ワールド・ミュージック黄金期の輝き |
<幻のワールド・ミュージック・フェス>
1991年に初めて開催された「ウォーマッド横浜」は、日本で初めてのワールド・ミュージックのフェスティバルでした。複数のステージを使い、同時進行でライブ・パフォーマンスが行われた音楽フェスもそれが初めてでした。会場内には飲食ブースがあり、様々なワークショップも開催されまました。そうしたイベントは、「ウォーマッド横浜」が1995年に終了後の1997年に始まった「フジ・ロック・フェスティバル」の先駆的内容だったと言えます。しかし、残念ながらこのフェスは長くは続きませんでした。すでに始まっていた「バブルの崩壊」と「ワールド・ミュージック・ブームの終焉」と共にその役目を終えることになります。
今や、「ウォーマッド」について語られることはほとんどなく、第一回のウォーマッドに参加した僕自身の記憶の中からも消えかかっていました。思えば、ワールド・ミュージックの歴史自体が途切れてしまったため、その歴史を振り返る機会が失われてしまったようにも思えます。考えてみると「ポップの世紀」にも「ウォーマッド横浜」の記述はほとんどありませんでした。「西欧、非西欧の枠組みを越え、多種多様な音楽・文化の優れた担い手たちと、観客が一つの空間を共有し、楽しみ、驚き、興奮、発見のメルティングポットとなるようなフェスティバル」
ところが先日、そのウォーマッド横浜について書かれた本が送られてきました。それも著者の指田さんのご丁寧なお手紙もそえられていました。感謝感激。
おかげで、このサイトにやっと「ウォーマッド横浜」のページを加えることができました。
ここに記したのは、指田さんの著書をもとにしたイベントの簡単な歴史と内幕です。それぞれのミュージシャンの紹介などは、フェスの公式パンフレットなどを参考にしています。イベントの裏側についてさらに知りたい方、写真などもご覧になりたい方は、是非、Pヴァインから出ている指田さんの著書「ウォーマッド横浜」をお読みください!
ではまずは、そもそも「ウォーマッドWOMADとは何か?」から始めましょう。
<ウォーマッドWOMADとは?>
このピーター・ゲイブリエルの発想が原点となり、彼が多額の出資をして、1982年に実現したのがワールド・ミュージックの祭典WORLD OF MUSIC ARTS AND DANCE = WOMADでした。(思えば、ワールド・ミュージック・ブームの父的存在が、ピーター・ゲイブリエルでした)
第一回はイギリスの田舎町サマセットが舞台となり、エコー&ザ・バニーメンやピーター・ゲイブリエルらがメイン・アクトで出演。その他アフリカなど世界各地から様々なアーティストを招いて開催されました。しかし、知名度の低さや天候の悪さなどもあり、集客は伸びず大赤字になりました。
それでも、このイベントの出演者たちの曲を集めた2枚組のコンピレーション・アルバム「ミュージック&リズムス」は、ワールド・ミュージック・ファンにとっての必聴盤としてヒットするなどして、WOMADはその後も続くことになりました。
1985年エセックス、1986年ブリストル、1987年コーンウォールと英国での開催が続いた後、1988年はデンマークのロスキルデで開催された後、カナダのトロントでも開催されました。そして1991年、ついに世界7か所で連続して開催されることが決り、その中に日本開催も含まれることになったのでした。
7月にスペインのバダローナからスタートし、英国のリヴァーミッド、レディングで開催後、ドイツのハンブルグ、フィンランドのセイネヨキ、カナダのトロント、英国のモアカムベイを経て、最後の8月30、31日、9月1日、日本の横浜で開催されることになりました。
<なぜ横浜だったのか?>
それではなぜ横浜で開催されることになったのか?
