オーストリアが生んだある名門一家の物語


「ウィトゲンシュタイン家の人びと - 闘う家族」

- アレグサンダー・ウォー Alexander Waugh -

<ノンフィクション文学の傑作>
 「ヴィトゲンシュタイン家の人びと - 闘う家族」は、20世紀前半の混沌とした時代のヨーロッパを生きた名門一家の闘いを描いたノンフィクション文学の傑作です。オーストリアの資産家家庭に生まれ、その才能を思う存分伸ばした二人の天才、哲学者のルートヴィッヒ・ヴィトゲンシュタインと左手のピアニストとしてその名を残したパウル・ヴィトゲンシュタイン。しかし、彼以外の家族もまたそれぞれの天分を持っていたはずですが、それを生かす間もなくほとんどがこの世を去っています。そんな一族の苦闘と悲劇の記録をご紹介させていただきます。

<名門一家が残した兄弟姉妹>
 19世紀末、ハプスブルク王朝の都ウィーンに鉄鋼業で財を成した大富豪カール・ウィトゲンシュタインという人物がいました。彼は音楽、絵画など芸術家たちのパトロンでもあり、その家にはヨハネス・ブラームス、リヒャルト・ウィトゲンシュタイン、アルノルト・シェーンベルク、グスタフ・マーラーらが訪れ、彼らによる演奏会も開かれていました。画家のクリムトも彼からの支援を受けていました。その家には9人の子供がいました。そのうち三人は若くして自死を選んでいて、幸福な人生を歩んだ者は多くはないようです。しかし、中には歴史にその名を残す者もいて、その家系がただ者ではないことがわかります。
 特筆すべきは、左手だけのピアニストとして一世を風靡したパウル・ヴィトゲンシュタイン。そして、哲学者として今でも影響を与え続けているルートウィッヒ・ヴィトゲンシュタインの二人でしょう。

ヘルミーネ(1950年ウィーンで没)
ドーラ(1896年生後すぐに死亡)
ヨハネス(ハンス)(自殺)同性愛者だったことを悩んでいた。
コンラート(クルト)(自殺)第一次世界大戦のイタリア戦線で自殺したらしい。
ヘレーネ(1956年ウィーンで没)
ルドルフ(1904年ベルリンで自殺)
マルガレーテ(1958年ウィーンで没)クリムトによる肖像画が残されています。
パウル(1961年ニューヨークで没)第一次世界大戦で右腕を失い、左手のピアニストとして活躍した。
ルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタイン Ludwig Wittgenstein(1951年ケンブリッジで没)20世紀を代表する哲学者の1人。

 彼らが生まれ育ったオーストリア、ウィーンの街はハプスブルグ家の栄光を残すヨーロッパを代表する都市でした。

 ウィーンに来て日の浅い人であれば、本人は生粋のドイツ人であっても、その妻となるのはガリツィア人やポーランド人かもしれない。家の料理人はボヘミア人で、子供の乳母はダルマチア人で、下男はセルビア人で、馬車の御車はスラブ人で、床屋はマジャール人で、息子の家庭教師はフランス人であるかもしれない。官庁の職員の大多数はチェコ人で、政府の行政に最も影響力をもっているのはハンガリー人だ。まったくもって、ウィーンはゲルマン人の都市ではない!
(あるアメリカ人外交官の言葉)

 その栄光の貴族文化の中で彼らヴィトゲンシュタイン一族は育ちましたが、それぞれの才能のせいか、彼らは個性が強烈すぎ普通の家庭とはまったく異なっていました。
「僕らはみな固くて縁の鋭い角材のようなものだから、一緒に心地よく収まることができないのです。・・・誰か友人が混じって緩和してくれないかぎり、僕らが仲良くつきあっていくのは難しい」
ルートウィヒ

 個性豊かなのを通り越し、彼らの中には家族だけでなく社会や軍隊などで生きて行くことができずに早くに死を選ぶ者もいました。そして、そんな兄弟の影響を他の家族も受けることになります。

