ウッドストック 〜愛と平和と音楽の3日間〜」
"Woodstock -three days of peace and music-"

<今再び「ウッドストック」>
 2011年にNHKのBSで、1969年ウッドストックでの伝説のライブ映像をディレクターズ・カット版で見ることができました。オリジナルの映画版に40分近くの映像が追加されたもので、見ごたえ十分でした。そこであれから40年の時が過ぎた今、改めて「ウッドストック」を見直しつつ解説してみようと思います。
 このライブが実現するまでの経緯については、アン・リー監督によって映画化もされた「ウッドストックがやってくる」(本または映画)を是非ご覧下さい!(映画はもうDVD化されているし、日本語版の本も出ています)どんな人々が伝説を作り上げたのか?なせウッドストックという場所が選ばれたのか?そのことがわかると、よりこの記録映像は楽しめるはずです。このサイト内にもその本の解説があるので是非そちらもお読み下さい!
「ウッドストックがやってくる」
 それでは、このライブ映像を曲順に従って解説を進めてゆきます。時は、1969年8月15日からの3日間です。DVD版の「ウッドストック 〜愛と平和と音楽の3日間〜 ディレクターズ・カット・エディション」を見ながら読んでいただければ最高です!

「ロング・タイム・ゴーン Long Time Gone」(クロスビー、スティルス&ナッシュ)
 映画のオープニングを飾るこの曲は、ニューヨーク近郊ベセルにあるマックス・ヤンガー農場に巨大なライブ会場が建設される様子が映し出されるバックで流れます。さらに画面には、この巨大プロジェクトの中心人物マイケル・ラングがインタビューを受けている場面が映し出されます。彼はどうみても、そのへんにいる普通の学生にしか見えませんが、この巨大プロジェクトを発案し、それを実現させたのは彼のような20代の若者たちでした。(親が金持ちのボンボンたちではあったのですが・・・)逆にいうと、大人のビジネスマンなら、成功する保証もない雲をつかむようなこれほどの巨大フェスティバルを企画したり、実現に動き出すことなどあり得なかったでしょう。
 当然ながら、そうした巨大フェスティバルなどやったことのない彼らは、このライブで様々なトラブルに見舞われることになります。しかし幸いな事に、そのフェスティバルに参加したのは彼らと同世代の楽天的な若い世代がほとんどでした。さらに彼らはフェスティバルの観客であると同時に協同製作者であるという意識も持ち合わせていました。だからこそ彼らは主催者の不手際の数々を許すだけでなく、それを逆に楽しんだりできたのでしょう。このライブが伝説となりえた最大の理由、それはすべての観客が同胞愛に基づいて許しあい認め合うことができたからかもしれません。この年、時代はまだ純粋で優しさに満ちていました。誰も、このフェスティバルで受けた苦痛や損害に対する損害賠償を請求しようなどとは思わなかったのです。

「Going up the Country」(キャンド・ヒート Canned Heat)
 この巨大イベントが成し得た最大の貢献は、それまで西海岸と東海岸のごく一部の都市部にしか存在しなかった新しいロック・シーンとヒッピー・ムーブメントをアメリカ各地の若者たちが初めて体感、体験したことでしょう。彼らは全国つつうらうらから集まり、同じ感性をもつ仲間と出会い、語り合い、その存在を確かめ合ったわけです。当然、この時の体験はそれぞれが故郷へと持ち帰り、アメリカ中にロックやヒッピーの文化を広めることになります。そんなウッドストック・ジェネレーションが田舎から続々と集まる様子をバックにこの曲が流れます。