そもそも数多くのミュージシャンを海外から呼び寄せ、大がかりな舞台を作って演奏させるイベントが成功するものなのか?そのお金は誰が出すのか?当時は、それだけの大がかりな音楽フェスを企画・運営できる企業も組織もありませんでした。それを可能にしたのが、ちょうどその頃横浜市が進めていた国際フォーラム開催のための施設建設プロジェクトでした。その施設というのは今も横浜のランドマークとして存在する「横浜パシフィイコ」です。そのプロジェクトを横浜市民だけでなく世界に知らせるための目玉イベントとして白羽の矢が立てられたのがWOMADでした。
当時、横浜市役所の職員だった指田さんは、このプロジェクトのために部署を移動し、WOMADの現地視察などにも参加。市側の責任者としてプロジェクトに参加したのでした。もちろん指田さんのそれまでの舞台などでの経験や人脈を買われての指名だったようです。
<企画会議開始>
時代は1980年代の終わり。「バブル景気」の影響で巨大プロジェクトが日本各地で進んでいました。そのため文化的なプロジェクトにスポンサーを見つけることは、まだ今ほど困難ではない時代でした。それも横浜市を中心とした巨大プロジェクトクトとなれば信用度も高いので、資金面の準備はなんとかなりました。とはいえ、実際にはこの資金集め、指田さんはじめ関係者が苦労したことは間違いなさそうです。なにせ、ほとんど誰も知らない未知のイベントを持ち込むのですから。
なんとかプロジェクトはスタートし、企画会議では誰を呼ぶかの議論が始まりました。そこでは、本家である英国ウォーマッド本部からの意見と顧問に就任した中村とうようさんとの喧々諤々の議論もあったようです。(でしょうね・・・中村さんは1993年に「ミュージック・マガジン」の社長を退任するのでこの企画は最後の大仕事だったかもしれせん)
日本側のメンバーが最初に望んだ出演者にヴァン・モリソンがいました。当時は日本に来ていない最後の大物ミュージシャンと言われていたアイルランドを代表する大御所です。しかし、アルコール依存の彼は長距離の旅に耐えられず、以前オーストラリアへのツアーの際、飛行機の中で飲み過ぎて体調を壊した経験がありました。やはり日本には来たくないらしく、その案は却下されました。
当時ワールド・ミュージックを象徴する存在の一人だったパキスタンのヌスラット・フェテ・アリ・ハーンも、当初来日メンバーに含まれていましたが、本国パキスタンで行われる国家的なイベントへの出演が決まり、キャンセルとなりました。(彼の出演は翌年に実現します)
ウォーマッド本部がどうしても欧米よりの視点でワールド・ミュージックをとらえようとするのに対し、日本側(中村とうようら)はよりアジアの芸能を取り上げようと考えていて、何度もそこで対立があったようですが、それが第一回の多様で素晴らしいメンバーの終結につながったとも言えます。
「ぼくたちはそれぞれ自分の育った文化というものに、知らず知らずのうちに縛られている。自分の文化を捨てて完全に自由になるなんてしまうのが、自分が一つの文化に縛り付けられていることを自覚し、それを解きほどく努力は、いつも忘れないようにしなければならないと思う。そのためにも世界の音楽を偏見なく楽しむ、『ワールド・ミュージック的な姿勢』が大切だ」
中村とうよう
<2回目以降からの失速と終焉>
下記の出演メンバー表からも明らかなように2回目の翌年は開催期間が2日となり、3回目以降は出演者の数も激減します。
公的イベントはそのほとんどが期間限定の補助金によって支えられるため、その永続的な開催は非常に困難です。あまりに巨大なイベントだったため、見る人と作り人の区分けがはっきりし過ぎ継続性を考えて立ち上げてもいなかったウォーマッドは、イベントを支える地域組織やボランティア、ファンを育てることができなかったのです。
指田さんがもう一つ本の中で紹介している富山県南砺市のワールド・ミュージック・フェス「スキヤキ・ミーツ・ザ・ワールド」はその正反対で、見事に継続することに成功しています。
