- ウディ・アレン Woodie Allen (後編) -

<監督デビュー>
 1969年、彼は「泥棒野郎 Take The Money And The Run」でついに監督デビューを果たし、次々と作品を発表し始めます。
「ウディ・アレンのバナナ Bananas」(1971年)「ウディ・アレンの誰もが知りたがっているくせにちょっと聞きにくいSEXのすべてについて教えましょう Everything You Always Wanted to Know About Sex (But Were Afraid to Ask)」(1972年)、「スリーパー Sleeper」(1973年)
 この頃の作品は、彼がコメディアンとして積み上げてきた実績の延長線上に築かれた徹底したコメディー映画でした。といっても、彼の場合「言葉」を重視したネタが中心のため、日本人にはわかりにくいギャグも多かったのですが、「スリーパー」ではあえてチャップリン映画などサイレント時代の映画を意識した「動き」によるギャグを多用、ヨーロッパを中心に海外でもヒットしました。
 この時期のウディ・アレンは、いろいろなタイプの作品を作りながら常に実験をし、学習をしていたと言えそうです。それは彼が本当に作りたい映画を作るための習作期間であったとも言えそうです。

<「アニー・ホール」(1977年)>
 1975年、彼は「ウディ・アレンの愛と死 Love and Death」を製作します。この作品は、ロシア文学のパロディー映画であると同時に「愛と死」という哲学的なテーマをも描こうとする最初の作品でもありました。結果は狙いほどは上手く行きませんでしたが、もう単なるコメディー映画にもどる気のなかった彼は続く作品「アニー・ホール」(1977年)でも、同じようにお笑いだけでなく、そこにシリアスな要素を盛り込みました。ただし、今回は舞台をニューヨークに移し、なおかつ自分をモデルにした身近なストーリーにすることで、人物像をより深く描くことに成功します。それは「ギャグを描く」ことから「キャラクターを描く」ことへの転換点ともなる作品でした。
 この作品は、ニューヨークを中心とする業界人の間で大いに受けます。そして、業界人による業界人のための賞、アカデミー賞の作品、監督、脚本、主演女優賞を受賞してしまいます。それは誰もが予想しなかった大番狂わせでした。ただし、この作品は歴代アカデミー賞受賞作の中で最も興行収入が少なかった作品とも言われています。(でも、この作品のおかげで、彼の作品は海外でも公開されるようになります)
「チャーリー・チャップリンやバスター・キートンの時代には、コメディは身体的なものだった。キートンは蒸気機関車と競争して走ったし、チャップリンはナットやボルトをあらゆるものの中にねじ込んだ。しかし、今は人々の関心が、精神的な不調とか孤独の問題に移っている。だからコメディも、人間の内面を描く方法を開拓していかなければならないんだ」
ウディ・アレン

<「インテリア」(1978年)>
 アカデミー賞を受賞したことで、より自由に作品を撮れるようになった彼は、次作ではついにお笑いの要素をも取り除いたシリアスな人間ドラマに挑みます。それがスウェーデンが生んだ巨匠イングマール・ベルイマンへの挑戦とも言える作品「インテリア」でした。
 この作品は彼の作品にしては珍しく、ニューヨークの町中を離れて海辺のロングアイランドで撮影が行われました。ギャグなどいっさいないシリアスなドラマには、「生きる」とは何かがストレートに描かれており、この作品でウディ・アレンは完全に映画監督として一流の仲間入りを果たしたと言えるでしょう。

<ウディと女性たち(ルイーズ・レッサー)>
 ウディ・アレンの作品は自らの人生から多くのアイデアを得ているわけですが、当然彼と女性たちとのロマンスは彼の映画に大きな役割果たしています。
 ジャズ仲間だった最初の妻に続く二人目の妻、ルイーズ・レッサーは、生粋のニューヨーカーであり、マンハッタンに住むお嬢様でした。彼女のおかげでブルックリンからやって来たばかりの彼はマンハッタンでいち早く人間関係を築くことができ、その後の活躍へと結びつけることができたのです。
 女優だった彼女は、ウディ・アレン初期のコメディ「泥棒野郎」「バナナ」「SEXのすべて」に出演。離婚後も「スターダスト・レビュー」に起用されています。(この起用は、麻薬事件などで芸能界から消えかかっていた彼女に対する恩返しだったとも言われています)
「愛とセックスは別物だ。セックスは緊張をほぐすが、愛は緊張を生む」
「サマーナイト」より