「木の舟 Wooden Ships」(クロスビー、スティルス、ナッシュ&ヤング Crosby,Stills,Nash & Young
 このライブは「泥の舟」よりはましなものの「木の舟」に近い脆くて危険な会場で開催されていました。(建造物としても運営システムとしてもです)
 当初、主催者側は10万人規模の観客を想定していましたが、すでにこのライブが始まる前にそれが想定を超えるであろうことは予測できていました。結局、会場には最終的に50万人を越える人々が押し寄せ、この想定の誤りがすべてのトラブルの原因となりました。
 先ず最初に明らかになったのは、交通面でのトラブルです。公共の交通手段がなかったその場所に向かい長い長い車の列ができ、車での会場到達は事実上不可能になりました。そのため、観客だけでなく出演者までもが会場にたどり着けなくなり、途中から出演者はヘリコプターによって来場することになりました。交通手段が使用不能になると、食料品などの日用品が会場どころか近隣の町にも届かなくなります。さらには医療機関やその他のサービス機関も機能が停止してしまいました。
 音楽業界におけるフェスティバル事業の先駆者ビル・グレアム(フィルモア・イーストの創設者)は、この状況を予測していて、フィルモアのスタッフを引き連れ、事態の解決に大きな貢献をしました。彼は出演者へのオファーに協力したり、様々なアドバイスを与えるもののトラブルが起きる可能性を指摘し、フェスティバルの運営には参加しませんでした。彼の目には、このフェスティバルはあまりに無謀な試みに見えたのです。それでも彼は主催者の熱い思いは理解していたし、彼がプロモートするアーティストたちが参加することからボランティアとして会場にかけつけ、連れてきたスタッフたちとともに混乱の回避に協力し続けました。
 続々と押し寄せる若者たちの中にはチケットを持たない者も多く、彼らの侵入をどう防ぐかが問題となります。そこで彼は検問の設置を進言します。この場面は映像としても納められていて、見所の一つといえます。

「・・・だからハイウェイの起点にコントロール・ポイントを設けたんだろう?チケットを持っている人間を通し、持っていない人間を追い返すために。ある程度のコントロールは絶対に必要だ。それがなきゃやっていけるわけがない。
 知ってのとおり南アフリカじゃ、人食い蟻のマランブンタが群れをなして襲ってきそうになると、人々はまず堀を作る。堀に石油を入れて、火をたくんだ。だからって火をたいて、群集を足止めすべきだと言ってるんじゃない。それ以外にも何か、人の流入を食い止める方法はあったはずだ。」

ビル・グレアム

 このライブの記録映画が公開される際、試写会でこの場面を見たビル・グレアムは怒りまくったそうですが、案の定、その後彼は多くの若者たちから嫌われることになりました。本当は、彼が連れて行ったスタッフ64人の活躍がなければフェスティバルの運営は崩壊していたのかもしれないのですが・・・。

「ハンサム・ジョニー Handsome Johnny」〜「自由 Freedom」(リッチー・ヘヴンス Richie Havens)
 ひどい交通渋滞のためにアーティストたちが会場にたどり着けなくなり、スケジュールは滅茶苦茶になりました。そこで急遽トップバッターとしてステージに上がったのが、シンガー・ソング・ライターのリッチー・ヘヴンスでした。
 戦場に向かった兵士ジョニーのことを歌ったプロテスト・ソングの後に彼が歌った「自由(フリーダム)」における「フリーダム」の叫びはライブの開始を待っていた観客たちを一気に熱狂させました。彼のこのパフォーマンスによって「ウッドストック」の成功は約束されたといえるほど、このオープニングは感動的なものとなりました。
 この後主催者はこのコンサートをフリーライブにすると発表します。当然、それにより入場料の収入は大幅に減ることになりますが、チケットをもたない若者たちの侵入は止められず、それが暴動に発展することを防ぐためにも避けられない判断でした。
 ただし、このフェスティバルはその映画化が進んでいて、それを台無しにしないためにも、フリー・ライブへの移項は必然だったともえいます。と言っても、この作品は映画とレコードの大ヒットにより、入場料収入の不足を補ってあまりある巨額の収益をあげることになりましたから、出資者が困ることはなかったのですが。ちなみに、このライブでの各ミュージシャンへのギャラにはそうした映像使用料などは含まれておらず、定額で何千ドルかをもらっただけのようです。

「A Change Is Gona Come」(キャンド・ヒート Canned Heat)
 再び、キャンド・ヒートの登場です。(こちらはライブ映像)ブルースの研究者としても有名だったアル・ウィルソンを中心とする彼らお得意のブルース・ナンバーは、この時代の主流ともいえるブルースロックの王道を歩んでいました。しかし、このライブの翌年、アル・ウィルソンは27歳という若さで原因不明の死をとげてしまいます。(麻薬が原因と思われます)彼の死は、その後に訪れることになる才能あるミュージシャンたちの悲劇的な死を予見するものとなりました。

