未来を描いた近代絵画の父


- ウィリアム・ターナー William Turner -
<近代絵画の先駆者>
 印象派の絵画が登場し、近代絵画の歴史が始まったのが1870年代のこと。しかし、その30年も前に印象派の先駆ともいえる作品を描く画家がフランスではなくイギリスにいました。それが、山下達郎の名曲「ターナーの汽罐車」(アルバム「ARTISAN」収録)でも有名なウィリアム・ターナーです。
 彼は様々な天候の海を背景に、遭難事故、ヨットレース、荷積み作業、水葬などのドラマを描くことでドラマチックな海の映像化を行いました。その手法は光と影を自在に操るリアリズムに基づきながら、印象派を通り越し、20世紀の前衛絵画にまで近づく域に達していました。彼の描く風景は、自然の驚異を描きつつも、悲劇的な人間の運命を描いているようにも見えてきます。そこには「怒り」「悲しみ」「苦しみ」「叫び」など、人間的な感情が見えてくるのです。
 なぜ彼はそこまで突き進むことができたのか?その謎多き人生に迫ります。

 ターナーの風景画の持つこのような荒々しさは、言うまでもなく、彼自身の心の中の荒涼とした世界の反映である。自分のことに関しては極端な秘密主義者であったターナーのその心のなかの荒涼としたものが、いったいどのような事情に由来するのか、その詳しいことは謎に包まれたままである・・・
高階秀爾「近代絵画史」より

<絵画一筋の人生>
 ウィリアム・ターナー William Turner は、本名をジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナーといい、1775年4月23日ロンドンのコヴェントガーデンに生まれています。父親は、貴族でも裕福でもなく街の理髪師でした。不幸なことに母親が精神を病んでいたらしく、彼は母親からの愛情を受けられずに育ちました。そのため彼は、幼少期から家で一人ぼっちで絵を描く日々だったようです。そのおかげで、彼は絵画を習い始める前にすでに自己流の描き方を身に着けていたようでもあります。
 1789年、彼は14歳でロイヤル・アカデミー・スクールに入学し、本格的に絵画を学び始め、同時に水彩画家トーマス・モールトンからも指導を受けるようになりました。すでに実力があったのでしょう。翌年のロイヤル・アカデミーに、15歳の若さで早くも水彩画を出品しています。
 1792年、彼はウェールズ地方を旅しながらスケッチを描きました。その後も彼にとっての旅は、絵画制作のために重要な要素となり続けます。彼は「旅する画家」でもありました。
 1796年、21歳となった彼は、ロイヤル・アカデミーに初めて油彩画を出品。その作品「海の漁師たち」は、激しい嵐の中で岩礁から逃れようとする漁船を描いた作品でした。ここですでに彼にとって、生涯のテーマとなる「自然と人間」の間のドラマチックな風景画が誕生していたのでした。

<産業革命と絵画>
 英国で始まった産業革命は、その後世界の産業を変えることになりますが、英国国内ではその影響で新たな階級となる「中産階級」が誕生。貴族階級と労働者階級の間に位置する彼らは、それなりの財力を持つようになり、貴族の持つ文化・芸術作品をステイタス・シンボルとして求めるようになります。そこで生まれたのが、手ごろな価格で購入し飾ることができる絵画でした。そして、その絵画の題材として選ばれたのが、貴族の肖像画ではなく、当時流行していたロマン派文学を思わせるドラマチックでロマンチックなな風景画だったのです。(ジェーン・オースチン、ウィリアム・ワーズワース、サミュエル・T・コールリッジ、バイロン卿、パーシー・シェリー、ジョン・キーツなど)

・・・しかし、ターナーが本質的に世界を「悲劇的相のもとに」眺める人であったことは、ロマン派の画家にふさわしく遠い過去の伝説や物語をテーマとして取り上げる時でも、・・・常に人間の死と滅亡に結びついた悲劇が何よりも彼の心を惹きつけたことや、彼自身後半生において「希望の挫折」と題する未完の長編詩を書き続け、しかもしばしば事故の自己の絵画の主題をその詩から得ていることなどを考え合わせてみれば、明らかであると言えるだろう。・・・
高階秀爾「近代絵画史」より