<ウディと女性たち(ダイアン・キートン)>
 次ぎに付き合ったのが、今やアメリカを代表する女優の一人となったダイアン・キートンです。彼女とは2年間同棲しただけで結婚には至りませんでしたが、その後もずっと友人関係を続ける仲で未だに彼女は彼にとって最も重要なアドバイザーなのだそうです。
 二人が出会ったのは、1969年彼が台本を書いたブロードウエイの舞台「ボギー!俺も男だ」での共演した時でした。その後二人は同作品の映画版でも共演、彼が監督をするようになると、彼女を「スリーパー」「アニー・ホール」「インテリア」「マンハッタン」で起用。「アニー・ホール」では、彼女は見事アカデミー主演女優賞を受賞しています。
 その後、二人は別れ、彼はミア・ファローと付き合うことになりますが、その間も二人の良い関係は続き、彼がミア・ファローと別れた後には、「マンハッタン殺人ミステリー」(1993年)で久々に共演しています。二人の関係は「アニー・ホール」で描かれていたカップル以上に素晴らしい関係だと言えそうです。(ついでながら、2004年公開の「恋愛適齢期」のダイアン・キートンは、本当に素敵でした。僕もジャック・ニコルソンのようなオヤジになろうと思います)
「男と女の関係というのはサメと同じで、常に前進していないと死ぬ。僕たちの関係はサメの死骸だ」
映画「アニー・ホール」より

<ウディと女性たち(ミア・ファロー)>
 もうひとり、ミア・ファローを忘れるわけには行きません。
 彼女の父親はハリウッド映画の脚本家で、アカデミー賞も受賞しているジョン・ファロー(「八十日間世界一週」1956年)で、母親はターザンの恋人ジェーン役でで有名な女優のモーリン・オサリヴァン(「ハンナとその姉妹」ではミア・ファローの母親役として出演しています。)ということで、まさに血統書付きのハリウッド人種でした。
 彼女は、持ち前の才能を活かし10代の頃からテレビ・ドラマで活躍。その後、23歳の時にロマン・ポランスキー監督の「悪魔の赤ちゃん」で一躍映画女優としても脚光を浴びるようになり、「華麗なるギャッツビー」ではロバート・レッドフォードの恋人を演じるなど超大物女優として活躍していました。また、彼女は女優以外のプライベートでもゴシップ欄をにぎわすお騒がせ女優としても有名な存在でした。1966年21歳の時、30歳も年上のフランク・シナトラと結婚。わずか2年で離婚すると、1970年には作曲家、編曲家、ジャズ・ミュージシャンのアンドレ・プレヴィンと再婚。しかし、これも9年で離婚に至っています。

<アンドレ・プレヴィン Andre Previn>
 ベルリン生まれで、ユダヤ系の彼はヒトラーの登場によるユダヤ人迫害を逃れてドイツからアメリカに渡ったアーティストのひとりです。1939年、ロスに住むようになり、ジャズ・ピアニストとして活躍しながら、映画音楽も手がけていた彼は編曲者として才能を発揮するようになります。
 「恋の手ほどき」(1958年)、「ポギーとベス」(1957年)、「あなただけ今晩は」(1963年)、「マイフェア・レディ」(1964年)と4度アカデミー編曲賞を受賞しています。
 その後は、ジャズ・アルバムを製作したり、セントルイス交響楽団やロンドン交響楽団の常任指揮者をつとめるなどクラシックの音楽家として活躍するようになりました。