「ジョー・ヒル Joe Hill」〜「愛しい馬車 スウィート・チャリオット」(ジョーン・バエズ Joan Baez)
 ステージ上で逮捕され留置場にいる政治活動家の夫について語ったフォーク界の歌姫ジョーン・バエズがプロテスト・ソング「ジョー・ヒル」とトラディショナル・ソングの「スウィート・チャリオット」を静かに歌います。ちょうど妊娠中だったという彼女は、美しさだけでなく母親としての貫禄も感じさせることでこのフェスティバルの華となりました。ただし、今この映像を通して見ると彼女の歌うトラディショナルなフォークは、サイケでパワフルなロック・ナンバーの中にあってかなり場違いな感じがするのも確かです。

「See Mee,Feel Me」〜「Summertime Blues」ザ・フー The Who)
 ロック界初のミュージカル・アルバム「トミー Tommy」を発表したばかりのザ・フーはまさに絶頂期でした。ここではその「トミー」から「See Me,Feel Me」を演奏しています。ただし、この時の別の曲の演奏中、薬物でハイになった政治活動家のアビー・ホフマンがステージに乱入。
「ジョン・シンクレアがブタ箱で腐っている時に、お前らの歌はクソだ!」とザ・フーのメンバーに飛びかかって行きました。しかし、同じく待ち時間に同じようにLSDでハイになっていたピート・タウンゼントはギターを振り回して彼を殴り倒し、彼を危うく殺しかけてしまいます。当時のザ・フーはその荒くれさにおいても絶頂期だったのです。

「踊りに行こうよ At The Hop」(シャナナ SHA−NA−NA)
 昔懐かしいロックン・ロールの定番曲を歌ったのは、ロックン・ロールのエンターテナーとして絶大な人気を誇っていたシャナナです。混沌とした時代の中、時代錯誤ともいえそうな彼らの音楽がブーイングも浴びることなく受け入れられたのは、やはり観客たちがすべてを受け入れる寛大さをもっていたからかもしれません。というよりも、素晴らしい音楽は時代もジャンルも越えて受け入れられるということなのかもしれません。

「心の友 With A Little Help from My Friends」(ジョー・コッカー Joe Cocker)
 ビートルズ、それもリンゴ・スターのビートルス時代の代表曲をカバーしたジョー・コッカーのこの曲は、彼にとっての代表曲となり、その独特の歌い方とともにオリジナル以上に有名な存在になりました。この場面もまたこの作品の中の見所のひとつです。(アメリカのコメディー番組「サタデーナイト・ライブ」で見せたジョン・ベルーシのジョー・コッカーのモノマネは最高でした!)
 この後、会場は雨と風、雷に襲われ大混乱となります。そして、泥の中で遊びだす観客たち。すべてを許す優しい若者たちは、泥と雨すらも受け入れ童心に返って遊び始めます。(もちろんみんながみんなそうだったわけではないはずですが・・・)泥まみれになりながら、スライディングを繰り返す若者たちの姿は、このフェスティバルのすべてを象徴しているのかもしれません。
 この映画のラスト・クレジットにこの映画を捧げる人々として、様々な名前が登場します。キング牧師やジョン・レノンの名前とともにそこにピッグペンの名前もありました。チャーリー・ブラウンの友だちで哲学者のような名ゼリフをはく泥んこのキャラクターです。

「ロック・アンド・ソウル・ミュージック Rock And Soul Music」(カントリー・ジョー&ザ・フィッシュ Country Joe and The Fish)
 会場の人々の祈りが通じたのか、天気は急速に回復。ステージの上に「No Rain !」と叫びながら登場したのが、カントリー・ジョーでした。彼は雨によって沈んでいた会場の雰囲気を一気に盛り上げることになりました。サイケデリックなブルースと過激な歌詞(急進的な左派思想とドラッグ礼賛)によって、この時代を象徴する存在だったといえます。

「カミング・イントゥ・ロサンゼルス Coming Into LosAngels」(アーロ・ガスリー Arlo Guthrie)
 プロテスト・フォークの偉人ウディ・ガスリーの息子がアーロ・ガスリーです。この年に公開された「俺たちに明日はない」の監督アーサー・ペンの映画「アリスのレストラン」は彼の大ヒット曲をもとにした作品で、彼は主演も勤めていました。彼のステージは歌と同じぐらいしゃべりが見せ場になっていて、パフォーマーとしても観客を魅了する存在です。彼もまた父親と同じように時代を象徴するアーティストとなりました。

