- ウディ・アレン Woodie Allen (前編)-

<居心地の良い映画>
 人にはそれぞれ居心地の良い場所や部屋、状況など心落ち着ける何かがあるものです。それと同じように、人にはそれぞれ居心地の良い音楽や居心地の良い映画、本、美術作品などもあるでしょう。(未だにそれを見つけられずにいる人は、急いでそれを見つけましょう!)
 僕にとって、ウディ・アレンの映画はそんな居心地の良い存在のひとつです。とりあえず、彼の映画なら何でも良し、家でも、映画館でも、彼の映画がはじまればそれだけで、僕の心はぐーと安らぎます。
 だからといって、けっして彼の映画を見て大感動したり、涙を流したり、ゲラゲラ笑いこけたりするというわけではありません。彼の映画をみて、ちょっとだけ目を潤ませたり、クスクスと小声で笑ったりすることで十分くつろげるのです。
 たぶんウディも、見る人がそんな反応を示してくれれば、それで大満足なのだと思います。彼が目指すのは、チャップリンでもなく、マルクス兄弟でもなく、フェリーニでも、ベルイマンでもない、ちょっとクールで、ちょっとシニカルで、ちょっとパラノイア(偏執狂的)、そしてかなりセンチメンタルな大人の世界を描き出す映画監督なのです。
 「スリーパー」や「ボギー!俺も男だ」あたりから付き合ってきた僕にとって、ウディの映画は気心の知れた友人みたいな存在です。けっして深い付き合いではないけれど、相手の言いたいことは目を見ればなんとなく理解できる、そんな関係です。
 思うに、僕とウディの性格は似ているのかもしれません。

<ブロンクス生まれのユダヤ人>
 ウディ・アレンは、1935年12月1日ニューヨークのブロンクスに生まれました。本名は、アラン・スチュアート・コニグスバーグといいましたが、後に彼はペン・ネームとして使っていたウディ・アレンという名前に正式に改名しています。
 父親の家系はロシアから、母親の家系はオーストリアのウイーンからの移民で、どちらもユダヤ系の一族でした。父親のマーチンはタクシー・ドライバー、バーテン、宝石商、ウエイターなど、なかなか職が定まらず、引っ越しも多かったようです。結局、ウディ一家は同じニューヨークのブルックリンに住み着くことになり、彼はこの街で青春時代を過ごすことになります。

<ブルックリンでの少年時代>
 彼がどんな少年時代を過ごしたのか?それは、彼の映画「ラジオ・デイズ」(1989年)を見るとよくわかります。躾(しつけ)が厳しく自由のない学校生活が大嫌いだった彼は、放課後や週末のほとんどを映画館で過ごしていたそうです。ただし、まったくのオタク少年だったわけではなく、野球が好きで近所の友達と野球にに熱中していた頃もあり、未だに大リーグ中継を欠かさずにチェックする大の野球ファンです。(もうひとつ、ボクシングにもやっていたことがあるそうですが、彼の場合どう考えても絵的に想像できません)
 もうひとつ、彼には大切な趣味がありました。その趣味は彼の映画の中でもよく登場する手品です。小学生時代に親に買って貰ったマジック・セットからはじまったこの趣味は、彼が大人になってからも続いています。1989年製作の「ニューヨーク・ストーリー<エディプス・コンプレックス>」では作品中で自らの母親を消し去り、その後空に登場させるという驚くべき魔術を見せてくれました。そして、彼自身が最も好きな作品という「カイロの紫のバラ」を見ると、「映画」こそ最高のマジックであるということがよくわかります。ちなみに、あの映画で舞台として用いられた映画館は、セットではなく、彼が子供時代から通い続けていたブルックリンの映画館でした。彼はそれが取り壊される直前に撮影を行ない、古き良きブルックリンの街並みを永遠に残すことに成功したのです。これこそ、究極の魔術なのかもしれません。
 そんなわけで、「手品(マジック)」は彼の映画を見る際のキーワードだとも言えそうです。

