時代の音を追い続けたシャウターの忙しき日々


- ウィルソン・ピケット Wilson Pickett -
<ソウル界を代表するシャウター>
 ウィルソン・ピケットはソウル界を代表するシャウター・タイプの男性シンガー。映画「ブルース・ブラザース2000」で歌われた「634-5789」は、彼の代表的なヒット曲です。歌いっぷり同様、彼の性格はかなり荒々しく、普段から大声でしゃべりまくる様子から「シャウター」ならぬ「Wiked(邪悪な)」が綽名で、それが後にアルバムのタイトルにもなりました。
 60年代のソウル界を代表する荒々しい男性シンガー、ウィルソン・ピケットにスポットを当てます。

<南部出身のゴスペル歌手>
 ウィルソン・ピケット Wilson Pickett は、1941年3月18日アメリカ南部アラバマ州プラットヴィルで11人兄妹の一人として、貧しい家庭に生まれました。4歳の頃には、家計を支えるため、綿花農園で働き出し、週に三日は畑に出て綿積みの仕事などを手伝っていたそうです。
 16歳の時、自動車の整備工として働いていた父親と暮らすため、北部の都市デトロイトに出て学校に通い始めました。しかし、学校の授業についてゆくことができず、高校を一年で中退してしまいます。
 それでも彼はアラバマに住んでいた頃から歌っていたゴスペルの才能があり、その才能を生かすことで、地元のゴスペル・コーラス・グループ、ヴァイオリネアーズのメンバーとなります。1957年にそのグループでゴッサム・レコードからレコード・デビュー。その後1963年には、新たなグループ、スピリチュアル・ファイブのリード・ヴォーカリストとして、ピーコック・レコードから本格的にデビュー。
 この時期、彼が意識していたのは、ファイブ・ブラインド・ボーイズ・オブ・ミシシッピーのアーチ―・ブラウンリーやファイブ・ブラインド・ボーイズ・オブ・アラバマのクラレンス・ファウンテンなどのゴスペル・シンガーたちで、それにセンセーショナル・ナイチンゲールのリード・ヴォーカル、ジュリアス・チークスが彼に最も大きな影響を与えたようです。

「どうすれば観客の心をつかみ、話さずにいられるかをジュリアス・チークスから学んだ。観客の心をつかんだら、それ以上のものを与えなきゃいけない」
ウィルソン・ピケット

 ゴスペルの優れた歌い手は、観衆をひきつけ会場を盛り上げるだけでなく、時にはトランス状態に陥らせることもあるパワーとテクニックを有しています。その技術は、R&B歌手として新たなスタートを切ることになる彼ににとって重要な武器になりました。

<R&B歌手として>
 彼はこの頃、ゴスペル・シンガーとして活躍しながら、同時にR&Bコーラスのグループ、ファルコンズのメンバーとしても活動を始めています。そのグループには、後に「ブルース・ブラザース2000」で共演することにもなるエディ・フロイド、それにマーク・ライスらも参加していました。
 1960年、ファルコンズはユナイテッド・アーティスツからシングル「パオ!ユーアー・イン・ラブ」でデビューしましたが不発。それでも1962年にアトランティック・レコード傘下のルーピン・レーベルから出した「I Found A Love」(作曲はウィルソン・ピケット)がR&Bチャート6位のヒットとなり注目され始めます。
 1962年、ついに彼はソロ・シンガーとして、コレック・トーン・レコードから「Let Be Me Your Boy」でデビューを果たします。