<カリスマ女優、ミア>
 彼女は一時インドの神秘宗教へのめり込んだことでも有名になりました。ちょうどビートルズやローリング・ストーンズのメンバーがインド人宗教家マハリシ・ヨギの元に弟子入りしていた頃、彼女もまた彼の元に弟子入りしていました。当時の彼女はアメリカ一「跳んでる女性」だったと言えるでしょう。
 そんなエキセントリックな女優とウディ・アレンの関係が上手く行くとは思えないのですが、・・・。以外にそれが上手くいったのです。二人とも、二度の離婚を経験しており、どうやって男と女が付き合うべきか、そのポイントを学んでいたからかもしれません。二人は、同居もせづ、結婚もせず、セントラル・パークをはさんだアパートメントに住み、お互いを訪問しあう関係を続けました。さすがは経験豊富なカップルです。こうして、見事にバランスのとれた関係が出来上がり、二人の共演作が次々と世に送り出されることになります。
「サマーナイト A Midsummer Night's Sex Comedy」(1982年)
「カメレオンマン Zelig」(1983年)
「ブロードウェイのダニー・ローズ Broadway Danny Rose」(1984年)
「カイロの紫のバラ The Purple Rose of Cairo」(1985年)
「ハンナとその姉妹 Hannah and Her Sisters」(1986年)
「セプテンバー September」(1987年)
「私の中のもうひとりの私 Ansther Woman」(1988年)
「ウディ・アレンの重罪と軽罪 Crimes and Misdemeanos」(1989年)
「アリス Alice」(1990年)
「ウディ・アレンの影と霧 Shadows and Fog」(1992年)
「夫たち、妻たち Husbands and Wives」(1992年)
 年に一本のペースで着実に作品を発表していたこの時期のウディ・アレンは公私ともにもっと充実していたと言えるでしょう。
 特に彼自身が大好きな作品と公言する「カイロの紫のバラ」やアカデミー賞の助演男優賞、助演女優賞、脚本賞、を受賞した「ハンナとその姉妹」は、彼の作品全体を通してもベスト5に入る作品でしょう。
 それとドキュメンタリー調の不思議なコメディー映画「カメレオンマン」も傑作です。変身してしまうことで、常に力のあるものに迎合してしまう特殊能力をもつ男、カメレオンマン。彼の存在はある意味、一般大衆の権力への迎合体質そのものの象徴でもあります。その点、この作品は彼の作品中もっとも社会的主張をもったものと言えるかもしれません。

<完璧主義の厳しすぎる演出>(追記2013年5月)
 監督としてのウディ・アレンの厳しさは、異常なほどだったようです。自分が気に入らない俳優は、どんな大物でも平気で首にしたといいます。その中には、ミア・ファローの母親のモーリン・オサリヴァンやマイケル・キートン、クリストファー・ウォーケン、サム・シェパードらもいました。
 大物ベテラン俳優のホセ・ファーラーは、ウディの厳しい演出にこう泣きついたといいます。
「もうできないよ。監督、あなたのせいで僕は役者から単なる恐怖感の塊に変わってしまった」

 「インテリア」に出演したベテラン大物女優のモーリン・ステイプルトンは、ウディについてこう語っています。
「世間にはなかなかわからないようだけれど、ウディは内気なのではないわ。反社会的というべきね」
 
 彼の演出方法は、彼の性格による異常さも含めてのものであり、人によってその受け取り方は違ったようです。

<幸福な家庭の崩壊>
 さらに、この時期二人が生み出したのは映画だけではありませんでした。二人の間には、彼にとって初めての子供も誕生しているのです。その他にミア・ファローの子供たちがなんと8人(うち5人は養子)もおり、彼らは幸福そのものの家庭を作り上げていたのです。
 これだけ上手くいっていたにも関わらず、彼らの幸福にもやはり破局が訪れてしまいます。いったいその原因は何だったのでしょうか?なんとそれは愛する家族が原因だったのです。
 ミア・ファローが養子として迎えていた韓国系の女性スンイ(当時21歳)とウディが愛し合う関係になってしまったのです。彼の作品「マンハッタン」のマニエル・ヘミングウェイよりも年の差があるカップル、それもついこの間までは父と娘であった関係だった二人なのですから、ミア・ファローが怒るのも当然かもしれません。(法律的にはまったく問題ないのですが、・・・)こうして、1992年全米のマスコミが泣いて喜ぶ離婚訴訟がこうして始まりました。