もちろん継続しなければ意味がないというわけではありません。あの巨大ロック・イベント「ウッドストック・フェス」だって一回しか開催していませんが、その影響の大きさははかり知れません。
「ウォーマッド横浜」も、その後の「フジ・ロック・フェス」に与えた影響もあるし、世界の音楽を平等に聴く視点を日本の音楽ファンにもたらしたイベントとしても大きな価値はあったはずだと思います。1990年代に日本各地から現れる様々なスタイルのバンドやミュージシャンのスタイルに世界中のエスニックな音楽の影響が大きいことは、その時代に登場したミュージシャンの顔ぶれを見れば明らかだと思います。
実際、あの時会場にいた僕が、今こうして世界の音楽や映画、芸術などの歴史を残す作業を続けているのも、そんな視点があるからこそだと思っています。
<「ウォーマッド横浜1991」出演者>
桜川唯丸&スピリチュアル・ユニティ 桜川唯丸は江州音頭の二代目桜川房丸に師事。
江州音頭は滋賀県を中心に関西で親しまれる音頭。
唯丸は様々な盆唄会場で自らのバンドを率いて演奏してきましたが、単独ライブはなかった。
1990年、渋谷クアトロで初めて単独ライブを行い観客を熱狂させました。
<スピリチュアル・ユニティのメンバー>
佐原一哉、後藤ゆうぞう、石田雄一、福原みのる、井崎能和、森たくみ
レゲエのリズムを取り入れた新しい音頭でオープニング・アクトを務めました。トト―・ラ・モンポシーナ Toto La Monposina コロンビアを代表するポップス「クンビア」を中心にした女性ラテン・ポップ・シンガー。
サルサに比べるとアフリカ的で泥臭いダンスサウンドは、このイベント向きだったかもしれません。シェブ・ハレド Cheb Khaled 僕的に最も楽しみにしていたのがシェブ・ハレドでした。
アルジェリアのオラン出身で10代から活躍するイスラム圏のポップス「ライ」を代表するミュージシャン。
1988年にフランスのプロデューサー、マルタン・メソニエによって世界デビュー。
アルバム「クッシェ」は世界的ヒット作となりました。
ただし、この時期アルジェリアの政情は悪化。彼の存在はアルジェリアにとっての希望の光だったかもしれません。
1990年に初来日し、パワフルなステージを披露していてこれが2度目の来日。素晴らしかった!フラーコ・ヒメネス Flaco Jimenez アメリカ南部メキシコとの国境地帯を代表するポップス、テックス・メックス界の大御所。
1939年サンアントニオ生まれのアコーディオン・プレイヤー&ヴォーカリスト。
ライ・クーダー、サンタナ、ウィリー・ネルソンら他ジャンルのミュージシャンたちとの共演も多い。
この時期はブレイブ・コンボの活躍もあり、「ポルカ」がブームになっていました。ザ・ポーグス The Pogues 1984年にデビューした当時アイルランド最強のライブバンド。
1988年のアルバム「堕ちた天使」はスティーブ・リリーホワイトのプロデュースによる大ヒット作。
アイリッシュ的要素にアラブ音楽、テックス・メックスなど他ジャンルも取り込んだワールド・ミュージックへと進化。
1989年のアルバム「ピース&ラブ」はその集大成的傑作で、まさに絶頂期に来日でした。
ただし、シェイン・マクガヴァンはアルコール依存が悪化しボロボロの状態になっていて来日時にトラブル。
帰国後にはついに彼はメンバーからバンドを追い出されることになりました。デティ・クルニア Detty Kurnia 日本側が直接交渉して出演が決まった唯一のアーティスト。
中村とうよう一押しのインドネシアのポップス、「ジャイポンガン」を代表する歌手&ダンサー。
1990年に初来日していましたが、ウォーマッドへの彼女の出演は初めてでした。マルタ・セベスティエンとムジカス Marta Sebestyen & Muzsikas 東欧の国ハンガリーを代表する女性シンガーとバックバンド。