「組曲:青い目のジュディ Suite : Judy Blue Eyes」(クロスビー、スティルス&ナッシュ Crosby, Stills & Nash)
 同じ年に公開されたイギリス映画「小さな恋のメロディ」にも使われ、日本でも一気にその名を知られることになるクロスビー、スティルス&ナッシュの代表曲。このメンバーにニール・ヤングが加わったC・S・N&Yはまさにスーパー・ロック・グループとして一時代を築くことになります。

「アイム・ゴーイング・ホーム I'm Going Home」(テン・イヤーズ・アフター Ten Years After)
 前半のトリとなったアーティストがテン・イヤーズ・アフターです。ギター&ヴォーカルのアルヴィン・リーが得意とする早弾き全開の超絶パフォーマンスの登場です。彼はこの映画で「キャプテン・スピード・フィンガー」の称号を得ることになりました。しかし、元々彼らはクリームの影響を強く受けた本格的なブルース・ロック・バンドで、このコンサートに出演した数少ないイギリスのバンドです。

「ウォント・ユー・トライ〜サタデイ・アフタヌーン Won't You Try/Saturday Afternoon」〜「アンクル・サムズ・ブルース Uncle Sam's Blues」
ジェファーソン・エアプレーン With ニッキー・ホプキンス Jefferson Airplane with Nicky Hopkins)
 初日の夜が明ける中、最初にステージに登場したのは本当は前日に演奏するはずだったジェファーーソン・エアプレーンでした。交通渋滞に巻き込まれてしまった彼らは会場に17時間遅れで到着。そのため、人々が起きたばかりの最もやりずらい時間に登場することになりました。なお、この時の演奏にはビートルズやローリング・ストーンズのセッション・ピアニストとしても有名なニッキー・ホプキンスが参加しています。フラワー・ムーブメントの聖地サンフランシスコからやって来た彼らは、最もこのフェスティバルにぴったりのアーティストだったといえるかもしれません。

「ヤンガー・ジェレネーション Younger Generation」ジョン・セバスチャン John Sebastian)
 コンサートも中盤にさしかかり、いよいよ様々なトラブルが表面化し始めます。けが人や病気で医師を必要とする人々のために医療センターが準備されていたものの、患者の数は想定をはるかに越えていました。そこでアメリカ軍の医療チームがヘリコプターで応援に駆けつけます。ついにはその会場で子供が生まれることにもなります。薬物の乱用や不良品のLSDを使用したために意識不明となり、死んでしまった若者もいましたが、それはたった一人だけでした。
 会場で子供が生まれたというアナウンスが流れた後、ステージに登場したジョン・セバスチャンは、今生まれたなかりの子供さんに捧げます、と言ってからこの曲「ヤンガー・ジェネレーション」を歌い始めました。彼は自分が参加したニューポート・ジャズ・フェスティバルは主催者のためのフェスだったが、このフェスはここにいるみんなのためのものだ!と感想を述べています。ルーツ・ロック・バンドの元祖とも言えるラヴィン・スプーンフルの中心メンバーだった彼は、その爽やかなキャラと美しい虹色のジャケットによって会場をさらに明るいものにしました。

「ウッドストックでひとつ燦然と輝いているのは、・・・40〜50万人もの人間がひとつところに集まった場合には、どこの国でもかならず何か重大な問題が起こっていたはずなんだ。ウッドストックでも何人かは死人がでた。でもその数の少なさときたら、あれはほとんど奇跡に近かった。・・・・・」
ビル・グレアム

「I Feel Like I'm Fixin' To Die Rag」(カントリー・ジョー・マクドナルド Country Joe McDonald)
 ヒッピー・ムーブメントの象徴となったこの「ウッドストック」において、最も観客たちの心をつかんだアーティストのひとりが、このカントリー・ジョー・マクドナルドだったかもしれません。彼が見せた観客を巻き込む4文字単語連発のパフォーマンスは、このフェスティバルの最も素晴らしい場面のひとつとして参加者の心に刻まれることになります。しかし、あまりにこの時代にフィットしていた彼はこの後、警察に逮捕されたりして話題にはなるものの音楽的には時代の流れとともに消えてゆくことになります。
 日差しが会場を照らし、天候が急激に回復すると若者たちは次々に服を脱ぎ始めます。ヌーディスト村とかヌーディスト・ビーチはこの時代のヒッピー・ムーブメント以降世界中に広まって行くことになります。「自由」と「マリファナ」と「ヌード」は、当時切っても切れない関係にありました。この映像を見た世界中の若者たちがどれだけ影響を受けたことか。今では想像もできませんが、現代の若者から見るとただのアホにしか見えないかもしれません。それともカッコイーとうつるのでしょうか?