・・・おば一人といとこ一人もやはり自殺によって生涯を閉じた・・・が、この死に方が20世紀初頭のウィーン市民にとって受け入れられること、名誉なこと、あるいは普通のことだったと推論するべきではない。・・・
 ルートウィヒはときどき自分が自殺していないことを恥ずかしく思っていたが、彼が、そしてその点ではパウルも同じだが、決して自殺しなかった理由は、まさしくその手の臆病さが彼らにはなかったからだった。
・・・
(ウィトゲンシュタイン家では、長男のハンス、三男のルドルフが自殺し、次男のクルトも戦場で自殺することになります)


<第一次世界大戦の始まり>
 1917年、そんな繊細な一族がこの後、その平穏を打ち破る戦争に巻き込まれることになります。

 この平穏な世界は、いまや強烈な響きを立てて瓦解した。われわれはみな、それに飽いてはいなかったか?その快適さに世界は汚染されてはいなかったか?腐敗する文明に膿んで、悪臭を放ってはいなかったか?道徳的にも心理的にも、私はこの大惨事の必要性としていた。そしてありえないと思っていたことが実際に起こった時、私はその感覚に満たされたのである。
トーマス・マン

 当時の兵士たちは、まだ戦争がどんなものかを知らず、自分たちの状況を理解してもそれを家族に伝える勇気を持っていませんでした。その事実を知らせれば、家族がどんなにショックを受けるか!そのことを思いやり、彼らは手紙に真実を書こうとしませんでした。時代はまだまだ戦争に狂わされていなかったのかもしれません。

 捕虜たちが自らの置かれた過酷な状況について真実を語りたがらなかったことは、手紙に関して別の問題を生んだ。発信される手紙はすべてロシア当局だけでなく、ウィーンの戦争管理局の検閲部門によってもチェックされていたのだが、ロシアからあまりに多くの明るい手紙が届くせいで、ついに1914年のクリスマス・イヴに通達が出されます。

捕虜生活があまりに好ましい様子で記述されている手紙は兵士たちの間に広がると戦意上問題になるので配達しないことと通達されました!

<反共産主義の右派団体「祖国戦線」(1933年結成)の指導者シュターレンベルクの言葉>
 われわれとドイツ・ナチスのあいだには多くの共通点がある。どちらも同じように民主主義の敵であり、経済再建についても多くの同じような考えを持っている。しかし、われわれ諸国団はオーストリアの独立を代表するものであり、カトリック教会を支持してもいる。われわれはナチスの行き過ぎた人種理論には反対であり、ナチスの半ば異教徒的ですらあるドイツ国教構想にも反対する。

 ヨーロッパ各地の国々にナチスに共感する団体がありました。特に反共産主義、反ユダヤ人、反移民などで一致する人々がヒトラーとの共闘を望んでいて、いつしかその正体を見抜けないままその片棒を担ぐことになりました。

<パウル>
 ウィトゲンシュタイン家の8人の子供はみなつぎつぎに、母と気持ちを通わせる最良の(そしておそらく唯一の)方法が音楽を介することであると気づいていった。音楽こそが、性質のばらばらな兄弟姉妹を母親と、そしてお互いとを結びつけ絆だった。

 個性がバラバラだった家族の中で唯一、音楽が唯一みんなを繋ぐ存在だったようです。そして、その音楽の道で大きな成功を収めたのがパウルでした。幸いなことに彼の家には素晴らしい音楽家が出入りしていて、良い音楽との出会い、良い音楽教師との出会いの機会は豊富でした。

 もちろん父親以外にも、手本とする人物はいた。そうした実例が、パウルにピアノを続ける決意を固めさせてくれた。一人は盲目の恩師ヨーゼフ・ラーボアで、もう一人はゲザ・ジチー伯爵だった。まだ面識はなかったが、この威勢のいい風変りなハンガリー貴族のことは評判で知っていた。ジチーの片腕でのピアノ演奏は、あのリストをも感嘆させ、批評家のエドゥアルト・ハンスリックも、ウィーンの新聞でジチーのことを「現代のピアノ界における最大の驚異」と評していた。・・・