ハンガリー民謡の現代化、他のジャンルとの融合を進め、海外でも活躍していました。
マルタはすでに様々なアーティストの作品にヴォ―カリストとしてゲスト参加していました。上々颱風 Shang Shang Typhoon そうそうたる顔ぶれが演奏した後のトリを任されたのが日本を代表するお祭りライブバンド、上々颱風でした。
その後、僕は小樽でも彼らのライブを見ましたが、当時彼らはセカンドアルバム「上々颱風2」を出したばかり。
全国ツアーを終えたばかりでまさに最高潮のパフォーマンスを見せてくれました。りんけんバンド Rinken Band 二日目のオープニング・アクトを務めたのは琉球ポップスの新たなスタートして登場したばかりのりんけんバンド。
1990年にアルバム「ありがとう」を発表し、日本本土への進出を果たしていました。
リーダーの照屋林賢の父親の林助は琉球ミュージカル漫談「ワタブーショー」の人気者。
二人は親子でのパフォーマンスを初日に披露。実に楽しいショーでした。レミー・オンガーラ Remmy Ongala 中央アフリカに位置するザイール生まれのミュージシャン。
音楽活動はケニアからスタートし、タンザニアでバンドを結成。
ザイールを代表するポップス「リンガラ」や「ルンバ」などの軽快なダンス・サウンドと民族音楽を融合。
東アフリカ全体で人気の高いアーティストとして活躍しました。シャインヘッド Shinehead ジャマイカ生まれ、ニューヨーク、ブロンクス育ちのDJ&ラッパー。
1988年メジャーのエレクトラからアルバム「ユニティ」を発表。
レゲエとラップの融合にメッセージ性を盛り込んだスタイルでオピニオン・リーダー的存在として活躍。
日本には4度目の来日でした。ユッスー・ンドゥールとスーパー・エトワール・ド・ダカール Youssou N'Dour et Le Super Etoile de Dakar セネガルが生んだ世界的スター。(日本でも「オブラディ・オブラダ」のカバーが有名)
グリオの血をひく名門一族出身で12歳でミュージシャンとしての活動をスタート。
1983年のアルバム「イミグレ/移民」でヨーロッパに進出。
1988年のアルバム「ネルソン・マンデーラ」で世界的にブレイクしアフリカを代表する存在になりました。
1990年に初来日。2日目のトリに相応しいアーティストでした。林英哲&坂田明 鬼太鼓座の創立メンバーでもある和太鼓奏者と山下洋輔トリオなどで活躍したジャズ・サックス奏者。
和と洋の日本を代表するインプロビゼーション奏者によるバトル・セッション。
鬼太鼓座の出演案に対し、ウォーマッド本部はそれを拒否したとか。
統制が取れすぎた音楽性がウォーマッドの自由な雰囲気に合わないという理由でした。伊藤多喜雄&トライン・タイムズ Takio Ito & Tryin' Times 北海道、苫小牧市出身の民謡歌手。
漁師だった父親の「ソーラン節」を聞いて育ち、民謡大会で優勝。
民謡の次世代のために民謡協会を脱退し新たなスタイルへの挑戦を開始。
1991年にアルバム「TAKIO SPIRIT」を発表したばかりでの出演でした。スザンヌ・ヴェガ Suzanne Vaga アメリカ西海岸出身のフォーク系シンガー・ソングライター。
ニューヨークのフォークシーンで活動を開始。
1985年A&Mからアルバム「Suzanne Vega/街角の詩」でメジャー・デビュー。世界的人気を得ました。
1990年、代表作となる「Days of Open Hand 夢紡ぎ」を発表。ブレイク中の来日でした。サンディー Sandii 日本を代表するアジアン・ポップ・シンガー。
久保田麻琴と共にサンディー&ザ・サンセッツとしてオーストラリアでブレイク。
ソロとなってからは、インドネシア、ハワイなどの音楽を取り入れたアジアン・ポップの代表的存在になりました。
歴史名盤アルバム「マーシー」を発表したばかりで、絶頂期にありました。坂本龍一 Ryuichi Sakamoto YMOのメンバーとして活躍後もソロとして活躍したピアノ、鍵盤奏者。