「ソウル・サクリファイス Soul Sacrifice」サンタナ Santana)
 このコンサートで衝撃的な世界デビューを飾ったのが、このサンタナです。西海岸のバンドで東海岸ではまったく無名だった彼らがこの大舞台に上がれたのは、このフェスのアドバーザーとなっていたビル・グレアムのおかげでした。彼はアドバイザー役を勤めるにあたって、唯一の条件として主催者にサンタナを良い時間帯に演奏させることを求めたのでした。すると彼らは見事にビル・グレアムの期待に答え、観衆を熱狂の渦に巻き込みました。この演奏により彼らの名前は全米だけでなく全世界へと一気に広まることになりました。

「I Want to Take You Higher」スライ・&ザ・ファミリー・ストーン Sly & the Family Stone)
 このフェスティバルで最も会場が盛り上がったのは、このスライの演奏だったかもしれません。サンフランシスコ出身の彼らは人種混合バンドの先駆けであり、70年代に一大ブームを迎えることになるファンク・ミュージックの先駆でもあった大人気バンドでした。彼らは、その意味でも「平和と平等」の象徴的存在だったといえます。
 そのうえ、元々人気ラジオDJだったスライは観客を盛り上げる天才的なパフォーマーであり、ベーシストのラリー・グラハムはチョッパー・ベースの元祖でもある最強のファンク・ベーシストでした。最高のバンドのパフォーマンスにより観客はまさに天へと高く高く舞い上がることになりました。

「ワーク・ミー、ロード Work Me, Lord」ジャニス・ジョプリン Janis Joplin)
 会場も夜が更け、メイン・アクトのひとりジャニスが登場します。ここで歌われているのは、この年発表のアルバム「コズミック・ブルースを歌う」の中の曲です。この頃彼女はバック・バンドも充実し、いよいよヴォーカリストとして絶頂期を迎えようとしてました。
 まさかそんな彼女が翌年、27歳とう若さでこの世を去ってしまうことになるとは・・・。そして、この後に登場するジミ・ヘンドリックスもまた彼女の死のわずか一ヵ月後にこの世を去ることになります。キャンド・ヒートのアル・ウィルソンとともに彼らはその死によって、この映像作品にさらなる付加価値を加えることになりました。

「ヴードゥー・チャイルド Voodoo Child」〜「アメリカ国歌:星条旗よ永遠なれ The Star-Spangled Banner」〜「紫のけむり Purple Haze」
ジミ・ヘンドリックス Jimi Hendrix)
 いよいよオオトリ、ジミ・ヘンの登場です。残念ながら、彼の演奏が行われたのは、もう夜も明けた日曜日の朝でした。多くの観客は日常生活に戻るため会場を後にした後で、残ったわずかの観客たちは連日の疲労もありボーっとした状態にありました。50万人を越えていた観客のうちその場にいたのはわずか3万人だったといいます。
 そのうえ、ジミのバンドはその日のための急造バンドだったため、バンド全体での練習をしていなかったため、一曲一曲音を合わせなければならず、満足の行く演奏ではなかったといいます。とはいえ、彼が演奏した「アメリカ国歌」は、この長いフェスティバル全体をあっという間に永遠の存在に変えてしまいました。このフェスに対しあれだけ批判的だったビル・グレアムもこう語っています。
「・・・もっとすごい演奏を聴かされたこともあるけど、<星条旗よ永遠なれ>なんて、とても現実とは思えなかったからね。あれはロックンロールがもっともクリエイテゥブになった2分間だったんじゃないかな」
ビル・グレアム

「ウッドストック WoodStock」〜「自由の値 Find the Cost of Freedom」(クロスビー、スティルス、ナッシュ&ヤング)
 ライブ演奏の終わりに、このフェスティバルに農地を提供した農場主マックス・ヤンガー氏がステージに登り、終わりの挨拶をしました。
「私はただの農場主です。・・・ まさかこんなに人々が集まることになるとは思わなかったから、君たちには不便をかけてしまったね。でも主催者は一生懸命がんばってくれた・・・・・。ここで私はあえて君たちをキッズと呼ばせてもらう。なぜなら君らは私の子供と同じくらいの年だからだ・・・・・。
 君たちは世界に対してあることを証明できたんだ。それは50万人の若者が集い、3日間楽しんで音楽を聴くことが出来るということ、そして楽しみと音楽だけに3日間を費やすことが出来るということだ」