<ジャズ・クラリネット奏者>
 もうひとつ彼の趣味として有名なのがジャズ・クラリネット奏者としての活動です。てっきり僕は彼のこの趣味は映画界で成功してから余暇として身につけたものと思っていたのですが、実はそうではありませんでした。
 13歳の時に彼が友達の家で聞いたニューオーリンズ・ジャズがきっかけで、彼は毎週のようにジャズ・クラブに忍び込むジャズ・ファンになってしまいました。その後、自らソプラノ・サックスやクラリネットを吹くようになった彼は、しだいに本格的にジャズにのめり込むようになり、ついにはプロの有名なクラリネット奏者、ジーン・セドリックから個人レッスンを受けるようになります。(彼の一人目の奥さんは、この頃の演奏仲間として出会った女性でした)
 彼は元々プロのミュージシャンになろうとは思っていなかったようですが、その後もひとりの時には必ずクラリネットを手に練習に励みました。その後、映画監督として活動を始めた1970年には友人たちとニューオーリンズ・ジャズのバンドを結成します。バンド名は「ニューオーリンズ・フューネラル・アンド・ラグタイム・オーケストラ」でした。
 彼らの演奏はプロに匹敵するレベルだったため、いつしかマイケルズ・パブという店のレギュラーバンドとして毎週月曜日に出演するようになります。バンド・メンバーのほとんどは他の本職をもつ、掛け持ちミュージシャンでしたが、その後もバンド活動を続け、ついにはウディ・アレンとともにヨーロッパ・ツアーを行うまでになります。このコンサート・ツアーの模様は、ドキュメンタリー映画「ワイルドマン・ブルース Wildman Blues」(1998年)として公開されており、彼らのジャズに対する愛情の深さに感動させられます。こうした、ウディのジャズに対する造詣の深さは、当然映画にも生かされています。

<マンハッタンを目指して>
 さて、ジャズ・ファンで映画ファンで、マジックと野球が大好きなアレン少年は、将来何になりたかったのでしょう?彼の目標は実はそのどれでもなく、とにかくブルックリンを出て憧れの街マンハッタンに住むことを考えていたようです。川を一本隔てただけの街、マンハッタンは下町ブルックリンの住人にとって、近くて遠い夢の街でもあります。そして、その夢を実現するためには人には何か誰にも負けない才能が必要なのです。彼にとっては、その才能が「笑い」だったのです。
 もともと人を笑わせるのが得意で、面白い文章を書いてはクラスの仲間を笑わせていた彼でしたが、残念なことに人前に出ることはちょっと苦手でした。したがって、人前で面白い芸を披露するコメディアンに自分は向いていない、そう彼は考えていました。そこで彼は自分が人前に出なくてすむ「お笑い」の道を見つけました。それは文章によって、「笑い」をとることです。
 アメリカでは新聞のコラムが日本では考えられないほど人気があります。人気コラムニストはちょっとしたスター扱いです。そのため、新聞社ではコラムなどに気の利いたギャグを盛り込むため、常にギャグのネタを募集していました。ウディはこのギャグ・ネタを新聞社に投稿することで自分の才能を活かし始めたわけです。すぐに彼のギャグは、新聞社に採用されるようになり、「デイリー・ミラー」や「ニューヨーク・ポスト」などに載るようになります。そして、この時彼がペン・ネームとして使っていたのが「ウディ・アレン」という名前でした。(このペン・ネームは彼が憧れていたジャズ・ミュージシャンのひとり、ウディ・ハーマンからとられているようです)

<人気お笑い作家として>
 彼の名前はしだいに業界でも有名になります。ついに彼はマンハッタンにあるタレント・エージェントに専属ギャグ・ライターとして採用されます。その時、彼はまだ高校生した。残念ながらギャグ・ライターという仕事は、それだけで食べて行けるほどお金になる仕事ではなかったようです。そこで、彼はニューヨーク大学の映画科に入学します。といっても、当時彼は映画監督になろうと思っていたわけではかったので、すぐに大学をさぼるようになり、そのかわり劇作家になるための教室に通い始めます。(とにかく、親を安心させるために学校に入ったようです)当時、ニューヨーカーにとって映画の存在は娯楽の域を出ず、舞台こそ芸術であると考えられていました。そのため、彼もまた映画より舞台劇にひかれていたようです。しかし、この勉強は後のバラエティー番組の構成作家という新しい仕事に大いに役立つことになります。後の彼の人生から考えると、もし、彼がまじめに大学で映画の勉強をしていたら、ウディ・アレンという個性的な映画の作り手は誕生していなかったかもしれません。

<悩み多き人生のはじまり>
 ギャグ・ライター、構成作家として忙しい日々を送るようになった彼ですが、その仕事はけっして実りの多いものではありませんでした。日々消費されるだけで、忘れられる一方のギャグ作りの作業は彼をどんどん精神的に疲弊させてゆき、同じ頃最初の奥さんとも離婚することになります。彼のトレード・マーク?ともいうべき精神科への通院は、こうして始まったのです。