<映画こそ生き甲斐>
 しかし、彼にとって映画は人生であり、何よりも大切なものでした。だからこそ、彼はこの泥沼の訴訟中も映画の製作を続け、ミア・ファローとの最後の共演作「夫たち、妻たち」を完成させ、その後ミア・ファローの代役にダイアン・キートンを立てた「マンハッタン殺人ミステリー」(1993年)、「ブロードウェイと銃弾」(1994年)、ミラ・ソルヴィーノにアカデミー助演女優賞をもたらした「誘惑のアフロディーテ」(1995年)と立て続けに作品を発表。
 なおかつ、1996年の「世界中がアイ・ラブ・ユー」では、以前から撮りたかったというミュージカルに挑戦するなど、新しい挑戦にも相変わらず積極的です。彼にとっては、一年に一本映画を製作し、その製作期間中、映画というマジックの世界で生きることこそが生き甲斐だということなのでしょう。

<映画作りのために必要なもの>
 彼が素晴らしい作品を作り続けるために、素敵な女性たちの助けは欠かせないものでしたが、他にも彼の作品作りには必要なものがありました。
 ひとつは、彼に自由に映画を作らせてくれる3人の製作者の存在です。ジャック・ロリンズ、チャールズ・H・ジョフィ、ロバート・グリーンハットがいるおかげで、彼はお金の心配やスケジュールの心配をせずにコンスタントな作品作りができているのです。
 そして、彼の作品を喜んで見てくれるお客さんの存在も忘れてはいけません。彼の場合、内容が個人的、知的、ニューヨーカー向けであるためにアメリカ国内ではニューヨークといくつかの都市でしかヒットすることはありません。そのため、ヨーロッパや日本など、知的な映画を好むファンの存在がなければ採算がとれないかもしれないのです。
 そして、彼にとって最も大切な存在、それはニューヨークとその中心マンハッタンの街です。
 あの9・11同時多発テロ事件があった翌年のアカデミー賞の授賞式で、最も観客を驚かせた出来事、それは当日舞台上にウディ・アレンが現れたことです。(この企画は秘密になっていたようです)彼はそれまでアカデミー賞の授賞式に出席したことは一度もなく、その後も出席していません。しかし、あの事件によってニューヨークの街が大きな痛手を受けたことで初めて出席することを決意。彼が愛するニューヨークの街を描いた映画の名場面集を製作し、会場で公開してくれたのでした。彼こそ、「ミスター・ニューヨーク」と呼ぶのに相応しい人物です。

<でも、映画命というわけではなく・・・>
 しかし、彼はけっして映画に命をかけているというわけではありません。徹夜で撮影をするほどのめり込むということもなく、時間になれば撮影を止め、夜は家でナイターを見るのが日常です。だからこそ、自分の身に起きた大事件の間も、いつもと変わらず撮影を続けられたのかもしれません。
 彼はまた自分の仕事に対して、常に批判的で、こうした文章を読んで自分の作品を見られるのは困りものだとも言っています。
 彼は自分が演じられる役柄は、顔つきと背丈からいって、インテリっぽいけど実はしょぼい一般人、それもニューヨーカーのユダヤ人しかないと考えています。当然、作品のストーリーもそんな自分自身の経験がそのまま活かされた私的な世界を中心に身の丈になった物語をコツコツと作る姿勢が生まれることになったわけです。
「僕はいつもコツコツ働き続けていたいんだ。ずうっと仕事をして、それに打ち込んでいれば、そのうちすべてはうまくいく」
ウディ・アレン

 「神はいない」と言いながらも、彼はいつまでも映画の中で神を探し続けています。それはまるで、「映画を作ることこそが、あなたの人生なのだ」と神からの使命をおびているかのようです。だからこそ、彼の作品を見るたびに僕は「幸福な一時」を過ごせるのかもしれません。

<締めのお言葉>
「コメディは悲劇プラス時間だ」
「リンカーンの暗殺は当時は悲劇だったが、今なら喜劇にもなりうるということだ」

映画「ウディ・アレンの重罪と軽罪」より

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