「戦場のメリークリスマス」では音楽だけでなく俳優としても活躍。
映画音楽だけでなくアルバム「Beauty」などソロ作もヒットさせていました。
ウォーマッド本部からも熱く出演を求められたミュージシャン。トゥマニ・ジャバテ Toumani Diabate アフリカ、マリ共和国の名門音楽一家出身のコラ奏者。
父親のシジキ・ジャバテは「キング・オブ・コラ」と呼ばれた大御所。
アフリカの民族音楽だけでなく様々なジャンルとのコラボ―レーションでも活躍。都はるみ Harumi Miyako デビュー曲「アンコ椿は恋の花」(1964年)でいきなりブレイクした演歌歌手。
「涙の連絡船」「好きになった人」「北の宿から」などをヒットさせた後、1984年突然引退。
1990年再デビューし、「演歌」だけにこだわらないスタイルに転身。
このフェスへの出演は彼女にとっての転機となりました。篠田昌己と東京チンドン長谷川宣伝社 Masami Shinoda & Tokyo Chindon 江戸後期に飴売りなどが拍子木を使って面白い口上を述べて人気者になったのがチンドン屋の原点。
楽器の「チンドン」とは鉦と締太鼓を合体させた楽器のこと。
サックス奏者、篠田昌己はそのチンドン屋の伝統を受け、長谷川宣伝社と1983年から共演していました。
<その後のWOMAD>
「ウォーマッド92横浜」 開催期間:1992年9月5日~6日 <出演者>
パパ・ウェンバ(ザイール)
ロマ・イラマ&ソネタ・グループ(インドネシア)
S・E・ロジー(シエラレオネ)
ヌスラット・ファテ・アリ・ハーン(パキスタン)
ビブラストーン(日本)
おおた静流(日本)
ディ・ダナン(アイルランド)
パッツィー・リキッツ&カール・メサード(ジャマイカ)
U・シュリーニバース(インド)
ザイナル・アビディン(マレーシア)
ボ・ガンボス(日本)
都はるみ(日本)
シーラ・チャンドラ(イギリス/インド)
河内家菊水丸(日本)
サンディー(日本)
「ウォーマッド・コンサートプラザ」 ~子供と世界の芸能祭~ 開催期間:1993年8月21日~22日 <出演者>
バブー(台湾)
おおたか静流(日本)
ザウォセとバガモヨプレイヤーズ(タンザニア)
アコブ・オガダ(ケニア)
ビタシカ(ザイール/マリ/日本)
ヤドランカ(ボスニア・ヘルツェゴビナ)
坂田明+伊藤妙子ユニット(日本)
アンクルン・ミュージックスタジオ(インドネシア)
S・E・ロジー(シエラレオネ)
「ウォーマッド94横浜」 開催期間:1994年8月20日~21日 <出演者>
ジュスタン・ヴァリ・トリオ(マダガスカル)
アリ・ハッサン・クバーン(エジプト)
ユッスー・ウドゥール&スーパーエトワール(セネガル)
デンボ・コンテ&カウス・クヤテ(ガンビア/セネガル)
ジョイ・アスキュー&ジョー・ボナディオ(アメリカ)
クリシュナムルティ・スリダー(インド)
アデル・サラメ(イギリス/パレスチナ)
若林忠広(日本)
大島保克(日本・八重山)
キャサリン・ティッケル(イギリス)
ヤドランカ(ボスニア・ヘルツェゴビナ)
ニッツ(オランダ)
ママドゥ・ドゥンビア(マリ)
山口洋(日本)
マリオ・グァカラン(ベネズエラ)
金剛山歌劇団(在日コリアン)
ディアマンテス(日本・沖縄/ペルー)
ニーニーズ(日本)
「ウォーマッド95横浜」 開催期間:1995年9月15日~16日 <出演者>
金石出(韓国)
アリ・ファルカトゥーレ(マリ)
ザ・ブーム(日本)
フランシス・ベベ(カメルーン)
矢吹誠とバンブー・オーケストラ(在仏・日本)
ジャジコ(日本)
ハミッド・バルーディ(アルジェリア)
氷取沢高校ジャズィー・キッズ(日本)
野庭高校吹奏楽部(日本)
<参考>
「ウォーマッド横浜」 歴史から消えた日本のビッグ・フェスティバル 2023年
(著)指田文夫 Sashida Fumio
Pヴァイン
「WOMAD91横浜 公式パンフレット」