マックス・ヤンガー

 もちろん土地の使用料が入ることになっていたとはいえ、大事な農地を踏み荒らされ、ゴミだらけにされてなお、これだけの言葉を言えるこのオジサンもまたこのフェスティバルの大切な主役のひとりだったと言えます。参加者も優しかったが、この土地提供者や観客たちのために食料などの物資を提供しボランティアとして手伝った地元の人々もまた優しかった。こうして人々がお互いに信じ合うことができたのもまた、この年1969年までだったのかもしれません。

<選ばれた曲、選ばれた理由>
 このDVDのディレクターズ・カット版とCDボックス・セット(4枚組み)は、選曲がかなり異なっています。特にザ・バンドとクリーデンス・クリアウォーター・リバイバルの二つの大物バンドの映像がまったくないのは非常に残念です。さらに最初の映画版では、ジェファーソンとジャニスのシーンもカットされていました。それ以外でも、映像として使用されている曲がベストかどうか疑問な場合もあります。こうして改めて、映画に収められている曲を並べてみて感じるのは、曲の素晴らしさやヒットしたかどうかではなく、その曲がこの映画のテーマと合致しているかどうか?それが選曲の基準だったのだろうということがよくわかります。「ヴェトナム戦争」や「自由」、「平和」について歌った曲が多く選ばれているのは当然でしょう。
 ちなみに、サイケデリック・ロックの大御所グレイトフル・デッドについては、メンバーが薬物でヘロヘロになり過ぎてしまったこと、停電により演奏がめちゃめちゃになったことにより、映像も音源も残されません。(ジェリー・ガルシアは画面に何度か登場していますが・・・)

<ドキュメンタリー映画としての魅力>
  あくまでもこのフェスティバルの主役は50万人の観客です。だからこそ、ステージに登場するミュージシャンたちは、その盛り上げ役に相応しい存在でなければならないのです。そう考えると、この映像作品の多くの部分が観客たちのインタビュー映像などに割かれていて、あえてライブ映像をカットしている理由もわかる気がします。この作品は50万人の観客による巨大なパフォーマンスを体感・体験させるために製作されたのです。
 「体験する映画」は、20人のカメラマンたちが会場の様々な場所で撮影した120時間にも及ぶフィルムをひとつのコンセプトに沿ってじっくりと時間をかけて編集することで完成させられました。この膨大な作業の中心となったのは、どうやら監督のマイケル・ワドリーではないようです。彼はこの作品のために自腹を切って出資した功労者ではありますが、本当の意味の功労者はもう一人別の人物だったようです。
 この映画の撮影に参加し、後に映画監督としてジョディー・フォスターのアカデミー主演女優受賞作「告発の行方」を撮ることになるジョナサン・カプランはこの時の現場についてこう語っています。
「映画を監督していたのは編集のマーティン・スコセッシだ。マイケル・ワドリー監督のことを悪く言うつもりはないけれど、彼は基本的にステージのセンター・カメラを担当していただけで、『おい、こっちだ。この画を抑えろ。こいつ、瞑想のセッションをやるそうじゃないか。誰か行って撮ってこいよ』みたいなことを言っていたのは、マーティンだった。」
ジョナサン・カプラン

 なるほど、この映画の面白いわけがわかりました。編集担当としてクレジットされているマーティン・スコセッシは撮影段階からカメラの配置や撮影ポイントの指示を担当していたのです。もしかすると、この作品は彼の頭の中にあったビジョンによって生み出された特殊な作品だったのかもしれません。

<本当に天国だったのか?>
 この作品によって記録されスコセッシらによって編集された作品から見る限り、確かにこのフェスティバルは天国のような3日間だったように思えます。しかし、実際にその場にいた人の中には、異論をとなえる人もいるようです。ここでは、そんな人々の見解も取上げておきましょう。先ずは、このフェスのアドバイザーだったビル・グレアム氏のきついお言葉から。
「観客が不便に思うことがあっても、それには全部、目をつぶってほしいというのが、ウッドストックの考え方だった。おっとっとごめん、おっとごめん、ごめん、ごめん、ごめん・・・。スケジュールもいいかげんで、バンドとバンドのあいだが30分から45分ぐらい開いていたし、メンバーがひとりでも遅刻しようものなら、そいつが来るのをじっと待ってなきゃならなかった。・・・」
ビル・グレアム

