前に大口の顧客に対し巨額の融資を行っていたことを暴露します。情報公開の日、アイスランドのテレビ局RVVは、この情報を放送することを政府から止められますが、それに対し彼らはテレビ画面上にウィキリークスのアドレスを映し出すことで対抗したといいます。
 国家規模の経済破綻により国民全体が不況の影響を受ける中、一部の優良顧客(金持ち)だけが利益を得ていたことが明らかになったのです。この後、ウィキリークスはアイスランドでは英雄としての扱いを受けることになり、それが彼らが後にアイスランドで「報道の自由の港」構想を立ち上げるきっかけとなります。
「報道の自由の港」構想
 自由を守る情報基地を、アイスランドに築くというアイデアは、ジュリアンの愛読書でもあったSF小説「クリプトノミコン」からヒントを得たものでした。それによりアイスランド経済を復興させ、ウィキリークスもまた国家によって安全な活動が保証されれば一石二鳥ではないかと考えたのです。
 しかし、この構想はアイスランド議会でまったく理解されず、議案はあっさりと流れてしまいました。

「同時多発テロ事件ポケベル情報公開」2009年
 2001年9月11日の同時多発テロ事件の際にやり取りされたポケベル・メッセージを公開(50万通)。これが大きな話題となり、ウィキリークスのサーバーがパンク寸前になりました。そのため、12月にウィキリークスはウェブ・サイトを休止します。情報量が増え続けたことで、それを修復する資金も人材も不足してしまったことが原因でした。多くのボランティアの協力を得て、サーバーの容量を増やす作業が進められていましたが、それも限界に達していたようです。ただし、この休止は、資金提供を呼びかける絶好のデモンストレーションともなり、翌年の3月には20万ドルの寄付金が集めることになりました。

「米軍ヘリによるイラク民間人射殺ビデオの公開」2010年
 2010年4月5日に公開された米軍ヘリによる民間人攻撃の映像は、世界に大きな衝撃を与えました。まるでゲームのように民間人をなぎ倒してゆくアメリカ兵に対し、世界中から非難が集中、アメリカ軍はその情報源発見に総力をかけます。そして、一か月後、米軍の情報分析官ブラッドレー・マニングがチャット上で、ウィキリークスへの情報漏えいについて語ったことが米軍に通報され、逮捕されてしまいます。この逮捕の責任は、ウィキリークスにはありませんでしたが、彼らはマニングの救うために動きます。しかし、マニングはアメリカ軍にとっては情報漏えいが今後起きなくするための見せしめ的な存在となり、内部で徹底的な虐待を受けることになったようです。

「アフガン戦争に関する情報公開」2010年7月26日
 ウィキリークスはアフガニスタン戦争に関する9万件の機密情報のうち、軍や兵士に危機が及ぶ可能性があると考えられる1万4千件をのぞいたものを公表しました。この時、9万件もの膨大な情報をチェックし、そこに兵士らに危険が及ぶ情報が含まれていないかを判定し、編集する作業は膨大な労力を要したはずです。いよいよそこまでくるとウィキリークスだけでは対応困難と考えられたため、彼らは、ニューヨーク・タイムズ(米)、ガーディアン(米)、シュピーゲル(独)3社と協定を結びます。しかし、この協定は3社に上手く利用されることになり、主導権は彼らに奪われることになりました。発表を控えた1万4千件の情報も彼らに上手く利用されることになります。(実は情報として価値が高いのは、未発表の方でした)
 大手マスコミとのタイアップは作業効率を向上させるためには必要だったのかもしれませんが、それは決してベストではなかったようです。やはりメジャーのマスコミ関係者は海千山千で、ウィキリークスはいいように利用されることになりました。ウィキリークスの当初からの方針だった「入手した資料は到着した順に公開する」、「メディアに決断を左右されない」を守ることは困難になりました。