 ターナーの代表作の多くは、「海」「川」「船」などを題材とした作品です。それは海を征服することで世界を支配した英国人の多くが、「航海」の絵、「海」の絵を求めたからだったのかもしれません。それまで彼のように「海」を描く画家はいなかったし、彼ほど見事に海の波をキャンバスに再現できる画家もいなかったのです。
 リアルに海を描くための研究を彼は常に行っていました。そのために彼は船のマストにしばりつけられながら、嵐の海を描いたという逸話もあります。そこまでやれるほど、海にこだわる彼の情熱はどこから来たのか?そこは謎です。
 それともう一つ、ターナーの代表作には、歴史ロマンや伝記ファンタジーといえるジャンルの作品もあります。それらの作品は、詩人でもあり、作品に詩をつけることもあった彼らしいドラマチックなものばかりです。そして、同じような要素を彼は自然描写にも求めていました。
 ここからは、そんな彼の代表作をご紹介します。

<代表作について>
「川辺の家」(1806~7年)
 映画「ミニヴァー夫人」の川べりの家のような田舎の典型的な中流階級の家を描いた作品。のどかな田園風景を描いた作品は、彼としては珍しいのかもしれません。

「テムズ川河口の船積み」(1806~7年)
 テムズ川河口、シアネスの沖合で行われていた船積みの風景画。テムズ川と海によってロンドンは、世界へとつながっており、それが街の発展を支えていました。

「未払い手形、息子の放蕩を諫める歯医者」(1808年)
 レンブラントの「聖家族」に対抗したという説もある作品。室内、それもそれを背景にした家族の画もまた珍しい。何かの物語から?

・・・同時代の詩人バイロンの作品から、シェイクスピアの戯曲から、捕鯨に関する出版物から、古典や聖書の物語から、旅行の途中で見たものから、他の画家の作品から、等しくインスピレーションを受けており、その源泉は尽きるところを知らない・・・
マーティン・バトリン(テートギャラリー美術部長)

 彼の作品は、アトリエにこもってモデルを描く多くの画家たちとは異なり、旅や読書など様々なインプットによって生み出されていたようです。

「蒼白い馬に乗った死」(1825~30年)
 「ヨハネの黙示録」がモデルとも言われる作品。シンプルなようですが、絵具が乾かないうちにキャンバスをひっかくなどの特殊な技法も見られます。
 「ホラー・ファンタジー」作品。

「イースト・カウズ城、逆風を突くヨット競争」(1927年)
 友人だった建築家ジョン・ナッシュのワイト島の別荘で製作されました。彼には、他にも多くのヨットレースのスケッチがあるようです。

「ポリュフェモスを嘲るオデュッセウス」の習作(1828年)
 オデュッセウスによって盲目にされた巨人のポリュフェモスが山のようにそそり立った島の上に横たわり、他方オデュッセウスとその仲間たちは船で島を逃れる、という場面を描いています。
 まるで「風の谷のナウシカ」の巨神兵の登場シーンを思わせるような構図を持つ神話ファンタジー作品です。

「難破船に向かう救命ボートとマンビー装置」(1931年)
 難破した船にロープを打ち込み、それを使って船から乗客・船員たちを救出するという新型の救助装置を描いています。その装置の開発者ジョージ・ウィリアム・マンビーとターナーは親しかったようです。彼はこうした船に関わるメカにまで彼は興味をもっていたのです。

「セーヌ河口のキルブッフ」(1833年)
 上げ潮と河の流れがぶつかって生まれた波。「ミュスカム」や「バール」と呼ばれる特殊な現象を描いた作品。アマゾンの「ポロロッカ」の小さな奴でしょうか?
 自然の驚異もまた彼が好む題材だったようです。確かにヨーロッパでもそうした現象はあり、サーファーたちが集まるポイントになっているようです。