「ウッドストックは最低だった。その理由はたったひとつ、あのイベントが、ひどく間違った方向に進んでしまったからだ。ほんとうならこの世のものとは思えないくらすばらしいイベントになっていたはずなんだ。マイケル・ワドリーが入念に編集したヴァージョンを見せられた世間一般の人たちの目には、そう映ったかもしれないけど。でも、実際に関わった身にとっては、思い出したくもない修羅場だった。
・・・ほんと、見てられなかった。ヒッピーくさいもろもろに囲まれて、ぼくはずっと自分にこう言い聞かせていた。『こんなのが現実なわけがない。こんなことがアメリカで起きているなんて嘘だ。さあアメリカはもうすぐだぞ。もうすぐぼくらは大々的にブレイクして、そして全部がラズベリー味のジェリーになるんだ。誰がこんなの信じるもんか』」

ピート・タウンゼント(ザ・フー

 ただし、彼の場合、バンドが15時間も出番を待たされたり、ギャラをあやうくもらいそこねたり、ステージにアビー・ホフマンが乱入して大混乱になったりとトラブルだらけの演奏だっただけに客観的な意見とは到底いえないでしょう。第一、この演奏の時は、彼自身LSDでぶっ飛んだ状態だったのですから・・・。

「実際にあそこにいた人間は、すぐに判別できる。最高だったなんてことを言う奴は、間違いなく映画を見ただけで、実際には来ちゃいない。あそこにいるのは決して最高の気分じゃなかったし、あそこで演るのも、全然最高じゃなかった。唯一のとりえは、全員が何か記念碑的な、歴史に残るイヴェントに参加しているという高揚感を共有できたことだろう。・・・」
バリー・メルトン(カントリー・ジョー&ザ・フィッシュのギタリスト)

 もうひとつ、このフェスティバルがもたらしたその後の音楽界への影響について、ビル・グレアムはこうも語っています。
「・・・ウッドストックはまた、バンドのマネージャーたちが『なんで一回10ドルのギグを5回もやる必要がある?それよりどっかの峡谷で一回きりのギグを、5万ドルのギャラでやろうじゃないか』と考え始めるきっかけにもなった」
ビル・グレアム

<天国の日々>
 誰もが人生の中で一度は「天国の日々」を体験することを望んでいます。
 それは、オリンピックに出場したアスリートが本番で感じる幸福感や日本武道館のステージに立ったアーティストが感じる絶頂感かもしれません。しかし、そんな特殊な体験でなくても幸福を感じる瞬間は様々です。例えば、愛する人との素晴らしい結婚式、忘れられない極上の美味しい食事、旅先で出会った最高の眺め、最愛の家族と共に過ごした幸せなひと時、それは誰もが体験可能です。
 しかし、そんな「天国の日々」を3日間にわたり、50万人もの人々が共に体感したのは20世紀の歴史においても特筆すべき瞬間でしょう。
 もしかすると、人類は昔から宗教や祭りによって、世界各地で同じ規模での「天国の日々」を体験してきたのかもしれません。そう考えると、彼らはそこに新たな1ページを加えただけなのかもしれません。でも少なくとも人類は音楽によって平和な時を過ごすことが可能であることを証明したことは確かです。
 しかし、そんな「天国の日々」は長くは続くことがありませんでした。以後開催されるフェスティバルでは、1969年この後開催されたオルタモントのストーンズのライブ中には殺人事件が起き、1970年ワイト島でのフェスのようにミュージシャンと観客が対立したりと、「自由と平和」という人々の願いはどんどん失われてゆくことになります。
 「天国の日々」は長くは続かない、だからこそ「天国の日々」としての価値があるのかもしれませんが・・・。

<25周年記念CDボックス・セット>
 ウッドストック開催から25年を記念して発表されたCD4枚組みのボックス・セットには、DVDのディレクターズ・カット版にも収められていない曲がかなり入っています。映像体験としてウッドストックを見るのではなく音楽として楽しむにはこちらは非常にお奨めです。
 このCDにだけ収められているアーティストとしては、ティム・ハーディン、メラニー、マウンテン、ザ・バンドクリーデンス・クリアウォーター・リバイバル、ジョニー・ウィンター、ポール・バターフィールド・ブルース・バンドで、なおかつジェファーソン・エアプレインやC、S、N&ヤングなどのアーティストはさらに数曲がプラスされています。