 元々ピアニストとして優秀だったパウルですが、第一次世界大戦で右手を失ってしまいます。普通ならそれでピアニストになることをあきらめるところですが、彼はすぐに片腕でピアノを弾く練習を始めました。

 パウル・ウィトゲンシュタインのピアノ奏法は、普通はその演奏をするのに二つの手が必要とされる世界で弾くときの弾き方ではなく、人が一つしか手をもたない世界で弾くときの弾き方である。その意味で、彼の演奏はあくまでもそういうものとして評価されるべきだろう。・・・ウィトゲンシュタインによる演奏は、才気あふれる繊細な音楽家のそれである。・・・

 もう一つ重要だったのは、彼には莫大な資産があったことです。そのおかげで、彼は有名な作曲家に直接自分のための「左手のピアノ曲」を依頼することが可能であり、それを発表するコンサートを自力で開催することも可能でした。もちろん、その与えられた曲を弾きこなせる技術がなければ、意味がないのですが・・・。

 1922年12月から1923年のイースターにかけて、パウルは三人の著名な作曲家と、あまり知られていない一人の作曲家に声をかけ、多額の報酬として、ピアノとオーケストラのための(左手用の)協奏曲を書いてもらえないかと誘ってみた。
パウル・ヒンデミット、エーリッヒ・ウォルフガング・コルンゴルト、フランツ・シュミット、そしてセルゲイ・ボルトキエヴィチです。

 ある意味で、パウルは名声を金で買ったとも言えるかもしれないが、その努力と技術と芸術性は同時代のピアニストの誰にも劣らず、その意味で、彼の成功は彼が自力で勝ち得たものだった。1928年には、彼は一本の腕で音楽界の頂点にのぼりつめていた。・・・

 ただし、彼のピアニストとしての才能が「左手だけ」だからこそのもので、両手があったら普通のピアニストだったのではないか?と疑う声もあったことは確かです。彼から曲を依頼されたもいるロシアの有名な作曲家プロコフィエフも彼についてこう語っていました。ただし、彼の場合、作った曲を勝手に自分用にパウルが書き替えてしまった事件が影響している可能性もあります。

「彼の左手に特別な才能があるとは思わないな。ある意味で、彼の不運はじつのところ幸運だったのかもしれない。左手の演奏家ということで独特の存在となっているが、もし両手があったら、そこらの凡庸なピアニストの群れから傑出してはいなかったかもしれないよ」
プロコフィエフ

 彼のピアニストとしての死後の評判は決して良くない。彼が有名な作曲家たちの作品を自分で書き直したせいで、作曲家は彼を批判し続けました。

 ラヴェルは死ぬまで彼のことを悪く言っていたし、プロコフィエフも自伝のなかで彼を愚弄し、ブリテンは1950年以降に「デイヴァージョンズ」の楽譜を改訂して「公式版」を作り、パウルのオリジナル版を旧作扱いにして、彼がもうそれを演奏できないようにした。また、パウルがほとんど録音を残さなかったことも原因だろう。しかも録音されて演奏のほとんどは出来が悪かった。

 おまけに彼は他の片腕のピアニストにも厳しかったようです。彼の持つピアノ曲を弾かせてほしいと同じ片腕のピアニストに依頼された彼はこう言いました。
 他人を住まわせるために家を建てるような人はいません。これらの作品は私が委託して、私がお金を払ったものであり、すべて私が考えたことです。・・・この家を建てるには、すいぶん金額を要しましたし、多大な努力も要しました。

 確かに問題はあったのかもしれませんが、彼の左手のピアニストとしての優れた能力は間違いなかったのでしょう。しかし、彼には音楽仲間とか助言者はいなかった。だから、その音を残すとか、広めるとかしようという発想に到らなかったのが残念です。