「ジュリアン・アサンジ起訴される」2010年8月20日
 スウェーデン検察庁がジュリアン・アサンジを二人の女性に対する暴行容疑で起訴します。(実際、彼は女性問題がいろいろとあったようではあります。昔からカリスマ的な英雄って、女性問題が切り離せないものです・・・ケネディ、キング牧師、タイガー・ウッズ・・・)ただし、起訴の理由は、単に婦女暴行ではなく別にあったと考えられます・・・。

「イラク戦争関連の機密資料公開」10月22日
 ウィキリークスはイラク戦争に関する39万1832件の機密資料を公開。(2004年から2009年にかけてのもの)この情報公開にあたっては、前回からの協力誌3社に加え、新たにテレビ局チャンネル4(米)とアルジャジーラ(イスラム系)が加わりました。

「アメリカ大使館の機密通信公開」2010年11月28日
 1966年から2010年2月までに世界274か所のアメリカ大使館と政府の間で行われた機密通信(そのうち1万5052は機密扱い)の一部を閲覧可能にしました。ここまでくると、いよいよアメリカ政府はウィキリークスを危険視するようになります。スウェーデン警察は婦女暴行容疑でジュリアンを追い続けていましたが、実際には逮捕された時点で彼はアメリカへと引き渡されることになっていたようです。

 ジュリアン・アサンジは最後まで孤高の人なのかもしれません。多くの協力者が現れたものの、結局彼は自分以外信じることはできなかったようです。ある意味、周囲が皆、敵に見えるようになっていたようです。(まさに「収容所列島」のように)彼はもともと大衆の英雄になどなる気はなく、ウィキリークスの分裂や崩壊も予想していたのかもしれません。時代を変える英雄の多くは、若くして死ぬか自ら成功を失う道を歩むかの二者択一なのは歴史も示しています。
 2010年にウィキリークスを抜けたダニエルは、ジュリアンのやり方とは異なる方法を取り入れて、その改良型ともいえる「オープン・リークス」を立ち上げました。

「エドワード・スノーデン」
 最後にもうひとり「一人ウィキリークス」ともいえるエドワード・スノーデンについて。
 過去にアメリカのNSAが行ってきた世界中の国に対する盗聴作戦の内幕を暴露した元CIA職員エドワード・スノーデンもまた孤独な戦いをあえて選んだ人物です。命の危険も顧みずに行った彼の機密漏えいに対し、ジュリアンは幽閉状態の身でありながらも援助を続けていました。
 色白で優しそうなイケメン・タイプの二人は、どちらもカリスマ的な雰囲気をもっていますが、少年のような笑顔と悪魔のような微笑みを合わせもつ不思議な雰囲気は共通している気がします。

 ウィキリークスが「諸刃の刃」のような存在と考える人は多いかもしれません。政府が情報を管理するのは必要悪として認める必要があると考える人にとっては、ウィキリークスの存在は否定されることになります。
 しかし、これまでウィキリークスが発表してきた各国政府(ほとんどはアメリカですが)の情報量は、同時期に各国のマスコミが発表している情報よりも遥かに多いと言います。マスコミの力が権力によって弱められる傾向は今後も続いてゆくでしょう。
 そうなるとそれぞれの国の政府は、思うままに情報を秘密にすることが可能になります。そうでなくとも、ネット社会の登場以降、マスコミの体力はどんどん失われようとしているのですから。そう考えると、ウィキリークスのような情報公開サイトは、複数存在する価値があるのではないかと僕は思います。
 情報=権力といえる21世紀。情報の集中は、独裁政権と同義になりつつあります。その集中した情報を拡散させる存在は絶対的に必要であり、それがなければ世界はバランスが取れなくなるのではないかと、僕は思います。
 インターネットの登場は確かに世界中に「情報の自由」をもたらしましたが、今後もそれが継続するかどうかはわかりませんから。

<参考>
「ウィキリークスの内幕 Inside Wiki Leaks」
 2011年
(著)ダニエル・ドムシャイト - ベルク Daniel Domsheit - Berg
(訳)赤根洋子、森内薫
文藝春秋社

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