「夜間に積み込みをする石炭船」(1835年)
 マンチェスターの織物商のために制作された作品。夜も荷積み作業が行われていた英国の港の当時の繁栄が描かれています。

「嵐の海といるか」(1835年)
 タイトルがなければ何を描いているのかまったく理解不能な作品。限りなく前衛絵画です。

1840年彼は3度目のヴェネチア旅行に出発。その旅から、さらなる海の作品が誕生しています。

「浜辺の日没、突堤」(1840~45年)
 印象派的で抽象的な風景を描いた不思議な作品。モネの作品を思い出させます。
「ヴェネツィアのカンポ・サント」(1842年)
 ヴェネツィアで描かれた風景画の中でも最高傑作の一つ。
 空、船の帆、海とそこに映る船。すべてが美しい!

「平和 - 水葬」(1842年)
 ターナーのライバルでもあった画家サー・デヴィッド・ウィルキーの追悼のために描かれた作品。
 旅先で亡くなった彼の遺体がジブラルタルの沖合で水葬にふされた時の様子を描いたようです。

「戦争 - 流刑者とあお貝」(1842年)
 彼は絵画作品に自作の詩を加えることもありました。
 島流しにされた英雄ナポレオンを描いたこの作品では、貝よりも自由のないナポレオンを憐れむ作品です。

 ああ、兵士の夜営のような
 天幕の形をしたおまえの殻が
 血の海の中にひとつ -
  - しかし、おまえは仲間と一緒になれる

「希望の挫折」

「雨、蒸気、速度 - グレート・ウエスタン鉄道」(1844年)
 「ターナーの汽罐車」とも呼ばれ、山下達郎がアルバム「ARTISAN」に収めた名曲のもとになっています。
 イギリスの西部地方にロンドンから向かい、時速50マイルで走る汽罐車をテムズ川にかかる鉄橋の上空から、あり得ない視点で描いた作品のこと。
 雨と動く蒸気、走る汽罐車のスピードを描くことに成功した絵画史における画期的な作品です。
 リュミエール兄弟による世界初の映画で映し出されたのは、駅に汽罐車が入ってくる様子を正面から撮った映像でした。当時は、その映像を多くの観客が実物と勘違いし、逃げ出すことになったと言います。そして、それからさらに50年さかのぼった時代に、ターナーが描いたその作品は、同じようにこちらに飛び出してくるように見えたため、多くの人々を驚かせました。
 実は、この作品は完成前、汽罐車の前をウサギが必死で逃げる姿が描かれていたといいます。当初、ターナーは「速度」という概念のイメージを「ウサギ」によって表現しようとしていたのです。しかし、完成品ではウサギが消されていて、「速度」は汽罐車が発する蒸気の流れで表現されました。もし、当初の計画通り、ウサギを描きこんでいたら、この作品は時代を超える名作にはなれなかったでしょう。
 この作品は「産業革命」の時代を象徴する歴史的価値のある作品であると同時に、目に見えない「速度」を視覚化することに成功した先駆的価値を併せ持つことになりました。

 1845年、70歳になった彼はミュンヘンで開催された「ヨーロッパ美術会議」でドイツの神殿を描いた「ヴァルハラ」を展示。
 1851年12月19日、チェルシーの自宅で死去し、遺体はセントポール大聖堂に埋葬されました。享年76歳。

・・・ターナーの描き出す風景は、人間の支配をはるかに越えた自然の脅威の吹き荒れる世界となってしまった。そこには、かつてルネサンス時代や17世紀オランダの作品に見られたような自然と人間との調和のとれた関係は、もはや存在しない。そしてT・E・ヒュームの言うように、自然と人間とのバランスのとれた友好関係が失われて、人間の理解を越えた不気味な自然が登場してきた時から「近代」が始まったのだとすれば、ターナーは紛れもなく、「近代」の先駆者のひとりであったと言わなければならないだろう。
高階秀爾「近代絵画史」より 

<参考>
「近代絵画史」
(上)
(著)高階秀爾
中公新書

「ウィリアム・ターナー画集」より

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