<ルートヴィヒ>
 ルートヴィヒはある時、知り合いにこう尋ねました。
「きみはこれまでの人生で悲劇に遭ったことがあるか?」
「僕が言っているのは、自殺とか、発狂とか、不和とかだよ」
 この定義にしたがえば、ルートヴィヒ自身の人生は悲劇に満ち、そしてウィトゲンシュタイン家の誰の人生も同じだった。この一家では自殺も発狂も続出し、不和もまた続出した。
 そんな家庭に育ったことで、彼は「哲学」という学問への道を歩み出すことになったとも言えます。それも誰よりも深くその道を突き進み、その影響を長く残すことになりました。

<ルートウィヒの著書「論考」の最後にはこうあります>
 私を理解する人は、私の命題を通り抜け - その上に立ち - それを乗り越え、最後にそれがナンセンスであると気づく。そのようにして私の諸命題は解明を行う。(いわば、梯子をのぼりきった者は梯子を投げ棄てねばならない)

 ラッセルやムーアやユンゲルマンらと同様に、ラムゼイもまたルートヴィヒの印象的な風貌や態度、人をなぜか納得させずにはおかない非凡な人格にすっかり魅惑されていた。こうした小さなきっかけから、ウィトゲンシュタイン解釈という非常に大きな研究分野が生まれた。以後『論考』の意味を説明するために何千もの本が書かれ、そのたびに新しい解釈が加えられた。・・・

 ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインは40歳のときでも20歳そこそこの青年に見えた。神のように美しく、つねにケンブリッジの重要人物だった。・・・まるで彫像から抜け出て生身の人間となったアポロンのようであり、その青い眼と金色の髪は北欧神話の光の神、バルドルのようでもあった。・・・
 彼のまわりには特別な空気が流れており、その哲学の聖人のような雰囲気は、非常に冷淡で非人間的にも感じられた。いわば彼は「太陽の哲学者」だった。・・・彼と飲むお茶は神の酒の味がした。
ジョン・ニーマイヤー・フィンドレー(仏教思想家)

<混血ユダヤ?>
 第二次世界大戦が始まると、名門一家であるはずのウィトゲンシュタイン家は、ユダヤ系でありナチスのターゲットになることがわかります。英国在住のルートウィヒは良かったものの、オーストリアに残る彼の家族は財産の没収だけでなく命の危険にも見舞われることになりました。そのために、彼らは一族の家系をさかのぼり、

 ウィトゲンシュタイン一族の祖父にあたるヘルマン・クリスティアン。ウィトゲンシュタインがドイツ貴族の私生児であるという噂があり、それを証明できればドイツとユダヤの混血であるとして、完全ユダヤは免れることができる。

 終戦後、ウィーンはフランスとイギリスとソ連とアメリカ、それぞれの占領区域に分割され、これらの区域のあいだを自由に行き来することはできなくなった。ウィトゲンシュタイン家の屋敷はソ連占領区に入っていた。
(1944年12月には、彼らの屋敷は爆撃によって屋根などが破壊されていました)

<がん家系>
 もしもがんが遺伝病であることを示す事例があるとするなら、ウィトゲンシュタイン家は、それを決定づける最初の証拠として提出されるべきだろう。ヘルミーネが亡くなる1年半前に、ヘレーネ娘のマリーア・ザルツァーががんで亡くなっていた。やがて、ヘレーネのもう一人の娘も、同じ病に襲われた。ヘレーネ自身も1956年にがんで死んだ。・・・

 パウル・ウィトゲンシュタインは1961年3月3日に死んだ。73歳だった。弟と同じく、彼も前立腺がんとそれにともなう貧血に侵されていたが、最終的に彼の命を奪ったのは急性肺炎の発作だった。

「ウィトゲンシュタイン家の人びと - 闘う家族」 2008年
The House of Wittgenstein
(著)アレグサンダー・ウォー Alexander Waugh
(訳)塩原通緒
中央公論

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