<スタンド・アップ・コメディアンとして>
 そんなどん詰まり状況の中、彼は1950年代に知的な笑いで一世を風靡したスタンド・アップ・コメディアン、モート・サールのステージを見ました。今の自分なら、モート・サールのようにスタンド・アップ・コメディアンとして十分やって行けるのではないか?そう思った彼はすぐに自分用の台本を書き始めました。
 モート・サールは時事問題をネタにしてお笑いを生み出す芸人でしたが、アレンは髪の毛が薄く、背も小さい風采の上がらないユダヤ人という自分のキャラクターをネタにすることで自虐的なギャグを連発し、笑いをとることに成功します。

<スタンド・アップ・コメディアンという仕事>
 このスタンド・アップ・コメディアンという仕事は、日本で言えば漫談家ということになるのでしょうが、アメリカの場合「ボケと突っ込み」によって成り立つ漫才はほとんど存在ないためお笑い芸人としては、この形が主流ということになります。それどころか、社会的にもエンターテナーとして高い評価を得ており、有名になるとテレビ番組の司会から映画俳優、そしてアカデミー賞の司会まで、いくらでも仕事が回ってくることになります。実際、アメリカの映画界で活躍するお笑い芸人の多くはスタンド・アップ・コメディアンの出身です。(俳優として、その頂点に位置するのがロビン・ウイリアムスということになるのでしょうか)
 アレンは、この世界で見事にその才能を花開かせ、すぐに話題のコメディアンとなります。それどころか、デビューして3年目の1965年にはなんと当時の大統領ジョンソンの就任パーティーに招待され、そこでステージを披露しています。もしかすると、アメリカにおける彼の社会的地位は、映画監督として世界の巨匠に数えられる今よりも、その頃の方が高かったのかもしれません。

<映画界への進出>
 すでに十分すぎるほどの成功を得ていたアレンでしたが、テレビやステージの仕事はあくまで一度限りのエンターテイメントであり、すぐに忘れられてしまうことに物足りなさを感じていました。「テレビやラジオで成功する人間っていうのは、砂の上に絵を描いたルネッサンス時代の画家みたいなものだよ。もう少し後に残るメディアを選ばないとね。・・・」
 そんなある日、彼のステージを見て感心したという当時の有名プロデューサー、チャールズ・K・フェルドマン(「欲望という名の電車」「赤い河」など)から脚本の依頼がありました。それは「何かいいことないか子猫チャン」(1965年)というコメディー映画の脚本でした。出演者はピーター・オトゥールとピーター・セラーズ、それにフランスの美人女優ロミー・シュナイダーで、正直あまりぱっとしないB級セクシー・ラブ・コメディーでした。と言っても、この作品は興行的には大成功を収め、彼の名を一躍映画界にも広めることになります。おまけに彼はこの映画で俳優としてのデビューも飾ったわけで、文句のない映画界進出だったわけです。しかし、彼自身としては、かなり不満の残る初仕事だったようです。それは、せっかく書いた彼の脚本がどんどん変えられてしまったことに対する不満でした。彼が目指した洒落たジョークの連発は、くだらないドタバタ劇へと変えられてしまっていたのです。「脚本家では思ったものが作れない」彼はそう痛感し、秘かに自ら監督を務める決心を固めたのです。しかし、そう簡単に監督の仕事がつかめるわけではなく、その後も彼は脚本家としての仕事をしながらチャンスの到来を待つことになります。

<舞台劇から映画へ>
 ここからの彼はいよいよ本格的に映画の脚本家として活動しつつ、舞台劇のための戯曲作家としても活躍するようになります。なかでも彼の2作目の戯曲「ボギー!俺も男だ」(1968年)はブロードウェイで大ヒットし、1972年にはハーバート・ロスの監督で映画化されることになり、ついにウディ・アレンは主演俳優としてデビュー。映画もヒットし、いよいよ彼の知名度はあがり、彼が監督するなら出資してもよいという会社も現れるようになります。

<もうひとつの仕事>
 彼の多彩さを書き連ねてきましたが、実は彼はまだ他にも仕事をもっています。それは短編小説作家という仕事です。1966年に彼の書いた短編が雑誌「ニューヨーカー」に掲載されて以来、彼は短編小説作家として「ニューヨーカー」の常連執筆者のひとりになりました。
 こうして彼は1960年代の後半に絵画以外のほとんどの芸術ジャンルでその才能を発揮し始めました。そして、これだけの多彩さを持ち合わせたアーティストに最も適した職業として、いよいよ映画監督に挑戦することになったのです。

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