(注)赤字はCDのみの収録、黒字はDVDにも収録

「ハンサム・ジョニー Handsome Johnny」〜「自由 Freedom」(リッチー・ヘヴンス Richie Havens)
「The Fish Cheer/I Feel Like I'm Fixin' To Die Rag(カントリー・ジョー・マクドナルド Country Joe McDonald)
「虹をあなたに Rainbows All Over Your Blues」〜「I Had A Dream」ジョン・セバスチャン John Sebastian)
「If I Were A Carpenter」ティム・ハーディン Tim Hardin」
「ビューティフル・ピープル Beautiful People」(メラニー Malanie)
「カミング・イントゥ・ロサンゼルス Coming Into LosAngels」(アーロ・ガスリー Arlo Guthrie)
「ジョー・ヒル Joe Hill」「Sweet Sir Galahad」(ジョーン・バエズ Joan Baez)
「Drug Store Truck Drivin' Man」(ジョーン・バエズ Joan Baez with Jeffrey Shrrleff)
「ソウル・サクリファイス Soul Sacrifice」サンタナ Santana)
「鮮血の太陽 Blood of the Sun」〜「夢に見た西部 Theme for an Imaginary Western」(マウンテン Mountain)
「Leaving This Town」「Going up the Country」(キャンド・ヒート Canned Heat)
「Commotion」〜「Green River」〜「Ninety Nine and A Half(Won't Do)」〜「I Put A Spell on You」
クリーデンス・クリアウォーター・リバイバル Creedence Clearwater Revival)
「Try」〜「Work Me Load」〜「Ball & Chain」ジャニス・ジョプリン Janis Joplin)
「Medley : Dance To The Music/Music Lover/I Want to Take You Higherスライ・&ザ・ファミリー・ストーン Sly & the Family Stone)
「俺たちはしないよ We're Not Gonna Take It(From "Tommy")」ザ・フー The Who)
「Volunteers」〜「あなただけを Some to Love」〜「ウォント・ユー・トライ〜サタデイ・アフタヌーン Won't You Try/Saturday Afternoon」〜「アンクル・サムズ・ブルース Uncle Sam's Blues」〜「White Rabbit」
ジェファーソン・エアプレーン With ニッキー・ホプキンス Jefferson Airplane with Nicky Hopkins)「」
「Let's Go Get Stoned」〜「心の友 With A Little Help from My Friends」(ジョー・コッカー Joe Cocker)
「ロック・アンド・ソウル・ミュージック Rock And Soul Music」(カントリー・ジョー&ザ・フィッシュ Country Joe and The Fish)
「アイム・ゴーイング・ホーム I'm Going Home」(テン・イヤーズ・アフター Ten Years After)
「Long Black Veil」〜「Loving You Is Sweeter Than Ever」〜「The Weight」ザ・バンド The Band)
「Mean Town Blues」(ジョニー・ウィンター Johnny Winter)
「組曲:青い目のジュディ Suite : Judy Blue Eyes」(クロスビー、スティルス&ナッシュ Crosby, Stills & Nash)
「Guinnevere」〜「マラケシュ急行 Marrakesh Express 」〜「4+20」〜「狂気の海 Sea of Madness」
(クロスビー、スティルス、ナッシュ&ヤング Crosby, Stills ,Nash & Young)
「自由の値 Find the Cost of Freedom」(クロスビー、スティルス&ナッシュ Crosby, Stills & Nash)
「Love March」ポール・バターフィールド・ブルース・バンド Paul Butterfield Blues Band)
「踊りに行こうよ At The Hop」(シャナナ SHA−NA−NA)
「ヴードゥー・チャイルド Voodoo Child」〜「アメリカ国歌:星条旗よ永遠なれ The Star-Spangled Banner」〜「紫のけむり Purple Haze」
ジミ・ヘンドリックス Jimi Hendrix)

<参考資料>
「ビル・グレアム - ロックを創った男 -」
ビル・グレアム、ロバート・グリーンフィールド(著)
奥田祐士(訳)
1994年 大栄出版

CD「ウッドストック 〜平和と音楽の日々〜25周年アニバーサリー」ライナー・ノーツ
DVD「ウッドストック 〜愛と平和と音楽の3日間〜 ディレクターズ・カット・エディション」

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