<ソロ・シンガーとして>
 1963年、彼はロイド・プライスが経営するニューヨークのレコード会社ダブル・L・レーベルと契約。
 プロデューサーのロバート・ベイトマンと共作したファースト・シングル「If You Need Me」は、R&Bチャート30位どまりとなりましたが、アトランティック・レコードの看板歌手ソロモン・バークによるカバー・ヴァージョンは、R&Bチャート2位のヒットとなりました。そして、そのヒットの影響もあったのか、セカンド・シングル「It's Too Late」は、R&Bチャート7位のヒットとなります。
 この活躍により彼の評価は高まり、アトランティック・レコードが彼をダブル・L・レコードから引き抜きますが、アトランティック移籍後の彼のシングルは2作品続けて不発に終わります。何が不足しているのか?もしかすると、それは「時代の音」なのかもしれない。そう思った彼は「時代の音」を探しながら、その後、長い長い旅を続けることになります。
 ちょうどその頃、アトランティック・レコード傘下のスタックスで録音されたオーティス・レディングのシングルが次々とヒット。彼はその音を聞いて、これだ!と思ったのでしょう。すぐにメンフィスで録音させてほしいと、アトランティックのジェリー・ウェクスラーに申し出ます。
 こうして彼はメンフィスのスタックスのスタジオで、スティーブ・クロッパーとの共作「In The Midnight Hour」を録音し、R&Bチャート1位(ポップチャートでも21位)のヒットとします。続くシングル「Don't Fight It」の後には、再びR&B1位(ポップチャート13位)となる「634-5789」とヒットを連発します。
 勢いに乗る彼は、次なる録音の舞台をスタックスと同じように話題になっていたアラバマ州マッスルショールズに移します。そしてリック・ホールのフェイム・スタジオで録音。そこで生まれたのが、大ヒットした「ダンス天国 Land of 1000 Dances」(オリジナルはクリス・ケナー)で、この曲はR&B1位、ポップチャート6位と彼にとって最大のヒットになりました。
 その他にも、「ムスタング・サリー」(オリジナルは、マック・ライス)、「毎日愛が必要」(オリジナルは、ソロモン・バーク)、「ファンキー・ブロードウェイ」(オリジナルは、ダイク&ブライザース)など、オリジナルを上回るカバーヒットを連発しました。
 1967年、再びメンフィスに戻った彼は、今度はチップス・モーマンのスタジオでボビー・ウーマックの曲「I'm In Love」、「I'm A Midnight Mover」などを録音。再び、マッスル・ショールズに戻った彼は、フェイム・スタジオで世界的大ヒット曲「ヘイ・ジュード」をカバー。この録音では、当時R&Bのセッション・ミュージシャンだったデュアン・オールマンがギタリストとして参加しています。
 1970年、マイアミでアーチーズのバブルガム・ポップのヒット曲「シュガー・シュガー」をカバー。その後、彼はR&Bの一大帝国を築き上げつつあったギャンブル&ハフのフィラデルフィア・インターナショナルにも詣でています。そこで録音したのが、「Engin Number 9」(R&B3位、ポップチャート14位)、「Don't Let The Green Grass Fool You」(R&B2位、ポップチャート17位)の2曲。
 再び、マッスル・ショールズで録音したのが「Fire and Water」(R&B2位、ポップチャート24位)、「Don't Knock My Love Pt.1」(R&B1位、ポップチャート13位)で、この2曲が彼にとって最後のトップ10ヒットになりました。

<活躍の終わりと人生の終わり>
 この後、彼は自らのレコード会社を立ち上げ、TK、アトランティック、EMI、モータウンなどからレコードを発売し続けましたが、ヒットには結びつきませんでした。
 こうして彼は、アトランティックに所属していながら、様々なスタジオを渡り歩きながら8年間で17曲ものトップ10ヒットを生み出しました。しかし、Wicked(邪悪な、根性ワル)と呼ばれた彼は、それぞれのスタジオでの録音の際に何度もトラブルを起こしたようで、それが原因でアトランティック・レコードはスタックスのスタジオから追い出されたという話もあります。スタックスのミュージシャンたちにとって、彼のように外部から来て、良いとこ取りをして帰るだけのアーティストは、悪く言うと産業スパイのような存在に思えていたようです。
 とはいえ、そうした利用できるシステムをうまく利用することでヒットを飛ばし続けた彼は、自己プロデュースの才能を持つ優れたアーティストだったことは間違いありません。悪魔に魂を売り渡すぐらいの邪悪なアーティストだからこそ、これだけの活躍が可能だったのです。しかし、そんな彼の活動にも終りが近づいていました。
 2006年1月19日、バージニア州レストンの病院で、彼は心不全によりこの世を去りました。享年64歳。まだまだ若かったと言えます。

ミュージシャン名鑑へ   トップページヘ